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Kumamoto University Repository System

Title 膵癌におけるSerine protease inhibitor, Kazal type 1 の発現とその意義

Author(s) 尾﨑, 宣之

Citation

Issue date 2009-03-25

Type Thesis or Dissertation

URL http://hdl.handle.net/2298/16510

Right

学位論文

Doctor’s Thesis

膵癌における Serine protease inhibitor, Kazal type 1 の発現とその意義

(Expression and the significance of Serine protease inhibitor, Kazal type 1 in )

著者名: 尾﨑 宣之

Nobuyuki Ozaki

指導教員名: 熊本大学大学院医学教育部博士課程臨床医科学専攻消化器外科学

馬場秀夫 教授

熊本大学大学院薬学教育部博士課程生命薬科学専攻臓器形成学

山村研一 教授

審査委員名:

多能性幹細胞担当教授 粂 昭苑

分子遺伝学担当教授 尾池 雄一

消化器内科学担当教授 佐々木 裕

代謝内科学分野担当教授 荒木 栄一

2009 年 3月

目次

要旨 ・・・・・・5

発表論文リスト ・・・・・・6

謝辞 ・・・・・・8

略語一覧 ・・・・・・9

第一章 研究の背景と目的 ・・・・・・11

1-1. 膵癌の発生の動向と治療成績

1-2. 膵上皮内腫瘍性病変 (Pancreatic Intraepithelial Neoplasia ; PanIN)

1-3. Serine protease inhibitor, Kazal type 1(SPINK1) とは

1-4. SPINK1 の発現臓器

1-5. SPINK1 と様々な癌との関連

1-6. SPINK1 の細胞増殖促進活性

1-7. epidermal growth factor (EGF) と EGF receptor (EGFR)

1-8. SPINK1 と EGF の構造上の類似点

1

第二章 実験方法 ・・・・・・25

2-1. 使用した細胞株と切除標本

2-2. SPINK1 添加時の細胞増殖実験

2-3. 免疫沈降ウェスタンブロッティング

2-4. 水晶マイクロバランス法 (quartz-crystal microbalance; QCM) を用いた

2 分子間結合実験

2-5. EGFR とその下流のシグナル伝達分子のリン酸化解析

2-6. 細胞増殖阻害実験

2-7. 免疫組織化学的解析

2-8. 統計学的解析

第三章 実験結果・・・・・・34

3-1. SPINK1 添加時の細胞増殖実験

3-2. 免疫沈降ウェスタンブロッティングによる SPINK1 と EGFR の結合確認実験

3-3. QCM 法を用いた SPINK1 と EGFR を含む ErbB ファミリーの結合実験

2 3-4. SPINK1 刺激による EGFR のリン酸化の解析

3-5. SPINK1 刺激による EGFR の下流のカスケード分子のリン酸化・活性化の解析

3-6. SPINK1 添加時の EGFR 下流の細胞増殖に関わるカスケードの阻害実験

3-7. ヒト正常膵とヒト膵癌組織における SPINK1 と EGFR の発現

3-8. PanIN における SPINK1 と EGFR の発現

第四章 考察 ・・・・・・53

第五章 結語 ・・・・・・59

第六章 参考文献 ・・・・・・60

3 要旨

[背景・目的] Serine protease inhibitor, Kazal type 1 (SPINK1) は、膵腺房細胞で産 生され、膵内で活性化したトリプシンを阻害することにより、膵臓を自己消化から守る 役割を負っている。それとは別に SPINK1 は様々な癌で発現していることが知られて いるが、腫瘍での SPINK1 の役割はいまだに分かっていない。また、以前より SPINK1 と上皮成長因子 (epidermal growth factor ; EGF) 間の構造上の類似性があることが 指摘されていること、上皮成長因子レセプター (EGF receptor ; EGFR) は PanIN 病変 や膵癌、慢性膵炎で過剰発現しており、膵管上皮の異常増殖や反応性増殖において EGFR シグナルカスケードとの関与が示唆されている。今回、SPINK1 が EGFR のリガ ンドのひとつであると仮説を立て、特に膵癌において細胞増殖促進活性を示すことを 明らかにするために実験を行った。

[方法と結果] NIH3T3 fibroblast および 5 種類の癌細胞株を用いて、SPINK1 添加時 の細胞増殖促進活性を検討したところ、ほぼ濃度依存性に細胞増殖促進活性を示し た。免疫沈降ウェスタンブロッティングと水晶マイクロバランス法を用いて SPINK1 と EGFR の結合実験を行ったところ、SPINK1 と EGFR の結合を確認することができ、そ の結合力は EGF と EGFR との結合力の約半分であった。SPINK1 刺激時の EGFR の リン酸化、またその下流のカスケードのリン酸化・活性化をみるために、ウェスタンブロ ッティングを施行したところ、EGFR のリン酸化およびその下流のカスケードの活性化を 確認できた。EGFR とその下流の細胞増殖に関わるカスケードの阻害剤を添加したと ころ、EGFR の阻害により EGF/SPINK1 添加群で細胞増殖が阻害され、主に MAPK カスケードが細胞増殖に関わっていることが判明した。ヒト正常膵組織、ヒト膵癌組織、 ヒト膵上皮内腫瘍性病変 (Pancreatic Intraepithelial Neoplasia ; PanIN) を用いて抗 SPINK1 抗体と抗 EGFR 抗体による免疫組織染色を施行すると、膵癌で SPINK1 と EGFR が共発現していて、PanIN 病変でも SPINK1 と EGFR が共発現していた。EGFR に関しては PanIN となるその前段階の正常膵管上皮細胞にも発現していた。

[考察] SPINK1は癌細胞に対し細胞増殖促進活性を示すことが示唆された。 SPINK1 と EGFR は膵管状腺癌と PanIN 病変で共発現されていること、SPINK1 が EGFR のリガンドの一つとして作用することより、おそらくオートクリン、パラクリン的に EGFR、主に MAPK カスケードを介して膵癌の細胞増殖を促進し、癌の発育・進展に 関与していることが示唆された。

4 発表論文リスト

関連論文

Serine protease inhibitor, Kazal type 1, promotes proliferation of pancreatic cancer cells through the epidermal growth factor receptor Nobuyuki Ozaki, Masaki Ohmuraya, Masahiko Hirota, Satoshi Ida, Jun Wang, Hiroshi Takamori, Shigeki Higashiyama, Hideo Baba, Ken-ichi Yamamura

C/EBP homologous is crucial for the acceleration of experimental .

Suyama K, Ohmuraya M, Hirota M, Ozaki N, Ida S, Endo M, Araki K, Gotoh T, Baba H, Yamamura K.

Biochem Biophys Res Commun. 2008 Feb 29;367(1):176-82. Epub 2007 Dec 31.

Significance of endothelial molecular markers in the evaluation of the severity of acute pancreatitis.

Ida S, Fujimura Y, Hirota M, Imamura Y, Ozaki N, Suyama K, Hashimoto D, Ohmuraya M, Tanaka H, Takamori H, Baba H.

Surg Today. 2009;39(4):314-9. Epub 2009 Mar 25.

その他の論文

膵癌に対する補助化学療法の有用性 坂本快郎, 高森啓史, 中原修, 橋本大輔, 赤星慎一, 尾﨑宣之, 古橋聡, 馬場秀夫 熊本大学大学院医学薬学研究部消化器外科学 臨外, 64(7) : 925-932, 2009.

5 急性膵炎重症化の分子機構 広田昌彦, 大村谷昌樹, 陶山浩一, 尾﨑宣之, 井田智, 田中洋, 高森啓史, 馬場秀夫 熊本大学大学院医学薬学研究部消化器外科学 胆と膵, 29(4) : 313-316, 2008.

6 謝辞

熊本大学大学院医学薬学研究部消化器外科学 馬場秀夫教授、熊本大学大学院

医学薬学研究部臓器形成学 山村研一教授のご指導の下、本研究を行いました。多

くのご指導を頂き、深く感謝いたします。

熊本大学発生医学研究センター器官形成部門臓器形成学 荒木喜美准教授、熊

本市医師会病院外科(前熊本大学大学院医学薬学研究部消化器外科学准教授)

廣田昌彦 先生には日々の実験手法から論文の指導まで幅広いご指導を頂きました。

深く感謝いたします。

愛媛大学大学院医学系研究科 システムバイオロジー部門 分子ネットワーク解析

学講座 生化学・分子遺伝学分野 東山繁樹教授には EGFR、HER2、HER3、HER4

細胞外ドメインとヒト IgG-Fc の融合タンパクを譲渡していただき、また、ErbB ファミリーと

リガンドについての知識、結合実験に関する貴重なご意見を頂きました。熊本大学発

生医学研究センター器官形成部門臓器形成学 中田三千代実験補助員、太田家由

美実験補助員には病理組織検査の技術的なご指導を頂きました。

臓器形成学教室、消化器外科学教室の皆様には有形無形の多くのご協力とご指導

を頂きました。

最後に、熊本大学大学院先導機構 大村谷昌樹博士には研究のイロハから始まり、

各種の研究手法、論文の読み方、研究に対する姿勢など、直接的なご指導・ご鞭撻を

頂きました。

心から感謝いたします。

7 略語一覧

AKT, v-akt murine thymoma viral oncogene homolog 1

BPTI, basic pancreatic Inhibitar

DMEM, Dulbecco's modified Eagle medium

DNA, doexyribo nucleic acid

EGF, epidermal growth factor

EGFR, epidermal growth factor receptor

ErbB2, v-erb-b2 erythroblastic leukemia viral oncogene homolog 2

ErbB3, v-erb-b2 erythroblastic leukemia viral oncogene homolog 3

ErbB4, v-erb-b2 erythroblastic leukemia viral oncogene homolog 4

FBS, fetal bovine serum

HB-EGF, heparin-binding EGF-like growth factor

HER2, human epidermal growth factor receptor 2

HER3, human epidermal growth factor receptor 3

HER4, human epidermal growth factor receptor 4

IPMA, intraductal papillary-mucinous adenoma

IPMN, intraductal papillary-mucinous neoplasia

IPMC, intraductal papillary-mucinous

JAK, janus kinase

KRAS, v-Ki-ras2 Kirsten rat sarcoma viral oncogene homolog

MAPK, mitogen-activated protein kinase

NRG-1, neuregulin-1

PanIN, pancreatic intraepithelial neoplasia

8 PBS, phosphate buffered saline

PI3K, phosphoinositide-3 kinase

PSTI, pancreatic secretory trypsin inhibitor

QCM, quartz-crystal microbalance

SPINK1, serine protease inhibitor Kazal type 1

Spink3, serine protease inhibitor Kazal type 3

STAT, signal transducers and activator of transcription

TATI, tumor associated trypsin inhibitor

TBS, Tris buffered saline

TGF-alpha, transforming growth factor alpha

9 第一章 研究の背景と目的

1-1. 膵癌の発生の動向と治療成績

国立がんセンターによるがんの統計によれば、膵癌は本邦において粗罹患数が

2000 年度:20,045人と,胃癌:102,785人,大腸癌:92,137人,肺癌:67,890人,肝臓

癌:40,053人に次いで第5位,粗死亡数においては2000年度:19,094人と,肺癌:

