論 文 オ リ エ ン ト46-1 (2003): 19-39

テ ー ベ 岩 窟 墓 第46号 墓(ラ ー メ ス の 墓) に 関 す る一 考 察

On the Date of the Steward of the Temple of ' Ramose and His Tomb (TT 46) in the

河 合 望 KAWAI Nozomu

ABSTRACT In the Topographical Bibiliography by Porter and Moss, the tomb of Ramose (TT 46) is listed as probably belonging to "the time of Amenhotep III (?)". This tomb was first recorded by John Gardner Wilkin- son in the 19th Century. On the basis of Wilkinson's manuscript, Helck gave some of Ramose's titles in Urkunden IV. Graefe later published a brief com- munication concerning Ramose's titles based on this limited information. In 1991 Bohleke assumed that Ramose's career and tomb should date to the reigns of Tutankhamun, Ay, and perhaps, the first year of Horemheb. Most recently, Kampp discussed tomb 46, mainly focusing on architecture. She dates TT 46 to the reigns of Amenhotep III and Amenhotep IV, with Ramose as the usurper of a tomb originally constructed for someone from the end of the Seventeenth Dynasty to the beginning of the Eighteenth Dynasty. As a part of my study on the reign of Tutankhamun, I had the opportu- nity to visit the tombs of officials active during the reigns of Tutankhamun and his successors from the late Eighteenth Dynasty in the Theban Necropolis. A certain Ramose who has the title of Overseer of Granaries of Upper and Lower Egypt is mentioned in the year 3 stela of King Ay from Giza. Since Ramose, the owner of TT 46, also has the title of Overseer of Granaries of Upper and Lower Egypt, the tomb and the stela seem to refer to the same person, and thus the generally accepted date of Ramose's tomb seems to be questionable. During my study of TT 46, it became clear that

* ジ ョ ンズ ・ホプ キ ンス大 学 大 学 院博 士候 補/早 稲 田大 学 エ ジプ ト学 研 究所 客 員 研究 員 Ph. D. Candidate, Johns Hopkins University/Visiting Fellow, Institute of Egyptology, Waseda University this is a tomb from the post-Amarna period for the following reasons: 1. Ramose held the titles of the Steward of the temple of Aten as well as the High Priest of in Mn-st at the same time. The names of Amun were not expunged at all but those of Aten were clearly chiseled out on the tomb walls. This strongly indicates the tomb was decorated after the Amarna period. 2. The artistic style also suggests that the tomb was decorated in the post-Amarna period. 3. A headless block statue of Ramose, Overseer of Double Granaries, may support this date. 4. Since it is known that Khaem- hat was the Overseer of Granaries during the later part of the reign of Amenhotep III, Ramose could not have served as the Overseer of Double Granaries of Upper and Lower Egypt at that period. Therefore, it is likely that Ramose served in the post-Amarna period, most probably under Tutankhamun as well as Ay, as the Overseer of Granaries of Upper and Lower Egypt, Steward of the Temple of the Aten, and High Priest of Amun in Mn-st. If so, his titulary provides the first Theban evidence that the temple of Aten was still functioning even after the Amarna period, supplementing the contemporary evidence from the Memphite necropolis.

は じ め に

テーべ西岸 は新王国時代 において高官の墓域 として広大なネクロポ リス を形 成 していたこ とで知 られている。特 に第18王朝 のアメンヘテプⅢ 世の治世 まで に数多 くの岩窟墓が造営 されたが,ア クエンアテ ン王 によるアマルナ遷都 に よ り一時的 に造墓活動が途絶 えた。 トゥ トアンクアメ ン王の治世 になると行政 の

中心地メ ンフ ィスのネク ロポ リス を中心 に高官の墓が造営 され,テ ーベでの造 墓活動 は以前 ほど活発ではないが再 開 され る。

新 王 国 時 代 の テ ー べ に 造 営 さ れ た 墓 の な か で もTT 46(第46号 墓)は,従 来

ア メ ンヘ テ プⅢ 世 の 治 世 に 比 定 さ れ て い た が,こ の 墓 の 被 葬 者 ラ ー メ ス(R(- ms)は 「上 下 エ ジ プ ト穀 倉 長 」 の 称 号 を 持 ち,同 じ称 号 を もつ 同 名 の 人 物 が ア

イ王の治世第3年 に記録 されたステ ラに認め られる。彼 らが同一人物であると す ると墓の造営時期の再検討が必要 であると言える。 筆者 は トゥ トアンクアメン王時代 の行政組織や高官の業績,墓 域 の展開 を研 究 する目的で,同 王時代 を含む ポス ト・アマルナ時代に造営 されたテーベ西岸

20 の 岩 窟 墓 を観 察 す る機 会 を持 っ た が,そ の 際 にTT 46を 実 際 に 訪 れ,,詳 細 に観

察 す る こ と が で き た 。 こ の 観 察 お よ び そ の 他 関 連 資 料 の 検 討 か ら,ラ ー メ ス が

実 際 は ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 に 年 代 付 け ら れ る と の 結 論 を 得 る と と も に,ラ ー

メ ス の 家 族 に つ い て の 新 た な 情 報 を 得 る こ と も で き た 。 本 稿 で は こ れ ら に も と

づ き,TT 46と そ の 被 葬 者 ラ ー メ ス に つ い て 考 察 し た い 。

1.研 究 史

テ ー ベ 西 岸 第46号 墓(図1,図2)は,シ ェ イ ク ・ア ブ ド ・ア ル ニ ク ル ナ の

丘 の ほ ぼ 中央 に 位 置 す る 。 墓 の 正 面 は石 灰 岩 の 岩 盤 を 整 形 した6本 の 角 柱 と2

本 の 半 角 柱 か ら な る ポ ル テ ィ コ を 形 成 して い る が,後 世 に泥 煉 瓦 と泥 漆 喰 で 閉

塞 さ れ た よ う で あ る 。 墓 内 部 は 東 西 に伸 び る 前 室 を 持 ち,そ こ か ら 中 央 に 奥 室

に 向 か っ て 左 右 対 称 に7本 の 柱 が あ る 。 本 来 は8本 作 る 予 定 だ っ た と思 わ れ る

が,7本 目 の 途 中 で 未 完 成 に な っ て い る 。 奥 室 の 中 央 に は 壁 龕 が 穿 た れ て お り,

北 西 角 に は 埋 葬 室 に 繋 が る シ ャ フ トが 掘 ら れ て い る 。 な お,シ ャ フ トの 内 部 は

未 発 掘 で あ る 。TT 46の 外 観 は 比 較 的 目 立 ち,遠 方 か ら眺 め て も そ の 存 在 が 明

瞭 に わ か る が,こ れ ま で 組 織 的 な 発 掘 調 査 は 実 施 さ れ て お らず,報 告 書 も刊 行

さ れ て い な い 。

こ の 墓 を最 初 に 記 録 した の は,19世 紀 のJ.G.ウ ィ ル キ ン ソ ン(J.G.Wilkin- son)で あ り,彼 の 手 記 が 現 在 の と こ ろ 唯 一 の ま と ま っ た 資 料 で あ る。 そ の 後 ガ

