In the Theban Necropolis
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論 文 オ リ エ ン ト46-1 (2003): 19-39 テ ー ベ 岩 窟 墓 第46号 墓(ラ ー メ ス の 墓) に 関 す る一 考 察 On the Date of the Steward of the Temple of Aten' Ramose and His Tomb (TT 46) in the Theban Necropolis 河 合 望 KAWAI Nozomu ABSTRACT In the Topographical Bibiliography by Porter and Moss, the tomb of Ramose (TT 46) is listed as probably belonging to "the time of Amenhotep III (?)". This tomb was first recorded by John Gardner Wilkin- son in the 19th Century. On the basis of Wilkinson's manuscript, Helck gave some of Ramose's titles in Urkunden IV. Graefe later published a brief com- munication concerning Ramose's titles based on this limited information. In 1991 Bohleke assumed that Ramose's career and tomb should date to the reigns of Tutankhamun, Ay, and perhaps, the first year of Horemheb. Most recently, Kampp discussed tomb 46, mainly focusing on architecture. She dates TT 46 to the reigns of Amenhotep III and Amenhotep IV, with Ramose as the usurper of a tomb originally constructed for someone from the end of the Seventeenth Dynasty to the beginning of the Eighteenth Dynasty. As a part of my study on the reign of Tutankhamun, I had the opportu- nity to visit the tombs of officials active during the reigns of Tutankhamun and his successors from the late Eighteenth Dynasty in the Theban Necropolis. A certain Ramose who has the title of Overseer of Granaries of Upper and Lower Egypt is mentioned in the year 3 stela of King Ay from Giza. Since Ramose, the owner of TT 46, also has the title of Overseer of Granaries of Upper and Lower Egypt, the tomb and the stela seem to refer to the same person, and thus the generally accepted date of Ramose's tomb seems to be questionable. During my study of TT 46, it became clear that * ジ ョ ンズ ・ホプ キ ンス大 学 大 学 院博 士候 補/早 稲 田大 学 エ ジプ ト学 研 究所 客 員 研究 員 Ph. D. Candidate, Johns Hopkins University/Visiting Fellow, Institute of Egyptology, Waseda University this is a tomb from the post-Amarna period for the following reasons: 1. Ramose held the titles of the Steward of the temple of Aten as well as the High Priest of Amun in Mn-st at the same time. The names of Amun were not expunged at all but those of Aten were clearly chiseled out on the tomb walls. This strongly indicates the tomb was decorated after the Amarna period. 2. The artistic style also suggests that the tomb was decorated in the post-Amarna period. 3. A headless block statue of Ramose, Overseer of Double Granaries, may support this date. 4. Since it is known that Khaem- hat was the Overseer of Granaries during the later part of the reign of Amenhotep III, Ramose could not have served as the Overseer of Double Granaries of Upper and Lower Egypt at that period. Therefore, it is likely that Ramose served in the post-Amarna period, most probably under Tutankhamun as well as Ay, as the Overseer of Granaries of Upper and Lower Egypt, Steward of the Temple of the Aten, and High Priest of Amun in Mn-st. If so, his titulary provides the first Theban evidence that the temple of Aten was still functioning even after the Amarna period, supplementing the contemporary evidence from the Memphite necropolis. は じ め に テーべ西岸 は新王国時代 において高官の墓域 として広大なネクロポ リス を形 成 していたこ とで知 られている。