53,722人,胃癌:50,647人,大腸癌:35,946人,肝臓癌:33,979人に次いで第5位となっ

ている。5年相対生存率は5.5%と,大腸癌64.6%,胃癌58.8%,肺癌19.9%,肝臓癌

17.1% に比して極端に低い。罹患数は増加しており,この25年間に3倍強となってい

る(1975年:6,075例,2000年:20,045例)。さらには,患者の平均余命は1年6カ月であ

り,疼痛,黄疸,消化機能不全等を伴って,苦痛が極めて大きい。これらの事実は膵

癌が難治性癌として医学上極めて大きな問題であり、現在に至ってもなお予防,診断,

治療の何れに関しても効果的な方法が確立していないことを示しており,早期診断、

有効な治療方法の開発が急務である。

膵癌の原因や危険因子については数多くの疫学的研究がなされ、様々な因子が報

告されている (表 1)。

表 1 現在にまで報告されている膵癌のリスクファクター

嗜好品・・・喫煙、飲酒、コーヒー 食生活・・・肉類、高カロリー食、高脂肪食 既往症・・・糖尿病、胆石症、膵炎、膵石症、胃切除後、胆嚢摘除後 肥満 職業・・・化学物質の被爆 家族歴・・・家族性膵癌、遺伝性疾患 (inherited cancer symdrome)

10 この中で喫煙が最も重要な危険因子である。喫煙者のリスクは非喫煙者の約 2 倍であ

り、膵癌症例の約 30%は喫煙との関連があるとされている。また食事においては肉食、

高脂肪食、高カロリー食などが膵癌のリスクを高めると報告されている。更に近年、肥

満や体重増加も膵癌の危険因子とされ、適度な運動が膵癌のリスク低下につながると

の報告もある。食事の内容の欧米化とともに、今後も膵癌発生の増加が続くものと推

測されている。

表 2に、過去に集計された 18,495 例の膵癌の組織型分類を示す。膵癌は病理組織

学的に通常型膵癌、嚢胞腺癌、膵管内乳頭腫瘍、内分泌腫瘍、その他に分類される。

組織型不明の 8,722 例を除いた 9,773 例のうち 8,617 例 (88%) が通常型膵癌であり、

そのうち 7,205 例 (74%) が管状腺癌である。通常型膵癌は、膵癌例全体の 90%を占

め、治療成績は極めて悪く、最難治癌として知られている。実際、1998 年の膵癌全国

登録調査によると、通常型膵癌の 5 年無再発累積生存率は 9.3%と他の組織型に比

べて極めて不良であった。

表 2 組織型分類

11 表 3 に、膵癌取り扱い規約の進行度分類 (Stage) を示す。1999 年度症例の膵癌全国

登録調査の結果では、不明例を除き診断時に 90%以上が StageⅢ,Ⅳであり、高度進

行例では、切除不能症例も少なくない (表 4) 。StageⅠは、わずかに 2.1%で、近年

の画像診断技術の進歩にもかかわらず早期発見が非常に困難であることを示してい

る。その原因として通常型膵癌は、特徴的症状に乏しいこと、更に膵臓が後腹膜臓器

であるという解剖学的特特徴が考えられる。また、たとえ小膵癌であっても、膵周囲組

織に浸潤し、血行性転移、リンパ行性転移、あるいは播種性転移が高率に見られる。

実際、膵癌全国登録調査報告において腫瘍径 2 cm 以下でリンパ節転移がなく、組織

学的な膵周囲浸潤もない StageⅠ症例ですら、5 年無再発累積生存率が 56.7%と、他

の消化器系の早期癌よりも極めて予後不良である(図 1)。これは、小さい通常型膵癌

でも漿膜を越えて膵外に浸潤したり、リンパ管侵襲、静脈侵襲、神経浸潤などの組織

学的な進展から、容易にリンパ節転移や肝転移を起こすためと考えられる。

表 3 進行度分類 (Stage) 膵癌取り扱い規約

『膵癌取扱い規約』 第 5 版 より引用

12

表 4 Stage 別頻度

図 1

図 1 膵癌全国登録における通常型膵癌の Surgical Stage と予後

13

1-2. 膵上皮内腫瘍性病変 (Pancreatic Intraepithelial Neoplasia ; PanIN)

PanINは膵管内に生じる円柱上皮性の異型上皮病変を総合的にとらえる概念として、

2000 年にHrubanらにより提唱された (1)。その定義として、「膵上皮内腫瘍性病変

(PanIN)は膵管上皮より発生し、顕微鏡レベルで観察される乳頭状もしくは平坦な形

態をとる非浸潤性の上皮内腫瘍性病変である。PanINはさまざまな量の粘液を有し、さ

まざまな程度の細胞異型や構造異形を示す円柱状から立方状の細胞で構成される。

PanINは通常直径 5 mm未満の膵管に認められる」とされている (2)。PanINはさまざ

まな程度の異型を示す病変を含むが、異型度によりPanIN-1 (PanIN-1A / PanIN-1B) /

PanIN-2 / PanIN-3の3段階に分けられる。それぞれ低異型度、中等度異型、高異型度

病変に相当する。Hrubanらの文献による分類基準概略を表5と図2に示す。

表 5 PanINの分類基準 正常膵管上皮 :正常上皮は立方から低円柱上皮細胞からなり、核の重層化や異型を 認めない。 PanIN-1A :平坦な構造で、胃の腺窩上皮様の高円柱上皮細胞で内腔を覆わ れ、核は球形から卵円形である。 PanIN-1B :円柱上皮細胞で覆われる低乳頭状の構造を示し、核は球形から卵円 形である。核の重層化や異型を認めない。乳頭状構造の基部で胃の 幽門腺様の構造を示すことがある。 PanIN-2 :異型を持つ円柱上皮が、平坦ないし乳頭状構造を示す。乳頭状構造 は線維性の間質を持つ。異型細胞は,長く延長した核を持ち、中には 偽重層化を示す部位を持つ。核分裂像はほとんどみられない。 PanIN-3 :著明な異型を示す円柱ないし立方上皮が低乳頭状から乳頭状構造、 稀に平坦構造を示す。核の極性は消失し明瞭な核小体を持つ。

Hruban RH, et al. Am J Surg Pathol 2004;28:977-87

14 図 2

Hruban RH, Progression model for pancreatic cancer. Clin Cancer Res 2000; 6: 2969-72.

図 2 PanINの分類

PanINのコンセプトにおいて最も重要な点は、形態像を基盤とした病変が特徴的分

子異常と関連しており、その結果、PanINが段階的に進行する一連の腫瘍性病変であ

ることを明確にしたことにある (図 3) (3)。膵癌 (管状腺癌) ではKRASの体細胞性の

機能亢進性変異が90%以上の頻度で認められるが、PanINにおいては低異型度病変

のPanIN-1の段階で既にその変異が認められ、EGFR、ErbB2 においてはそれよりも

更に早期に活性化されている (3)。KRASの産物RASはGTP結合蛋白で増殖因子から

の刺激を中継し、その信号を数々の下流のエフェクター分子につたえるメディエータ

ーとして働いている。膵癌 (管状腺癌)およびPanINで検出されるKRASの異常のほと

んどがコドン12の点突然変異であり、この変異はRASを恒常的に活性化する異常をも

たらす。変異Krasを膵管上皮特異的に発現させるマウスモデルにおいて膵管上皮に

PanIN-1類似の変化が高率に発生することが示され、さらにそれが経時的に異型の強

い病変に変化して、ついには浸潤癌発生に至るがごとく見受けられることから、

PanIN-1は浸潤性膵管癌発生に進展しうる初期変化に相当するものと考えられる (4)。

TP53/p53は浸潤性膵管癌の約50~70%程度で異常が認められるが、PanIN-1、-2に

15 おいてはp53の異常はほとんど認められない。PanIN-3になると40~50%でp53の発現

異常が認められる (5)。p53は転写因子として働き、主にDNA障害性の刺激に反応し

て細胞回転を止め、DNA修復に向かわせる、あるいは細胞死を誘導する遺伝子群を

活性化するが、ここに異常を来たすと転写因子機能に必須であるDNA結合領域のア

ミノ酸残基置換性(missense)変異が認められ、転写因子として機能できなくなる。変異

Krasに変異Trp53(マウスにおけるp53)を持ったマウスモデルにおいては、PanIN から

浸潤癌発生の割合が高くなることが示されており、KRASの異常を背景としたp53の機

能喪失はPanINから浸潤癌発生を促進する作用を有することが示唆される (6)。この

他にもINK4A、SMAD4、BRCA2等も進行に関与していると報告され (3)、これらの変異

を経て前癌病変から浸潤癌へと進行していくと考えられ、PanINは膵癌を研究する上

での重要な鍵の一つとなっている。

図 3

Bardeesy N, DePinho RA. Pancreatic cancer biology and genetics. Nat Rev Cancer 2002 ; 2 : 897-909.

