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This page is protected. This page is protected. まえがき モータウンは60年代の大衆音楽に非常識な衝撃=快楽を与えた、希有なインディペンデ ント・レーベルである。ソウル・ミュージック、ポップス、いずれの方向からでも興味深 い作品、アーティスト、エピソードを数多く残している。60年代中期のアメリカン・ヒッ ト・チャートでモータウンは独立独歩で老舗メジャー・レコード会社や押し寄せるイギリ This page is protected.スの若僧たちと五分以上に渡り合ったほとんど唯一のレコード会社だった。その後、たく さんの作品を残し、紆余曲折を経て、現在に至っている。 モータウンは確かに“特別な”レーベルだった。本書はその足跡を辿りつつ、レコー ド・ガイドの役割も果たせるようにとの意図で構成したものである。 偉大なるモータウン、イイ話だらけのモータウン、その功績の数々を知るお手伝いがで きれば幸いです。 湯浅 学 MOTOWN CONTENTS まえがき ………………………………………………………………………p.03 モータウンを後にしたH-D-Hは モータウン1957-59 ~ホットワックス/インヴィクタスとその周辺… ……………………p.68 ~ベリー・ゴーディーの苦悩 ……………………………………………p.06 モータウンの礎となった人々 モータウン1960-67 19. ノーマン・ホィットフィールド ……………………………………p.71 ~デトロイトから全米へ …………………………………………………p.09 ノーマン・ホイットフィールドは熱かった ………………………………p.72 ビートルズとモータウン ~ビートルズは最後までモータウンと離れず …………………………p.12 モータウン1973-77 ~明日は何処に ……………………………………………………………p.74 モータウン1968-72 ~内省と新展開のはざまで ………………………………………………p.16 ディスコとモータウン ~コモドアーズと魔境 ……………………………………………………p.77 60年代モータウン・サウンドの研究 ~いい音とは“イイ音”なり ……………………………………………p.18 モータウンの礎となった人々 20. リック・ジェームス …………………………………………………p.80 モータウンの礎となった人々 1. ベリー・ゴーディー・ジュニア ………………………………………p.24 モータウンの80年代 2. スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ ………………………………p.25 ~迷いのままに ……………………………………………………………p.82 3. マーヴェレッツ …………………………………………………………p.27 4. メリー・ウェルズ ………………………………………………………p.28 モータウンの90年代そして現在 5. コントゥアーズ …………………………………………………………p.29 ~モータウンの旅、第2章 …………………………………………………p.86 6. マーヴィン・ゲイ ………………………………………………………p.30 7. スティーヴィー・ワンダー ……………………………………………p.32This page is protected.ヒップホップとモータウン 8. ダイアナ・ロス&シュープリームス …………………………………p.34 ~その相性について …………………………………………………………p.90 9. マーサ&ザ・ヴァンデラス ……………………………………………p.36 10. テンプテーションズ …………………………………………………p.38 80年代イギリス(ニューウェイヴ)とモータウン 11. フォー・トップス ……………………………………………………p.40 ~モータウン・サウンドはいかに消化されたか ………………………p.92 12. Jr.