Henry Bradley の 論 交 集
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The English SocietySooiety of Japan 568 批 評 紹 介 が 出來 る 。 か うい ふ 詩人が 自分 ε い ふ もの ・ 中 に 過 現 未 の あ らぬ 事椙 の 矛 盾を觀 す る S い ふ の も面 自 い 。 In me , past, present, futuremeet To hold long chiding conference . (VIII.) さ う して 、 In me the cave −man clasps the seer , In me the tiger sn 鵬 the rose . ε つ て ゐ る の い に Ralph 云 は 、 か も Hodgson を して 感嘆 の 聲を發せ しめ る に 十分 な で り で る 想 あ 、 辭 あ 。 (新 里 文 八 郎 ) HENRY BRADLEY の 論 交 集 “ THE ComEc [{]ED PAPERs oF HENRY BRADLEy .” WITH A MEMolR BY RoBERT BRmGEs . Ox 丘)rd : ?ress Ig28 . 25s . Clarendon , 古 今未曾有 の 大 事 業 ε さ へ 云はれ る New English Dictiomaay tr昨年逾 に完成 した が 、 これ に つ て ひ け も思 出 され る の は 、 此 事業 の隱れ た 功 勞者 Henry Bradley の こ ε さ もで あ る 。彼 は不幸 に して IVT. E . D 、完成 の 喜び つ を味 は す に去 た が 、 彼の 友人逹 の 手 に よ つ て 編 まれ た此 の論 文 集が 、 桂 冠詩人 RQbert Bridgesの Memoir ε に さ ε 共 出版 れ た こ は 、 薄 倖 の碩學 の 生 涯 ε その 事業 を記念す る に最 も良 い で 方法 あ らう。 ・ vo 296 本 書は Fcp ・ Buckram , の で 4 頁 美本 , 卷頭 に Bradley の 肯像及 び Bridges の Memofr を 掲け 、 次 に彼 が 曾 て 種 々 の 雜 誌等 に 寄 稿 した 四 十 の Place−names Lexicography 餘 論文 を , , Language, Literary Problems and Studies, Conjectual Emendationsの 五 項 に分 して て る 類 收 め ゐ 。 其後 に彼 の 詳 な Bibli・ び Index へ 綱 graphy 及 を加 、 卷 末 に は 世界 に於 ける新 學 の 一 NII-ElectronicN 工 工 Eleotronio Library Service The EngllshEnglish SocietySoolety of Japan HENRY BRADLEY の 論文集 569 を した か の List of Subscribers へ 大家 綱羅 如 き を添 て ゐ る 。 Bridges Memoir Bradley の 筆 に 成 る は 、 畏Pt に 封 する詩人 の 愛 情 ε 奪 敬 こ を充分 に披握 した もの で 、殊 に Oxferdで 親交 を結ん で以 來の 叙述は い ε ε る 如回に も詩 入 ら し 思 想 表現 に 滿 ちて ゐ 。 Henry Bradley 1845 12 日 MancheSter の は 年 月 3 、 に生れ た 。 彼 父 John Bradley は當a9 Derbyshireの Clowne で 二 人 の 兄弟 ご 共 に農業 や 製 Chesterfield い Brimington 粉 業 を營んで ゐ た が 、 や が て獨立 して に 近 に つ で Henry つ 移 た の 、 も最 初の 十 四 年間 を此 町に逾 た 。 性質の 柔 しセ丶 筋 Mary 一 骨の逞 しい 父 ミ 、 温順で 而 も理智的な母 、 Spencerの 愛 を 身 に あ 一 つ めた Henry は、幸爾 な少 年時 代 を塗 つ たが、 家 の 財政 が豐 か で なか つ た爲 、 又元 來體 質が弱 か つ た爲 に 、 思 ふ 樣な数 育 を受 け得 なか つ た こ ε で る 二 て に は 殘念 あ 。 