ー デ ィナ ー(A .H.Gardiner)や ウ ェ イ ゴ ー ル(A.Weigall)が 墓 を 訪 れ,ア メ

ン ヘ テ プⅢ 世 期(?)の 墓 で あ る と年 代 付 け た 。 ポ ー タ ー とモ ス(B.Porter&

R.Moss)の:Topographical-Bibliographyも,こ の 年 代 を 受 け 入 れ て い る 。 こ れ

に 対 し,ヘ ル ク(W.Helck)はUrkundenの 中 で,TT 46を ア メ ン ヘ テ プIV世

の 初 期 の 墓 と して ラ ー メ ス の 称 号 を 記 載 し て い る 。 ま たN.G.デ イ ウ ィ ス(N. de G.Davies)も 手 記 を 残 し,ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 お よ びⅣ 世 治 下 の 墓 で あ る と し

てい る。 これ らの年代決定の主 な根拠 はラーメスの称号 にアテ ン神 とアメ ン神 に関わ る称号が同時 に確認 され ることであ り,ア メ ンヘ テプⅢ世 とアメ ンヘ テ

プⅣ 世 の 共 同 統 治 期 に 属 す る墓 と推 測 さ れ た もの と思 わ れ る。

1979年,グ レー フ ェ(E.Graefe)は 前 述 の ウ ィ ル キ ン ソ ン の 手 記 を再 検 討 し,

ラ ー メ ス が ア テ ン神 と ア メ ン神 の 称 号 を 同 時 に持 っ て い る こ と か ら,こ の 人 物

の 年 代 比 定 に 関 して ア マ ル ナ 時 代 以 前 と以 後 の 二 つ の 可 能 性 を 述 べ,ウ ィル キ

21 ンソンの手記 に残 された不明瞭なカル トゥーシュの最初 に見 られ る 「ラー」 の

サイ ンの解読が年代決定の手懸 りにな るとしているが,明 確 な主張 は していな

い 。

1991年 に は ボ ー レ ケ(B.Bohleke)が,そ の 博 士 論 文 の 中 で,こ れ ま で の 資

料 を再 検 討 し,ラ ー メ ス を トゥ トア ン ク ア メ ン 王,ア イ 王,さ ら に ホ ル エ ム へ

ブ 王 の 治 世 初 期 ま で 仕 え た 高 官 で あ る と し て い る 。

1998年 に は カ ン プ(F.Kampp)が,テ ー ベ ・ネ ク ロ ポ リス の 包 括 的 な 研 究Die

Thebanische Nekoropoleの 中 で 墓 の プ ラ ン,エ レ ベ ー シ ョ ン の 略 図 と基 本 的 な

情 報 を ま とめ て い る が,彼 女 は,TT 46は ま ず 第17王 朝 末 か 第18王 朝 初 期 に 造

営 さ れ,そ の 後,ア メ ンヘ テ プⅢ 世 お よび ア メ ン ヘ テ プⅣ 世 の 治 世 に ラ ー メ ス

の 墓 と し て 再 利 用 さ れ た と して い る。

Ⅱ. 被 葬 者 ラ ー メ ス を め ぐ っ て

Topographical Bibliographyに よ れ ば,ラ ー メ ス は 「家 令 」 お よ び 「上 下 エ ジ

プ トの 穀 倉 長 」の 称 号 を持 っ て い た と され る が,ヘ ル ク のUrkundenに は,「 真

の 王 の 書 記 」,「ア テ ン神 殿 の 家 令 」,「右 手 の 扇 持 ち 」,「上 下 エ ジ プ ト穀 倉 長 」

の 称 号 が 記 さ れ て い る。 こ れ ら に 加 え,ウ ィ ル キ ン ソ ン の 手 記 に は 「厩 の 監 督

官 」,「メ ン ・セ トの ア メ ン 大 司 祭 」 の 称 号 も 記 され て い る 。 筆 者 の 第46号 墓 の

観 察 の 結 果,確 認 で き た ラ ー メ ス の 称 号 は 以 下 の とお りで あ る。

1. ss-swt m)(mr.f「 彼 が 愛 す る真 の 王 の 書 記 」

2. ss-nswt「 王 の 書 記 」

3. t)y hw nswt hr wnrny「 王 の 右 手 の 扇 持 ち 」

4. imy-r pr「 家 令 」

5. imy-r pr m t) hwt p)'Itn「 ア テ ン 神 殿 の 家 令 」

6. hm-ntr tpy n'Imn m Mn-st「 メ ン ・セ トの ア メ ン大 司 祭 」

7. imy-r ssmwt n nb t)wy「 二 国 の 主 の 厩 の 監 督 官 」

8. imy-r snwty「 穀 倉 長 」

9. imy-r snwty nw rsw mhw「 上 下 エ ジプ ト穀 倉 長 」

お も な 形 容 辞

22 hsy n hmt-ntr'I(h-ms Nfrt-iry「 神 の 妻 イ ア フ メ ス ・ネ フ ェル トイ リ に称 え ら

れ し も の 」

以 上 の 称 号 は,明 ら か に ラ ー メ ス が,ア メ ン神 とア テ ン神 が 並 存 して い た 時

代 の 人 物 で あ る こ と を 示 し て い る 。 近 年 の サ ッ カ ー ラ に お け る 新 王 国 時 代 の 墓

地 の 発 掘 で は,ト ゥ トア ン ク ア メ ン 王 時 代 の 「ア メ ン牧 牛 長 」 イ ニ ウ イ ア の 息、

子 ラ ー メ ス とパ ・イ ン ヘ リが 「ア テ ン神 殿 の 宝 庫 の 書 記 」 の 称 号 を有 し て い た

こ とが 明 ら か に な っ て い る 。 さ ら に,2001年 に は,ト ゥ トア ン ク ア メ ン 王 時 代

のアテン大 司祭 メ リネイ トの墓 が発見 された。 これ らの証拠 は,前 述の ように

ポス ト・アマルナ時代 において もしば ら くはアテン神殿 が機能 していたことを 示唆す る。テーべのアテ ン神殿 はアクエ ンアテン王がアメ ンヘ テプⅣ 世 と名乗 っていた治世初期 に建設が開始 され た。 また,当 時神殿 に使 えていた役人の名

前 も知 られ て い る 。 ア ク エ ン ア テ ン 王 の 死 後,ト ゥ トア ン ク ア メ ン 王 の 治 世 に

お い て,ア テ ン神 殿 の 建 材 の タ ラ タ ー トが 再 利 用 さ れ た こ とが 近 年 明 ら か に な

っ て い る が,カ ル ナ ク の ア テ ン神 殿 が 本 格 的 に 解 体 さ れ た の は ホ ル エ ム ヘ ブ 王

の 治 世 で あ り,そ れ ま で は 機 能 し て い た と考 え ら れ る。 ラ ー メ ス の 称 号 「ア テ

ン神 殿 の 家 令 」 は ア ク エ ン ア テ ン王 の 死 後,テ ー ベ で も ア テ ン 神 殿 が しば ら く

の 間 機 能 して い た こ と を 示 す こ と に な ろ う。

「ア テ ン神 殿 の 家 令 」 と並 立 に 表 記 さ れ て い る称 号 「メ ン ・セ トの ア メ ン 大

司 祭 」 と形 容 辞 「神 の 妻,イ ア フ メ ス ・ネ フ ェ ル トイ リ に 称 え ら れ し も の 」 は

第18王 朝 初 期 の ア メ ン ヘ テ プⅠ 世 の 妻 で,神 格 化 さ れ た イ ア フ メ ス ・ネ フ ェ ル

トイ リの 祭 祀 に ラ ー メ ス が 関 わ っ て い た こ と を 示 し て い る 。 メ ン ・セ トは テ ー

ベ 西 岸 の イ ア フ メ ス ・ネ フ ェル トイ リの 記 念 神 殿 を指 し,位 置 的 に は 東 岸 の カ

ル ナ ク,ア メ ン大 神 殿 と ナ イ ル 川 を挟 ん で 対 に な る。 イ ア フ メ ス ・ネ フ ェ ル ト

イ リ の 祭 祀 は ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 に お い て もテ ー ベ 西 岸 で 普 及 し,同 時 代 の