図 3 PanIN から浸潤癌への変化と様々な分子異常の関係

16 1-3. serine protease inhibitor, Kazal type 1 (SPINK1) とは

膵臓には 2 つのトリプシン・インヒビターが存在する。塩基性膵トリプシン・インヒビター

(basic pancreatic trypsin Inhibitar ; BPTI) と、セリンプロテアーゼインヒビター Kazal

タイプ1 (serine protease inhibitor Kazal, type I ; SPINK1、マウスでは serine protease inhibitor Kazal, type 3 ; Spink3)である。SPINK1 の別名称は膵分泌性トリプシン・インヒ

ビター (pancreatic secretory trypsin ihibitor ; PSTI)、腫瘍関連トリプシンインヒビター

(tumor associated trypsin inhibitor ; TATI)である。

BPTI はウシやヒツジなどの反芻動物の膵臓の他、肺臓、耳下腺、肝臓、脾臓、リンパ

腺などの各種臓器に分布している。最初に Kunitz と Northrop によりウシ膵臓から単離

され (7)、Kassell らによって一次構造が決定された (8)。BPTI はアミノ酸 58 残基より

なるプロテアーゼインヒビターで (図 4 上)、トリプシンのほか、キモトリプシン、プラスミ

ン、カリクレインも阻害する。アプロチニンという商品名で急性膵炎に対して使用されて

いたが、ウシ蛋白であるためアレルギー反応が起きやすいことから、最近では使用さ

れなくなった。

一方、SPINK1 は 1948 年 Kazal らがウシ膵臓 8165 kg から分離、精製、結晶化した

酸性トリプシン・インヒビターである (9)。哺乳動物の膵液中に分泌されるインヒビター

であるため膵分泌性トリプシン・インヒビター (pancreatic secretory trypsin inhibitor;

PSTI) とも呼ばれている。Greene らによりその一次構造が決定され (10)、1987 年に堀

井らは、ヒト膵臓細胞より SPINK1 の cDNA をクローニングし、これにより SPINK1 をコ

ードするエクソン領域が明らかとなった (11)。SPINK1 は 23 個のシグナルペプチドを

有する 79 個のアミノ酸からなる蛋白である (図 4 下)。SPINK1 は膵臓内で活性化した

トリプシンを阻害することにより、トリプシンによって引き起こされる様々な酵素前駆体の

連鎖的活性化を抑え、膵臓を自己消化から守る役割を担っていると考えられている。

17 図 4

図 4 BPTI と SPINK1 の構造。阻害反応部位を矢印で示す。

膵液中に分泌される SPINK1 の生理作用は、膵管内で少量のトリプシノーゲンの活

性化がおこった場合、直ちにこのトリプシンと結合し、連鎖反応的な膵内における膵酵

素の活性化を防ぎ、膵臓を自己消化から護ることにある。BPTI がトリプシンと安定した

複合体を形成し、永久阻害するのと対照的に、SPINK1 のトリプシン阻害作用は比較

的弱く、しかも活性阻害は一時的である。トリプシンと SPINK1 を混合しておくと、一度

消失していたトリプシン活性が時間とともに再び出現してくる。これは SPINK1 が酵素

消化をうけて失活したことによるもので、膵プロテアーゼが腸内で消化酵素として作用

する本来の目的にかなっていると考えられてきた。

18 トリプシンをはじめとする膵プロテアーゼは、膵内においてはトリプシノーゲンなどの

不活性型としてチモーゲン顆粒内に区画されているため、膵内においては通常、自己

消化は起きない。しかし十二指腸液や胆汁の逆流など何らかの原因によって、膵内に

おいてトリプシノーゲンがトリプシンに活性化され、SPINK1 の阻害能を超えると、膵の

自己消化から膵炎が惹起されると考えられる。

活性化されるトリプシンの量が総トリプシノーゲン量の 1/5 までであれば、即座に

SPINK1 が結合することによって、トリプシンは不活性化され、膵臓は自己消化から守

られる。しかし、膵内においてトリプシン活性量が多かったり、SPINK1 トリプシン結合

能が低下していると、膵炎を惹起しやすい状況が起こりうることが想定される。このよう

に、トリプシンと SPINK1 は矛と盾のような関係にある。

1-4. SPINK1 の発現臓器

SPINK1 は主に膵臓の腺房細胞から産生・分泌されるが、他の様々な臓器でも発現

が確認されている。今までに確認されている臓器としては、胃・小腸・大腸・肝臓・肺

臓・腎臓・卵巣があり (12-14)、腸管においては、腸管粘膜損傷時の修復・安定化に

SPINK1 が関与しているといわれている (15)。また Wang らは、SPINK1 のマウスの相

同体であるSpink3 が、胚発生間に脳または泌尿生殖器系を含む様々な組織で発現さ

れることを明らかにし (16)、SPINK1 / Spink3 は膵以外の多くの組織でさらなる機能を

持つことが示唆される。

1-5. SPINK1 と様々な癌との関連

SPINK1 は、他の名称を腫瘍関連トリプシンインヒビター (tumor associated trypsin

19 inhibitor ; TATI) とも呼ばれる。TATI は 1982 年に Stenman らによって卵巣癌患者の

尿から同定され (17)、その後、SPINK1 と同一タンパクであると結論付けられた (18)。

同様に SPINK1 は胃癌・大腸癌・膵癌・肝癌・乳癌・胆道癌・卵巣癌・前立腺癌といっ

た様々な癌種で発現していることも確認されている (13, 19-23)。最近では、卵巣癌・

膀胱癌・腎臓癌の予後に関連したマーカー (24) 、前立腺癌における新たなバイオマ

ーカー・予後予測因子 (25, 26)、肝内胆管癌術後患者の早期再発を予測する因子と

して SPINK1 が挙げられており (27)、癌の発生や進展、増殖、浸潤といった機能との

関係が示唆されている。

1-6. SPINK1 の細胞増殖促進活性

SPINK1 はトリプシンインヒビターとしての機能のほかに、様々な機能が報告されてき

た。Niinobu らは、SPINK1 が NIH 3T3 fibroblast 、 WI-38 、 HUVE 、 BDC-1 や

H4-II-E-C3 といった癌細胞株を含む多くの細胞株に結合することを示し(28, 29)、ま

た SPINK1 は、NIH 3T3 fibroblast (30, 31)、ヒト内皮細胞 (32)、腸管上皮細胞やラット

膵癌細胞 (33) の増殖を促進し、これらの所見は SPINK1 が何らかの細胞膜レセプタ

ーを介して細胞増殖を促進させることを示唆するデータである。この SPINK1 に対する

レセプターの同定は、以前より議論されている問題であった。Fukuoka らは、SPINK1

が NIH 3T3 fibroblast の EGFR と結合し、EGF と競合すると報告した。これとは対照的

に、Niinobu らは SPINK1 が細胞表面に結合することは確認できたが、それは EGFR と

は異なっていると述べている (28)。

20 1-7. 上皮細胞成長因子 (EGF) と上皮細胞成長因子レセプター (EGFR)

EGF は 53 アミノ酸残基及び 3 つの分子内ジスルフィド結合から成る 6045 Da のタ

ンパク質である。細胞表面に存在する EGFR のリガンドとして結合し、細胞の成長と増

殖の調節に重要な役割をする (34)。1962 年、マウス新生児に投与すると成長を促進

する物質として、唾液腺から発見された。EGF は高い親和力で細胞表面の特異的な

受容体に結合することで、受容体に備わるタンパク質チロシンキナーゼ活性を刺激す

る。受容体のチロシンキナーゼ活性はシグナル伝達カスケードを開始して、最終的に

は DNA 合成と細胞増殖に導く。

EGFR はチロシンキナーゼ型受容体で、細胞膜を貫通して存在する分子量 170 kDa の糖タンパクである。HER1、ErbB1 とも呼ばれる。1975 年に線維芽細胞表面上に

EGF 特異的受容体の存在が報告され (35)、その後 1978 年に A431 ヒト癌細胞株にお

いて同定された。1984 年、トリ赤芽球症ウイルス avian erythroblastic leukemia virus

のもつ癌遺伝子 v-erbB の配列と EGFR の配列が非常に似通っていることが報告され

(36)、癌遺伝子 erbB の遺伝子産物と EGFR が同一のものであることが判明した。

EGFR はチロシンキナーゼ型受容体の中でも、構造上の類似性から、ErbB ファミリーと

よばれる型の受容体に属する。ErbB ファミリーには、ErbB1 (EGFR)、ErbB2 (HER2)、

ErbB3 (HER3)、ErbB4 (HER4) の 4 つが属する。これらは共通した構造をもち、3 つの

領域 (細胞外領域、細胞膜貫通領域、細胞内領域) からなる。細胞外領域はリガンド

結合部位をもち、ここにリガンドが結合すると、受容体が活性化する。 EGFR のリガン

ドとして EGF の他、TGF-α、アンフィレギュリン、ヘパリン結合 EGF 様増殖因子

(Heparin-binding EGF-like Growth Factor ; HB-EGF) などの多くのリガンドと結合する。

受容体が活性化すると受容体は細胞膜上を移動し、他の受容体に結合して二量体を

形成する。EGFR は EGFR 同士、あるいは他の ErbB ファミリー受容体と二量体を形成

21 する。二量体を形成すると、細胞内領域にあるチロシンキナーゼ部位は、アデノシン三

リン酸 (ATP) を利用して、受容体細胞内領域にあるチロシン残基をリン酸化する。チ

ロシンがリン酸化されると、細胞内のさまざまなタンパクが次々と活性化していき、細胞

の機能や構造に変化を与える。

EGFR のシグナル伝達経路として、Mitogen-Activated Protein Kinase (MAPK)経路、

Phosphoinositide-3 Kinase (PI3K) / v-akt murine thymoma viral oncogene homolog 1

(AKT) 経路、Janus Kinase (JAK) / Signal Transducers and Activator of Transcription

(STAT) 経路の 3 つが重要である (図 5) (37)。このシグナル伝達の結果、細胞は分

化、増殖の方向にむかう。MAPK 経路は、主に細胞増殖と生存に関与し、PI3K/Akt

経路は主に細胞成長や抗アポトーシス、浸潤、遊走に関与する。

EGFR はさまざまな悪性腫瘍で過剰発現がみられ、膵癌、腎癌、非小細胞肺癌、前

立腺癌、頭頸部癌、卵巣癌、胃癌、大腸癌、乳癌等で過剰発現がみられる。癌の

EGFR 過剰発現は予後不良因子とも言われている。

図 5

From Wikipedia, the free encyclopedia

図 5 EGFR の下流の主なシグナル伝達経路

22 1-8. SPINK1 と EGF の構造上の類似点

SPINK1 に細胞増殖促進活性があるとの報告以来、SPINK1 と EGF との構造上の類

似点が指摘されていた。いずれのタンパクとも分子量が約 6 kDa であり(SPINK1 :

