〈研究ノート〉 スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ― A Study on ’s Party System: From Consociationalism to a Competitive Party System

亜細亜大学非常勤講師・上智大学非常勤講師 松本 八重子 Yaeko MATSUMOTO(Asia University/Sophia University)

Abstract: During decolonization, from 1958 to 1967, Suriname experienced consociational grand coalition governments, which were formed by the three ethnic groups: Creole, East Indian (Hindustani) and Javanese. After the turbulent times characterized by the military regime and the civil war in the 1980s, the fourth ethnic group, who were descendants of Maroons, became integrated into Suriname’s plural political system. Since the country’s democratization in 1988, Suriname’s party system has changed into a competitive system. This paper aims to systematically examine the historical changes in the party system of Suriname. After surveying previous studies conducted in this field, this study conceptualizes the categories “ethnic parties,” composed of the four major ethnic groups, and “non-ethnic parties,” composed of developmental, left-wing, and civic groups. Based on the analytical framework, this paper describes the historical development of Suriname party politics from the 1940s to the 2015 general election, and analyzes the formation and reorganization of party alliances after democratization. The results of analysis indicate that during the period between democratization and the 2015 election, Suriname’s party system satisfied the four lenient conditions for twopartism, in which the “governing alone” clause of twopartism was relaxed by G. Sartori himself. Therefore, it could be concluded that the New Front alliances̶ descended from the grand-coalition̶and the developmental National Democratic Party̶with its origins in the military regime̶played roles as the two major parties. Meanwhile, each Javanese party tended to seek its political orientation and interests separately, by shifting its allegiance one way or the other in the bipolar system.

はじめに

本研究の目的は、スリナムの政党システムが多極共存型システムから競合的政党シ

―69― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

ステムへ変化していった過程を体系的に明らかにすることである。独立前の 1958 年 から 1967 年まで、スリナムではレイプハルトの多極共存型民主主義がクレオール系、 インド系、ジャワ系政党により展開されていた。この時期のスリナム政治を、レイプ ハルトはオランダ統治時代の遺産としての多極共存型民主主義の事例として扱って いる。しかし 1975 年の独立後、政権は安定せず、1980 年代にスリナムは軍政と内戦 を経験した。民政移管後、同国の政党政治は民主主義の強化を目指す勢力(独立前に 大連合政権を構成していた勢力)と、開発主義の立場を取る勢力(旧軍事政権)との 間で競合的政党政治が展開されるようになった。そして本研究の課題は、民政移管後 のスリナムの政党システムがエスニック政党による大連合政治ではなく、二党制ルー ルに基づく競合的システムであることを論証することである。 本論全体の構成は、次のようなものである。第一に、先行研究をレイプハルトやサ ルトーリの比較政治学の分野と、スリナム政治の分野に分けて整理した上で、本研究 の理論的分析枠組みを設定する。第二に、スリナムの政党システムの歴史的変化を、 上記の理論的枠組みに基づき分析する。分析対象時期は脱植民地化期から 2015 年の 総選挙までとし、①脱植民地化から国民党連合政権期まで(1940 年代~ 1980 年 )、 ② 軍事政権期(1980 ~ 1988 年)、③民政移管から 2015 年 の 総 選 挙 ま で( 1988 ~ 2015 年 )、 の三つの時期に分けて論じる。尚、スリナムの軍事政権は主要政党の指導者も意思決 定に組み込む統治方法を模索しており、軍事政権期も分析期間に含めることにする。 最後に分析結果に基づき、民政移管後のスリナムの政党システムが、サルトーリが提 示した「単独政権条項を緩和した二党制ルール」の条件を満たしていることを検証する。

Ⅰ 理論的枠組みの設定 1 比較政治学分野の先行研究 (1)レイプハルトの多極共存型民主主義モデル レイプハルト(1979、原書の出版は 1977 年)は多元社会における民主主義の一つ のモデルとして、多極共存型民主主義を提起した。レイプハルトは「多極共存型民主 主義」の四つの要素を次のように定義している(レイプハルト 1979:43)。 ① 多元社会のあらゆる重大な区画の政治指導者たちの大連合(grand coalition) による統治(議院内閣制における大連立政権、大統領制におけるキャビネット などの大統領顧問団・重要な諮問機関などを想定している。) ② 重大な少数者の利益を守る追加手段として役立つ、相互拒否権ないし「全会一 致の多数決制」 ③政治的代表・官吏任命・公共の基金の配分の基本的基準としての比例制原理 ④各区画がその内部問題を管理するための高度な自律性

―70― このうち、第一の要素が最も重要な要素であり、他の三つは「基本的要素」であると レイプハルトは位置付けている。 レイプハルト(1979: 71-72)は、多極共存型民主主義と民主主義的安定との関係 について議論しており、その内容を次のように要約することができる。多極共存型モ デルでは、政府とそれを支える政治システムが一体となっているため、多くの有権者 が政府に不満を持った場合、民主主義体制自体が崩れる危険性がある。他方競合的民 主主義システムでは、政府に不満を持つ有権者が選挙により政権交代を実現し、民主 主義体制自体は維持されていく。そしてレイプハルトは 1960 年代末にオランダ政党 政治が多極共存型から競合型へ移行した例を取り上げ、「多極共存主義は比較的容易 に放棄できるのであって、その容易さが、民主主義体制の維持の可能性を大きくす る・・・。」と指摘している。そして、「こうした(多極共存型は政権交代を前提として いない点も含めた)弱点が次第に厄介だと思われるようになる場合、・・・、多極共存型 からより競合的な民主主義体制に移行することは、むずかしくはないのである。」と 言及している。 レイプハルトは多極共存型民主主義に適した政党システムとして、どのようなもの を想定しているのであろうか。レイプハルトは、多元社会において社会的亀裂は政党 の組織的な亀裂と重なっていると考えており(レイプハルト 1979:86)、従って、例 えば四つ以上のエスニック集団が社会的亀裂を形成する社会では、多党制が形成され ることになる。他方、二大政党制は多元社会よりむしろ、同質的社会に適したシステ ムであると捉えている(レイプハルト 1979: 88)。さらにレイプハルトは、「区画政党 を擁する多元社会では、穏健な多党制は――サルトーリの考え方にしたがえば――、 多極共存型デモクラシーにとってもっとも有利な条件を提出しているのである。」と 指摘している(レイプハルト 1979: 88)。 サルトーリは『現代政党学』(2000:296‐297、原著の出版は 1976 年)において、「穏 健な多党制の顕著な性質は連合政権である。」と論じており、「絶対多数を獲得してい る政党は一般に存在しない。」と指摘している。そして、西ドイツの大連合政権(1966 ~ 69)もこのシステムのもとに形成されたと論じている。さらに、穏健な多党制の 構造は二党制に似て二極構造であると分析しており、穏健な多党制の特徴として、「① レリヴァントな政党間のイデオロギー距離が比較的小さい、②二極化した連合政権 指向型政党配置、③求心的競合」、の 3 点を提起している(サルトーリ 2000:298 - 299)。このシステムでは「反体制政党が存在せず」、「すべての政党が・・・政権連合(に 参加する)準備ができた政党」であると論じている。以上により、「穏健な多党制」では、 多極共存型民主主義にとり最も重要な要素である「大連合」が成立する可能性がある と考えられるのである。 またレイプハルトは、多極共存型民主主義モデルは第一世界にも第三世界にも当て

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はまると考えており、第 6 章「植民地の遺産としての多極共存型の実例」の中で、ス リナムを多極共存型に近い連合内閣が成立した事例として扱っている 1(レイプハル ト 1979: 236-237; 249-250)。

(2)サルトーリの政党システム論 それでは、レイプハルト(1979: 72)が言及した「競合的な民主主義体制」とはど のようなものなのであろうか。次にサルトーリ(2000)の政党システム論を取り上げ、 競合的政党システムをどのように体系的に分類しているのか、を考察することにした い。サルトーリの政党システムに関する分類方法は、政党システムを競合的システム と非競合的システムにまず二分する。非競合的システムには「一党制」と「ヘゲモニー 政党制(ヘゲモニー政党が権力を掌握し続け、政権交代の可能性がないシステム)」 が属する。そして競合的システムには、「分極的多党制」、「穏健な多党制」、「二党制」、 「一党優位政党制」がある。このような政党数に着目した政党システムの分類方法を、 サルトーリは「フォーマット」と呼んでいる。さらに政党システムが内包する機能的 特性や、政党システムが政治システム全体の機能特性に与える影響を「メカニックス」 と呼び、政党システムをフォーマットとメカニックスの両面から特徴づけている(サ ルトーリ 2000: 223-224; 314-315)。サルトーリの分析枠組みでは、各国の政党システ ムは必ずしも恒久的に特定の分類カテゴリーに位置付けられるのではなく、歴史的に 変化していくものと捉えられている(サルトーリ 2000: 451-458; 465-482)。そのよう な変化は、フォーマットの領域でも起こりうるし、あるいは、メカニックスの領域に おいても起こりうると考えられる。 サルトーリ(2000: 311)は、「二党制の特徴となっている属性」とは「単一の政党 が単独で政権を担当すること」であり、「二党制のメカニックスの顕著な特徴は〈政 権の交代〉であると言い換えても同じである。」と論じている。有力な国家が競合的 政党システムのなかで「二党制」を採用しているため、中心的なモデルとして認識さ れているが、フォーマットの分類により二党制が成立する国の数は多くはないと指摘 している。(サルトーリ 2000: 309-310)。それに反して、政党システムが二党制のメ カニックスに基づき機能している国の数はもっと多くなる。フォーマットとメカニッ クスが一致しない政党システムをどのように理解すればよいか、という問題を解決す る上で、サルトーリ(2000: 314)が「単独政権条項を緩和した二党制ルール」と呼 ぶ分析概念が有効であると考えられる。 サルトーリは政党連合間でも二党制が機能する可能性を認めており、「二つの政党 が単なる連合の域を出て、一種の合同体になっている場合には、一党対二党という関 係で政権交代が行われても二党制下の政権交代と考える。」と論じている。政党連合 にも適用できる「緩和された二党制」の条件として、サルトーリが提起したのは、下