特 に第18王朝 のアメンヘテプⅢ 世の治世 まで に数多 くの岩窟墓が造営 されたが,ア クエンアテ ン王 によるアマルナ遷都 に よ り一時的 に造墓活動が途絶 えた。 トゥ トアンクアメ ン王の治世 になると行政 の 中心地メ ンフ ィスのネク ロポ リス を中心 に高官の墓が造営 され,テ ーベでの造 墓活動 は以前 ほど活発ではないが再 開 され る。 新 王 国 時 代 の テ ー べ に 造 営 さ れ た 墓 の な か で もTT 46(第46号 墓)は,従 来 ア メ ンヘ テ プⅢ 世 の 治 世 に 比 定 さ れ て い た が,こ の 墓 の 被 葬 者 ラ ー メ ス(R(- ms)は 「上 下 エ ジ プ ト穀 倉 長 」 の 称 号 を 持 ち,同 じ称 号 を もつ 同 名 の 人 物 が ア イ王の治世第3年 に記録 されたステ ラに認め られる。彼 らが同一人物であると す ると墓の造営時期の再検討が必要 であると言える。 筆者 は トゥ トアンクアメン王時代 の行政組織や高官の業績,墓 域 の展開 を研 究 する目的で,同 王時代 を含む ポス ト・アマルナ時代に造営 されたテーベ西岸 20 の 岩 窟 墓 を観 察 す る機 会 を持 っ た が,そ の 際 にTT 46を 実 際 に 訪 れ,,詳 細 に観 察 す る こ と が で き た 。 こ の 観 察 お よ び そ の 他 関 連 資 料 の 検 討 か ら,ラ ー メ ス が 実 際 は ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 に 年 代 付 け ら れ る と の 結 論 を 得 る と と も に,ラ ー メ ス の 家 族 に つ い て の 新 た な 情 報 を 得 る こ と も で き た 。 本 稿 で は こ れ ら に も と づ き,TT 46と そ の 被 葬 者 ラ ー メ ス に つ い て 考 察 し た い 。 1.研 究 史 テ ー ベ 西 岸 第46号 墓(図1,図2)は,シ ェ イ ク ・ア ブ ド ・ア ル ニ ク ル ナ の 丘 の ほ ぼ 中央 に 位 置 す る 。 墓 の 正 面 は石 灰 岩 の 岩 盤 を 整 形 した6本 の 角 柱 と2 本 の 半 角 柱 か ら な る ポ ル テ ィ コ を 形 成 して い る が,後 世 に泥 煉 瓦 と泥 漆 喰 で 閉 塞 さ れ た よ う で あ る 。 墓 内 部 は 東 西 に伸 び る 前 室 を 持 ち,そ こ か ら 中 央 に 奥 室 に 向 か っ て 左 右 対 称 に7本 の 柱 が あ る 。 本 来 は8本 作 る 予 定 だ っ た と思 わ れ る が,7本 目 の 途 中 で 未 完 成 に な っ て い る 。 奥 室 の 中 央 に は 壁 龕 が 穿 た れ て お り, 北 西 角 に は 埋 葬 室 に 繋 が る シ ャ フ トが 掘 ら れ て い る 。 な お,シ ャ フ トの 内 部 は 未 発 掘 で あ る 。TT 46の 外 観 は 比 較 的 目 立 ち,遠 方 か ら眺 め て も そ の 存 在 が 明 瞭 に わ か る が,こ れ ま で 組 織 的 な 発 掘 調 査 は 実 施 さ れ て お らず,報 告 書 も刊 行 さ れ て い な い 。 こ の 墓 を最 初 に 記 録 した の は,19世 紀 のJ.G.ウ ィ ル キ ン ソ ン(J.G.Wilkin- son)で あ り,彼 の 手 記 が 現 在 の と こ ろ 唯 一 の ま と ま っ た 資 料 で あ る。 そ の 後 ガ ー デ ィナ ー(A .H.Gardiner)や ウ ェ イ ゴ ー ル(A.Weigall)が 墓 を 訪 れ,ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 期(?)の 墓 で あ る と年 代 付 け た 。 ポ ー タ ー とモ ス(B.Porter& R.Moss)の:Topographical-Bibliographyも,こ の 年 代 を 受 け 入 れ て い る 。 こ れ に 対 し,ヘ ル ク(W.Helck)はUrkundenの 中 で,TT 46を ア メ ン ヘ テ プIV世 の 初 期 の 墓 と して ラ ー メ ス の 称 号 を 記 載 し て い る 。 ま たN.G.デ イ ウ ィ ス(N. de G.Davies)も 手 記 を 残 し,ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 お よ びⅣ 世 治 下 の 墓 で あ る と し てい る。 これ らの年代決定の主 な根拠 はラーメスの称号 にアテ ン神 とアメ ン神 に関わ る称号が同時 に確認 され ることであ り,ア メ ンヘ テプⅢ世 とアメ ンヘ テ プⅣ 世 の 共 同 統 治 期 に 属 す る墓 と推 測 さ れ た もの と思 わ れ る。 1979年,グ レー フ ェ(E.Graefe)は 前 述 の ウ ィ ル キ ン ソ ン の 手 記 を再 検 討 し, ラ ー メ ス が ア テ ン神 と ア メ ン神 の 称 号 を 同 時 に持 っ て い る こ と か ら,こ の 人 物 の 年 代 比 定 に 関 して ア マ ル ナ 時 代 以 前 と以 後 の 二 つ の 可 能 性 を 述 べ,ウ ィル キ 21 ンソンの手記 に残 された不明瞭なカル トゥーシュの最初 に見 られ る 「ラー」 の サイ ンの解読が年代決定の手懸 りにな るとしているが,明 確 な主張 は していな い 。 1991年 に は ボ ー レ ケ(B.Bohleke)が,そ の 博 士 論 文 の 中 で,こ れ ま で の 資 料 を再 検 討 し,ラ ー メ ス を トゥ トア ン ク ア メ ン 王,ア イ 王,さ ら に ホ ル エ ム へ ブ 王 の 治 世 初 期 ま で 仕 え た 高 官 で あ る と し て い る 。 1998年 に は カ ン プ(F.Kampp)が,テ ー ベ ・ネ ク ロ ポ リス の 包 括 的 な 研 究Die Thebanische Nekoropoleの 中 で 墓 の プ ラ ン,エ レ ベ ー シ ョ ン の 略 図 と基 本 的 な 情 報 を ま とめ て い る が,彼 女 は,TT 46は ま ず 第17王 朝 末 か 第18王 朝 初 期 に 造 営 さ れ,そ の 後,ア メ ンヘ テ プⅢ 世 お よび ア メ ン ヘ テ プⅣ 世 の 治 世 に ラ ー メ ス の 墓 と し て 再 利 用 さ れ た と して い る。 Ⅱ.