ネ フ ェル ヘ テ プ(TT 49)も イ ア フ メ ス ・ネ フ ェル トイ リ と ア メ ンヘ テ プⅠ 世 を

礼 拝 す る 図 を 墓 に 描 い て い る。

「上 下 エ ジ プ ト穀 倉 長 」 と い う称 号 は,t)ty「 宰 相 」,imy-r htm「 財 務 長 官 」, imy-r pr wr「 大 家 令 」 に 次 い で 重 要 な 行 政 官 職 で あ る 。 「上 下 エ ジ プ ト穀 倉 長 」

は エ ジプ ト全 土 か らの 租 税 と し て穀 物 の 徴 収 ・記 録 ・再 分 配 を 担 当 す る 官 職 で,

こ れ ま で 知 ら れ て い る ア メ ンヘ テ プⅢ 世 時 代 の 「上 下 エ ジプ ト穀 倉 長 」 に は,

23 シ ェ イ ク ・ア ブ ド・ア ル ニ ク ル ナ に 墓(TT 57)が あ る カ エ ム ハ トが い る 。 カ エ

ム ハ トは ア メ ンヘ テ プⅢ 世 の 治 世 第34年 の 第2回 セ ド祭 と治 世 第37年 の 第3回

セ ド祭 に 参 加 した 記 録 が あ り,彼 が ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 の 治 世 の 最 末 期 ま で,「 上

下 エ ジ プ ト穀 倉 長 」 の 職 務 に あ た っ て い た こ と が 判 明 し て い る。 し た が っ て,

ラ ー メ ス が ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 の 治 世 に お け る 「上 下 エ ジプ ト穀 倉 長 」 で あ っ た

と す るPorter & Mossの 記 述 は 受 け 入 れ が た い 。

さ ら に,ラ ー メ ス が ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 の 人 物 で あ る こ と を 裏 付 け る証 拠

と し て,カ イ ロ博 物 館 に 収 蔵 さ れ て い る ア イ 王 治 世 第3年 の ス テ ラ(図6)が

あ る。 こ の ス テ ラ は,ア ルニ ギ ー ザ に あ る ク フ 王 の 王 妃 の ピ ラ ミ ッ ド南 端 に 位

置 して い た イ シ ス 神 殿 に 奉 納 さ れ た も の で,ア イ 王 が 治 世 の 第3年 に,あ る新

婚 夫 婦 に 対 し贈 物 と して 領 地 を 下 賜 し た こ とが 記 さ れ て い る 。154ア ロ ー ラ の 土

地 区 画 を 決 定 した 後,領 地 の 提 供 に あ た る 責 任 者 の 名 前 が 記 述 さ れ て お り,そ

の 中 にss-nswt「 王 の 書 記 」,imy-r snwty「 穀 倉 長 」 ラ ー メ ス とそ の 部 下 の 書 記

メ リ ラ ー,チ ャ イ ら の 名 が あ る 。 同 様 の 任 務 は ア メ ンヘ テ プⅢ 世 時 代 の 「上 下

エ ジ プ ト穀 倉 長 」で あ っ た カ エ ム ハ トの 墓(TT 45)に も描 か れ て お り,テ ー ベ

第46号 墓 の ラ ー メ ス と 同 一 称 号 を持 つ ラ ー メ ス が 他 に 見 当 た らな い こ と か ら,

同 一 人 物 で あ る こ と は ほ ぼ 間 違 い な い もの と思 わ れ る 。

ま た,ss-nswt「 王 の 書 記 」,imy-r pr wr「 大 家 令 」,imy-r snwty「 穀 倉 長 」 の

称 号 を持 つ ラ ー メ ス な る人 物 の 方 形 彫 像 が あ る。 こ れ は テ ー ベ 出 土 と さ れ て い

るが,正 確 な 出 土 場 所 は わ か っ て い な い 。 年 代 は 第19王 朝 か ら 第20王 朝 に 比 定

さ れ て い る。 頭 部 が 欠 損 し て い る た め,顔 の 特 徴 か らの 年 代 決 定 は 困難 で あ る

が,シ ュ ル ツ(R.Schultz)に よ れ ば,中 央 にハ トホ ル 女 神 を 象 っ た シ ス ト ラ ム

が 彫 られ て い る 方 形 彫 像 は ラ メ セ ス 朝 に 比 定 され る とい う。 し か し な が ら,ラ

メ セ ス 朝 に ラ ー メ ス と い う名 の 「穀 倉 長 」 は 他 に 確 認 さ れ て い な い 。 ポ ス ト ・

ア マ ル ナ 時 代 の 美 術 は 第18王 朝 の 古 典 様 式 か ら ラ メ セ ス 朝 の様 式 へ の 移 行 期 に

位 置 付 け ら れ る の で,こ の 方 形 彫 像 の ラ ー メ ス がTT 46の 被 葬 者 と 同 一 人 物

で あ る 可 能 性 は 排 除 で き な い 。

最 後 に ラ ー メ ス の 家 族(図7)に つ い て 若 干 の 考 察 を し た い 。 ラ ー メ ス の 妻

の 名 は ネ フ ェル トカ ア(Nfrt-h()で あ り,sm)yt n'Imn「 ア メ ン神 の 歌 い 手 」, nbt pr「 家 の 女 主 人 」 の 称 号 と と も にhsyt n Hwt-Hr「 ハ トホ ル 神 に称 え られ し

も の 」 の 形 容 辞 を 持 つ 。 彼 女 の 「ア メ ン神 の 歌 い 手 」 の 称 号 の ア メ ン神 名 は 削

24 除 さ れ て い な い 。 彼 女 以 外 に 妻 の 名 前 が 認 め ら れ な い の で,ラ ー メ ス の 妻 は彼

女 一 人 で あ っ た と思 わ れ る。 ラ ー メ ス と ネ フ ェル トカ ア の 間 に は2人 の 息 子 と

3人 の 娘 が い た こ とが 墓 壁 画 と碑 文 か ら 明 ら か で あ る 。

息 子 イ ウ('Iw)はss-nswt m)(mr.f「 彼 が 愛 す る 真 の 王 の 書 記 」 お よ び imy-r ms( n nb t)wy「 二 国 の 主 の 将 軍 」 で あ る。 他 の 同 時 代 の 碑 文 資 料 に は 彼