―72― 記の 4 つである(サルトーリ 2000:314)。 ①二つの政党(連合)が絶対多数議席の獲得を目指して競合している。 ②二党のうちどちらか一方が実際に議会内過半数勢力を獲得するのに成功する。 ③過半数を得た政党は進んで単独政権を形成しようとする。 ④政権交代が行われる確かな可能性がある。(必ずしも定期的交代ではない。) さらにサルトーリ(2000)は、「どのような空間で政党は競合しているのか」とい う問題も考察している。左右のイデオロギーに関する競合空間は重要な空間であり、 権威主義と民主主義との競合、国民統合と種族重視(分裂)との競合、あるいは宗教 と非宗教との競合などもこの左右競合空間の中で表現することができると考えてい る(サルトーリ 2000 :552-556)。このような競合空間は、保守と革新の競合、中道右 派と中道左派の競合、政策維持と政策変更の競合などに応用できるものである。

2 スリナム政治分野の先行研究 スリナム政治の専門家のデュー(Dew 1978)は、1940 年代から 1975 年の独立に 至るまでのスリナム政治史を五つの時期に分けて、総選挙毎に丁寧に分析している。 同書(Dew 1978; 201-206)は、独立前のスリナムでレイプハルトの多極共存型民主 主義が成立していたとの立場をとっており 2、カリブ政治研究者のレジスターもデュー の立場を踏襲している(Ledgister 1998: 161-165 )。しかし独立後間もなく、スリナム は軍事政権へと移行する。デュー(Dew 1994)は 1975 年から 1993 年までのスリナ ム政治の展開を、内政と第三世界外交との両面から詳細に分析している。デュー(Dew 1994)はまたデュー(Dew 1978)の続編としての観点も維持している。軍事政権発足後、 主要エスニック政党の指導者達が相互に、あるいはボータッセ(Dési Bouterse)を 中心とする軍事政権とどのように利害調整を図ろうとしたかも、デュー(Dew 1994) は分析視野に納めている。さらにスリナム軍事政権に関する論文として、ソーンダイ ク(Thorndike 1990)、メル(Meel 1993)がある。 スリナム史・スリナム政治史の分野では、ホーフト(Hoefte 2014)が 20 世紀の スリナム史を移民やエスニック集団に焦点を当てつつ論じており、最終章で、21 世 紀のスリナム政治や経済発展について言及している。またホーフトとメルの共編著 (Hoefte & Meel eds. 2018)はアジア、中東などに在住するジャワ系移民とディアスポ ラをテーマとしている。最終章(Meel 2018)はスリナムのジャワ系に関する章となっ ており、スリナムのジャワ系政党の発展を知る上でも貴重な論文である。ラムソー ド(Ramsoedh 2017)はスリナム政党政治とエスニック集団との関係を、独立前から 2015 年の総選挙まで簡潔に論じている。ビセッサー(Bissessar 2017)はエスニック 集団間の対立と政党政治の関係に関して、トリニダード・トバゴ、ガイアナ、フィー ジー、スリナムの事例研究を行っている。またホーフト・ビショップ・クレッグの共

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編著(Hoefte, Bishop & Clegg, eds. 2017)はガイアナ、スリナム、仏領ギアナの国内 政治及び国際関係を分析することにより、ギアナ地域の域内、域外からの移民の動き を分析し、この地域の開発のあり方を明らかにしている。 近年では、エスニック・アイデンティティがスリナムの有権者の投票行動を決定 する上で最重要な要因なのか否かをめぐり、様々な学術的議論が展開されている。 この問題とも関連のある社会学・世論調査分野の研究として、2012 年に米国ヴァン ダービルト大学が実施した「ラテンアメリカ世論調査プロジェクト(Latin American Public Opinion Project, LAPOP)」が出版されている(Menke et al. 2013: 167-169)。 LAPOP 世論調査で「特定政党に対する帰属意識があるか」という質問にイエスと答 えた回答者はサンプル全体の 34% であった。表 1 は、特定政党に帰属意識があると 回答した人々が、次の「どの政党に帰属意識を持っているか」という質問に回答した 結果である。本表より、先住民、クレオールの回答者のそれぞれ 90%、72% がマル チ・エスニック政党の国民民主党(Nationale Democratische Partij: NDP)に対して政 党帰属意識があると回答している 3。意外なことに、クレオール系の 12% の回答者し か、伝統的クレオール系政党の NPS に帰属意識があると回答していない。 ヒンドゥー系の場合は、NDP とヒンドゥー系政党「進歩的改革党(Vooruitstrevende Hervormings Partij: VHP)」に対して、43%、40%の回答者がそれぞれ帰属意識があ ると答えている。同様にジャワ系の場合も、NDP とジャワ系政党「確かな信頼(Pertjajah Luhur: PL) 4」に対して、42%、36%の回答者がそれぞれ帰属意識があると回答してい る。マルーン系の場合は「政治における友愛と統一(Broederschap en Eenheid in de Politiek: BEP)」と「全国民の解放と発展党(Algemene Bevrijdings en Ontwikkelings Partij:ABOP)」がマルーン系政党である。両政党のどちらかに帰属意識があるとい う回答は併せて 43%、NDP に対して帰属意識があるとの回答が 36%であった。この ようにヒンドゥー系、ジャワ系、マルーン系の場合、NDP に対して帰属意識がある という回答が占める比率と、所属するエスニック集団の政党に対して帰属意識がある という回答が占める比率がほぼ均衡している。

―74― VHP、PL、BEP、ABOP の場合、エスニック・アイデンティティに基づいて帰属 意識があると回答した回答者が大多数を占めているように見えるが、政党の方針や政 策などを合理的に評価して支持政党を決めている場合も含まれている。これらの数字 の解釈には注意を要すると言える。エスニック政治は現在でもスリナム政治を動かす 主要な要因の一つであるが(Menke et al. 2013: 167)、実際にどの程度作用してきた のか、その実態を 2012 年のこの調査のみから掴むことはできないのである。

3 本研究の理論的枠組み 以上により、近年、エスニック・アイデンティティと支持政党との関係は、流動的 な部分が大きくなってきているという見解を本論は取ることにする。一部の有権者は エスニック・アイデンティティに基づきエスニック政党への強い帰属意識を維持し続 けており、他方、社会のかなりの部分の有権者は特定の政党に帰属意識を持たなく なってきているとの観点に立つ。そして無党派層の投票行動と、選挙前後の政党連合 の形成のあり方が、政権を規定する重要な要因になってきていると考えられる。 本研究では政党連合や連合政権を分析するための概念として、「エスニック政党」 と「非エスニック政党」の二つを用いることにする。「エスニック政党」とは、特定 のエスニック集団の利害を代表するために設立された政党であると定義する。さらに クレオール系、インド系、ジャワ系、マルーン系の四つの主要エスニック集団を支持 基盤とする政党に分類する。人種(出身地)という観点から見ると、クレオール系と マルーン系はともにアフリカ系であるが、文化や居住区域が異なっている。また宗教 はエスニック集団を特徴づける主要な要素の一つである。アフロ・クレオール系にと りキリスト教が、インド系にとりヒンドゥー教あるいはイスラム教が、ジャワ系にと りイスラム教が中心的な宗教となっている。マルーン系は、独自の宗教かキリスト教 徒が多い。またキリスト教はプロテスタント、カトリックにほぼ二分され、人口の 4 ~ 5 割程度がキリスト教徒である。言語もエスニックな社会的亀裂を形成する一因と なるが、スリナムの公用語はオランダ語に統一されている。 他方、「非エスニック政党」はエスニック政党以外の政党を指し、開発主義系、左 派系、市民派系の三つに分類する。開発主義系とは、国民経済全体を視野に入れた観 点から、国家が中心となり経済開発を促進しようとする立場を取る政党である。開発 主義にはアジアの開発独裁や、20 世紀のラテンアメリカの人民主義政権や、その後 登場する南米の軍事政権などが当てはまる(細野・恒川 1986; 大串 1991)。開発主義 政党の政治的立場は民主主義的でも、権威主義的でもありえる。左派系は社会主義イ デオロギーの立場をとり、中道左派から急進左派まで幅広く想定でき、労働組合系の 政党もこの範疇に入る。社会主義系は階層関係を重視し、人種・エスニシティの問題 には関心が薄い傾向がある。市民派のイデオロギー上の立場は概ね中道である。伝統