ウォーカー&ザ・オール・スターズ ……………………………p.42 13. ラフィン・ブラザーズ ………………………………………………p.43 ジャズとモータウン 14. グラディス・ナイト&ザ・ピップス ………………………………p.44 ~ベリーの憧れ ……………………………………………………………p.96 15. エドウィン・スター …………………………………………………p.45 16. ジャクソン・ファイヴ ………………………………………………p.46 クラブとモータウン 17. ザ・ファンク・ブラザーズ …………………………………………p.48 ~グローバー・ワシントン・ジュニアは なぜクラブ世代に支持されるのか …………………………………p.100 おそるべきジェームス・ジェマーソン再考 ………………………………p.50 歌謡曲とモータウン モータウン・スタジオ見学記 ………………………………………………p.56 ~至るところにモータウンあり ………………………………………p.102 映画『永遠のモータウン』の魅力 …………………………………………p.58 チカーノとモータウン ~愛ゆえのちぐはぐなその関係と魅力 ………………………………p.104 『永遠のモータウン』論評 …………………………………………………p.61 レアシングル事情 まんが世界のファンク・ブラザーズ的… …………………………………p.63 ~マニア予備隊のみなさんへ …………………………………………p.108 ファンク・ブラザーズのアルバイト モータウン ディスク・ガイド1 ………………………………………p.110 ~そこらでちょちょいと …………………………………………………p.64 モータウン ディスク・ガイド2 ………………………………………p.165 モータウンの礎となった人々 18. H-D-H …………………………………………………………………p.67 あとがき ……………………………………………………………………p.190 おり、バス・タムを使って低音部を強調したり ルズの大ヒット曲「タミー」にちなんだ命名。 ズと改名させる(メンバーに女性のクローデット (ゴーディー大のお気に入り)タンバリンでビー 親しみやすい名をという配慮から)、その第1弾 がいるのにマタドールズというのは変だ、との忠 モータウン トを強化したりバリトン・サックスで喝を入れ としてジョンソンの「カム・トゥ・ミー」をリ 告による)。58年2月、ゴーディーの作曲/プロデ 1957-59 たりといった、後のモータウン・サウンドの諸 リースする。レコード番号はTamla-101。資金 ュースによる「ゲット・ア・ジョブ」で、ミラク ~ベリー・ゴーディーの苦悩 要素がすでにしっかりと導入されている。 はゴーディーが実家から借りた700ドルだった。 ルズはデビューする。ゴーディーとスモーキーの 3年間ウィルソン・プロジェクトにどっぷり ここからタムラ/モータウンのレーベルとし 長い長い友情(ほとんど肉親のような関係ともい 関わっていたにもかかわらず、ゴーディーの収 ての具体的な歩みが始まる。 われる)、モータウン・レコードの唯一の不変の 入は決して満足のいくものではなかった。「作っ 始まるのだが、「カム・トゥ・ミー」はマー 人間関係の始まりでもあった。 元プロ・ボクサーのデトロイト野郎=ベリ ているのはこの俺なのに」との感慨は、レコー ヴ・ジョンソンとともにユナイテッド・アーテ もうひとつ、モータウン前史の重要作がある。 ー・ゴーディー(ジュニア)は、ビ・バップに ド会社に曲を提供しているだけの自分、という ィストに売り込まれ、これが即座に受け入れら ベリー・ゴーディーの姉グエンが、ジャッキ 心を奪われた(実は)ジャズ・マニアであった。 立場の弱さの自覚をうながした。ようするにこ れてしまう。「カム・トゥ・ミー」はすぐに全国 ー・ウィルソン作品の曲作りでのベリーのパー が、自分の愛する音楽は商品としては大きな利 のままでは名は少しは知られても借金が返せんThis page is protected.配給されUnited Artist-160番で全米R&Bチャー トナー=ビリー・デイヴィスと共同で59年に設 益をもたらさないものであることも、経験とし じゃないか、ということだった。誰かにかすめ ト6位/ポップ・チャート30位のヒットとなる。 立したアンナ・レコードからリリースされたバ て(自営の3Dレコード・マートの倒産により) 取られるくらいなら多少の犠牲をはらっても自 以後ゴーディーは、61年まで、自作曲の他、モ レット・ストロングの「マネー」である。この 身に染みて知っていた。借金を抱えてフォード 分のところにもっと儲けの入るやり方を考え出 ータウンのスタッフとなるウィリアム・ミッキ 曲はベリー・ゴーディーが、後にモータウンの の組み立て工場で働き“充電”したゴーディー し、実践しなければならぬ。