然 し 、 栴檀 は 葉 よ り香 しく、 彼 は 僅か 四 才 に し 、 既 一 一 ふ 聖 書 を 但 し、 逆 さまに 讀む こ i が 出來 た ミ い 。此 れは 、 家庭 禮拜 の 時 、 父 が 膝 の 上 に の せ て 讀む 大 きな聖書 を 向側か ら覗い て ゐ f の で で 、 遲に文 字を逆 に 讀み慣れ た もの 、 言語學者の 逸話 ε して は極め て 面 白 い ε 思 ふ 。彼 は 1855 年か ら 1859 年 まで Chester丘eld Grammar School . に學び 、 良師 Rev FrederickCalderの 指 導を受 けた が 、 そ の課程を修 了 し She伍 eld つ て 後 は 、 彼 ε 母 の 健康の た め に に移 た 。 皿 ard She舐 eld に來 て 間 もな く、 Henry は Crashaw Head に あ つ た Dr ・Len の 邸に 二 年許 り寄寓 して 靜養 した 。彼 は その 代 り 、 そ の 醫師の 子 息の 勉強 を見て や る こ ざ に した の で あ る 。幸 に も此 家 に は 立 派 な 藏書 が あ つ た の Henry Ho 皿 er Virgil Sallust で 、 讀書好 きな は 歴 史 N 科學 の み な らす 、 、 , , Hebrew Old Testament 其他 、 手 當 り次 第 に漁 り讀 んだ もの ら しい 。 其 後 1863 蚤 eld Taylor ざ 二 年 に She の 刄 物輸 出 maMessrs・ の店員 な り、 爾來 十 に 上 の ε 同 時 に 自分 の 趣味 の ため に 、 彼 は此 間 年 問此 店 勤め t 。 商業 必 要 ε て に Spanish, French , German 等 を學 び 、 期せ す して 他 日言語學 者 し の 基礎 を作 つ た の で あ る 。 一 NII-ElectronicN 工 工 Eleotronlo LibraryLlbrary Service The English SocietySooiety of Japan 570 批 評 紹 介 1872 年 4 月 、 彼 は SheMeldの William Hides の 娘 EleanorKateHides ざ し た H e Skezfieldfndopendenl 結 が 、 此 か Leofric 婚 頃 ら $ に 、 の 名 を用 ひ て − Placenames に關 す る 投稿 を み た し の 1877 試 。然 彼 最 初の 傑 れ た 論文 は 、 σ∫ 8〆5 砺 勿 ♂ 年 乃 撫 に寄せ た English Local EXコ fnologl で あ らう。 此 れ は Isaac Taylor の −names に る 一 place 關 す 著書を批評 した もの で 、 此 文 に よ つ て Taylor は Bradley の ε 學識 權 威 を 認 め て 、 終生 の 交 りを結ん だ こ い ふ ・其 1883 Isaac Taylor の Oxford V 後 年 紹介 に よ り . be訪 ね 、 皇gfusson Kuno Meyer を め くの 學者 に 知 己 を得 た の め に よ 初 多 。 彼 等 勸 も り 、 彼 の 務 め て ゐ た商會 の つ て Bradley 都合 もあ 、 は 今 まで の 職 を捨 て 、 新 生面 を くた め ε の London 開 、 妻 四人 子女 を奉 ゐて 遲 に に 出た の で あ る。 蓮 命 の紳 の 奇 しきみわ ざ ε で も は うか 工ondon 1883 言 、 彼 が に現は れた 漉 尠 禰 ) 年 は ・ 恰 も E ψ Z icXionaryの 最 初の instalmentが 出た 年 で あつ た。 彼 は もな く Academy の 主 CottQn に 間 筆 頼 まれて 、 同誌 上 に そ の Ievlew を 書 い た が 、 之 を讀んだ Dr ・Murray の は彼 鏡 い批評眼 に驚 き、 直 ちに Bradley に な つ IV. E , 1). staff へ 鄭 重 手 紙 を逾 て 、 の に迎 よ う ε し た 。 