の 言 及 は 見 当 た ら な い 。 ラ ン ケ(H.Ranke)に よ れ ば,こ の 名 前 は 古 王 国 時 代

と 中 王 国 時 代 に 類 例 が あ る だ け で あ る 。2番 目 の 息 子 ア イ('Iy)は,ss-nswt m)(mr.f「 彼 が 愛 す る真 の 王 の 書 記 」お よ びhm-ntr n 'Imn「 ア メ ン神 の ヘ ム ・

ネ チ ェ ル 神 官 」 で あ り,壁 画 に は 豹 の 毛 皮 に星 辰 の 柄 の 衣 装 を纏 っ た セ ム 神 官

の 姿 で 描 か れ て い る。 彼 の 称 号 に 含 ま れ る ア メ ン神 名 も削 除 さ れ て い な い 。 神

官 と し て 父 の 埋 葬 と祭 祀 に携 わ っ た 息 子 の 称 号 に お い て ア メ ン神 の 名 が 無 傷 の

ま ま で あ っ た と い う こ と は,ラ ー メ ス が ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 に 世 を 去 っ た こ

と を示 唆 して い る 。 息 子 ア イ が ア メ ン 神 官 で あ る事 実 も,ラ ー メ ス が ポ ス ト ・

ア マ ル ナ 時 代 の 人 物 で あ っ た こ と を 補 完 す る も の と考 え ら れ る。

ラ ー メ ス の3人 の 娘 の 名 前 は2名 しか 確 認 さ れ ず,銘 文 が 最 も 明 瞭 な の は 三

女 と思 わ れ,るテ イ(tiy)で,「 家 の 女 主 人 」 と 「ア メ ン 神 の 歌 い 手 」 の 称 号 を持

つ 。 次 女 は ト ゥイ(twy)と 読 め る が,称 号 は 判 読 不 可 能 で あ る 。

ラ ー メ ス と そ の 家 族 の 像 の 顔 面 部 は 墓 全 体 に わ た っ て 人 為 的 に 消 さ れ て い る。

こ れ は お そ ら く ラ ー メ ス が ア テ ン神 殿 の 経 営 に 関 わ っ て い た か らで あ り,前 述

の ア テ ン神 名 の 削 除 と 同 時 期 に 実 施 さ れ た も の と思 わ れ る。

Ⅲ. 第46号 墓 の 造 営 年 代 に つ い て

① 第1期

第46号 墓 の 造 営 年 代 は,カ ン プ が 既 に指 摘 し て い る よ う に2期 あ っ た と考 え られ る(図2)。 墓の本来 のプ ランは正面 に6本 の角柱 と2本 の半角柱 のポルテ ィコを持 つT字 型で,横 長矩形の奥室の西側 に埋葬 室につなが るシャフ トを穿 ったプ ランであったと思 われ る。その根拠 としては,墓 内部の前室 と奥室の問 の列柱 は後 に拡張 され,本 来は単純 な通廊であったことが明瞭であること,列

柱の奥 にあ る奥室の面積が横に広 いこと,角 柱の ポルテ ィコを正面 に備 えた墓 は第18王 朝 中期以降 には採用 されていない ことが挙げ られ る。正面 に角柱 のポ

ル テ ィ コ とT字 型 の プ ラ ン を 持 つ 墓 は,所 謂 「サ ブ 墓 」 と して 中 王 国 時 代 以 来

25 テ ー ベ ・ネ ク ロ ポ リス で 普 及 し た 型 式 で あ り,同 墓 の 位 置 す る シ ェ イ ク ・ア ブ

ド・アル ニクルナの丘 には同型式の墓が多 く造営 されて いる。 これ まで18王 朝 初期 にお ける同型式の岩窟墓 は,中 王国時代 の岩窟墓 を模倣 して造営 された と

考 え られ て い た が,ジ ョベ ク(E.Dziobek)は,実 際 そ れ ら の 墓 は 中 王 国 時 代 に

造 営 さ れ た も の で,第18王 朝 に 再 利 用 さ れ た と指 摘 して い る。 彼 は 特 に イ ネ ニ

の 墓(TT 81)を 例 に 挙 げ,第18王 朝 初 期 の 岩 窟 墓 の 成 立 に つ い て 考 察 し て い る

が,イ ネ ニ の 墓 は6本 の 角 柱 と2本 の 半 角 柱 を正 面 ポ ル テ ィ コ に 備 え,中 央 に

奥 室 に 繋 が る 通 廊 を 備 え て い る こ とか ら,TT 46の 第1期 の プ ラ ン と ほ ぼ 同 じ

プ ラ ン で あ る こ とが 指 摘 で き よ う。 さ ら に,ロ エ リ グ(C.H.Roerig)は,中 王

国 時 代 の シ ェ イ ク ・ア ブ ド ・ア ル ニ ク ル ナ の 丘 に お け る岩 窟 墓 の 分 布 図 を 作 成

し,TT 46を 中 王 国 時 代 に 造 営 さ れ,た墓 に 含 め て い る。

こ れ に 対 しカ ンプ は,TT 46を 第17王 朝 末 か 第18王 朝 初 期 に 造 営 さ れ た もの

としている。カ ンプ によれば,中 王国時代 におけるテーベの岩窟墓の型式は正

面に角柱 を備 えたポル ティコを持 ち,中 央通廊か ら正方形の奥室 に繋が るタイ プ(類 型Ⅲ)で あ り,第18王 朝 中期の型式 は角柱 の ポル ティコは持たず,入 口 か ら横長の前室があ り,中 央通廊か ら奥 室に繋が るタイプ(類 型Ⅴ)で あ ると い う。そ して,TT 46は それ らの中間型式 にあた る類型Ⅳbに 属 す るため,第

17王 朝 末 か ら第18王 朝 初 期 に 年 代 づ け ら れ る と い う。 特 に ポル テ ィ コ か ら 中 央

通 廊 へ の 入 口 が 狭 くな っ て い る こ と も,こ の 墓 が 中 王 国 時 代 の も の で な い こ と

を 示 唆 す る 。 ま た,カ ン プ に よれ ば,こ の 型 式 の 墓 の 年 代 は,墓 内 の 文 字 資 料

か ら も裏 付 け ら れ,第17王 朝 の 墓 域 が あ っ た ドゥ ラ ・ア ブ ー ・ア ル ニ ナ ガ 地 区

に 多 く,第18王 朝 に 比 定 さ れ る 数 基 が シ ェ イ ク ・ア ブ ド ・ア ル ニ ク ル ナ 地 区 に

散在 す るという。 この ように,TT 46の ように角柱 のポル ティコを備 えた第18王 朝初期のテー ベ岩窟墓 の成立につ いては,中 王国時代 の再利 用であるとする説 と,中 王国時

代以来 のテーベ における 「サブ墓」が第17王朝末 か ら第18王 朝 にかけて発展 し たもの とす る説の2つ に意見が分かれ るようである。 ジ ョベクは,イ ネニの墓 におけ るポル ティコの各角柱 の間が 日乾煉瓦 と泥漆喰で封鎖 され ていることを