ウィルソン作品へ ー・スティーヴンソン、ラモント・ドジャーら 秘書となるジェイニー・ブラッドフォードと共 は、音楽を作ることにあこがれを転換する。作 の関与がゴーディーの負けじ魂に火をつけた。 を曲作りに起用しつつ、ジョンソンのプロデュ 作し、プロデュースも担当、ベリーが姉に販売 曲家になるという希望は、やがてレコード(も まずゴーディーは原盤制作を自前でやり、そ ースを手がける。 権をリースしたものだった。ベリーにとって最 ちろんシングル)を作ること(プロデュースす の販売権を大手レーベルに売り込むというプラ も切実な問題「金が欲しい」をストレートに表 ること)へと展開していく。 ンを考えつく。そのプラン実行のパートナーと 現したこの曲は、その思いが音にも如実に現わ 初めて世に出たゴーディー作品はブランズウ なったのが豊かな音楽的才能を持つレイノマ・ れていた。すでに何作もの曲を世に送り出して ィックからの、ジャッキー・ウィルソンの「リ ライルズだった。ふたりは結婚もしたが、レイ Marv Johnson いるにもかかわらず、結局白人仲介人の搾取か ート・ペティート」だった。57年のことである。 バー・ヴォイセズという名でバック・コーラス 『Come to Me』 らは逃れらね運命にあるのか、とのやるせなさ (Tamla 101) ゴーディーはビリー・デイヴィス(当時はタイ を手がけたり、もちろん共同でプロデュースも がゴーディー得意の力強いビートによるゴスペ ロン・カルロというペンネームを使っていた) した。レイノマはベリーの仕事の影の要人だっ ゴーディーには57年重要人物との出会いがあ ル型の編曲によってポップに炸裂していた。基 との共作で59年までに「ロンリー・ティアドロ た。彼女の支援を受けてゴーディーが手がけた った。ウィリアム・スモーキー・ロビンソンであ 本的な疑問、売れているのになぜ自分のところ ップス」や「ザット・イズ・ホワイ」「アイル・ のが、マーヴ・ジョンソンだった。58年にジョ る。自らのコーラス・グループ=マタドールズを にはお金がはいってこないのか、お金を手にす ビー・サティスファイド」などの名作を続々発 ンソンの「ワンス・アポン・ア・タイム」をプ 率い、曲作りにも励んでいたスモーキーはすぐに るにはどうすればいいのか、3年かかって、仮 表した。これらには、ディック・ジェイコブス ロデュースした後、59年にゴーディーは初の自 自分より11歳年上のゴーディーを慕うようにな にもデトロイトでは少しは売れっ子のコンポー と共同でプロデュース/アレンジにも関わって 前レーベル=タムラを設立(デヴィー・レイノ る。ゴーディーはマタドールズをすぐにミラクル ザー/プロデューサーのはしくれとなったはず 6 7 なのだが…。ゴーディーのこの疑問に答えを出 に黒人音楽の世界は、リズム&ブルースからソウ ぶればオクラ入りする録音も少なくなかった。 したのはスモーキーだった。「販売を他人の手に ルへと、新たな洗練によって大きく変化し、質、 ゴーディーにとってタムラ/モータウンの音 ゆだねているからではありませんか?」と。ゴ 量ともに加速度的に濃くなっていった。モータウ モータウン 楽は世間に挑む武器だった。ゴーディーは勝つ ーディーさんほどの人ならば原盤権のリースを ンが成長していったのはそんな時代だった。 1960-63 ことだけを考え続けた。チャートでの好成績が やめ、製造、販売、宣伝、のすべてを自前でま ベリー・ゴーディーは引越しを期に次々に自 ~デトロイトから全米へ 勝利であった。モータウンは時とともにゴーデ かなうレコード会社を作るべきですよとスモー 身の運営する会社を設立した。 ィーに、アメリカ合衆国における黒人社会のひ キーは以前から考えていたという。 自身の、及び関連スタッフ/アーティストに とつの夢をイメージさせるようになった。完全 そのための基地となる物件を探し出して来た よる楽曲を管理するジョーベット音楽出版(ベ 自前による黒人大衆音楽レーベルの成功、とい のはレイノマだった。デトロイト・ウェスト・ リー・ゴーディーの3人の娘、ジョイ、ベティ 60年10月にタムラからリリースされたスモー うものは黒人による運営ではまだ存在しなかっ グランド・ブルーヴァード2648番地。 ー、テリーの名を合体させたもの)、ベリー・ゴ キー・ロビンソン&ザ・ミラクルズの「ショッ た。 この2階建てのビルに、ゴーディーは家族とと ーディー・ジュニア・エンタープライズ、ヒッ プ・アラウンド」は61年初頭、ゴーディーに最 ゴーディーの野心にどの程度の具体性があっ もに59年初夏に引越した。