彼 は そ の は の 時 博士 申出を辭 退 した が 、 次第 に そ の 事 業 を援助 す る こ S にな つ た 1889 。 然 し、 此 後 年迄 の 五年 は 、 實 に Bradley に ご つ て は 試練の 時 代 で 最 も苦 しい 不 愉快 な月 日 を逡 つ た 。後 に は Sir Jamesに次 い で 以 ff・D ・の Senior Editor つ に な た もの の 、 當時未 だ名聲 も高 ま らす 一 ・ 、 家 族は 培 して も收 入 が之 に俘は す 、 時 は文筆 を捨て 元 の 商 賣に 麟 ら うε さ へ した Cotton : lndia 。 其後 th Othce に出 か けた の で 、留守中 Acadeop 尸 の主 筆代 理 をつ ご め 、 ourllalism に 幾分 ∫ 墮 した嫌は あ る が 、 文 學 そ の 他 各 面 に わ た つ て 非凡 な の を つ た E 方 批評 筆 振 eAE .D ,に 寄稿の ’ ’ か た は ら Tlte Slory cf the Goths を Sfratmann s Dicrk onat 書 ge. ] oftuiddle E ゆ 踊 を改 した の 一 訂 も、 面 に は當時 の 經濟 的理 由に よ る の で ある。 然 し後 者 は意外 に も斯界 の 權威 Skea 亡 の 激 賞 を得 た 。 爾來 N ・ E ・0 ・が彼 の 主要 な ε の 1889 Editor 仕事 な 、 に は Joint ミ し ● 一 NII-ElectronicN 工 工 Eleotronio Library Service The English SocietySooiety of Japan HENRY BRADLEY の 論文集 57「 一 て 認め られ ・ British Museum の で に 189 。 室 辭書 編纂 沒頭 した 。 や が て に は President of Philosophical Societに . . . γ 選ばれ 、 Oxford の Hon M A の 稱 を へ t 1892 號 與 られ 。 少 し以前か ら過勞 の た め 、 健康 を害 して ゐ たが に へ 年 は 症状 悪化 して 、 到 底 精 紳 的 な 仕事 に堪 兼 ね た の で 、Clarendon Press へ 三 が與 た ケ 月の 休暇 を利用 し 、 な の て 親切 友人 醵金 を受 け 、 しば ら く Norway に族行 して 靜養に つ i め た ,當時彼 が受 けた Civil List Pen− sion や Royal Literary Fund の賜 金 も、 彼 の 窮状 を救 は う ε す る 友 人 Henry Gibbs や DL Furnival1等 の 努 力 に よる もの で あ る。 其 後 Switzer− land 及 び Rome に して ・896 Oxford 旅行 、 漸 く健 康 を恢復 し、 に に住む ご S に つ な た 。 Oxfbrd に 移 つ て か 々 ?V. . )・ らは 、 愈 專 心 E Z の た め に盡iカ す る こ ご に ‘ な り 、 Old Ashmolean に つ stufing the 閉ぢ籠 て 、 毎 日 words into their −holes’ pigeon の 仕事 を けた 。 此 々 の 續 間種 雜誌 に彼 の 研究を發表 し、 叉名 The Ualeing 著 Of Emglisk 及 び On the Relation betSE,een SPolterzαnd 脇 漉 形 English を書 い た 此 … に就 て に べ 。 時代 特 記 す きは 、 彼が此 處 に 來 て 三 年 を經て ・ 詩人 Robert Bridges ε 親交 を結 ぶ に 至 つ た 事 で あ る 。 我 々 は Bridges て の を通 じ 、 彼 當階 の思 想 、 趣 昧 、 生活 な さ を如實 に知 る こ ミ が る Bridges 出來 。彼 は 大 戰後期以 來 、 ε 共 に S. P. E .(The Society for Pure English)の 事業 を 續 けた。 