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的なエスニック政治やパトロン・クライエント関係の枠を超えて市民が連携し、環境 問題や人権問題に取り組み、汚職や贈賄のない革新的政治を志向している。市民派の 台頭は近隣のトリニダード・トバゴやガイアナでも見られる(Bissessar & La Guerre 2013: 松本 2018)。 第Ⅱ節では、スリナムの政党システムが長期的にどのように変化してきたかを、レ イプハルトの多極共存型民主主義モデルやサルトーリの政党システム論を踏まえて 分析していく。対象とする時期は、1940 年代から 2015 年の総選挙までである。この ように長い期間を分析対象としたのは、スリナムの主要政党の多くが 1940 年代に発 足して、現在まで有力政党として活動しているためである。その間、改称したり、分 裂・改組したりしているため、主要政党の連続性を確認するという作業が必要である。 従って第Ⅱ節では、総選挙における各政党・政党連合の議席獲得数、総選挙後の単独 政権・連合政権の形成、あるいは主要政党の発足、改組、改称、党首の交替、主要政 党間の協力と対立などに焦点を当てて記述していく。また軍事政権期に選挙は実施さ れなかったが、軍事政権は文民政治家を含めたコーポラティズム的共同統治を模索し ており、軍事政権期も分析対象に含めることにした。 第Ⅲ節では、民政移管期以降のスリナムの政党システムに焦点を絞り、総選挙・大 統領選挙を中心にさらに詳しい分析を加えていく。総選挙前の政党連合の形成、各政 党・政党連合の議席獲得数をエスニック系政党と非エスニック系政党の分類枠組みで 分析することにより、総選挙の第一党、第二党となった政党・政党連合の特徴を把握 する。さらに与党は単独で政権を獲得したか、他党との連合をどの時点で形成したか についても分析結果を整理していく。その上で、民政移管後の政党システムがサル トーリの「単独政権条項を緩和した二党制ルール」の条件を満たしていることを実証 的に論じる。

Ⅱ スリナムにおける政党システムの歴史的変化 1 脱植民地化から国民党連合政権期まで(1940 年代~ 1980 年) (1)脱植民地化期における大連合政権 独立前のスリナムでは、1948 年の選挙法により有権者が約 3000 人から約 9 万 6000 人へと一挙に拡大しており(Dew 1978:74)、今日の主要政党の多くがこの時期 に結成された。それ以降も多くの政党が誕生しており、議会で議席を獲得した政党を 中心に政党名・略称をまとめると、表 2 のようになる。 第二次世界大戦後、インド系の本格的な都市部への移住が始まり、ジャワ系もこ れに続き(Hoefte 2014:188)、このようなエスニック集団の移動や都市化は政党活動 や選挙にも影響を与えた。既にクレオール系は都市部に定住しており、1946 年にク

―76― レオール系プロテスタントを主たる支持基盤とする NPS が発足した。NPS の指導者 は、ペンゲル(Johan A. Pengel)であった。同じく 1946 年に、クレオール系カトリッ クを支持基盤とする進歩的スリナム人民党(PSV) も結成された。1949 年にインド系 政党の統一ヒンドゥー党(VHP)も結成され、J・ラチモン(Jagernath Lachmon)が 党首となった。ラチモンはヒンドゥー系として初めて法律事務所を開業した人物で あり、2001 年に死去するまで党首を務めた。1948 年に、ジャワ人労働者層を支持基 盤とするインドネシア農民党(Kaum Tani Persatuan Indonesia: KTPI) 5 が、イディン・ スミタ(Iding Soemita)を中心に発足している。同党はインドネシアへの帰国を希望 するジャワ系労働者 6 を保護する立場をとり、スリナムにおける普通選挙の導入を支

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持していた(Meel 2018:245- 247)。 1954 年にオランダ王国憲章が交付され、スリナムは蘭領アンティール諸島ととも に自治領となり、この時期、人種や文化が政治を動かす主たる要因となっていた。 1955 年の総選挙で NPS と VHP が協力することになった。しかしこれに反対した NPS の主力議員の D・フィンドレー(David Findlay)は、同党を脱退して彼の支持 者とともにスリナム民主党(Surinaamse Democratische Partij: SDP)を結成した。そ の結果、PSV、SDP と KTPI などが連携して「統一戦線(Eenheidsfront; EF)」を結成 して、1955 年の総選挙で勝利している。統一戦線の議席数は 13 議席で全体の 62% であり、NPS と VHP は併せて 8 議席(全体の 38%)しか獲得できなかった(Dew 1978: 110)。 SDP のフェリア( Johan Henri Eliza Ferrier)が首相に就任し、オランダと の開発援助をめぐる交渉を進展させた。 次の 1958 年の総選挙で、NPS と VHP の協力関係にさらに PSV と KTPI が参加し て大連合政権が発足した。全 21 議席のうち NPS が 9 議席、VHP と PSV が各 4 議席、 KTPI が 2 議席を獲得しており、EF は 2 議席であった。KTPI はジャワ系の利益が十 分考慮されていないと判断して、EF から離脱して大連合への参加を決定したのだっ た(Dew 1978: 118)。 1958 年から NPS のエマニュエルス(S. D. Emanuels)が首相に なり、この連合内閣は 1963 年の総選挙を経て 1967 年まで続き、1963 年からは NPS のペンゲルが首相となった。1963 年の総選挙では、NPS が 14 議席、VHP が 8 議席、 PSV と KTPI が 4 議席ずつ獲得した。総議席数は、1958 年までの 21 議席から 1963 年の 36 議席へと増加していた(Dew 1978: 121; 135)。この大連合の期間、政治エリー ト間で信頼関係が構築され、閣僚などのポストの他に公務員職などもエスニック集団 間で分配されたが、一般有権者のレベルではまだ人種やエスニシティに基づく対立感 情は存在していた(Dew 1978: 122; 140)。厳密にはこの 9 年間が、多極共存型の大連 合政権が成立した時期であった。1967 年 1 月、VHP が国民的政党になったという理 由で、ラチモンは党名を「国民の福祉向上党(Vatan Hitkarij Partij: VHP)」に改称した。 しかしこの後、独立問題をめぐりエスニック集団間の対立が起こり、VHP はエスニッ ク政党としての機能を維持することになる。 1967 年の総選挙で、大連合政権は成立しなかった。総議席数 39 議席のうち、NPS が 17 議席、VHP が 11 議席、「行動派グループ(Actie Groep:AG)が 4 議席、進歩的 国民党(Progressieve Nationale Partij: PNP)が 3 議席、SDP と イ ン ド ネ シ ア 人 民 党( Sarekat Rakyat Indonesia: SRI)が 2 議席ずつという結果であった。第 1 党の NPS が過半数の 議席を獲得できぬまま、小党 AG と連合することにより辛うじて過半数を確保した。 PNP は、NPS を離党した党員が結成したクレオール系政党であり、党首には NPS の開 発相であったレンス(Just Rens)が就任していた。すでに 1966 年に KTPI では内部対 立があり、一部の党員は NPS に移籍し、さらに一部の党員は上述の SRI を結成したので、