1階をスタジオとロ ツヴィルUSA、レーベル所属アーティストのマThis page is protected.初の完全自前による全国ヒット(全米ポップ・ たかは分からない。しかし61年暮れのマーヴェ ビーに改造し、入り口正面にある大きなガラス窓 ネージメント会社=インターナショナル・タレ チャート2位)をもたらす。 レッツ「プリーズ・ミスター・ポストマン」の にゴーディーは“HITSVILLE USA”と記した。 ント・マネージメント(略してITM)、そして、デ そのころにはスモーキー以外にもゴーディー 全米ポップ・チャートの1位獲得以降、モータ そこが正真正銘の“ヒットの郷”となるにはさほ トロイトの別称であるモーター・タウンを略した 周辺には多くのタレント、スタッフが集められ ウンが何事かを成し遂げるべき組織である、と ど時間はかからなかった。なによりも仕事、音楽 モータウンを冠した、モータウン・レコード・コ ていた。コントゥアーズ、エディ・ホーランド、 の使命感を抱いたとしても不思議はない。むし を制作することが好きな男ベリー・ゴーディー ーポレーションであった。と同時にマーヴ・ジョ シュープリームス、マーヴィン・ゲイ、スピナ ろそうするように自分を仕向けて行った節はあ は、全米に自分自身の手で配給しヒットを生み出 ンソンの「カム・トゥ・ミー」以後エディ・ホー ーズ、マーヴェレッツ、スティーヴィー・ワン る。 すことに邁進した。インディペンデントのレーベ ランドの「メリー・ゴーランド」をリリースした ダー。スタッフでは、ウィリアム・ミッキー・ さらに地元モータウンのミュージシャンを集 ルは全米各地にあった。地元を中心としたローカ のみで凍結されていたタムラ、新たに開設された スティーヴンソン、ハーヴェイ・フークア、ジ めて専属の伴奏用バンドを編成したことによっ ルなヒットを生み出し、細々と、しかし良質な作 モータウンのふたつのレーベルが始動する。タム ョニー・ブリストル、ラモント・ドジャー、ブ て、サウンド面での独自性が急激に促進される。 品を提供することを主眼とし、それを実践してい ラ再始動の最初のシングルは地元デトロイトの ライアン・ホーランド、クラレンス・ポール、 録音面での技術的模索、実験も62年以降加速さ るレーベルは数多かった。現在もなおそうした地 ザ・スィンギング・タイガースの「スネーク・ウ ロバート・ベイトマン、フレディー・ゴーマン れる。それもこれもゴーディーのGOサインを 元型独立レーベルの存在は重要であり、それらに ォーク」(Tamla-54024)、モータウンはミラク といった制作/曲作りのスタッフ、さらに配給 得なければ、ゴーディーとの勝負に勝たなけれ よってアメリカの音楽産業は奥行きを増してき ルズの「バッド・ガール」(Motown-G1。この 部門を取り仕切るやり手の白人、バーニー・エ ば、タレントの熱唱も制作スタッフの創意工夫 た。メジャー・レーベルの巨大化と独立レーベル シングルはチェスからChess1734としてリリー イルズがいた。 もまるで陽の目を見ずに埋もれてしまうからで の独自のネットワーク作りとの相克が全体を活性 スされたものの自前による再リリース。さらに 制作陣はスティーヴンソンを中心に、次から ある。 化させる。50~60年代はそうした独立レーベル Motown-G1はすぐにMotownTLX-2207として 次へと曲を作り、レコーディングした。それは ゴーディーは強引ではあったかもしれない と大手レーベルとの相互関係が、音楽の流行モー 再プレスされている)だった。 社内会議に諮られ、ゴーディーの同意を得て発 が、傲慢でも高慢でもなかった。すべては賭 ドそのものに関わるスリリングな時代だった。特 (湯浅 学) 売された。会議で推挙されてもゴーディーがし け/勝負に勝つためだった。なによりゴーディ 8 9 ー自身がソングライター/プロデューサーであ す。パッケージ・ツアーでモータウンというレ 若いギター・コンボがアメリカのみならず全世 り、レーベル・オーナーでありながら他のスタ コード会社の宣伝とアーティストの鍛錬、興行 界を席巻した年だ。一方モータウンでは61年か ッフ同様勝負(社内会議)に挑む者のひとりで 収入の運用が同時におこなえるという利点があ ら鳴かず飛ばずだったシュープリームスがつい もあった。一博徒としてゴーディーは、他のス った。