此 れ は lgl2 Bridges の 年 圭唱 に基き 、 191g 年 に事 上 さ fe Bradley 實 開始 れ 國語奪 重 の 立 派 な企で 、 自身 は あ ま り論文 を しな か つ Ttacts 發表 たが 、 そ の は 彼 の忠 告や 訂 正 に よ つ て 大 い に る つ メ 利す 所が あ た。 此 の影響は意外 に大 き く間 もな く ア リ カ で も稍 、 同様な 運 動が 開始 され た。 彼 の 年 に て 一つ の Igl6 Magdalen 晩 於 喜 ば しい淌息は 、 年 に College の Fellow に選 ばれ た事 で あ る。此 に ふ 拌 精紳的 、 物質的の 報償 は 、 此 の 一 學者 の老後 の 生活 を比較的安 らか に したで あ らう。や が て彼 の 惱み 多 い 生 も に Ig23 二 一 rheUinatism 終 近 づ き 、 年五 月 十 目 、 の激 しい 發作 に襲 は 一 NII-ElectronicN 工 工 Eleotronio Library Service The English SocietySooiety of Japan 572 批 評 紹 介 一 ベ ・ ン つ 、 の に ttの で る。 その れ 、 片手 に を握 た ま 逾 に 彼 書齋 斃れ あ に て く の の に よ つ て い 葬 儀は Magdalen CollegeChape1 於 、 多 學者 手 、 S も莊嚴に執 り行 はれ た ε い ふ 。 . . ). の 業 に さ 十 を げ て 此れ に全精 力 Bradley は IV E 1 編纂 事 殆 四 年 獻 、 に Tke Malling い て つ た は い を集注 した た め 、 ofEnglishを除 は纏 著書 な Shezfield lndePenden4 Mamchesler Gu α rdian が 、 此 の 忙 しい 間 に も、 O 吻 ’ Athenceum の に し の の 究 を 助 ψ 望 , 等 雜 誌 寄稿 、 又他 人 研 援 で る ミ な な ら ぬ す る な さ 、 そ の 隱れ t 功績は眞 に 偉大 あ 云 は けれ ば 。 の ε の 本 書 に集 め られ た論文 は 、 彼 多 方 面 にわ た る學 識 權威 を示 す も つ で 、語 學 及 び文學 上 の 幾多 の 謎 は 、 彼 の鏡敏 な 洞察力 に よ て見 事 に解 決 ’ − て ・Pl・lemy s Ceog ?・aPhy され t の で あ る 。先 づ Placenames に 關 し は 、 げ ・Place−names Some PrehistoricRlver−names the β 〃 渤 lsles English , , − Etocetblm or LetocelUVi 2 Tlte Etymology Dfalecl in Emglish .Place na7nes , , ’ ‘ ? 〃 ‘ ’ 跏 耀 伽 形 乃 − of LichLlfeld Mas Linda tn a Colonia, The ・4 勧 8 83 , 4 ‘ ’ ter The ・Ety 〃nologpt ・Arevndel の で あ る も 古 は , of 九種 が 、 何れ 考 學N 言語 に は て ゐ た 諸 に 封 して 彼 の い 學 の 見地 か ら、 從來 非科學的 取 扱 れ 問題 、 鋭 へ の で IVTames anal 觀 察 ε 正 し い 剿 斷 を加 た もの で あ る 。 當時 此方 面 權威 、 lsaac Taylor 一 ’乃〃 盈 踟 漉 5, urordsandPlaces の 著者 も、 彼 に は 籌 を 輸 しt の で あ る 。 Lexicography A rv7ew English Didionat Pa 「i f Some Ety− に就 て は 、 ], , η 1884 Feb・16 ・4‘σ 認 2 oル8伽 が收 め られ て ゐ る 。前者 は , , 勿 誌上 に試 み た review . Murra の で る N ・ E . 