―78― ジャワ系の利害は KTPI と SRI により代表されるようになっていた。 1967 年末に AG の党首 R・シャンダイエショウ(Persoewan Chandieshaw)が急逝 したため、政権はさらに不安定となった。PNP はペンゲル首相(NPS)のパトロン・ クライエント関係や、古い政治スタイルを批判するようになった。ペンゲル首相や側 近の閣僚の昇給が決定されると、政権に対する野党や有権者からの批判が強まった。 1969 年 2 月に教員組合を中心とする約 3500 人規模のデモが展開されると、ペンゲル 政権は辞任し、1969 年の総選挙が実施されることになった(Dew 1978: 155)。 1969 年の総選挙は NPS、PNP ブロック、VHP ブロックと呼ばれる「民主党連合 (Verenigde Democratische Partijen: VDP)」の三つの勢力を中心に展開された。選挙結 果は 39 総議席数のうち NPS が 11 議席、PNP ブロックが 8 議席、VHP ブロックが 19 議席を獲得して、さらに国民共和党(Partij Nationalistische Republiek: PNR)が 1 議席を得た。PNR は 1961 年に法律家の E・ブルマ( Eddy Bruma)により結成された 政党で、エスニシティの枠を超えてナショナリズムを醸成し、進歩的な政治を人々 に浸透させることを目指していた(Dew 1978: 130)。 PNP ブロックには PNP、PSV、 KTPI などが参加し、VHP ブロックには VHP、SRI、AG が参加した(Dew 1978: 157)。総選挙後、VHP ブロックと PNP ブロックとの連合政権が発足し与野党間の政 権交代が実現した。小党 PSV、AG、SRI からも 1 名ずつ閣僚が任命された。VHP の 党首であるラチモンは国民議会議長となり、PNP のシドニー(Dr. )が 首相となった。 さらに、1969 年に NPS のペンゲルが急逝すると、クレオール系内部の対立やクレ オール系とヒンドゥー系との対立が激しくなるのではないかという懸念が高まった。 ペンゲルの後継者として穏健派のアーロン()が NPS 党首となったが、 アーロンは 1974 年までにスリナムが独立することを目標にしていた。他方ラチモン は、独立後の経済的自立の確保を重視して早期独立を望ましくないと考え、両者の 意見は対立していた(Dew 1978: 162)。 1971 年に入ると失業率が 15% 台に突入し、 1971 年秋には物価上昇などに抗議するゼネストが発生した。ストにはクレオール系 だけではなく、ヒンドゥー系やジャワ系労働者も参加するようになっていった。また 1972 年に、KTPI の党首はイディン・スミタからその息子のウィリー・スミタ(Willy Soemita)に代わった(Meel 2018: 250)。独立問題に関する国民合意が形成されぬまま、 政界指導者の世代交代が進展していった。

(2)国民党連合(NPK)政権とスリナムの独立 1973 年の総選挙で最終的に議席を獲得できたのは、国民党連合(Nationale Partij Kombinatie: NPK)と VHP ブロックの二つの政党連合だけであった。NPK は NPS(13 議席)、PSV(3 議席)、PNR(4 議席)、KTPI(2 議席)により構成され、政権を獲得

―79― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

した。VHP ブロックは AG が抜けて、VHP(16 議席)と SRI(1 議席)により構成 されていた(Dew 1978: 173)。与野党の最大の争点は独立問題であり、NPK は独立 を支持し、ヒンドゥー系もジャワ系も早期独立に反対していた。何故ならオランダ 政府の影響力が弱まると、クレオール系の勢力が拡大すると懸念していたのである (Meel 2018: 253)。独立には議会の 3 分の 2 の支持が必要であり、与党は VHP の協 力を必要としていた。尚オランダ政府は、1970 年代半ばにスリナムが独立すること に賛成する立場をとっていた(Dew 1978: 178)。 VHP のラチモンは、野党側の独立問題に関する要求として、①軍の編成にも比例 制原理を導入すること(軍におけるインド系雇用を増やすこと)、②民間企業の接収 に対する補償、③選挙制度の改革や比例代表制の導入、などを求めた(Dew 1994: 10)。新憲法をめぐって与野党の審議が重ねられたが、なかなか合意に至らなかった。 ラチモンは最終的に独立を受け入れる姿勢を示し(Dew 1978: 178)、独立後 8 カ月以 内に総選挙を実施して憲法改正委員会を設置し、新憲法の問題となっている部分に対 応するということで妥協が成立した。採択された新憲法は、多くの部分を旧憲法から 受け継いでいた(Dew 1994: 10)。独立によりフェリアが最後の総督から初代大統領と なり、引き続きアーロンが首相、ラチモンが野党リーダーとなった。国民議会が開会 したのは 1976 年 9 月であり、予定とは異なり、総選挙は 1977 年まで実施されなかった。 1977 年の総選挙でも、新党結成や政党連合の再編があった。「進歩的労働者・農場 経営者連合(Progressieve Arbeiders en Landbouwers Unie: PALU)」はこの選挙の数年 前にオランダで結成され、留学を終えた若いメンバーが帰国して選挙に立候補する ことになった(Dew 1994: 23)。 NPS に所属していたジャワ系政治家の P・ソモハー ジョ(Paul Somohardjo)は、1977 年にジャワ系政党として「パンダワ・リマ(Pendawa Lima: PL)」を発足している(Meel 2018: 250-251)。 1977 年の総選挙で議員を当選させることができたのは、1973 年の選挙と同様、 NPK と VDP(VHP ブロック)のみであった。NPK は 22 議席、VDP は 17 議席を 獲得した(Dew 1994: 26)。 NPK は NPS、PSV、KTPI などにより構成されており、 NPS 単独の議席は 15 議席であり、単独政権の可能性はなかった(Dew 1994: 27)。 NPS のアーロンが引き続き首相となった。PNR は NPK から既に離脱しており、1977 年の総選挙では 1 議席も獲得できなかった。他方、VDP には VHP、パンダワ・リマ、 PALU が参加していた。NPK では選挙前からスミタ( KTPI)の汚職問題をめぐり、アー ロン(NPS)とスミタとの間で対立があった。スミタが刑期を終えると KTPI 党内で内 部対立が発生し、最終的に KTPI は NPK 政権から離脱している(Dew 1994: 22-29)。 1977 年にスリナムの失業率は 18%となり、飲料水の供給が滞るなどの問題が発生 したが、独立政府の対応は遅れていた。これに対して公務員のストも実施された。ホー フトによれば、この時期、スリナム軍の下士官達の多くがオランダ軍からスリナム軍

―80― へと所属を変更しており、スリナムの軍隊組織へ適応しなくてはならない状況にあっ た。ボータッセもその中の一人であったが、若手下士官達は軍隊の民主化や下士官達 の組合結成の認可を求めていた。しかしながら、アーロン政権は軍隊組織の改革を 認めず、ついに 1980 年 2 月に軍事クーデターが起き、パラマリボの警察署の建物が 焼失するという事件に発展していった(Hoefte 2014; 137-138)。下士官達は国家軍事 委員会(Nationale Militaire Raad, NMR)を結成し、政府の経済問題に対する無策や、 政治腐敗を批判した。

2 軍事政権期(1980 〜 1988 年) (1)1980 年のクーデターから 1982 年の「12 月の殺戮」まで 1980 年のクーデター後、同年 3 月に、フェリア大統領はヘンク・シン・アセン()を首相に任命し、新たな文民内閣が組閣された。この内閣には 2 名の軍 人が含まれており、文民内閣は定期的に国家軍事委員会と協議することになっていた (Dew 1994: 48-49)。文民政権は 1982 年に選挙を実施し、民主主義的新憲法を起草す ることを目指していた。他方、国家軍事委員会の内部には急進的に革命を求める軍人 も含まれており、民主主義を回復するのか社会主義化するのか、国家の方向性はなか なか定まらなかった。そのような中、ボータッセは国家軍事委員会を辞任している。 1980 年 8 月に、民政復帰を求める民間人と将校がクーデター未遂事件を起こした。 ボータッセは事件の犯人を逮捕し、1975 年憲法を停止し、議会を解散した。フェリ ア大統領は辞任し、新大統領にはシン・アセン首相が兼任で就任した。シン・アセン 大統領は選挙を実施し、新憲法を起草する予定であった(Hoefte 2014; 139-140; Dew 1994: 53-54)。しかしボータッセは、1981 年末になると新憲法の起草を拒否するよう になる。1982 年 2 月にボータッセは新たに「政治センター(Beleidscentrum)」を発 足して議長となり、政治権力を掌握した(Hoefte 2014; 142)。シン・アセンは、大統 領職と首相職を辞任した。事態の進展についてボータッセは、「1982 年に実施される 予定であった選挙に関して、政府内部で見解を統一することができなかったため、新 たな政権を発足する必要があった」と説明した(Dew 1994: 74)。 1982 年 2 月、スリ ナム最高裁判所長官を務めていた F・R・ミジアー(Fred Ramdat Misier)が大統領に 就任し、1988 年 1 月に民政移管が実現するまで務めた。 1982 年 3 月に S・ランボカス(Surindre Rambocus)をリーダーとするクーデター が発生すると、ボータッセ支持派と激しい戦闘が展開された。ランボカスは 1980 年 のクーデターにも参加した軍人であった。ボータッセ派がクーデターを鎮圧したが、 その後、スリナム最大規模の労働組合の指導者であるダール(Cyrill Daal)を中心と して、多くの労働組合が民主化を求める反政府デモを展開するようになった。財界、 教会、マスコミなどもこの動きを支持していた。しかし「12 月の殺戮」と呼ばれる

―81― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

事件へと発展し、軍事政権に反対する中心人物 15 名が処刑された。その中には、ラ ンボカスやダールも含まれていた。そのため、有力な民間人や軍人の多くがオラン ダや米国へ去り 7、オランダとスリナムとの関係は急速に悪化した(Hoefte 2014; 142- 143)。この「12 月の殺戮」事件は、人権蹂躙問題として国連人権委員会や社会主義イ ンターナショナルからも批判された(Dew 1994: 93)。後述するように、民主化後、ボー タッセが政治家として影響力を強めていく上でも、この殺戮事件は問題となるのであ る。軍事政権は 1988 年まで続き、この間 5 人の首相が就任し、いずれの政権も短命 に終わった。