6242 Da、EGF : 6045 Da)、約 50%の遺伝子配列相同性と 3 つの分子内ジスルフィド

結合を有する (38, 39)。EGFR のリガンドで保存されている領域がすべて一致するわ

けではないが、類似点も多く、細胞増殖活性を示すという報告からも、SPINK1 のレセ

プターが EGF のレセプターと同じである可能性はきわめて高いと考えられる。

今回、SPINK1 が EGFR のリガンドのひとつであるとの仮説を立て、特に膵癌におい

て細胞増殖促進活性を示すことを明らかにするため、以下の実験を行った。

23 第二章 実験材料と方法

本実験を行うにあたり、さまざまな分子生物学的手法を用いたため、その方法を以下

に示す。

2-1. 使用した細胞株と切除標本

今回の研究には、5 種類の癌細胞株 (AsPC-1、MIAPaCa-2、PANC-1、Capan-2、

BT-474;詳細は以下に示す通り) と NIH3T3 fibroblast を使用した。

AsPC-1

Organism : Homo sapiens (human, 62 years, female, Caucasian)

Organ : pancreas Disease : adenocarcinoma

Derived from metastatic site : ascites

MIAPaCa-2

Organism : Homo sapiens (human, 65 years, male, Caucasian)

Organ: pancreas Disease: carcinoma

PANC-1

Organism : Homo sapiens (human, 56 years, male, Caucasian)

Organ : pancreas Tissue: duct Disease: epithelioid carcinoma

Capan-2

Organism : Homo sapiens (human, 56 years, male, Caucasian)

24 Organ : pancreas Disease : adenocarcinoma

BT-474

Organism : Homo sapiens (human, 60 years, female, Caucasian)

Organ: mammary gland; breast Tissue: duct Disease: ductal carcinoma

上記の細胞株は、Dulbecco's modified Eagle medium (DMEM) (Invitrogen,

Carlsbad, CA) に 10% fetal bovine serum (FBS) (Invitrogen)、100 U/ml penicillin、

100μg/ml streptomycin を添加した培地で培養した。培養条件は 37°C / 5% CO2 の管

理を行った。

63 例の膵切除組織標本 (52 例の膵腫瘍切除組織標本、11 例の膵炎切除組織標

本)、22 例 (120 領域)の PanIN 組織標本は、熊本大学付属病院 消化器外科学分野

にて外科的切除を受けた患者のパラフィン埋包標本より入手した。

2-2. SPINK1 添加時の細胞増殖実験

SPINK1 を添加した場合の細胞増殖実験には、AsPC-1(膵癌細胞株)、MIAPaCa-2

(膵癌細胞株)、PANC-1(膵癌細胞株)、Capan-2(膵癌細胞株)、BT-474(乳癌細胞

株)と NIH3T3 fibroblast を使用した。添加する薬剤は、recombinant human SPINK1(40)、 recombinant human EGF (Peprotech EC, London, UK)、アプロチニン (Sigma Chemical

Co., St. Louis, MO) を使用した。この細胞増殖促進活性の実験は Fukuoka らの実

験方法を参考にした (30)。それぞれの細胞株を 4×105 / ml で 6-well dish にまき、

25 DMEM に 10% FBS、100 U/ml penicillin、100 μg/ml streptomycin を添加した培地

で培養し、24 時間後に培地を FBS フリーの DMEM 培地に変えた。その後、そ

れぞれの細胞は FBS フリー(コントロール)と、FBS フリーに EGF(100 pg/ml、

1 ng/ml、10 ng/ml、100 ng/ml)、SPINK1(1 ng/ml、10 ng/ml)またはアプロチニ

ン(1 ng/ml、10 ng/ml)を添加した DMEM 培地で、37℃ / 5% CO2 の管理下で

72 時間インキューベートした。その後、トリプシン処理し、細胞数を計測した。

細胞数計測にはヘモサイトメーター (Erma, Tokyo, Japan) を使用した。

2-3. 免疫沈降ウェスタンブロッティング

SPINK1とEGFRの結合を確認するために免疫沈降ウェスタンブロッティングを行っ

た。使用した細胞株はAsPC-1とMIAPaCa-2である。AsPC-1とMIAPaCa-2を4×105 / ml

で100-mm dishにまき、セミコンフルエントになるまで培養した。24時間の飢餓状態の

後、FBS フリーのDMEM培地かFBS フリーのDMEMにrecombinant human SPINK1 10 ng/mlを添加した培地に変え、10分間 / 37℃ / 5% CO2で培養した。細胞は冷却し

たTBSで3回洗浄し、細胞溶解バッファー (50 mM Tris-HCl, pH 7.4, 150 mM NaCl,

1% Nonidet P-40, 1×protease inhibitor mixture [1:100 dilution; Sigma Chemical Co.],

1×phosphatase inhibitor mixture [1:100 dilution; Nacalai Tesque, INC. Kyoto, Japan]) 1 mlで、氷上で10分間溶解した。遠心したAsPC-1・MIAPaCa-2細胞溶解液の上清

を、Dynabeads protein G (Invitrogen, Carlsbad, CA) 30μlで4℃ / 2時間のタンブリン

グによって洗浄した。Dynabeads protein Gをマグネティックキャプチャによって

取り除き、Rabbit anti-human EGFR polyclonal antibody (Cell Signaling Technology,

Beverly, MA) 50 μgを加え、2時間 / 4℃ / タンブリング・インキューベートした。

Dynabeads protein Gで,、Rabbit anti-human EGFR polyclonal antibody複合物を単離

26 し、冷却したTBSで4回洗浄し、1×ドデシル硫酸リチウム・バッファと2%メルカ

プトエタノールを加え、10分 / 100℃で溶出した。蛋白濃度をBradford法 (BioRad

Protein Assay, Bio-Rad, Hercules, CA) で測定し、Extract (20 μg protein/lane) はグラ

ディエントゲルにアプライし、定電流20mA / 90分で泳動した。泳動後、ゲルをポリビ

リニデンジフルオライドメンブレン (Immobilon polyvinylidene difluoride filter,

Millipore, Bedford, MA) にセミドライ法で転写した。室温で1時間ブロッキング (5% skim milk-PBS) を行い、Affinity-purified rabbit anti-human SPINK1 antibodyを500倍

希釈で反応させた。二次抗体として抗rabbit IgG抗体conjugated with horseradish peroxidase (Amersham Biosciences, Piscataway, NJ) で60分反応させ、ECL plus

Western blotting detection system (Amersham) と5分間反応させ、X線フィルムを感光

してシグナルを検出した。

2-4. 水晶マイクロバランス法 (quartz-crystal microbalance ; QCM) を用いた

2 分子間結合実験

SPINK1 と EGFR を含む ErbB ファミリーとの結合の有無を確認するために、水晶マイ

クロバランス法 (QCM 法) を使用した。 水晶マイクロバランス法とは、水晶振動子の

電極表面に物質が付着するとその質量に応じて共振周波数が変動する性質を利用し、

極めて微量な質量変化を計測することができる方法である。水晶発振子とは、水晶の

結晶を極めて薄い板状に切り出した切片の両側に金属薄膜を取り付けた構造をした

もので、それぞれの金属薄膜に交流電場を印加するとある一定の周波数(共鳴周波

数)で振動する性質を示す。金属薄膜上にナノグラム程度の物質が吸着すると物質の

質量に比例して共鳴周波数が減少するため微量天秤として利用することができ (図

6)、このような方法論は QCM と呼ばれている。

27 図 6

図 6 水晶マイクロバランス法の原理

今回の実験では、QCM 装置は AFFINIX Q (Initium Inc., Tokyo, Japan) を使用した。

水晶発振子センサーの金属薄膜上に recombinant human SPINK1 (0.1 μg/μl: volume

8 μl)、recombinant human EGF (Peprotech EC, London, UK) (0.1 μg/μl: volume 8 μl)、 recombinant human neuregulin-1 (NRG-1; ProSpec-Tany TecnoGene Ltd, Rehovot,

Israel) (0.1 μg/μl: volume 8 μl) をそれぞれ湿潤乾燥法で固相化し、PBS 8 ml / pH

7.0 / 25℃中で振動数が平衡化するまで静置した。EGF は EGFR のリガンドとして、

NRG-1 は HER3、HER4 のリガンドとして知られているタンパクである。PBS 溶液での

27MHz-QCM 振動数の安定性は、25℃ / 12 時間で±5Hz であった。EGFR、HER2、

HER3、HER4 細胞外ドメイン・ヒト IgG-Fc 融合タンパクは、愛媛大学大学院医学系研

究科 システムバイオロジー部門 分子ネットワーク解析学講座 生化学・分子遺伝学

分野 東山 繁樹教授より譲渡していただいた(41)。金属薄膜表面とヒト IgG-Fc 鎖のブ

ロッキング剤として Block Ace と Protein G を使用した。EGFR、HER2、HER3、HER4 細

胞外ドメイン・ヒト IgG-Fc 融合タンパク (0.1 μg/ml: volume 80 μl) を平衡化した水晶発

振子センサーが浸かった PBS 内に静かに添加し、センサーの振動数の変化を計測し

た。

28 2-5. EGFR とその下流のシグナル伝達分子のリン酸化解析

セミコンフルエントな状態で24時間飢餓としたAsPC-1とMIAPaCa-2細胞株に、FBS

フリーなDMEMにrecombinant human EGF(100pg/ml、1ng/ml、10ng/ml、100ng/ml)また

はrecombinant human SPINK1(1ng/ml、10ng/ml)を加えた培地で、10分間 / 37℃ / 5%

CO2で培養した。EGFまたはSPINK1刺激後すぐに、細胞は氷冷TBSで3回洗浄し、

細胞溶解バッファー (50 mM Tris-HCl, pH 7.4, 150 mM NaCl, 1% SDS, 7M urea,

2M thiourea, 1× protease inhibitor mixture [1:100 dilution], 1×phosphatase inhibitor mixture [1:100 dilution] )1 mlで溶解し、5分間 / 15,000rpmで遠心した。上清の蛋