指摘,本 来彼の墓であればそのような処理 は しない と主張 し,再 利用の根拠 に してい る。TT 46は 彼が作成 した第18王 朝初期 の再利用墓の リス トか ら省かれ ているが,彼 が例 にあげた数基の墓 と同様 に,ポ ル ティコの角柱 の間が 日乾煉

26 瓦 と泥漆喰で封鎖 され ている。 しか し,TT 46の 場合 は中央通廊 の正面 も閉塞 されているため,お そ らく第18王 朝 に封鎖 された とい うよりは,む しろそれ以 降の時代 に封鎖 され た もの と推 定 され る。墓の内部にはコプ ト時代 に記 された と思 われ る十字架 の落書 きが認め られ,墓 の上部 にも同時代の煉瓦構造の一部 と考 え られ るものが あるため,筆 者は,こ れ らはコプ ト時代 に再利用 された痕 であ り,墓 のポルテ ィコの封鎖 もその頃に施 された もの と判断 して いる。 した が って,第1期 と,ラ ーメスの時代 の第2期 も墓の正面 ポル テ ィコが開 口した 状態だったのではなかろうか。すなわちカンプが指摘す るように,正 面に角柱 のポル テ ィコを備 える墓 は中王国時代 だけの型式だけではな く,第18王 朝初期 において も発展形 態 として存続 していた と考 えられ る。 ジ ョベ クの論拠は遺構 全体 の コンテクス トの中で再検 討す る必要が あ り,封 鎖 に使用 した煉瓦 の年代

も詳細に調べ る必要があろう。本稿 は,第18王 朝初期 の岩窟墓の形態につ いて の論考 を目的 としていないが,筆 者はカ ンプが主張するように,第46号 墓 は最 初 に第17王 朝末 あるいは第18王 朝初期 に造営 された可能性が高 いと考 える。

② 第2期 TT 46が 再利用 された第2期 は言 うまで もな く,ラ ーメス による再利用の時

期 である。墓 の平面図(図2)か ら明 らかなように,ラ ーメスの時期 に墓の 中 央 の前室か ら奥室 にかけての中央通廊 の両側 に柱 が作 られ内部構 造が拡張 され た。最終的には6本 の柱 が完成 し,7本 目の柱 が切 り出され,8本 目の柱 を作 る予定であった と思われ るが,未 完成 に終 わっている。現在 では完成 した6本 の柱の うち,奥 の西側 の柱 が崩壊 しているが,残 りの5本 の柱 には中央通路側 とその両側面 に壁画が施 されている。柱外側の部屋 の壁面 にはプラスターの痕 があ り,お そ らく本来 は表面整形が施 された と思 われるが,現 在 では壁面 がほ とん ど崩落 している。前室では東端部の柱の北面 に壁画が残 され,西 端部 の南

面に レリー フ(図3)が それぞれ施 されている。 また中央通廊 開口部の天井付 近には太陽円盤 を頂 くケケル ・フ リーズの跡が確認 され,天 井 にはジグザグ紋 が部分的 に残存 している。奥室 に関 しては中央の壁龕 に装飾 が残 され,壁 龕横 の東側 の壁 に壁画が残存 している。TT 46の ように岩窟墓内部 の中央通廊両脇 に柱 を多数作 る型式 はラメセス朝 に多 く,カ ンプはこの型式 の墓 を類 型Ⅶcと

して お り,TT 46を そ の 中 に含 め て い る 。 しか し,ア メ ンヘ テ プⅢ 世 時 代 の 大

27 型 岩 窟 墓 に も宰 相 ラ ー メ ス の 墓(TT 55),ア メ ン ヘ テ プ ・ス レル の 墓(TT 48),

ケ ル エ フ(TT192)な ど の よ う に 中 央 通 廊 両 脇 に 柱 を備 え る もの が あ る 。 こ の

よ う な特 徴 を もつ 墓 は 古 くて も ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 の 治 世 の もの で,ラ メ セ ス 朝

を 通 じて 見 る こ とが で き る と 言 え る。

さ て,問 題 の 被 葬 者 ラ ー メ ス の 年 代 で あ る が,ま ず 碑 文 資 料 か ら見 て い くこ

と に す る 。 グ レ ー フ ェ は 墓 内 部 の 柱 の 壁 面 に記 さ れ た 王 の カ ル トゥ ー シ ュ の 解

読 が 年 代 決 定 の 鍵 に な る と して い るが,筆 者 が 観 察 し た 限 りで は,カ ル ト ゥ ー

シ ュ は ほ ぼ 欠 損 状 態 に あ り,か ろ う じ て 太 陽 円 盤 ラ ー(R()の サ イ ン が 読 め る

程 度 で あ り,こ れ を 年 代 決 定 の 証 拠 とす る の は 不 可 能 で あ る。

こ れ ま で ラ ー メ ス は ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 あ る い は,同 王 お よ び ア メ ンヘ テ プ Ⅳ

世 の 治 下 の 人 物 で あ る とす る 説 が 主 流 で あ る。 そ の 根 拠 と して は ア メ ン 神 と ア

テ ン神 に 関 わ る称 号 が 同 時 に 記 さ れ て い る こ とが 指 摘 さ れ て い る が,筆 者 の 観

察 で は 墓 内 部 の 碑 文 の ア メ ン 神 名 は 削 られ て お らず,ア テ ン神 名 だ け が 削 られ

て い る。 カ ンプ に よ れ ば デ イ ヴ ィス の 手 記 に ラ ー メ ス の 称 号 で あ るimy-r pr m t) hwt p)'Imn nb-ntrw「 神 々 の 王,ア メ ンの 神 殿 の 家 令 」 の 碑 文 がimy-r pr m t) hwt p)'Itn「 ア テ ン神 殿 の 家 令 」 に 書 き か え られ て い る と の 記 述 が あ る と さ

れ る が,実 際 に そ の よ う に 改 竄 さ れ た 痕 は な く,明 らか にimy-r pr m t) hwt p) 'Itn「ア テ ン神 殿 の 家 令 」の 記 述 が 確 認 で き る前 室 西 端 部 の 北 壁 に は ア テ ン神

の 名 前 が 縦 に 削 ら れ た 痕 が 観 察 で き る(図3)。 ま た,同 東 端 部 の 柱 に もimy-r pr m t) hwt p//////「 … … 神 殿 の 家 令 」 と あ り,同 じ壁 に 記 さ れ た ア メ ン神 の

名 が 破 壊 を受 け ず に残 さ れ て い る こ とか ら,ア テ ン 神 の 名 前 が 削 除 さ れ た と考

え られ,る。 ア ク エ ン ア テ ン王 の 治 世 に は,ア メ ン 神 信 仰 排 斥 の た め,エ ジ プ ト

全 土 の 記 念 建 造 物 や 墓 で ア メ ン 神 の 名 前 が 削 除 さ れ た 。 テ ー ベ ・ネ ク ロ ポ リ ス

も例 外 で は な く,多 くの 墓 で ア メ ン神 名 が 削 られ て い る 。 ア テ ン 神 は,ア マ ル

ナ 宗 教 改 革 の 挫 折 に よ り,主 神 と して の 地 位 は 退 い た も の の,ア ク エ ン ア テ ン

王 の 死 後 も し ば ら く崇 拝 さ れ て い た よ う で あ り,メ ン フ ィ ス の ア テ ン神 殿 は 第 19王朝のセテ ィⅠ世の治世 まで存続 していたこ とが明 らかである。アテ ン神信