(2)軍事政権と政党、マルーン、先住民との関係 ボータッセを中心とする軍事政権は、既存の政治の腐敗・汚職を批判した。国家 全体の観点から、経済開発や国民の生活水準の向上を重視する第三世界型社会主義 を目指していた。同時に、政党指導者を政治の場から排除せず、軍部と文民政治家 が共同で統治するという方針を貫いたのが、スリナムの軍事政権の特徴であると指 摘できる。軍事政権初期に入閣した政党は PALU と革命的国民党(Revolutionaire Volkspartij, RVP)8 であり、両党とも社会主義系であった(Dew 1994: 77; 92)。 1982 年 3 月に前財務相のナイホースト(Henry Neijhorst)が首相となり、PALU は政権から 離脱し RVP のみが残った(Dew 1994: 77)。 軍事政権のイデオロギー上の立場は確固としたものではなく、国際環境の変化に応 じて政権維持のために柔軟に変化していった。当初軍事政権は、キューバのフィデル・ カストロ(Fidel Castro)やグレナダのモーリス・ビショップ(Maurice Bishop)と緊 密な外交を展開していた。しかし 1983 年に、ニュー・ジュエル・ムーブメント(New JEWEL Movement)9 政権内で権力闘争が勃発し、ビショップ首相が殺害された。米国 とジャマイカ、バルバドスなどのカリブ近隣諸国がグレナダに軍事介入すると、米国 とキューバの関係は急速に悪化した。スリナム軍事政権はキューバ大使を国外退去さ せ、米国との関係悪化を防ぐことを優先した(Dew 1994: 95; Ledgister 1998:157)。 ま たスリナムはカリブ共同体に加盟申請していたが、加盟は受け入れられず、近隣諸国 に支援を求めることもできない状況にあった(Dew 1994: 93)。米国やオランダから の経済援助を望むこともできず、軍事政権はブラジルとの経済関係を維持し、政権存 続を図った。 また 1981 年からスリナムの財政は赤字となり、1983 年にスリナムは国際通貨基 金(IMF)と構造調整政策をめぐる交渉に臨んだ。所得税の増税が決定されると、高 所得者層であるボーキサイト関連の労働組合がストを決行した。1984 年 1 月、既に 首相はアリボックス(E. Alibux)に交代していたが、同首相はボータッセにより辞任 に追い込まれた。ボータッセは社会主義系政党とは手を切り、財界、労働組合、軍

―82― 部の指導者により新政府を発足し、憲法を起草して 1985 年に国民投票にかけるとい う構想を提示した(Dew 1994: 97)。この時、「2 月 25 日運動(Vijfentwintig Februari Beweging: VFB)」という組織を用いて、1980 年 2 月のクーデターの名のもとに国民 を政治動員しようとした。また新内閣の首相にはユーデンハウト(Wim Udenhout )10 が任命された。 デュー(Dew 1994: 100)によれば、新政権は伝統的に実施されてきたエスニック 集団間の利害調整を、国民議会における財界、労働組合、軍部間のパワー・シェアリ ングという形で行おうとしていた。一種のコーポラティズム的制度の設計を目指して いた。労働組合と財界は民主主義的選挙を要求しており、伝統的エスニック政党であ る NPS と VHP も同様であり、二大政党党首のアーロンとラチモンは政治的影響力を 維持していた。1985 年に最高政策委員会(Topberaad)が発足し、三大エスニック政 党のリーダーであるラチモン、アーロン、スミタが同委員会に参加することで、ボー タッセとの合意が成立した(Dew 1994:108-109)。 1986 年 2 月に非常事態宣言が解除 され、法的秩序が回復された。さらに 1986 年 7 月にアーロンはボータッセと和解し、 その後 VHP のラダキシュン(Pretaap Radhakishun)が新たな首相に任命され、NPS 党員も内閣に加わった。新政権の課題は財政立て直しとオランダからの経済援助の再 開であった 11。また 1986 年夏より、スリナムは内戦に突入していた。 この内戦はアフリカ系クレオールを中心とする軍部と、マルーンとの戦争であっ た。ブリュンスウィーク()12 が率いるスリナム解放軍(Suriname Liberation Army)は、ゲリラ戦を展開して勢力を拡大していった。またブリュンス ウィークの家族が殺害されると、オランダの新聞はその事を広く報じた。その結果、 1986 年に国連人権委員会もマルーンに対する人権侵害の調査に乗り出した。約 200 人の民間人や、約 250 人のマルーンが殺害されたと報告されている。また 1986 年末 に、約 5000 人ものマルーンが仏領ギアナの難民キャンプへ避難したのである(Dew 1994: 127)。

(3)新憲法と 1987 年の総選挙 民主化に向けて、政府側の動きにも進展が見られた。1987 年 1 月に、前述した最 高政策委員会は新政府の組閣に関して大筋合意し、7 年ぶりに政党の集会開催に対す る禁止が解除されることになった。2 月 12 日にラダキシュン政権は辞任し、後任に は「2 月 25 日運動」のリーダーの一人であるヴァイデンボス()が 臨時首相として就任した。ヴァイデンボス政権は軍政から民政への移行期政権とな り、軍部や労働組合、財界、主要エスニック政党の指導者が集まり組閣が行われた(Dew 1994: 144)。 1987 年 7 月、ボータッセを中心とする軍部は「2 月 25 日運動」を正式な政党と

―83― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

して再組織し、NDP が発足した。軍部は政党として、総選挙に参加することになっ た。8 月に NPS、VHP、KTPI の 3 党は「民主主義と発展のための戦線(Front voor Democratie en Ontwikkeling: FDO)」を結成した。また国民投票が実施される前に、全 ての政党指導者がサミットを開催して「レオンスバーグ協定(the Leonsberg Accord/ Agreement)」を結び、民主化を実現するために平和裏に行動することで合意してい る。レオンスバーグのサミットでは、国家理事会や内閣における FDO と NDP のパ ワー・シェアリングのあり方なども話し合われた。新憲法では行政型大統領制が導 入され 13、議会は軍部に依存する位置に置かれていた。この時の協定の秘密補足事項 により、憲法を改正しないことが規定されていた(Meel 1993: 144; Dew 1994: 145- 149)。しかしマルーン系の指導者であるブリュンスウィークは、和平合意の条件の一 つとして、軍部が文民コントロールのもとに置かれるよう憲法を改正することを要求 した(Dew 1994: 153)。 憲法草案が完成すると、ボータッセは 1987 年 9 月に新憲法を国民投票にかけて可 決されれば、総選挙を実施すると発表した。国民投票の投票率は 62.7% であり、投 票結果は新憲法に賛成が 96.9%、反対が 3.1% であった。新憲法における大統領の選 出方法は次のようなものである。総選挙後に国民議会で大統領・副大統領を選出する ための間接選挙が実施され、当選するためには定数 51 名の国民議会議員のうち 3 分 の 2 以上の支持が必要とされる。第 1 回大統領選挙でいずれの候補者も 3 分の 2 以 上の支持を獲得できない場合、再選挙が実施され、それでも当選者が確定しない場 合に、統一人民会議(Verenigde Volksvergadering)が開催される。統一人民会議は 51 名の国民議会議員、約 100 名の地方議会(Districtsraden)議員、約 700 名の地域議会 (Ressortraden)議員により構成される。ここで過半数を獲得した候補者が、大統領・ 副大統領に選出される。 1987 年 11 月に総選挙が実施され、定員数 51 議席のうち 40 議席を FDO(VHP が 16 議席、NPS が 14 議席、KTPI が 10 議席)が獲得し、3 議席を NDP が獲得した。また、 小政党のパンダワ・リマと PALU が 4 議席ずつを得た。イデオロギー上は FDO とパ ンダワ・リマは中道に位置付けられ、PALU は左派の立場にあった。与党は 3 分の 2 以上の議席を獲得したため NDP と連携する必要はなくなり、VHP と NPS は 5 人ずつ、 KTPI は 2 人の議員を入閣させた(Dew 1994: 164)。 1988 年 1 月、国民議会における 大統領選挙により VHP のシャンカール(R. Shankar)が大統領に当選して民政移管 が実現し、インド系の大統領が誕生したのである。副大統領には NPS のアーロンが 選出された。また VHP のラチモンは、国民議会議長に就任した。