白濃度をBradford法で測定した。2×ドデシル硫酸リチウム・バッファと2%メルカ

プトエタノールを等量加え、5分間 / 96℃でインキュベートし、Extract (20 μg protein/lane) をポリアクリルアミドゲルにアプライし、定電流20mA / 90分で泳動した。

泳動後、ゲルをポリビリニデンジフルオライドメンブレンにセミドライ法で転写した。

室温で1時間ブロッキング (5% skim milk-TBS) を行い、一次抗体をオーバーナイト

で反応させた。使用した一次抗体と希釈率は、

Rabbit anti-human EGFR polyclonal antibody (1:1000 dilution)、 rabbit anti-phosphorylated human EGFR (Tyr1173) monoclonal antibody (1:500 dilution)、 rabbit anti-human extracellular signal-regulated kinase 1/2 (ERK1/2) monoclonal antibody (1:1000 dilution)、 rabbit anti-phosphorylated human ERK1/2 monoclonal antibody (1:500 dilution)、 rabbit anti-human STAT3 polyclonal antibody (1:1000 dilution)、 rabbit anti-phosphorylated human STAT3 (Tyr705) polyclonal antibody (1:500 dilution)、 rabbit anti-human AKT polyclonal antibody (1:1000 dilution)、

29 rabbit anti-phosphorylated human AKT (Tyr308) monoclonal antibody (1:500 dilution)

である。上記の一次抗体は Cell Signaling Technology (Beverly, MA)より購入した。二

次抗体として抗rabbit IgG抗体 conjugated with horseradish peroxidaseで60分反応さ

せ、ECL plus Western blotting detection system (Amersham) と5分間反応させ、X線フ

ィルムを感光してシグナルを検出した。

2-6. 細胞増殖阻害実験

AsPC-1 細胞株を 4×105 / ml で 6-well dish にまき、DMEM に 10% FBS、100 U/ml penicillin、100 μg/ml streptomycin を添加した培地で培養し、24 時間後に培地を

FBS フリーの DMEM 培地に変え、24 時間の飢餓状態とした。EGF、SPINK1 を

添加する 30 分前に、EGFR とそれぞれのカスケードの阻害剤を加える群と加え

ない群とコントロール群(FBS フリーの DMEM 培地のみ)に分けた。4 つの特

異的阻害剤は以下の通りである。

AG1478 (250 nM / EGFR inhibitor ; Invitrogen)

AG490 (100 μM / JAK inhibitor ; Invitrogen)

LY294002 (50 μM / PI3 kinase inhibitor ; Cell Signaling Technology)

U0126 (25 μM / MEK inhibitor ; Cell Signaling Technology)

その後、それぞれの細胞は FBS フリー(コントロール)と、FBS フリーに EGF

(10 ng/ml)、SPINK1(10 ng/ml)を添加した DMEM 培地で、37℃ / 5% CO2 の

管理下でインキューベートした。その後、トリプシン処理し、細胞数を計測し

30 た。細胞数計測にはヘモサイトメーター (Erma, Tokyo, Japan) を使用した。コン

トロールを 100 %とし、それぞれの群の比率を算出した。それぞれの阻害剤の効

果は、ウェスタンブロッティングで EGFR とそれぞれのカスケード分子のリン

酸化で確認した。

2-7. 免疫組織化学的解析

外科的切除を行った症例より得られたパラフィン切片をキシレンにて脱パラフィンを行

い、3%H2O2 加エタノールにて 5 分間処理を行い、内因性ペルオキシダーゼを阻止し

た。PBS にて 5 分間 3 回洗浄し、BSA にて 30 分間ブロッキングを行った後、

Affinity-purified rabbit anti-human SPINK1 antibody (1:200 dilution) (40)、Rabbit anti-human EGFR polyclonal antibody (1:200 dilution) にてオーバーナイトで一次抗

体処理を行った。その後、PBS で 5 分間 3 回洗浄し、二次抗体としてビオチン化 anti-rabbit immunogloblin を 45 分間反応させ、VECTASTATIN ABC Kit (Vector

Laboratories, Burlingame, CA) を用いて 30 分間反応させた。ペルオキシダーゼ活性

は DAB (diaminobenzidine)にて検出した。更にヘマトキシリンにてカウンターステイン

を行い、カバーグラスをかぶせて鏡検した。

PanIN病変は,主病変から充分に離れた部位で,主病変とは連続性がないことを確

認して120病変を選び出した。PanIN病変の判定基準はHrubanらの基準 (表 5) (2)を

用いた。

31 2-8. 統計学的解析

全てのデータは平均値±標準誤差(SE)として表し、有意差は分散分析 (ANOVA)、

Student's t test で測定した。p < 0.05 の場合に統計学的に有意差があると判定した。

32 第三章 実験結果

3-1. SPINK1 添加時の細胞増殖実験

SPINK1 が EGF のような細胞増殖促進活性を持つかどうかを確認するために、5 種

類の癌細胞株(AsPC-1 、 MIAPaCa-2 、 PANC-1 、 Capan-2 、 BT-474 )と NIH3T3 fibroblast を用いて細胞増殖実験を施行した。AsPC-1、MIAPaCa-2、PANC-1 、

Capan-2 は膵癌細胞株、BT-474 は乳癌細胞株である。それぞれの細胞株に EGF(100 pg/ml、1 ng/ml、10 ng/ml、100 ng/ml)または SPINK1(1 ng/ml、10 ng/ml)を添加した。

NIH3T3 fibroblast には上記に加えてアプロチニン(1 ng/ml、10 ng/ml)を添加した。図

7 に各種細胞株ごとのグラフを示す。EGF を添加することにより、NIH3T3 fibroblast と

PANC-1 は 100 pg/ml から 10 ng/ml の範囲で、AsPC-1、Capan-2、BT-474 は 100 pg/ml から 100 ng/ml の範囲で、MIAPaCa-2 では 1 ng/ml から 100 ng/ml の範囲

で用量依存的に細胞増殖が確認された。SPINK1 を添加することにより BT-747 以外の

細胞株全てが、コントロールと比較して有意差をもって用量依存的に細胞増殖を示し

た。しかしながら、アプロチニン (BPTI) はNIH3T3 fibroblastの増殖を促進しなかった。

このことより、SPINK1 は様々な細胞株、特に膵癌細胞株において細胞増殖促進活性

を示すことが確認できた。

33 図 7 Cell line : NIH 3T3 fibroblast

図 7 EGF、SPINK1 添加後 48 時間の NIH 3T3 fibroblast の顕微鏡写真と、 各種細胞株での細胞増殖実験のグラフ 上部写真は、NIH fibroblast に EGF 10 ng/ml、SPINK1 10ng / ml 添加後 48 時間の顕微鏡写真である。EGF、 SPINK1 添加群は明らかに細胞数が増殖している。 下図は、各種細胞株での EGF、SPINK1 添加後の細胞数をグラフ化したものである。各種細胞株とも EGF 添加と 同様に SPINK1 添加でもコントロールと比較して有意差を持って細胞増殖を確認できた。NIH3T3 fibroblast につい てはアプロチニン (BPTI) も添加しているが、アプロチニンでは細胞増殖は確認できない。 ** p > 0.01 * p > 0.05 (n = 5)

34 3-2. 免疫沈降ウェスタンブロッティングによる SPINK1 と EGFR の結合確認実験

SPINK1 タンパクで刺激した AsPC-1 細胞株と MiaPaCa-2 細胞株のライセート

を用いて、抗 EGFR 抗体で免疫沈降を行い、抗 SPINK1 抗体でウェスタンブロ

ッティングを行った。図 8 に示す通り、SPINK1 添加群において抗 EGFR 抗体

複合物に SPINK1 タンパクと同じ高さのバンドが検出され、コントロール群では

バンドが検出されなかった。

図 8

図 8 免疫沈降ウェスタンブロッティング SPINK1 添加群において抗 EGFR 抗体複合物に SPINK1 タンパク (Positive control) と同じ高さのバンドが検出さ れ、コントロール群ではバンドが検出されなかった。

35 3-3. QCM 法を用いた SPINK1 と EGFR を含む ErbB ファミリーの結合実験

ErbB ファミリーとして EGFR、HER2、HER3、HER4 と SPINK1 との結合の有無を確

認する実験を行った。この方法では、センサーに固相化したものと後から添加するもの

との分子間相互作用、すなわち結合を振動数 (Hz) の減少として定量的にモニター

することができる。本実験ではセンサーに EGF、SPINK1、NRG-1 を固相化し、後から

添加するものを EGFR、HER2、HER3、HER4 細胞外ドメイン・ヒト IgG-Fc 融合タンパク

とした。図 9A~D のグラフは、縦軸にセンサーの振動数の変化 (Hz)、横軸に時間

(min) を表している。図 9A は EGFR 細胞外ドメイン・ヒト IgG-Fc 融合タンパクとの分

子間相互作用を見ている。EGF は EGFR 細胞外ドメイン・ヒト IgG-Fc 融合タンパクと結

合し、その振動数の変化は 421.8 Hz であった。一方、NRG-1 と EGFR 細胞外ドメイ

ン・ヒト IgG-Fc 融合タンパクは結合しなかった。SPINK1 は EGFR 細胞外ドメイン・ヒト

IgG-Fc 融合タンパクと結合し、その振動数の変化は 244.3 Hz で、EGF と比較すると

約半分の結合力であった。図 9B は HER2 細胞外ドメイン・ヒト IgG-Fc 融合タンパクと

の結合を見ているが、いずれのタンパクも HER2 とは結合しなかった。図 9C,D は

HER3、HER4 細胞外ドメイン・ヒト IgG-Fc 融合タンパクとの分子間相互作用を見ている

が、EGF と SPINK1 は HER3 と HER4 とは結合せず、NRG-1 はそれぞれ 235.4 Hz、

112.5 Hz の振動数変化を示した。HER3、HER4 は NRG-1 と結合することを確認でき、

HER3 と NRG-1 との結合力は HER4 と NRG-1 との結合力の約 2 倍であった。

36 図 9

図 9 水晶体マイクロバランス法を用いた SPINK1 と ErbB ファミリーとの結合実験 A: EGFR 細胞外ドメイン・ヒト IgG 融合タンパクを用いた QCM 解析。SPINK1 を固相化したセンサーの振動数の減 少 (224.3 Hz) は、EGF を固相化したセンサー (421.8 Hz) での約半分であった。 B: HER2 細胞外ドメイン・ヒト IgG 融合タンパクを用いた QCM 解析。振動数の減少はいずれのセンサーでも観察 されなかった。 C: HER3 細胞外ドメイン・ヒト IgG 融合タンパクを用いた QCM 解析。振動数の減少は、NRG-1 を固相化したセン サーでのみ観察された(235.4 Hz)。 D: HER4 細胞外ドメイン・ヒト IgG 融合タンパクを用いた QCM 解析。振動数の減少は、NRG1 センサーでのみ観 察された(112.5 Hz)。