仰 に関連す る記念物の本格的 な破壊活動が開始 されたのは,ホ ルエムヘ ブ王の 治世 とされ る。 したが って,TT 46に 認め られ るアテ ン神名の削除は,お そら くホルエムヘ ブ王の治世以 降に実施 された もの と考 えて よかろう。では何故ア メ ン神の名前が削 られていないのであろうか。 もしTT 46が アマルナ時代以

28 後 に装飾 されたのであれば,ア メ ン神名 は破壊 を受 けるはずはな く,こ の疑 問 に説明がつ くので ある。 墓内部の壁画資料 も年代決定の証拠 とな る。壁面 には白の背景 色 と青色の銘

文,そ して 天 井 付 近 の 銘 文 帯 に は 黄 色 の 背 景 色 と青 色 の 文 字 が 採 用 さ れ,壁 画

の 色 調 は 第18王 朝 初 期 か ら の 伝 統 を踏 襲 して い る 。 しか し な が ら,太 陽 円 盤 を

もつ ケ ケ ル ・フ リー ズ は 宰 相 ラ ー メ ス の 墓 を は じめ,ア メ ンヘ テ プⅢ 世 時 代 以

降 の 墓 に お け る ケ ケ ル ・フ リ ー ズ の 特 徴 で あ り,王 墓 で も ホ ル エ ム ヘ ブ 王 墓

(KV57)や ラ メ セ ス1世 王 墓(KV16)で 採 用 され て い る。墓 の 壁 面 に 描 か れ

た ラ ー メ ス と そ の 家 族 の 人 物 像 は ア マ ル ナ 美 術 の 影 響 も色 濃 く残 し て お り,同

墓 が 第18王 朝 の 末 期 に再 利 用 さ れ た こ と は ほ ぼ 疑 い が な い 。 特 に,ラ ー メ ス の

頭 部 は や や 長 め で あ り,首 に は ア マ ル ナ 時 代 か ら特 徴 的 な2本 の 皺 が 看 取 さ れ

る。 衣 服 は 非 常 に 細 か い プ リ ー ツ の 入 っ た キ ル トで 表 現 さ れ て お り,腹 部 の 膨

ら み が 強 調 さ れ て い る(図4)。 ま た 頭 部 は や や 細 長 く描 写 さ れ て い る 。ア メ ン

ヘ テ プⅣ 世 時 代 の テ ー ベ の 代 表 的 な 貴 族 墓 に は ケ ル エ フ(TT 192),ラ ー メ ス

(TT 55),パ レ ン ネ フ ェル(TT 182)の 墓 が あ る が,TT 46の 人 物 像 と 比

較 す る とア メ ンヘ テ プⅢ 世 時 代 の 様 式 か ら脱 し きれ て お らず,比 較 的 規 範 に 近

い 様 式 を 保 っ て い る よ う に 思 わ れ る 。 ま た そ れ らの 墓 が 壁 画 で な く レ リー フ を

採 用 し て い る こ と も特 徴 の 違 い を 生 ん で い る。TT 46の 図 像 は む しろ,ポ ス

ト ・ア マ ル ナ 時 代 の ネ フ ェル ヘ テ プ の 墓(TT 49)や ア メ ンヘ テ プ ・ブ イ の 墓

(TT 40)の 壁 画 の 人 物 像 表 現 に類 似 し て い る 。な か で も,ラ ー メ ス の3人 の 娘

は そ れ ぞ れ 頭 に冠 を 戴 き,プ リー ツ の 細 か い 長 い衣 装 を 纏 い,右 手 に シ ス トラ

ム を持 ち,左 手 で 礼 拝 す る姿 で 柱 に 描 か れ,てい お り,長 女 と思 わ れ る先 頭 の 女

性 の 姿 が も っ と も大 き く描 か れ,次 女,三 女 と姿 が 小 さ くな る よ う に 描 か れ て い る が,こ れ は ア マ ル ナ の 岩 窟 墓 に描 か れ た ア ク エ ン ア テ ン王 の 王 女 の 描 か れ

方 に 類 似 して い る。 ま た こ れ らの 娘 の 姿 や 髪 型 の 描 写 は,ネ フ ェ ル ヘ テ プ の 墓

(TT 49)の も の と も近 似 して い る。

奥 室 正 面 の 右 壁 に は ラ ー メ ス が キ オ ス ク の 中 に座 る オ シ リス 神 に 供 物 を捧 げ

る 図(図5)が 描 か れ て い るが,ス ト ラ ドウ ィ ッ ク(N.Strudwick)が 指 摘 す

るようにオシ リス神の図像 はアマルナ時代以降顕著 になった。 またオ シ リス神 の前にある供物台はアマルナ時代以前の第18王朝 の もの よりも入念で豪華であ

り,燔 祭 も含 まれている。アマルナのアテン大司祭 メ リラーの墓 に描かれたア

29 クエ ンアテ ン王がア テン神 に捧 げる供物 台はTT 46の 供物 台 に類似 してい

る が,こ れ もア マ ル ナ 時 代 以 降 の テ ー ベ の 貴 族 墓 に お け る壁 画 の 特 徴 で あ る。

ま た,供 物 台 の 下 に 描 か れ た ア ン フ ォ ラ 壺 に は,肩 の 部 分 と胴 の 部 分 に 花 飾 り

が 付 け ら れ て い る が,こ れ も第18王 朝 末 期 以 降 の 特 徴 で あ る 。

以 上 の 点 か ら,TT 46の 第2期 は ア マ ル ナ 時 代 以 降 に 再 利 用 さ れ た と筆 者 は

考 え る 。

Ⅳ. 結 論

以 上 の 考 察 を 要 約 し,結 論 と し た い 。 ま ず,テ ー ベ 岩 窟 墓TT 46は お そ ら く

第17王 朝 末 か ら第18王 朝 初 期 に 造 営 さ れ,第18王 朝 末 に ラ ー メ ス の 墓 と して 再

利 用 さ れ た こ とが 推 測 さ れ た 。 ま た,第46号 墓 の ラ ー メ ス は碑 文,美 術 様 式 等

の 検 討 か ら,こ れ ま で 指 摘 され て い た ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 あ る い はⅣ 世 の 治 下 の

人 物 と い う よ り は,む しろ ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 の ト ゥ トア ン ク ァ メ ン 王 お よ

び ア イ 王 の 治 下 で 「上 下 エ ジプ ト穀 倉 長 」 な ど の 要 職 に 就 い た 人 物 で あ っ た 可

能 性 が 高 い 。 こ の 説 は ア ル ニ ギ ー ザ 出 土 の ア イ 王 第3年 の ス テ ラ や 息 子 ア イ が

ア メ ン 神 官 で あ る 事 実 か ら も補 完 さ れ る。 こ の こ と は,資 料 の 少 な い テ ー ベ に

お け る ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 の 貴 族 墓 に 新 た な 資 料 を追 加 す る こ と に な る だ け