―84― 3 民政移管から 2015 年の総選挙まで(1988 〜 2015 年) (1)FDO 政権及び第 1 期ニュー・フロント政権期(1988 ~ 1996 年) シャンカール政権は、発足当初より経済危機やマルーンとの和平合意という難題を 抱えていた。1987 年の失業率は、世界銀行のデータベースによれば 19% を超えており、 医薬品が不足して閉鎖に追い込まれる病院もあった。オランダからの経済援助の再 開が頼みの綱であったが、マルーンとの内戦を終結することが援助の前提条件として 課せられていた(Dew 1994: 166-167)。さらに、先住民も政府に対して内陸部の開発 や先住民の政治的権利の拡大を求めるようになり(Dew 1994: 172; Hoefte 2014:153)、 ツカヤナ族(Tucayana)のハイジャック事件なども発生した。当初は混同されていた マルーンと先住民の政治的利害は、異なるものとして認識されるようになっていった (Dew 1994: 171)。ボータッセが率いる軍部は文民政府の統制下に入らぬままジャン グルでの軍事活動を継続し、コロンビアの麻薬カルテルとの癒着なども指摘されてい た。先住民やマルーンに対するスリナム軍の人権侵害に関して、国際機関や人権団体 は厳しい評価を下すようになった。 内戦や経済問題にシャンカール政権が解決策を見出せないまま、1990 年 12 月に軍 部がクーデターを決行した。臨時政府を樹立し、100 日以内に総選挙を実施すると発 表した。ボータッセは NPS の J・クラーフ()を大統領に選出し、副大 統領に NDP 党首のヴァイデンボスを就任させた(Dew 1994: 181-182)。 FDO は 1991 年の総選挙を前に、労働組合指導者のダービー(Fred Derby)が率いるスリナム労働 党(Surinaamse Partij van de Arbeid: SPA)( 1987 年発足)と連携して「ニュー・フロ ント(Nieuw Front: NF)」を結成した。野党 NDP は、社会保障の拡充を主な選挙公 約とした。選挙結果は、定数 51 議席のうち 30 議席(NPS が 12 議席、VHP が 9 議 席、KTPI が 7 議席、SPA が 2 議席)を NF が獲得し、NDP が 12 議席、さらに、「も う一つの民主主義 ’91(Democratisch Alternatief ’91: DA’91)」 が 9 議席を獲得した。 DA’91 は様々なエスニック集団に属する若手の専門家達が集まって結成された市民 派政党連合であり、マルーン系政党の BEP やジャワ系のパンダワ・リマもこれに参 加していた。1991 年の総選挙は、保守派のエスニック政党連合、旧軍部を中心とす る NDP、市民派政党連合の三つの勢力に分かれており、市民派という新たな政治勢 力が登場したと分析できる。 NF は DA’91 からの政党連合に関する申し出を断り、単独で大統領選挙に臨ん だ。そのため国民議会における 2 度の大統領選挙で、NF 候補者のフェネツィアーン ()は 3 分の 2 の支持を得ることができなかった。しかし、統一人民 会議における投票で過半数(811 票のうち 645 票)を獲得し大統領に当選した。フェ ネティア―ンは 1987 年に NPS 党首となり、同年発足のシャンカール政権では教育相 を務めた 14。副大統領には、シャンカール政権で法務相を務めた VHP の J・アイオディ

―85― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

ア( Jules Ajodhia)が当選した。また、国民議会議長には引き続きラチモンが選ばれた。 新政権にとり、憲法改正問題、オランダ、米国などとの経済援助交渉、内戦の和平合 意が最重要課題となっていた。 憲法改正問題では、政治権力から軍部を分離することが課題となった。1992 年 3 月の国民議会で、NF 政府は DA’91 の支持を得て 3 分の 2 以上の必要支持数を獲得し て憲法改正を可決した。改正により軍機関の記述部分が削除され、文民政権の軍部に 対する優位が明確にされた(Dew 1994: 198, note4; Hoefte 2014: 152-154)。さらにフェ ネツィアーン大統領は軍隊の再組織化にも着手した(Dew 1994: 190-194)。 1992 年 4 月にマルーンの指導者であるブリュンスウィークとツカヤナ族の軍事指 導者のトーマス(Thomas)らが会合し、内陸部の経済開発のために貿易や観光業を 促進することで合意した。デュー(1994:195-196)によれば、5 月になると日本企業 が 1000 万ドルをスリナムの林業に投資することになり、オランダとインドネシア企 業もこの事業に参画すると報じられた。開発問題に解決の糸口が見えると、和平プロ セスも加速された。1992 年 8 月にスリナム政府、マルーン、ツカヤナ族との間で和 平合意が締結された。受刑者に対しても恩赦が与えられ、また仏領ギアナに難民とし て逃れていたマルーンも帰国を開始した。 NF 政権は経済再建のため構造調整策なども実施したが、税制や政府支出などをめ ぐり NPS と VHP の意見が対立した(Hoefte 2014: 197)。 1995 年にスリナムはカリブ 共同体に加盟を果たし、旧英領カリブ諸国との政治・経済上の連携を強めることに なった。以後、総選挙時にはカリブ共同体から選挙監視団が毎回派遣されている。

(2)国民民主党のヴァイデンボス政権期(1996 ~ 2000 年 ) 1996 年の総選挙で第一党となった NF は 51 議席中 24 議席しかとれず、過半数を 制することができなかった。NDP は 16 議席、DA‘91 とパンダワ・リマは 4 議席、 その他の政党が 3 議席を獲得した。国民議会における 2 度の大統領選挙では大統領 を選出することができず、統一人民会議で NDP のヴァイデンボス候補が選出される 結果になった。選挙結果は、ヴァイデンボス 438 票、フェネツィアーン 407 票であっ た。何故このような NDP の逆転が起きたのであろうか。その背景には、政党や政党 連合の再編が関わっていた。ボータッセが総選挙で不正があったと主張した後に 15、 VHP 内の財界関係者が NF から離脱して「刷新と民主主義の基本となる党(Basispartij voor Vernieuwing en Democratie : BVD)を設立した。さらにスミタが率いる KTPI も NF から離脱し、ヴァイデンボスと交渉して BVD などとともに NDP を中心とする連 合政権に参加することになったのである(Hoefte 2014: 255, note34)。副大統領には BVD の P・ラダキシュンが当選した。 ヴァイデンボス政権はボータッセの傀儡政権と当初は見られていたが、オランダ政

―86― 府によるボータッセの麻薬取引関与に関する追及が厳しくなると、ヴァイデンボス大 統領はボータッセを大統領顧問役から外している(Hoefte 2014: 198)。しかし 1999 年に経済成長は再びマイナスに転じて失業率が悪化し、インフレも激しくなると、政 権維持は困難になっていった。さらに裁判官の任命問題をめぐり、大統領は法曹界や 市民団体と対立していた。同年 5 月に大統領が外遊先のガーナから帰国すると、首都 パラマリボでは 5 万人以上のデモが野党や労働組合、市民派政治団体などにより展開 されており、ストライキは 10 日間に及んだ。ヴァイデンボス大統領は内閣を解散す ると発表し、ボータッセは大統領の辞任を求めた。国民議会で大統領への不信任案が 審議されているなか、ヴァイデンボス大統領は急遽、総選挙を 1 年前倒しで 2000 年 に実施することを提案し、最終的に事態を収拾した(OAS 2001: 3)。 2000 年の総選挙では、NF とミレニアム連合(Millennium Combinatie: MC)、二つ の政党連合が政権を争った。ミレニアム連合はボータッセをリーダーとし、NDP と KTPI などにより発足した政党連合である。また現職のヴァイデンボス大統領は新た に「民主主義国家の綱領 2000(Democratisch Nationaal Platform 2000: DNP2000)」 を 結成して選挙に臨んだ。NF は、前総選挙と同様にフェネツィアーンをリーダーとし ていた。NF を構成する政党は NPS、VHP、SPA、ジャワ系の PL の 4 党で、KTPI は 離脱していた。PL は、パンダワ・リマを結党したソモハージョが一部の党員ととも に離党して、1998 年に結成した政党である。 選挙結果は NF が 33 議席、ミレニアム連合が 10 議席、DNP2000 が 3 議席、DA’91 が 2 議席、その他の政党が3 議 席(PALU1 議席、農民連盟政治部門[Politieke Vleugel van de Federatie van Agrariers en Landbouwers: PVF] 2 議席)であった。国民 議会の大統領選挙において、フェネツィアーン(NPS)が 37 議席を獲得して大統領 に当選し、VHP のアイオディアが副大統領に当選した 16。

(3)第 2 期・第 3 期ニュー・フロント政権期(2000 ~ 2010 年) 2001 年にスリナムの経済成長率はプラスに転じ、フェネツィアーン政権の 10 年間 の GDP 成長率の平均値は約 5%であり、順調な成長を維持した。2004 年に新通貨「ス リナム・ドル」を発行して経済の安定に努めた。しかしながら、貧困対策、住宅問題、 公務員の再組織化、汚職問題などの課題を解決するには至らなかった(Hoefte 2014: 199)。ホーフトによれば、この時期スリナム社会にも変化が起こり、伝統的なエスニッ ク政治は勢いを失い、マルーンや先住民・混血の比率が増加して、新たな政治指導者 を社会は求めるようになっていった(Hoefte 2014: 199-200)。 2005 年の総選挙では、NF が議席を大幅に減らして 23 議席しか取れず、過半数を 下回った。NDP は 15 議席を取り、ボータッセは大統領候補とならなかった。ブリュ ンスウィークは ABOP というマルーン系の政党を結成した。ABOP はマルーン系政