37 3-4. SPINK1 刺激による EGFR のリン酸化の解析

SPINK1 が EGFR をリン酸化するかをウエスタンブロット法で解析した。用いた細胞

株は AsPC-1 と MIAPaCa-2 である。EGF (100 pg/ml、1 ng/ml、10 ng/ml、100 ng/ml)

と SPINK1 (1 ng/ml、10 ng/ml) のそれぞれの用量での刺激により、コントロールと比

較して EGF 刺激と同様に SPINK1 刺激によっても EGFR はリン酸化された (図 10)。

AsPC-1 細胞株は、EGF 100 pg/ml から 100 ng/ml の範囲で用量依存的に EGFR のリ

ン酸化のバンドが強くなっていた。SPINK1 はそれほどはっきりした用量によるバンドの

変化は認められなかった。MIAPaCa-2 細胞株は、EGF 100 pg/ml ではコントロールと

ほとんど変わらず、10 ng/ml から 100 ng/ml の範囲で用量依存的に EGFR のリン酸化

のバンドが強くなっていた。SPINK1 は 1 ng/ml から 10 ng/ml の範囲で用量依存的に

バンドが強くなっていた。EGFR リン酸化のバンドの強度は、SPINK1 刺激より EGF 刺

激のほうが強かった。

図 10

38 図 10 EGF、SPINK1 刺激時の EGFR のリン酸化 AsPC-1 細胞株と MIAPaCa-2 細胞株に EGF(100 pg/ml、1 ng/ml、10 ng/ml、100 ng/ml)もしくは SPINK1(1 ng/ml、 10 ng/ml)で刺激し、EGFR のリン酸化を見た。いずれの細胞株においてもコントロール (Serum Free)と比較して、 EGF 刺激と同様に SPINK1 刺激により EGFR がリン酸化された。

3-5. SPINK1 刺激による EGFR の下流のカスケード分子のリン酸化・活性化の解析

次に EGFR のシグナル伝達経路のリン酸化を検討した。EGFR 下流のシグナル伝

達経路として、JAK/STAT 経路の STAT3、PI3K/AKT 経路の AKT、RAS/RAF/MAPK

経路の ERK1/2 と GTP-RAS の 4 つの分子について検討した。用いた細胞株は

AsPC-1 と MIAPaCa-2 である。EGF (100 pg/ml、1 ng/ml、10 ng/ml、100 ng/ml) と

SPINK1 (1 ng/ml、10 ng/ml) のそれぞれの用量で刺激し、STAT3、AKT、ERK1/2 の

リン酸化と GTP-RAS を調査した (図 11)。AsPC-1 細胞株では、STAT3 と ERK1/2 のリ

ン酸化と GTP-RAS は EGF 100 pg/ml から 100 ng/ml の範囲で用量依存的にバンド

が強くなっており、AKT のリン酸化は用量依存的ではないもののコントロールと比較し

て pAKT のバンドが強く検出された。SPINK1 で刺激すると、STAT3 と AKT のリン酸化

はコントロールと比較して用量依存的にバンドが強く出ており、ERK1/2 のリン酸化と

GTP-RAS はコントロールと比較して強くバンドが検出できたものの、用量依存的な変

化は求められなかった。MIAPaCa-2 細胞株では、STAT3、AKT と ERK1/2 のリン酸化

と GTP-RAS は EGF 100 pg/ml から 100 ng/ml の範囲で用量依存的にバンドが強く出

ており、SPINK1 での刺激でも、STAT3、AKT と ERK1/2 のリン酸化と GTP-RAS はコン

トロールと比較して用量依存的にバンドが強く出ていることが確認された。以上の結果

より、SPINK1 刺激により、EGFR のリン酸化、またその下流の細胞増殖に関わるカスケ

ードの活性化を確認することができた。

39 図 11

図 11 SPINK1 刺激による EGFR の下流のカスケード分子のリン酸化 AsPC-1 細胞株と MIAPaCa-2 細胞株に EGF(100 pg/ml、1 ng/ml、10 ng/ml、100 ng/ml)もしくは SPINK1(1 ng/ml、 10 ng/ml)で刺激し、EGFR の下流のカスケードのリン酸化と GTP-RAS を見た。SPINK1 での刺激により、STAT3、 AKT と ERK1/2 のリン酸化と GTP-RAS はコントロールと比較してバンドが強く出ていることが確認された。SPINK1 刺激により、EGFR の下流の細胞増殖に関わるカスケードが活性化されていた。

40 3-6. SPINK1 添加時の EGFR 下流の細胞増殖に関わるカスケードの阻害実験

上記の実験により、EGF もしくは SPINK1 の刺激により JAK/STAT 経路、PI3K/AKT

経路、RAS/RAF/MAPK 経路が活性化されることを確認した。次に、これら 3 つのどの

経路が実際に EGF もしくは SPINK1 の刺激による細胞増殖に関係しているかについ

て明らかにするため、AsPC-1 細胞株の増殖に関して、それぞれの阻害剤の影響を解

析した。使用した阻害剤は、AG1478 (EGFR inhibitor)、AG490 (JAK inhibitor)、

LY294002 (PI3 kinase inhibitor)、U0126 (MEK inhibitor)である。 EGF または

SPINK1 により AsPC-1 細胞株を刺激すると、コントロールと比較して細胞数は

約 2~3 倍に増殖した (図 12A~D)。しかしながら、EGF または SPINK1 による増

殖促進は、AG1478 (EGFR inhibitor)の添加によって完全に抑制された (図 12A)。

LY294002 (PI3 kinase inhibitor) または AG490 (JAK inhibitor) を添加して

PI3K/AKT 経路もしくは JAK/STAT 経路を阻害した場合、細胞数は阻害剤がない場

合より低い傾向にあったが、統計学的な有意差までは得られなかった (図 12B,

C)。これらとは対照的に、U0126 (MEK inhibitor)の添加により、EGF または

SPINK1 による細胞増殖をほぼ完全に抑制した (図 12D)。

これらの結果は、EGF と同様に SPINK1 が EGFR に結合することを強く示唆

し、主に MAPK(RAS/RAF/MEK/ERK)カスケードを通して、細胞増殖を促進

することを示すものである。

41 図 12

図 12 SPINK1 添加時の EGFR とその下流のカスケードの阻害実験

A: EGF または SPINK1 による増殖促進は AG1478 (EGFR inhibitor)の添加によって完全に抑制された。 B: LY294002 (PI3 kinase inhibitor)を添加して PI3K/AKT 経路を阻害した場合、細胞数は阻害剤がない場合より 低い傾向にあったが、統計学的な有意差までは得られなかった。 C: AG490 (JAK inhibitor)を添加して JAK/STAT 経路を阻害した場合、細胞数は阻害剤がない場合より低い傾向 にあったが、統計学的な有意差までは得られなかった。 D: U0126 (MEK inhibitor)の添加により、EGF または SPINK1 による細胞増殖をほぼ完全に抑制した。 EGF と同様に SPINK1 が EGFR に結合することを強く示唆し、主に MAPK(RAS/RAF/MEK/ERK)カスケードを通し て細胞増殖を促進することを示す。

