橡 九谷ジャズファンクラブ(Kjfc)会報groovy-34
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CONTENTS New York, New York, New York 前編 A.T.....1 ハービー・ハンコック研究・第1回 高木 信哉....4 「追悼 エルビン・ジョーンズ」 H.S.....9 Japan Jazz Junction ....11 「映画館」Live 開催 .....11 ライブレポート〈森山威男2デイズ-ジャズ・スポット「ドルフィー」 11 本 12 ご隠居と熊さん 14 Y' s ROOM NO.12 Y.S........18 カドやんのジャズ教室 vol.20 門倉洸太郎...20 レッド・ガーランドの魅力について 第18 回 紅 我蘭堂...21 RECORD CONCERT REPORT 25 M.S. T.S. H.S. 紅 我蘭堂 表紙及び本文中イラスト制作・・・・・水戸守敬一郎 このPDF版 GROOVY-34 は、印刷物として発行したものを基に新たにレイアウトしています。 したがって、一部印刷物とは異なる部分があります。 New York,New York,New York 前編 A.T. わたしがNYにはまり始めたのはいつのころだろう。 初めはカナダのトロントに留学していたこ ろ日本とカナダを行き来するのに直行便がなくて、NY経由でトロントに入った時、冬のNYで日暮れ も早く、乗り継ぎ便のトロント行きに乗ったときにはすでに真っ暗で空から本当にものすごい光の渦 と浮き上がるマンハッタンが目に飛び込んできた。座席から眼下を見下ろし後ろに遠のいていくその 光をずっと目で追っていた。 そのとき、この夜景を見るためだけにもう一度来たいと本当に心底思っ た。そして、今、NY に行き始めて7 ~8年になる。 年に何回かは突発的に行きたくなって自然と格安の航空券を探している自分がいる。このごろでは 上司からまで “昨日、通った旅行代理店で29000円って言うのを見たぞ” なんていわれる。 そこで わたしは“えっ、じゃあ行っていいってことかしら”と都合がいいほうに解釈し、早速行動に移すと いうわけである。 これだけ行っていれば当然いろんなことに出くわす。私としてはふーん、と思ったり、変なの、と 思ったりするだけのことだが、話すと皆さん驚いてくださるので、ちょっとだけご紹介することとし ます。 最初にNY に降り立ったとき、留学の帰り道だったので当然ながらお金がない。 泊まるのもすべてユースホステル。上限は一泊15ドルに設定していた。当時のユー スといえば、ピストルの音と、強盗にレイプ、トイレに行くときも命がけと言われ ていたところである。特に場所を選ばないとかなり危険なところに在ったりするの で行き帰りも注意を要した。あのころはジュリアーノが市長になるかならないか、 とりあえず、拳銃所持は認められていたと思う。ユースの定員ぎりぎりで漏れてし まった私はNY University の大学生でもあった管理人の取り計らいで管理人室の二 段ベッドの上段を貸してもらい、彼女と部屋をShareさせてもらったのであるが、 寝るとき念入りに拳銃の手入れをする彼女の姿に目が釘付けになった。じーーーっ と見ていると、“触ったことないの?”といわれたのでぶんぶんとかぶりを振ると “じゃ、触ってみる?”といわれ、安全装置をかけてもらって恐る恐る手に取っ た。冬のど真ん中ということもあるだろうが、あの冷たい感触、ずっしりと重い感じは本当に忘れら れない。シェルも見せてもらったが、こんな重いものが飛ぶのか?というのと、これを飛ばすことの できるほどの衝撃を作り出す拳銃って化け物だと思った。 とはいっても、私がじっとしているはずもなく、同じユースに宿泊していた子が、NY University に 受かり、アパートが決まったと聞き、深夜の地下鉄に乗り、同行していた友人と二人ブルックリンま で出かけて行き、朝方4時の地下鉄で帰ってきた。深夜の地下鉄にはDesignated Area という警官が 始終目を光らせている安全地帯があるのだが、そこにいる警官に_ なんだ、お前たちみたいなひよっ こがこんな時間に何している!!” なんていわれたり、親が聞いたら卒倒しそうなことをたくさんした。 3 一度、ユースに帰る途中に、後ろを私と同じ歩幅でつけてくる人がいることに気づいたときはどきど きした。テレビ同様、スピードを変えたりしたが、向こうも同じスタンスでついてくる。ユースのド アが見えたとき頭をよぎったのが、ドアの暗証番号を押して中からアンロックしてもらっている時間 があるか、ということ。 しかし、運良くすぐ前に入った人がいたのであろう、ドアのオートロック が開いていた。すばやく滑り込んだ後ドアを閉めてのぞき穴から外を見ると、フードをすっぽりかぶっ た背の高い人がすぐドアの下の階段のところに立ってい て、忘れもしない、はそれにあまりある魅力があるので ある。