で な く,ア ク エ ン ア テ ン 王 の 死 後,メ ン フ ィス だ け で な く テ ー ベ に お い て も ア

テ ン神 殿 が 機 能 し て い た こ と を 示 す 証 拠 を 提 供 す る もの で あ る 。

付 記 本稿 は2001年 に筆 者 が アメ リカ ン ・リサ ー チ セ ン ター特 別 研 究員 と してエ ジプ ト,ル ク ソ ール 西 岸 ・ア ル ニ クル ナ村 で実 施 した研 究 の成 果 の一 部 で あ る。 研 究 奨 励金 を交 付 して下 さっ たAmerican Research Center in Egyptお よびSarnuel H.Kress Founda- tionに 感 謝 致 し ます。ま た,遺 跡 調 査 の許 可 を下 さった エ ジプ ト考 古 最 高 会議(Supreme Council of Antiquities)長 官 ガバ ッ ラ ・ア リ ・ガバ ッラ博 士(当 時)お よび考 古 最 高会 議 の メ ンバ ー,現 地 で お世 話 に な ったル ク ソール お よび上 エ ジプ ト遺 跡 の最 高責 任 者 サ ブ リ・アブ デル ニ ア ジー ズ氏(当 時,現 エ ジプ ト遺 跡 総 局長),ル ク ソー ル 西岸 遺 跡 事務 所 所長 ムハ ンマ ド ・ベ ア リー 氏,査 察 官エ ッズ ・アル ニ デ ィー ン氏 に感 謝致 します 。 そ して,本 稿 は2002年4月 に ボル テ ィモア の ジ ョンズ ・ホプ キ ンス 大 学 で 開催 され た ア メ リカ ン ・リサ ー チ セ ンタ ー第53回 大 会 で 発表 した 原稿 に加筆 修 正 した もので あ る。 現地 研 究 の 際 お よび本 稿 を草 す るに あ た って貴 重 な ご教 示 を下 さ った ジ ョンズ ・ホプ キ ンス大 学 の べ ッツイ ・ブ ライ ア ン教 授 に感 謝致 します。 また,常 に筆 者 に たい し激 励

30 を惜 しまず,貴 重 な ご指 導 を下 さっ て い る早 稲 田大 学 の 吉村 作 治 教授 と草稿 を閲 読 し, 貴 重 なご教 示 を下 さっ た近 藤 二 郎 助教 授 に感 謝 致 します。 最 後 に,筆 者 に貴 重 な情 報 を提供 して下 さっ た レイ モ ン ド ・ジ ョン ソ ン博 士(ル ク ソ ール ,シ カ ゴハ ウス所 長),ブ ライ ア ン ト・ボー レケ 博 士(シ カ ゴハ ウス),リ チ ャー ド・ フ ァ ッ ジー 二博 士(ブ ル ック リン美 術 館 古代 エ ジプ ト室長),ヤ コブ ス ・フ ァ ン ダイ ク博 士(グ ロー ニ ンゲ ン大 学)に 感 謝 致 します 。

略 号 は,Lexikon der Agyptologieお よ びAnnual Egyptological Bibiliographyに 従 っ た 。

(1) メ ン フ ィ ス の ネ ク ロ ポ リ ス に 関 し て は,J.van Dijk,"Development of the Mem- phite necropolis in the post Amarna Period," in A.-P. Zivie (ed.), Memphis et ses necropoles au Nouvel Empire, Paris, 1988, 37-46.; G. T. Martin, "Memphis: the sta- tus of a residence city in the Eighteenth Dynasty," in M. Barta and J. Kreci (eds.),

Abusir and Saggara in the year 2000,Prague,2000,99-120.を 参 照 。

(2) TTと はTheban Tornbの 略 号 で あ る 。

(3) W.Helck,Urkunden IV,2109-2110,4.

(4) ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 と は い わ ゆ る ア マ ル ナ 時 代 以 降 の 第18王 朝 末 期 を 指 す 。

(5)テ ー ベ 西 岸 に お け る 他 の ポ ス ト ・ア マ ル ナ 時 代 の 岩 窟 墓 に つ い て は 稿 を 改 め て 考

察 す る 予 定 で あ る 。

(6) J.G.Wilkinson,MS V,74-75.(オ ッ ク ス フ ォ ー ド大 学 グ リフ ィ ス 研 究 所 蔵) (7) S. R. K. Glanville, "Some Notes on Material for the Reign of Amenphis III,"

JEA 15 (1929),6,n.1.な お,ガ ー デ ィ ナ ー の 手 記 の コ ピ ー は,ベ ッ ツ ィ ・ブ ラ イ ア ン

教 授 に 閲 覧 させ て 頂 い た 。 こ こ に 記 して,感 謝 し た い 。

(8) PM-I2,86-87.

(9) 称 号 の 日本 語 表 記 に 関 して は,屋 形 禎 亮 「エ ジ プ ト第18王 朝 に お け る 神 官 任 命-

王 の 任 命 権 と神 官 団-」 『東 京 教 育 大 学 文 学 部 紀 要 ・史 学 研 究 』76(1970年3月)を 参

考 に し た 。 (10) Helck, Urkunden IV, 1995, 10-14.; Helck, Zur Verwaltung des Mittleren und Neuen Reiches,Leiden,1958,390-391,500.(以 下,Verwaltungと 略 記 。)し か し な が

ら,Helckは こ の ラ ー メ ス が ア ル ニ ギ ー ザ 出 土 の ア イ の 治 世 第3年 の ス テ ラ に 認 め ら

れ る こ と を 記 し て い る 。

(11) Davies,MSS 11,1.

(12) 近 年 で は,ア メ ン ヘ テ プⅢ 世 とⅣ 世 の 共 同 統 治 を支 持 す る研 究 者 は 少 数 派 で あ る。

た と え ば,近 年Raymond Jonsonは12年 の 共 同 統 治 説 を 主 張 して い る。W,R.Johnson, "Images of Amenhotep III in Thebes: Style and Intentions ," in L. M. Berman (ed.),

The Art of.Amenhotep III:Art Historical Analysis,Cleveland,26-46.を 参 照 。

(13) E. Graefe, "Bemerkungen zu Ramose, dem Besitzer von TT 46," GM 33 (1979),

31 13-15. (14) B. Bohleke, The Overseers of Double Granaries of Upper and Lower Egypt in the Egyptian New Kingdom, 1570-1085 B. C. (Ph. D. Dissertation, Yale University), 1991, 244-249. (15) F. Kampp, Die Thebanische Nekropole, zum Wandel des Garbgedankens von der XVIII bis zur XX Dynastie, Theben 13, Mainz am Rhein, 1996, 244-247. (16) PM 12, 86.

(17) 注3を 参 照 。 (18) H. D. Schneider, "The Tomb of Iniuia: Preliminary Report on the Saqqara Excavations, 1993," JEA 79 (1993), 7-8. (19) M. Raven, "The Tomb of Merineith at Saqqara," Egyptian Archaeology 20 (Spring 2002), 26-28.

(20)例 え ば,テ ー べ ・ネ ク ロ ポ リス に 埋 葬 さ れ た ハ テ ィ ア イ はimy-r snwnty n t) hwt

p) 'Itn「ア テ ン神 殿 の 穀 倉 長 」 を 持 っ て い る 。G.Daressy,"RapPort sur la Trouvaille

de,ASAE2(1902),2-4を 参 照.