42 3-7. ヒト正常膵とヒト膵腫瘍組織における SPINK1 と EGFR の発現

SPINK1 が EGFR に結合するということは、SPINK1 は EGFR を介して膵癌細

胞の成長因子として作用するかもしれない。この可能性を検証するために、

SPINK1 が EGFR で共発現しているかどうかをヒト正常膵組織、23 例の膵管状

腺癌組織の免疫組織染色を行うことで調査した (図 13)。H & E 染色で正常組織

を観察すると、大部分は腺房細胞でその他に膵管を構成する膵管上皮細胞と内

分泌をつかさどる島組織 (図 13A 点線で囲まれている部分) を確認できた。正

常膵組織において SPINK1 の発現は腺房細胞のみに染色され、膵管上皮細胞や島

組織は染色されなかった (図 13B)。EGFR は正常膵組織では染色を認めなかっ

た (図 13C)。正常膵管では SPINK1 と EGFR の発現は認められなかった。図

13D~I は膵管状腺癌 中分化型腺癌の組織だが、SPINK1 の発現は腺房細胞以外

に異常に増殖した腺管構造に強く染色されていた。EGFR の発現も同様に異常に

増殖した腺管構造に強く染色され、SPINK1 と EGFR が同部位に強発現しており、

23 例中 20 例の膵管状腺癌に関して SPINK1 と EGFR の共発現が確認できた。

他の組織型に関して SPINK1 発現があるかどうかを免疫組織染色にて確認し

た。症例は膵管状腺癌のほかに、膵粘液性嚢胞腺癌、膵腺房細胞癌、退形成性

膵管癌、腺扁平上皮癌、島細胞癌、内分泌腫瘍 (インスリノーマ)、膵管内乳頭

粘液性腺腫 (intraductal papillary-mucinous adenoma : IPMA)、膵管内乳頭粘液性腺

癌(intraductal papillary-mucinous carcinoma : IPMC)、慢性膵炎で SPINK1 と EGFR

の免疫組織染色を施行した。それぞれの症例数は少ないものの、表 6 に示す通

り、腺房細胞以外で SPINK1 染色が確認されたのは、膵管状腺癌、膵粘液性嚢胞

腺癌、IPMA、IPMC であった。膵炎で染色が確認できたのは PanIN 病変を伴っ

ているものであった。図 14 は SPINK1 発現陰性症例である。図 14A~F は膵腺房

43 細胞癌の H.E.染色と免疫染色写真であるが、正常な腺房細胞では SPINK1 の発

現は確認されるが、癌細胞では全く SPINK1 の発現は認められず (図 14B,E)、

EGFR は反対に癌細胞でのみ発現していた (図 14C,F)。図 14G~L は内分泌腫瘍

であるインスリノーマの H.E.染色と免疫染色写真である。正常な腺房細胞では

SPINK1 の発現は確認されるが、腫瘍細胞では全く SPINK1 の発現は認められず

(図 14H,K)、EGFR の発現も認められなかった (図 14I,L)。図 14M~R は慢性膵炎

の H.E.染色と免疫染色写真である。正常な腺房細胞でのみ SPINK1 の発現は確

認され、(図 14N)、EGFR の発現は認められなかった (図 14O)。図 14P は慢性膵

炎後の再生時に認められる tubular complex である。この tubular complex では

SPINK1 の発現は認められず(図 14Q)、EGFR が発現していた(図 14R)。図 15 は

IPMN の免疫染色写真である。表 6 に示すように、IPMN は全例 SPINK1 を発現

しており、EGFR は 47.6% (10 / 21) の症例で発現を認め、IPMC の症例で EGFR

の発現が多い傾向にあった。

表 6 膵腫瘍組織型分類別と膵炎での SPINK1 の発現

44 図 13

図 13 ヒト正常膵組織とヒト膵臓管状腺癌組織における SPINK1 と EGFR の 免疫組織染色 A:正常膵組織の H&E 染色。点線に囲まれている領域は、島組織を示す。 B:正常膵組織の SPINK1 染色。腺房細胞でのみ SPINK1 発現を示し、膵島組織と正常膵管では染色されない。 C:正常膵組織の EGFR 染色。正常膵組織では EGFR は殆ど発現していない。 D, G:膵管状腺癌組織の H&E 染色。(図 Dの実線で囲まれた領域の拡大写真が図 G)。 E, H:膵管状腺癌組織の SPINK1 染色。SPINK1 の発現は腺房細胞以外に異常に増殖した腺管構造に強く染色さ れている。(図 Eの実線で囲まれた領域の拡大写真が図 H)。 F, I:膵管状腺癌組織の EGFR 染色。EGFR の発現は異常に増殖した腺管構造に強く染色されている。 (図 Fの実線で囲まれた領域の拡大写真が図 I)。

45 図14

46 図 14 SPINK1 発現陰性症例の免疫組織染色写真 A, D:膵腺房細胞癌の H.E.染色写真。 B, E:膵腺房細胞癌の SPINK1 免疫染色写真。正常腺房細胞に染色は確認できるが、癌細胞では染色されない。 C, F:膵腺房細胞癌の EGFR 免疫染色写真。SPINK1 染色とは対照的に、正常腺房細胞では染色を認めず、癌細 胞で強く染色されている。 G, J:インスリノーマの H.E.染色写真。 H, K:インスリノーマの SPINK1 免疫染色写真。正常腺房細胞に染色は確認できるが、癌細胞では染色されない。 I, L:インスリノーマの EGFR 免疫染色写真。正常腺房細胞、癌細胞共に染色を認めない。 M, P:慢性膵炎の H.E.染色写真。 N, Q:慢性膵炎の SPINK1 免疫染色写真。正常腺房細胞に染色は確認できる。 O, R:慢性膵炎の EGFR 免疫染色写真。

図 15

図 15 IPMN 症例の免疫組織染色写真 A:IPMA の H.E.染色写真。 B:IPMA の SPINK1 免疫染色写真。 C:IPMA の EGFR 免疫染色写真。染色は認められない。 D:IPMC の H.E.染色写真。 E:IPMC の SPINK1 免疫染色写真。 F:IPMC の EGFR 免疫染色写真。

47

3-8. PanIN における SPINK1 と EGFR の発現 次に、膵癌の前癌病変の一つと考えられている膵上皮内腫瘍性病変 (PanIN) に

おけるSPINK1とEGFRの発現をHrubanらの分類基準に基づいた (2) ステージごと

に免疫組織染色を施行した。PanIN病変は,主病変から充分に離れた部位で,主病

変とは連続性がないことを確認して22症例、120病変を選び出した。PanIN病変の判

定基準はHrubanらの基準 (2) を用いた (表 5)。

表7は120病変の内訳である。PanIN-1Aが65病変、PanIN-1Bが32病変、PanIN-2が

17病変、PanIN-3が6病変であった。表に示す通り、120病変全てがSPINK1を発現し

ており、また、EGFRに関しては95%の割合で発現を示した。

図 15AはPanIN-1AのH&E染色写真である。PanIN-1Aの部分は、ほぼ平坦な構

造で高円柱上皮細胞が内腔を覆い、正常部分と思われる腺管細胞との境界が認め

られる。図 15B, Eはヒト抗SPINK1抗体での免疫組織染色写真である。SPINK1タン

パクはPanIN-1Aの部分に発現し、SPINK1染色では正常部と思われる領域との境界

部がはっきりと確認できる (図 15E:矢印で境界部を示す)。一方、EGFRタンパクは

正常と思われる部分とPanIN-1Aの部分の両方で発現していた (図 15C, F)。

図 15GはPanIN-1BのH&E染色写真で、病変部は円柱上皮細胞で覆われる低乳

頭状の構造を示し、核は球形から卵円形で核の異型はない。PanIN-1BでもSPINK1

の発現が認められ、特に粘液性の細胞質に発現していた (図 15H)。EGFRも発現

を確認したが、その発現部位は粘液性の細胞質でない部位に強く発現していた

(図 15I)。

図 15JはPanIN-2のH&E染色写真で、異型を持つ円柱上皮が、平坦ないし乳頭

状の構造を示し、長く延長した核が認められた。SPINK1とEGFRは共に発現を認め、

EGFRは粘液性の細胞質には発現していなかった (図 15K, L)。

図 14MはPanIN-3のH&E染色写真で、著明な異型を示す円柱ないし立方上皮

48 が低乳頭状から乳頭状構造を示し、核の極性は消失していた。SPINK1とEGFRは

共に発現を認め、発現部位はほぼ一致していた (図 15N, O)。

PanIN症例120病変全てでSPINK1発現を認め、114病変でEGFRの発現を認めた。

SPINK1は癌発症の初期の段階であるPanIN領域でも発現し、膵癌の進展だけでな

く発症にも関与している可能性が示唆された。一方、EGFRはPanINとなるその前段

階の正常と思われる膵管上皮細胞にも発現を示し、発癌早期に関係している可能

性が示唆された。

表7 PanINにおけるSPINK1とEGFRの発現

49 図 15

50 図 15 膵上皮内腫瘍性病変 (PanIN) における SPINK1 と EGFR の免疫組織染色

A-F:PanIN-1A の H&E 染色と SPINK1 と EGFR の免疫染色写真。SPINK1 タンパクは PanIN-1A の部分に発現し、 正常部と思われる領域との境界部がはっきりと確認できる。一方、EGFR タンパクは正常と思われる部分と PanIN-1A の部分の両方で発現していた。(図 A, B, C の実線で囲まれた領域の拡大写真はそれぞれ図 D, E, F。図 E の矢印は、正常膵管と思われる部分と PanIN-1A の境界部を示す) G-I:PanIN-1BのH&E染色とSPINK1とEGFRの免疫染色写真。SPINK1の発現が認められ、特に粘液性の細胞質に 発現している。EGFRも発現を確認したが、その発現部位は粘液性の細胞質でない部位に強く発現している。 J-L:PanIN-2 の H&E 染色と SPINK1 と EGFR の免疫染色写真。SPINK1 と EGFR は共に発現を認め、EGFR は粘 液性の細胞質には発現していない。 M-O:PanIN-3 の H&E 染色と SPINK1 と EGFR の免疫染色写真。SPINK1 と EGFR は共に発現を認め、発現部位 はほぼ一致している。