―87― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

党の BEP、「セーカ()」とともに「ある連合(A Combinatie: AC)」を結成した 上で、総選挙に参加して 5 議席を獲得した。さらに DA’91 などの小党 5 党が、「もう 一つの連合(Alternatief, A-1: A-1)」を発足して 3 議席を獲得した。ヴァイデンボス を党首とする DNP2000 は、BVD、KTPI、パンダワ・リマなどと「進歩のための国 民同盟(Volksalliantie Voor Voorutigang: VVV)」を結成して 5 議席を獲得している。 総選挙後に NF は「ある連合」議員 5 名と「もう一つの連合」の 1 名の議員ととも に「ニュー・フロント・プラス(Nieuw Front Plus)」を結成し、29 議席を獲得した。 他方 NDP は、VVV と連携して 20 議席を得た(OAS 2005:18)。国民議会の 2 度の大 統領選挙で大統領を決定することができず、統一人民会議で 3 度目の大統領選挙が実 施された。NF の大統領候補は現職のフェネツィアーン、NDP の大統領候補はパルメ ザール(Rabindre Parmessar)であり、パルメザールの二重国籍問題も争点となったが、 明確な結論が出されぬまま大統領選挙が実施された(OAS 2005: 22)。大統領選挙の 結果は、フェネツィアーンが 560 票、パルメザールが 315 票であった 17。 2010 年の総選挙では、大幅な政党連合の再編が行われた。NDP を中心に PALU、 KTPI、「新スリナム(Nieuw Suriname)」 の 4 党がメガ・コンビネーション(Mega Combinatie: MC)を結成し、最終的にボータッセが大統領に当選した(Hoefte 2014: 199)。 NF は PL が離脱して、NPS、VHP、SPA、DA’91 により構成されることになっ た。マルーン系の「ある連合」は「ニュー・フロント・プラス」から分離して単独の 政党連合として 2010 年の総選挙に臨んだ。PL は PSV などの小党とともに「人民連 合(Volksalliantie)」を形成して選挙に臨んだが、この連合は選挙後間もなく分裂し ている(Meel 2018: 259-260)。選挙結果は、メガ・コンビネーションが 23 議席、NF が 14 議席、「ある連合」が 7 議席、「人民連合」が 6 議席(PL が 6 議席)、市民派系 の「統一による民主主義と発展を目指す党(Democratie en Ontwikkeling in Eenheid: DOE)」 が 1 議席を獲得した。 大統領選挙を前に、ボータッセはブリュンスウィーク、ソモハージョと交渉して「あ る連合」と PL の支持を獲得した。その結果、「ある連合」は副大統領を含む 3 名の 閣僚を、PL もまた 3 名の閣僚を輩出することになった(Hoefte 2014: 199)。 7 月 19 日に国民議会で大統領選挙が実施され、MC 側の大統領候補はボータッセ、副大統領 候補は ABOP の R・アメラーリ()であった。また、NF 側の大統領 候補は VHP のチャン・サントーキ(Chandrikapersas Santokhi)、副大統領候補は NPS 党首の G・ルスラント()であった。選挙結果はボータッセとアメラー リが MC、AC、PL の支持を得て 36 票を獲得して当選した。 総選挙後、主力政党は世代交代の時期を迎え、フェネツィアーンは 2012 年に NPS 党首を退いた。2011 年に VHP で初めて党首選挙が実施され、NF の大統領候補であっ たサントーキが選出された。サントーキは警察機関のトップや法務相のポストを歴任

―88― し、麻薬密売を取り締まるため国際捜査に参加した経歴もある人物である。

(4)メガ・コンビネーションから国民民主党政権発足まで(2010 ~ 2015 年) 軍事政権の中心人物であったボータッセが大統領に就任すると、オランダ政府や 米国政府は警戒した。1982 年の「12 月の殺戮」に対する十分な責任追及はなされず、 和解も成立していないことが問題視された。ボータッセ政権は 2012 年に恩赦法を成 立させ、「12 月の殺戮」も恩赦の対象とすることにより問題を解決しようとした。こ れに対してパラマリボでは遺族を中心とするデモが展開され、国際社会も人権侵害 に対する責任を追及したが、政府から対応を引き出すことはできなかった(Hoefte 2014: 204-205)。 2015 年の総選挙に NDP は単独で臨み、PALU、KTPI、「新スリナム」は NDP と の連合「メガ・コンビネーション」を解消した。NF は 2010 年の総選挙で連合を構 成した 4 党にさらに PL、BEP、KTPI が加わり、V7 を結成した。しかし総選挙前に KTPI は V7 を離脱して、「ある連合(AC)」に参加したため、V7 の参加政党は実際 には 6 党になった。また AC から 2012 年に BEP が離脱し、2015 年の選挙前に「セーカ」 も離脱していた。V7 が総選挙で掲げた論点は三権分立による民主主義の強化、グッド・ ガバナンスの構築、基本的人権の保障、治安・安全保障の強化、持続可能な開発など であり 18、VHP のサントーキが中心となって選挙戦を展開した。他方 NDP は年金の 増額、教育の無償化、最低賃金の導入などの福祉政策の拡充を訴え、またインフラや 住宅供給分野で積極的に投資を行ってきた実績もアピールした(Bissessar 2017: 85)。 総選挙の結果は、NDP が 26 議席、V7 が 18 議席を獲得した。V7 の中で VHP が 8 議席を、PL が 5 議席を、NPS が 3 議席を、BEP が 2 議席をそれぞれ得た。AC の ABOP が 5 議席を占めたが、KTPI は議席を失った。DOE と PALU は単独で選挙を戦い、 それぞれ 1 議席を獲得した。総選挙結果が公表された後、ボータッセ以外の大統領候 補者が一人も立候補せず、ボータッセ政権の継続が決定した 19。副大統領には、NDP の若手インド系議員のアシュイン・アディン(Michael Ashwin Satyandre Adhin)が就 任した。

Ⅲ 分析結果と課題の検証

第Ⅱ節の分析により、1958 ~ 1967 年の多極共存型大連合政権の後、1980 年の軍 事クーデターまで、スリナムの政党システムは不安定な状況にあったと結論できる。 1967 年の選挙における政党システムは多党制であり、NPS と小党 AG との連合政 権が発足したが、脆弱で単独政権に近いものであった。1969 年の総選挙時の政党シ ステムは NPS、PNP ブロック、VHP ブロックによる三党制に近いシステムであり、

―89― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

―90― VHP と PNP の連合により PNP のシドニー政権が成立した。したがって、この時期 を NPS と VHP ブロックを中心に二極化した「穏健な多党制」として把握することは できない。1973 年から 1980 年の軍事クーデターまでの期間、政党システムは NPS 系 NPK と VHP ブロックにより構成され、穏健な多党制の中で構築される二極構造 に該当する。 次に民政移管期以降の期間に焦点を当て、総選挙毎の各政党・政党連合の議席獲得 数、政党連合内のエスニック系政党と非エスニック系政党の構成、与党(与党連合)・ 第二党(政党連合)の議席占有率、大統領の選出方法をまとめると、表 3 のようになっ た。この期間、政党システムのフォーマットは多党制であり、反体制政党は存在せず、 すべての主要政党が連合政権に参加する可能性があるので、「穏健な多党制」に近い システムである。しかし 2015 年の総選挙で NDP は単独で過半数を制しており、連 合政権を前提とするサルトーリの「穏健な多党制」には分類できない。そして、この 期間のスリナム政党システムが「単独政権条項を緩和した二党制ルール」に当てはま ることを示すことが、本研究の課題である。分析対象とする期間に関しては、1990 年に軍事クーデターが発生しているため、1991 年の総選挙以降を「民政移管後」と 考えることもできる。しかし、1987 年の総選挙は新憲法によるものであり、その際 NPS と VHP との連合関係が形成され 2015 年の総選挙まで維持された。したがって、 1987 年の総選挙も分析対象に加えることにした。 まず、「単独政権条項」の緩和の問題から検討していく。NPS と VHP の総選挙前 からの連合関係は、1987 年から 2015 年の総選挙まで継続的に維持されている(表 3 参照)。第Ⅱ節で分析したように、この間、大統領候補と副大統領候補はこの二党か ら 1 名ずつ選出されており、NPS と VHP が NF の中核を構成していると判断できる。 このような NPS と VHP の関係は「二つの政党が単なる連合の域を出て、一種の合同 体になっている場合」に当てはまる。また FDO、V7 も NPS と VHP の両党から大統 領候補・副大統領候補を選出しており、NF も含め、これらの政党連合を NF 系政党 連合として扱うことにする。 NF 系政党連合には、NPS、VHP 以外の政党もしばしば参加している(表 3)。 最 も参加回数の多い SPA(労働組合系)は 1991 年より 2015 年まで継続的に NF 系政党 連合に参加しているが、当選議員数は少ない。またジャワ系政党の KTPI、PL もしば しば NF 系連合に参加しており、このような場合には、NF 系連合内で三大エスニッ ク集団の利害調整が可能な組織構成になっていると指摘できる。他方、NDP はマルチ・ エスニック政党であるので、同様の利害調整機能を党内に備えていると考えられる。 次にスリナムの事例が、サルトーリの四つの条件を満たしているのかを分析する。 第一の条件「二つの政党(連合)が絶対多数議席の獲得を目指して競合している」に 関しては、NF 系政党連合と NDP との対抗関係がこれに当てはまる。1987 年以降、