もちろんバック・バンドのミュージシャ に「ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー」でヒ タッフたちと市場のライヴァルの両方と争う身 ンはじめ出演者やツアー・スタッフにとっては ットを飛ばす。しかも全米ポップ・チャート首 であった。そうした自身を楽しまずにはいられ 楽な仕事ではなかった。しかし後のない新興レ 位の。 なかったのだ。 ーベルにとってこのイヴェントは社の命運に少 制作陣では、若さでホーランド/ドジャー/ なにしろゴーディーは窓ガラスにしたたるふ なからぬ影響を与える重要な賭けだった。事故 ホーランド・チームが(叩き上げのミュージシ たつの水滴を見て「どちらのしずくが先に下の やいざこざはあったものの、23日間で19都市を ャンから見ればデタラメな)新機軸を打ち出し、 窓ワクにとどくか賭けよう」と、かたわらにい まわる第1回のレヴューはなんとか果たされ ヒット曲を量産していく。チャートには毎週複 る者を誘う男である。 た。レコード会社がツアーをサポートするのが 数のタムラ/モータウン/ゴーディー作品が顔 ミラクル、トライ・ファイ、ハーヴェイなど 当たり前になるのは70年代初頭からのこと。そThis page is protected.を見せるのが当たり前の状態となる。 モータウンと関係のある者が運営したり関わっ の点においてもモータウンは先駆的役割を果た シュープリームスはその後65年5月の「バッ たりしたレーベルを吸収し、さらにグループを した。 ク・イン・マイ・アームズ・アゲイン」まで連 中心にリリースしようと新たなレーベル=ゴー いくつかのグループや歌手がセットになっ 続5曲を全米首位に輝かせるという快挙を成し ディーを開設したりするうちに、62年以降、モ て、ツアーするのがモータウンでは当たり前に 遂げて(ゴーディーの願い通り)モータウンの ータウンからのヒットは急増していく。メリ なっていく。ステージでは前後のタレントに負 表看板となるのであった。 ー・ウェルズとコントゥアーズが…、63年には けまいと出演者同士が火花を散らすようになっ 64~66年、売上的にも作品内容の充実度と量 スティーヴィー・ワンダー、マーサ&ザ・ヴァ た。そうやってお互いが闘志を燃やしておのれ の多さからしても、まさしくモータウンの黄金 痺状態となった。年々悪化する治安と経済状態。 ンデラス、マーヴィン・ゲイもチャート上位の を高めていこうとすることはゴーディーの狙い 時代というにふさわしい時であった。主要アー 一方、ベリー・ゴーディーはラスヴェガスやロ 人となっていく。タムラ/モータウン/ゴーデ でもあった。 ティストの他にもブレンダ・ハロウェイや、ジ サンジェルスで余暇を過ごすことが増えるよう ィーは、新しい何かをもたらす新しいアメリカ コンポーザー/プロデューサーのノーマン・ ュニア・ウォーカー&ザ・オール・スターズ、 になった。デトロイトは日毎にハードさを増し 人のための音楽の発信源として、アメリカ黒人 ホイットフィールドは「モータウンでは、本当 スピナーズ、エドウィン・スターといった新し ていく。ゴーディーは自分の故郷であるデトロ コミュニティのみならず、アメリカ合衆国全土 にすべてが競争だった。それが次々とスターを い才能もスマッシュ・ヒットを生み出していく。 イトからの離脱の意を強めていく。モータウン から認知されるところとなった。 生み出す原動力になっていったんだ」と語って モータウンが黒人による独立企業として成長 といういわば音楽による共同体の内部ではエゴ ヒットがヒットを生む“流れ”が実感できる いる。そのホイットフィールドも60年代中頃は していく一方で、社会的にアメリカ黒人の反差 のぶつかり合い、いがみあいが頻発し、外部か ようになった62年11月、ベリー・ゴーディーを まだレギュラーの座をつかんではいなかった。 別闘争は公民権運動後も改善されない状況を実 らはモータウンに対する業界的圧迫が強まって はじめとするモータウンのスタッフは、所属ア 63年はモータウンがフル稼働に入った年とい 感するにつれ激しさを増していった。67年には いく。まだまだ作品の質的低下は少なく、チャ ーティストたちが次々に登場して歌うコンサー えるだろう。続く64年はさらに稼働速度が速く デトロイトで白人警官と消防士対黒人市民によ ート成績も良好だったのだが、変化の兆しはそ ト・ツアー=モータウン・レヴューを実行に移 なる。イギリスからビートルズをはじめとする る大規模な衝突が起き、暴動から市の機能は麻