51 第四章 考察

本研究の目的は、膵癌における SPINK1 タンパクの働きとその作用機序を明らかに

することである。今回、細胞増殖促進活性に焦点を絞り、特に EGFR との関わりを中心

に研究を行った。

まず、はじめにSPINK1 タンパクの細胞増殖促進活性の有無の調査を行った。結果

にも示したように、5 種類の癌細胞株 (AsPC-1、MIAPaCa-2、PANC-1、Capan-2、

BT-474) と NIH3T3 fibroblast において、EGF タンパクほどではないがコントロールと比

較して有意差を持って細胞増殖が確認できた。SPINK1 の細胞増殖促進活性は以前

より報告があり(30, 32, 33)、今回の実験で改めて確認することができた。また、BT-474

は乳癌の細胞株であり、SPINK1 は膵臓だけではなく様々な臓器で発現が確認されて

いる(12-14)ことより、膵癌に限らず他の癌種においても SPINK1 は細胞増殖促進活性

を示す可能性が示唆された。

SPINK1 と EGF との類似性や (38, 39)、膵癌では EGFR が強発現していて、自己分

泌型の EGF ファミリーの刺激が膵癌細胞の増殖や進展に深く関与しているという多く

の報告 (42-47) と SPINK1 が細胞増殖促進活性を持つという結果より、SPINK1 が

EGFR のリガンドのひとつであり、膵癌において細胞増殖促進活性を示すという仮説を

立てて本研究を進めていった。

EGFR と SPINK1 との結合の有無を明らかにするため、免疫沈降ウェスタンブロッテ

ィングを施行した。結果に示したように抗 EGFR 抗体で免疫沈降したタンパク、すなわ

ち EGFR と結合している、もしくは複合体を形成しているタンパクを選別してウェスタン

ブロッティングし、SPINK1 のバンドを確認することができた。しかしながら、この実験系

52 の場合、EGFR と SPINK1 との間の介在物を否定することはできず、完全に SPINK1 と

EGFR との直接的な結合を明らかにすることはできていない。

SPINK1 に対するレセプターの同定は、以前より議論されている問題である。

Marchbank らは、腸管の粘膜の修復に SPINK1 投与が有効であり、それは EGFR が働

かない状態では作用しないと述べているが、SPINK1 と EGFR は直接結合しないだろう

と推測している (15)。また、Niinobu らは SPINK1 が細胞表面に結合することは確認で

きたが、それは EGFR とは異なっているのではないかと述べている (28)。一方、

Fukuoka らは、SPINK1 が NIH3T3 fibroblast の EGFR と結合し、EGF と競合すると報

告している (48)。

この疑問を明らかにするためには SPINK1 と EGFR の 2 分子間のみの状態での結

合実験を行う必要がある。この問題を解決するために水晶体マイクロバランス法

(QCM 法) を用いた結合実験を施行した。結果に示す通り、SPINK1 は EGFR を除く

他の ErbB ファミリーとは結合は示さなかったが、EGFR と結合することが確認できた。

しかし、EGFR と SPINK1 との結合力は EGFR と EGF との結合力の約半分であった。

このことは EGF と SPINK1 が共通点は多いもののまったく同一ではなく、また、EGF フ

ァミリーで保存されている領域とすべて一致しない点が関係しているかもしれない。ま

た、EGF ファミリーと EGFR が結合するサイトと、SPINK1 と EGFR が結合するサイトが

同一サイトであるかどうかの検証を行うためには、SPINK1 と EGF の競合実験を行わな

ければならない。以前の報告で SPINK1 は NIH3T3 fibroblast の EGFR と結合し、EGF

と競合することを[125I]-EGF を用いたいわゆる Hot&Cold の実験で示しているが (48)、

今回 QCM 法では競合実験までは施行できず、今後の課題といえる。

EGFRと SPINK1 が結合することの裏付けとして、EGFR のリン酸化を確認した。確か

に SPINK1 で刺激することにより、EGFR はリン酸化されることをウェスタンブロッティン

53 グで明らかにすることができた。しかし、EGF 刺激でのリン酸化 EGFR のウェスタンブロ

ッティングのバンドと比較すると若干バンドが弱く、細胞増殖実験で SPINK1 刺激が

EGF 刺激と比べて細胞増加数が少ないこと、QCM 法で行った結合実験での結合力

が EGF と EGFR の結合力の約半分であることと一致する。しかし、正常膵では EGF は

殆ど発現しておらず、膵癌においては 10%程度しか発現していない (42)。膵癌にお

いて EGF ファミリーで強く関与しているといわれているのは transforming growth factor alpha (TGF-alpha) である (42)。TGF-alpha との比較は今回行っていないが、正常膵

では SPINK1 は豊富に存在しており、少なくとも膵癌においては EGF より EGFR のリ

ガンドとして強く関与していることが予想される。

もう一つの裏付けとしては、EGFR阻害剤を用いた膵癌細胞株の細胞増殖実験であ

る。EGF で刺激した細胞株も、SPINK1 で刺激した細胞株も EGFR 阻害剤を使用する

ことにより、明らかに細胞増殖が抑制された。このことからも SPINK1 は EGFR のリガン

ドの一つであるという強い証拠となった。

EGFR のリン酸化と同様に、細胞増殖に関わる EGFR の下流のカスケードのリン酸

化および活性化 (JAK/STAT 経路の STAT3 リン酸化、PI3K/AKT 経路の AKT リン

酸化、RAS/RAF/MAPK 経路の ERK1/2 リン酸化と GTP-RAS の 4 つの分子) をウェ

スタンブロッティングにて確認した。いずれのカスケードも SPINK1 で刺激することによ

りリン酸化または活性化され、EGFR を介して下流のカスケードにシグナルが伝達され、

細胞増殖が起こることが示された。JAK/STAT 経路、PI3K/AKT 経路、MAPK 経路を

それぞれ阻害剤にて阻害することで、いずれの経路を阻害しても細胞増殖は抑制さ

れたが、MAPK 経路を阻害することにより最も強く細胞増殖が抑制された。MAPK 経

路は細胞増殖と生存の主なカスケードであるといわれており (37)、SPINK1 の刺激に

よる細胞増殖促進活性は、MAPK 経路が主な経路であることが明らかとなった。

54 当教室で Ohmuraya らは、マウスにおいて Spink3 は腺房細胞の維持と再生に重要

な役割を持ち、発生の過程で、様々な種類の細胞の増殖および分化において重要な

役割を果たす可能性があると指摘している (16, 49)。同様にヒトにおいて SPINK1 も、

胚形成または膵炎後の再生間の成長因子として、または膵の外分泌機能の維持の為

の因子として機能しているかもしれない。このことからも SPINK1 が細胞増殖促進活性

を持つことは妥当であると考えられる。

実際、ヒト膵腫瘍組織による免疫組織化学的解析でも SPINK1 は強く発現しており、

45 症例で SPINK1 の発現を認めた。また、SPINK1 発現部位に一致して EGFR の発

現を認めており、膵癌において SPINK1 が癌増殖・進行の要因の一つであり、それが

EGFR を介して細胞増殖のシグナルが伝達されることを示唆する結果となった。面白

いことに SPINK1 の発現は前癌病変の一つと考えられる PanIN 病変でも認められ、早

期の段階から増殖や癌への進展に関わっていることが示唆される。

EGFR の発現に関しては、PanIN 病変に接して存在する PanIN になる前の正常と思

われる部分ですでに発現が確認でき、極めて早期の段階に EGFR が関与していること

が推測される。SPINK1 は膵腺房細胞で産生され、膵管内へと分泌される。した

がって、SPINK1 は EGFR を発現している腺管細胞を内腔側から細胞増殖を刺

激する可能性がある。この現象が形質変換の第一段階なのかもしれない。膵炎

症例では EGFR が発現している tubular complex が確認できた。このような場

合は、SPINK1 が内腔部分から炎症で障害を受けた細胞の再生・再構築などに

関与しているのかもしれない。EGFR を発現している腺管細胞が PanIN-1A に

形質転換されたとき、SPINK1 を自己分泌する能力を獲得し、オートクライン

刺激システムが形成される。これが、形質変換の第二段階である可能性がある。

このように、SPINK1 は EGFR を介して正常細胞の再生や膵内新生物の発生に

も関与している可能性がある。

55 また、IPMN に関しては、殆ど全ての症例で SPINK1 の発現が確認された。

しかし EGFR は、IPMA ではあまり発現がなく、IPMC で多く発現が確認され

た。このことは Teh らの報告と一致している(50, 51)。IPMN では EGFR の発

現が悪性化に関与していることが示唆され、SPINK1 が EGFR のリガンドの一

つとして細胞増殖に作用している可能性もある。

IPMN と PanIN は膵癌の2大発癌経路として近年注目されている。IPMN の初期

病変である IPMA、PanIN の初期病変である PanIN-1A のいずれにおいても、

SPINK1 の発現は高率(いずれも 100%)であったのに対して、EGFR の陽性率は、

IPMA では低く(2/11) 、 PanIN-1A では高く(61/65) 、対照的であった。

SPINK1-EGFR 増殖刺激系は、IPMN における発癌経路よりも、PanIN における発

癌経路により関与するものと考えられる。

膵管内には腺房細胞から分泌される SPINK1 が豊富に存在している。あくまで推

測の域を脱しないのだが、正常膵管細胞が何らかのイベントにより EGFR を発現するよ

うになり、膵管内腔に多く存在する SPINK1 がリガンドとなり、いわゆるパラクライン的に

作用し、異常な増殖を始める。そのうち異常増殖し、表現型を変えた細胞 (PanIN 病

変)が SPINK1 を発現する能力を獲得し、オートクライン的に作用し始め、自律的に増

殖を繰り返し癌へと進展するという仮説は考えられないだろうか。

世界中で毎年約 230,000 人の患者が膵癌に登録され (52)、その予後は非常に不

良であることは周知の事実である。約 10 年前に進行膵癌の標準治療としてゲムシタビ

ンが脚光を浴びたが (53)、それ以降、膵癌治療の大部分は有効な成績を収めること

ができなかった。近年、EGFR を標的とする分子標的治療薬が開発され、Erlotinib

(EGFR チロシンキナーゼ阻害剤)とゲムシタビンの併用化学療法は、ゲムシタビン単

独と比較し、統計学的に若干の survival benefit を示した (54)。しかし、その差はデー

56 タ上 13 日と必ずしも統計学的に有意差があっても臨床的に推奨されるデータではな

い。実際に米国臨床腫瘍学会 (ASCO) も erlotinib を標準薬としての推奨を見送って

いる。しかし、ここ 10 年でゲムシタビン単独の生存期間中央値を上回ったデータは殆

ど無いといっていい。

今回の研究で、SPINK1 が EGFR のリガンドの一つであることが明らかとなった。この

SPINK1 の腫瘍特異的な阻害剤等が、膵癌の新たな治療戦略の手掛かりとなってくれ

ればと期待しているが、それには更なる研究が必要である。

57 第六章 結語

本研究において

① SPINK1 には NIH 3T3 fibroblast や膵癌細胞株で細胞増殖促進活性がある。

② SPINK1 と EGFR は膵管状腺癌と PanIN 病変で共発現されている。

③ SPINK1 が EGFR のリガンドの一つとして作用することより、おそらくオートクリン、パ

ラクリン的に EGFR、主に MAPK カスケードを介して膵癌の細胞増殖を促進し、癌

の発育・進展に関与している。

を明らかにした。しかしながら更に詳しい機序の解明や、治療への応用については長

い道のりを要すると思われ、この分野における基礎研究をさらに進めていくことが肝要

である。

58 第七章 参考文献

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