―91― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

両党が総選挙及び大統領選挙において大連合を形成することはなかった。また第Ⅱ節 の分析により、民主主義体制の強化(NF)と経済開発(NDP)のどちらを政治方針 上より重視すべきかをめぐり、両党の競合関係は展開していたと判断できる。第二の 条件「二党のうちどちらか一方が実際に議会内過半数勢力を獲得するのに成功する」 に関しては、1987 年から 2015 年までの総選挙において、NF 系政党連合か NDP・ NDP 系政党連合のどちらかが大統領選挙で過半数以上を獲得して勝利しており、こ の条件も満たしている。ただし、1996 年、2005 年、2010 年の総選挙では、与党は大 統領選挙で勝利するため、総選挙後に他党と連合する必要があった。 第三の条件「過半数を得た政党は進んで単独政権を形成しようとする」に関して は、1987 年の FDO 政権、1991 年の NF 政権、2000 年の NF 政権と 2015 年の NDP 政権がこれに当てはまる。1987 年の FDO 政権、2000 年の NF 政権は総選挙後、3 分 の 2 以上かほぼ同等の議席を獲得していたので、その時点で単独政権が決定していた。 1991 年の NF 政権の場合、連合発足により国民議会で大統領を当選させるという選 択肢と、統一人民会議で単独で大統領を当選させる選択肢の二つがあったが、単独政 権を選択している。また、2015 年の大統領選挙では現職のボータッセ大統領しか立 候補しなかったため、NDP の単独政権発足が決定した。第四の条件「政権交代が行 われる確かな可能性がある」に関しては、NF 系政党連合と NDP・NDP 系政党連合 との間で、1996 年、2000 年、2010 年に与野党間の政権交代が実現している。以上に より、民政移管から 2015 年の総選挙までのスリナムの政党システムは、「緩和され た二党制」の条件を満たしていると結論できる。 最後に、少数派エスニック政党の動向に焦点を当てたい。ジャワ系政党には KTPI、 パンダワ・リマ、PL があるが、これら 3 党による共同行動は見られず、それぞれ独 立した行動をとっている。NF 系連合と NDP の二大政党により形成される二極構造 の中で、KTPI と PL は政局に応じてどちらかの大政党と連携することにより、各党 の政治的信条や利害を追求してきたと指摘できる。マルーン系 3 党 ABOP、BEP とセー カは「ある連合(AC)」を結成し、AC は 2005 年の総選挙後に NF と、2010 年の総 選挙後に NDP 系連合と連携して連合政権に参加している。しかし 2015 年の総選挙 ではマルーン系政党は共同行動をとらなくなり、ABOP と BEP は AC と V7 とに分 かれる結果となった。 1970 年代にレイプハルトは、多元社会で多極共存型民主主義が成立した後、競合 的な民主主義へと移行する可能性があると指摘した。スリナムの場合、1967 年に多 極共存型民主主義が放棄されてから軍事政権に移行するまでの期間、政党システムは 不安定に変化している。本研究では、民政移管後、同国で競合的な民主主義が成立し たことを明らかにするため、1987 年から 2015 年までの多党制システムがサルトーリ の「単独政権条項を緩和した二党制ルール」の条件を満たしていることを論証すると

―92― いう方法を採ることにした。その結果、この期間 NPS と VHP は連合関係を維持し、 民主主義体制の強化を目指す NF 系連合と経済開発を目指す NDP の競合関係を中心 に、二党制のメカニックスが機能していたと判断できる。

付記 コロナ禍の中、2020 年 5 月にスリナムで総選挙が実施され、定数 51 議席のうち VHP が 20 議席、NDP が 16 議席、ABOP が 8 議席、NPS が 3 議席、PL と BEP が 2 議席ずつという結果であった。総選挙後に VHP、ABOP、NPS、PL の 4 党が連合を発足して C・サント―キ(VHP)が大統領候補、R・ブリュンスウィー ク(ABOP)が副大統領候補となった。7 月の国民議会で対立候補者が立候補しないまま、両候補者の当選 が確定した。このようにして、2020 年の選挙においても VHP と NDP との大連合は形成されず、競合的シ ステムは維持されたと言える。また 2019 年には総選挙前に政党連合を形成することが禁止され、このルー ルが VHP と NPS の関係にどのように影響したかは不明であるものの、1987 年以降続いていた NPS と VHP の「合同体」的な関係は一旦解消された。さらに新内閣の副大統領は NPS から選出されず、VHP がマルー ン系の ABOP と連携を開始した事は注目すべき変化であった。

注記 1 レイプハルトは、脱植民地化期のスリナムで多極共存型大連合内閣が発足した背景には、植民地的伝統 やその影響力が作用していたと指摘している(レイプハルト 1979: 271)。 2 他方レイプハルト(1979:250)は、デューの論文、Edward Dew, “Suriname: The Struggle for Ethnic Balance and Identity,” Plural Societies Vol.5, No.3( Autumn 1974) を引用している。 3 NDP の指導者ボータッセはアフロ・クレオールであるが、先住民(Amerindian)をも祖先に持つ人物 である(Hoefte, 2014:11)。 4 後述するパンダワ・リマも「確かな信頼(Pertjajah Luhur、PL)」も略称は PL だが、本論では混乱を避 けるため、「確かな信頼」のみ PL で表示することにする。 5 同党は、1987 年に「最高レベルの国民統一と団結の党(Kerukunan Tulodo Prenatan Inggil: KTPI」に党 名を変更しているが、政党の略称は KTPI のままである。 6 オランダと英国の協定によりスリナムで年季奉公人制度が導入され、インド系、ジャワ系労働者がこの 制度によりスリナムに多数移住したが、1935 年にスリナムの年季奉公人制度は廃止された。そのため帰省 費用が支払われなくなったが、帰国を希望する人々は多かった。詳しくは(Hoefte 2014: 53-58)。 7 パンダワ・リマのソモハージョもクーデターに参加し捕らえられたが、オランダに逃れて 1993 年まで 亡命生活を送った(Meel 2018: 255)。 8 RVP は進歩的インテリ層を中心とした政党であり、ライデン大学の卒業者も含まれており、キューバ・ グレナダ寄り、反植民地主義の立場をとっていた。 9 “JEWEL” は “Joint Endeavor for Welfare, Education, and Liberation” の略語である。 10 ユーデンハウトは当時ジャマイカやトリニダード・トバゴ社会に影響を与えたブラック・パワー運動に 参加した経験があり、教員から政治家に転身した(Dew 1994: 99)。 11 オランダからの援助を再開させることができず、スリナム政府はリビア、台湾などから経済支援を得て 経済危機に対応した。

―93― スリナムの政党システムに関する研究 ―多極共存型民主主義から競合的政党システムへ―

12 ブリュンスウィークは 1980 年代前半、ボータッセのボディガードを務めていたが、ボータッセと対立 して 1984 年に軍から解雇された(Ramsoedh 2017: 37)。 13 新憲法では、大統領が国家元首及び行政府の長であり、首相職はなくなった。内閣(Raad van Ministers)は大統領・副大統領とともに政府(Regering)を構成し国民議会に対して責任を負い、副大統領 が内閣の議長役を務め、大統領が閣僚の任命権を有すると規定されている。 14 フェネツィアーンは数学者であり、1973 年発足のアーロン政権でも教育相を務め、軍事政権時代には 高等教育に携わっていた。 15 Inter-Parliamentary Union, “Suriname Elections in 2010.” http://archive.ipu.org/parline-e/reports/arc/2299_96. htm 04/24/2019 accessed 16 ミレニアム連合の大統領候補はドーキー(Rashied Doekhie)、副大統領候補は J・シモンズ(Jennifer Geerlings- Simons)であった。シモンズ候補は副大統領選挙を辞退した(OAS 2001: 28-29)。 17 NF の副大統領候補はサルジョー(Ramdien Sardjoe)、 NDP の副大統領候補はローゼバル(Wilfried Roseval)であり、副大統領選挙の結果はサルジョー 591 票、ローゼバル 285 票であった(OAS 2005:22-24)。 18 V7, “V7 Verkiezingsprogramma 2015: De Sleutel voor Een Duurzame Ontwikkeling!,” pp.10-15. 19 Girish Gupta, “Suriname’s Bouterse sworn in for second presidential term.” https://www.reuters.com/article/uk-suriname-election/surinames-bouterse-sworn-in-for-second-presidential-term- idUKKCN0QH2E420150812 04/30/2019 accessed.

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