彼 の で 、 Dr γ を驚嘆 させ た程 の も あ e 彼 は D .be Littr6の French Dictionary及び Grimm の German Dict三〇nary に Dr . Murray Ruthwell Cross A ・ D ・ 比較 し、 の 編纂方針 を 賞め 、 殊に (700 ) )σ 勿 ∫ 6 1883 つ よ り 1 砂 踊 (Jury , )に至 る無數の 引用 文 に よ て 、 各 語の意 α ‘ 砌 勿 碗 義 を歴吏的 に 設明 した 大 い な る 努力 ε 價値 を認 め て ゐ るが 、 砺 spiriX し 一 に て つ ε idiomatic な さ の 説 明の 不 遖當な 點 を指 摘 、 語 關 し も 一 NII-ElectronicN 工 工 Eleotronio Library Service The English SocietySooiety of Japan HENRY BRADLEY の 論文 集 573 combination べ second notice を示 す きを 説 き 、 そ の には 若 干 の 語の etymology に つ い て 批評 を加 へ て ゐ る。 Language 跏 π On theEnglish Pronuncialien の 、 . Latin 項 には 幽 ef , The − Angla ( 〃 砂 漉 and ン Score) SPelling, SPollen Mritten English が 載せ て あ ’ る。最後 の On lhe Relations betevetn SPoken and Mn llen Englishは 當時 識者間 に 大 い に論議 され た 所謂 Spelling Reform に 對 す る 彼 の 態度 を明か に した もの で ミ − 、 綴 字 發昔 の 關係 を仔細 に考察 し 、 英 語 には殊 に homo ・ nes が い か ら 正 ph 多 、 確 に發音 を表は す樣 な綴字 は實 際上 期待 し難い こ ε を 、 の て い Spelling 幾多 例 を舉 け 論 た名論で あ る 。 の急激 な變化 に は反 鸚 して ゐ る の が 、 現在 文 字に は 多 く の 改 良 の 餘地 あ る こ ε は 、 彼 も亦認 め て ゐ る igi3 April Intemational 。 此 れ は , に Historical Congress於 て 彼 が朗 ’ 讀 し# もの で 、 に Preceedings of the Bn tisfi.Academy VoL vi 後 , に掲載 さ れ 、IgIg に ClarendQn Press つ 年 は か ら小 珊子 に な て 出 版 さ れ た 。 Literary Problems and Studies る Beowulf The 袖 ’ に 含 まれ て ゐ 、 , 乃 Riddle ef the Exeter 刀 oo The of 跏 ‘ 為 Song Nine 炉 llerbs, Helland ‘ ’ and Ornt・ Mynnere PVTasloure e A IVTew Theaf as lv lirerchown bhn フ , ノ ‘ ’ j9 Mho was bkn Bevt? Thomas Uske: The Teslament 鶴 , Love / of , ’ ‘ Henry LenelicE tke Skirener, EnaycloPredia − 、 Bn lannica Athen は 曾 て , tezam , Modema Language reewiew な き に さ た で 羯載 れ 小論丈 あ るが 、 古代 及 び 世 文 の 研究者 に 取 つ て 爾 な で 中 英 學 、今 貴重 資料 あ ら う。 最 の Conjectural Emendations The Uebrew Text ef 後 には 、 .psalmt ‘ LXXXZ 0n 痂 ・4厂 afiic ofthe & ’cre 彡 & ” , 9, 吻 3 ‘ノetomm , The θ 解 虍 ノか scnPtion al Brocrgh−ernder −SlanmoreSome , Emendaliozas勿 Ola English Texts # 他 の 斷 が め ら て ゐ る 一 片 集 れ が 、 英語學 の み な らす 、 般言語學 に ける の を sS 於 彼 才能 發揮 しf もの で 、 其遘 の研究者 に は 、 參考 な る所が少 くな い こ ざ を 信す る。 以 上 不充分 な が ら、 本 書 の 出版 に して の 際 、 我 ら pioneerで ある Henry 一 NII-ElectronicN