(22) W.R.Johnsonに よ れ ば,ト ゥ トア ン ク ア メ ン 王 の 治 世 に す で に カ ル ナ ク の ア テ

ン神 殿 の タ ラ タ ー トが 再 利 用 され た こ とが 明 ら か で あ る が,テ ー ベ の ア テ ン 神 殿 も少

な く と も セ テ ィⅠ 世 の 治 世 ま で 存 続 し て い た と い う(Personalcommunication)。

(23)メ ン ・ セ ト(Mn-st)に っ い て は,M.Gitton,L'Epouse du dieu Ahmes、Nefertary,

Paris,1975,18-19,76-73を 参 照 。

(24) N. de G. Davies, The Tomb of Neferhotep at Thebes, New York, 1933, pl. LI. (25) Helck, Verwaltung, 295.

(26)ア メ ンヘ テ プⅢ 世 の マ ル カ タ 王 宮 か ら カ エ ム ハ トの 名 前 を 含 む ヒ エ ラ テ ィ ッ ク ・

イ ン ス ク リプ シ ョ ン の 書 か れ た ワ イ ン壺 の 破 片 が 出 土 して い る 。 治 世 第34年 の 第2回

セ ド祭 に つ い て は,W.C.Hayes,"lnscriptions from the Palace of Amenhotep Ⅲ,"

JNES 10 (1951),fig.12,no.161,160.治 世 第37年 の 第3回 セ ド祭 に つ い て は,Ibid,fig. 11,no.140を 参 照 。

(27) JdE 2809. C. M. Zivie, Giza au deuxieme millenaire, IFAO, Le Caire, 1976, 177-

182,Pl.13を 参 照 。 (28) J. J. Clere, Les cauves d', OLA 63, Leuven, 1995, 211-215. (29) R. Schultz, Die Entwicklung and Bedeutung des Kuboiden Statuentypus, Band II, HAB 34, Hildesheim, 1992, 687. (30) H. Ranke, Die Agyptischen Personnennamen, I., 16, no. 8. (31) Kampp, op. cit., 244-247. (32) D. Arnold, Grabung im Assasif, Bd. 1, Das Grab des Ini-Itj. f, Mainz am Rhein, 1971, 39.

32 (33) C. H. Roerig, "The Early Middle Kingdom Cemeteries at Thebes and the tomb of Djari," in J. Assmann et al. (eds.), Thebanische Beamtennekropolen, SAGA 12,

Heidelberg,1995,255-269を 参 照 。 (34) M. Wegner, MDIK 4 (1933), 42.; G.D.F. van den Boorn, "On the Date of "The Duties of the Vizier,"Orientalia 51 (1982),376,nn.45,46.を 参 照 。 代 表 的 な 例 と して

は デ ル ・ア ル ニバ ハ リの 中 王 国 時 代 の メ ン チ ュ ヘ テ プⅡ 世 記 念 神 殿 を 模 倣 し た 第18王

朝 の ハ トシ ェ プ ス ト女 王 記 念 神 殿 が あ る。 (35) E. Dziobek, "The Architectural Development of Theban Tombs in the Early Eighteenth Dynasty," in Assmann et al., Problems and Priorities in Egyptian Archae-

ology,London and New York,1987,78-79.な お,テ ー ベ ネ ク ロ ポ リス の 岩 窟 墓 の 再

利 用 に つ い て は,近 藤 二 郎 「ネ ク ロ ポ リ ス ・テ ー ベ に お け る 岩 窟 墓 の 再 利 用 の 問 題 」,

『史 観 』 第142冊,2001年,76-91頁 を参 照 。 (36) Doerig, op. cit., 258, fig. 2, 259. (37) Kampp, op. cit., 244-246. (38) Ibid., 21-23, 111-116. (39) Ibid., 114-116. (40) Ibid, 22-23. (41) Dziobek, op. cit., 72-3. (42) Kampp, op. cit., 31-32. (43) Ibid., 244.

(44)碑 文 は 次 の よ う に 記 さ れ て い る 。hsy n ntr nfr n k) n ss nsw m(mr.f imy-r pr m

t) hwt p) 'Itn, R(-ms,m)(-hrw,hsyt Hwt-hr,sm) yt n ('Imn Nfrt-h(w)「 良 き神 に 称 え

ら れ し者 よ 。 真 の 王 の 書 記,ア テ ン 神 殿 の 家 令,ラ ー メ ス,声 正 し き者 とハ ト ホ ル に

称 え ら れ し者,(ア メ ン 神)の 歌 い 手,(ネ フ ェ ル トカ ア),声 正 し き者 の カ ー の た め に 。」 (45) P. Der Manuelian. "Semi-Literacy in Egypt: Some Erasures from the Amarna Period" in E. Teeter and J. A. Larson (eds.), Gold of Praise: Studies on Ancient

Egypt in honor of Edward F.Wente,Chicago,1999,285-298参 照 。

(46) た と え ば,サ ッ カ ー ラ の ト ゥ トア ン ク ア メ ン王 の 治 世 の 高 官 パ ア イ の 墓 で は 「太

陽 神 へ の 賛 歌 」 の 中 で ア テ ン 神 へ の 祈 り の 言 及 が あ る。H.D.Schneider et al., "The tomb complex of Pay and Ra'ia: Preliminary report on the Saqqara Excava - tions, 1994 Season," OMRO 75 (1995), 20.

(47) セ テ ィⅠ 世 の 治 世 の パ ピ ル スRollin213番 にt) hwt p) 'Itn「 ア テ ン 神 殿 」 の 記 述

が あ る 。B.Lohr,"Ahanj□ti in Memphis,"SAK 2 (1975),146-147を 参 照 。

(48) 例 え ば,E.Dziobek,.Das Grab des Ineni Theben Nr.81,Mainz am Rhein,1992. (49) N. de G. Davies, The Tomb of Neferhotep at Thebes, New York, 1933, vol. I, pl. L, vol. II., pl. VII. (50) N. Strudwick, "Change and Continuity at Thebes: The Private Tomb after

33 ," in C. Eyre et al (eds.), The Unbroken Reed: Studies in the Culture and Heritage of in Honor of A. F. Shore, London, 1994, 326. (51) N. de G. Davies, The Rock Tombs of El Amarna, I, London, 1903, pl. XXII. (52) Sturdwick, op. cit., 325.

34 図1. TT46周 辺 図

(F.Kampp,Die Thebanische Nekropole,Mainz,1996,Teil Ⅱ,Beilage.Plan Ⅲ を 改 変)

35 図2. TT46平 面 略 図

(F.Kampp, Die Thebanische Nekropole,Mainz,1996,Teil I,Fig.143を 改 変)

36 図3. TT46.前 室 残 存 レ リー フ

図4. TT46.柱 に 描 か れ た ラ ー メ ス

37 図5. TT46.奥 室 オ シ リ ス 神 に 供 物 を 捧 げ る ラ ー メ ス

図6. ア イ 王 の 治 世 第3年 の ス テ ラ(JdE2809)

38 図7. ラ ー メ ス の 家 系 図

39