アートにしても音楽にしてもものすごく身近にい ろんなものがあり、とっても敷居が低い。あえて行こう としなくてもそこにあるという感じだ。 もともとミュージカルやクラシックが好きだったの でとりあえず、はまったのが劇場めぐり。皆さんがご存 知であろうTIKETS という半額チケットを取り扱ってい る店を皮切りに一日をスタートする。そのとき半額で出 ているミュージカルの中で面白そうなものを見る。特に こだわりはない。みてみなくちゃわからないから。そして、見てみて面白かったら今 度は高くてもいいからよい席を獲得する。英語ということもあり一本につき何回かは 見る。わかるまで見る。ブロードウェイ、オフブロードウェイ、オフオフブロードウェ イ、それぞれの作品を見て回る。ものすごい本数で、その上毎年新 しいものが出るので、見切れるものではない。だから毎年行くんだ ろうが。 そろそろ、ジュリアーノ政権下、安全性も確立しだしたころ、行 動範囲も広くなり、JAZZ Bar にも足を踏み入れだした。その、プ レイヤーとの近さ、音の鋭さに感動し、また一つ行く場所が増えた。ブルーノートで はChick Coreaに会い、気さくにもたわいもない話を話してくれ、一生懸命漢字で私 の名前をサインに加えてくれた。しかも、Blue Noteのペーパーナプキンに。そのときは娘さんも奥さ んも会場に来ていてその後のステージでは三人でセッション をしていた。 このプレイヤーと楽しく過ごす空間、それを 共有することさほど難しくないという感覚を教えてくれたの が NY という場所だった。そこで一緒に音を楽しんで空間を 共有することがどんなに敷居を低くしてくれるか、何の知識 もなかったがとにかく楽しかった。 この間Birdlandにいっ て、ここを拠点に活動していたToshiko Akiyoshi にあった が、演奏の合間、ちょっと雑談をした。レコードを差し出し、 サインをお願いすると、“また、よくこんなものを”言いつつ、 差し出されたレコードにだんな様のLew Tabackinと一緒にサインをしてくれた。特別なんだけど、ど こか普通な、この距離の近さが私を JAZZ に近づけ、好きになるきっかけをくれた。NY には Village Vanguard、Blue Note、Birdland, のほかにも小さなJAZZ Barがたくさんあるし、突然、飛び込む のはやっぱりどきどきするが、一度入ってしまえば面白い。ちゃんと気を張ってないと危ないけどね。 ぼーっとすると、何でも起こりえるのがNY。どんなに慣れたと思ってても身の回りのものケアや自分 の身を守り気は許さないのが鉄則、自分の身を守るのは自分の責任だ。だけど、 それを守っている間は楽しむことができる。 “お、また来たな!”なんていわれ るとへへへぇと自然と笑顔になる。 4 昼間のNYで次に楽しいのはCentral Parkだ。よく、本を持ってウォーキングシューズをはき、59TH Streetの入り口から入り、後は110th street まで歩き回るが途中にいろんなものが見える。まっすぐ行 けば 3 時間くらいの距離だがいろいろと立ち寄るものだから、その倍くらいはかかる。Strawberry Fields も通り、Metropolitan Museum や Museum of Natural History、The Cloisters を通り過ぎ、いろ いろなレストランも中にあるし、森の中には野生動物もいる。 110thまで行けばそこもうはハーレムの入り口だが、疲れたらプレッエルを買ったり、飲み物を買っ て、その辺の芝生に寝転がり気がすむまで本を読んでぼーっとする。大学生やらカップルやらみんな 思い思いの格好でリラックスしているし、他人がどんなことをしていてもじっと見られることはない ので気持ちがいい。犬好き猫好きの私としては岩場に陣取り、下を見てそこを通る動物たちを見る のも楽しい。さすがNY というやたらにゴージャスな洋服をしているのもいれば、めちゃくちゃ親近 感を持つ風貌のただ人が良いと言うか猫が良いという顔のやつもいる。アメリカ に住んでいるくせに言語を超えて仲良くなったとき、おお、心が通じたじゃん、 なんて思ったりする。 また歩くとそこはそれぞれのミュージッシャンの練習場だったりもする。駆け 出しの人もいればそれなりに出演している人もいる。そこで腕を磨いて将来は ビックステージでと考えているのだろう。NY は冷たい。実力がなければ人は立 ち止まらない。お金も投げ入れてくれない。山ほどいるからだ。同じサックスの ストリートミュージッシャンが並んでいるのに片方は腕を組んで聞き入っている 人がいてその周りには人が群がっているが、片方にはだれもいない、お金を入れ る箱代わりになっているケースにはわずかにペニーやクウォーターが入っている のみの人もいる。他人事ながら厳しいよな、と思う。電車の中 でも演奏は行われる。駅から駅のたかだか2分くらいの中、突 然彼らはやってきてちょうど次の駅に着くまでに終わる程度の アレンジで曲をひく。これがなかなかなんですよね。メキシカ ンだったり、アカペラだったり、サックスだったり、ペット だったり、バイオリンだったり、もうありとあらゆるものが演 奏される。もちろん演奏が終わっても1セントもくれない人が ほとんど。ここでも厳しい。それでも思わず拍手してしまいた くなるほどうまい人もいてそういう人には人々はポケットから あるだけの小銭を出してバサッと帽子の中や袋に入れてやる。 生活のためにやっている人もいれば将来を夢見てやっている人 もいるだろうが、それぞれが真剣である。だけど、ちゃんと2 分以内に曲をまとめて演奏するって言うだけでもすごいと思う んですが。 (以下次号へ続く) 5 ハービー・ハンコック研究・第 1 回 (“Retrospective of The Music of Herbie Hancock”) 高木信哉 ハービー・ハンコックは、1960 年、20 歳でデビュー以来、どんなに時代が変わっても常にクリエイ ティブな音楽を創造し、世界中の人々を魅了し続けている。ハービーは、現在 64 歳だが、その才能 と若々しさはまったく変わらず、新鮮な感動を提供し続けている。この連載は、ハービーの栄光の 軌跡と音楽を完全ディスコグラフィとともに、振り返るものだ。 (1940-1961) 2000 年 12 月、ハービー・ハンコックは、妻のジジと一人娘のジェシカを伴い、故郷のシカゴを 訪れていた。それはハービーの父親の90 歳の誕生日を、ハンコック・ファミリーで祝うためであ る。両親を大切にするハービーの姿は、95 年 10 月に日本でも見られた。その時、ハービーの両親が 初めて日本の地を踏んでいた。ハービーの父親は、ブルーノートに出演する息子の姿をビデオ・カ メラで熱心に取っていた。ブルーノート大阪出演前の昼下り、両親に大阪城を案内するハービーの 姿はとてもうれしそうだった。天ぷらに舌づつみを打ち、日本酒をおいしいと喜ぶハービーの両親 とハービーを見ていて、本当に素晴らしいファミリーだと私は思った。 -------------------------------------------------------------------------------- ハービー・ハンコックは、1940年4月12日(金)、イリノイ州シカゴで生まれた。ハービーは、4 人兄弟で、兄と姉と妹がいる。妹のジーンは、ハンコック家の天才で、IQがすごく高かった。後にIBM 社に就職して大活躍した。銀行の有名な「ATMシステム」は、IBMの3人の女傑が開発したと言われ ているが、その一人がハービーの妹ジーンだった。残念ながら飛行機事故で1985年に亡くなった。 両親ともに音楽好きで父親は家でよく唄っており(ハービーは、お風呂でよく歌を唄っていた父親の ことをバスタブ・シンガーと呼んでいる)、母親もピアノを弾いていた。幼い時からいつも音楽に興味 を持っていたハービーは、7歳でピアノを習い始める。習い始めて4 年後の 11 歳の時、シカゴ交響楽 団と共にコンサートを行い、モーツアルトの「D メジャー・ピアノ・コンチェルト」バッハの「ブラ 6 ンデンブルグ・コンチェルトNO.2」を演奏したのだからものすごい。ハイド・パーク高校に入った ハービーは、自分のバンドを作り、よくジャム・セッションをやった。大学は、シカゴの左隣にある アイオワ州ハートランドにあるグルネル大学に進んだ。専攻は電子工学を選んだが、音楽好きのハー ビーはやがて音楽に専攻を変え、1960年 6 月卒業し、故郷のシカゴに20歳の時、戻った。 1960年当時のシカゴは全米第2位の大都市だった(現在は3番目)。シカゴは「ウインディ・シティ」 (風の町)と呼ばれてきた。しかし、この呼び名は、風の強い気候からきているのでなく、ニューヨー ク・サン紙の編集者チャールズ・デーナがシカゴの政治家を「Long Winded」(息の長い)と形容し たことから始まった。今日のシカゴを見て、ミシガン湖のほとりに、かつてイリノイ・インディアン が住んでいたことを想像するのは難しい。シカゴは、インディアンの言葉で「パワフル」、「ストロン グ」を意味する説と「スカンク」とか「臭い」という意味だったという両方の説がある。それはこの 地域に昔から野生のネギが多く、それが強烈な匂いの源になっていたからだ。1770年代にフランス人 が入植した。そして1837年に市政がしかれ、エキサイティングでダイナミックな街に成長した。現在 の人口は、700万人以上である。 シカゴは、音楽の都でもある。シカゴは、ニューヨークやロサンゼルスやニューオーリンズと違 う独特の磁場を形成し、命脈を伝えてきた。戦前にはスイング・ジャズやアイリッシュ・トラッドの 大きなシーンを作り出し、50年代にはモダン・ブルースのメッカだった。 1960年という年は、世界各地が騒然としていた。日本は、1月に日米新安保条約が強行採決さ れ、デモ中、樺美智子さんが死亡した。またお正月にアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャー ズが初来日して一大ファンキー・ジャズ・ブームが到来した。メンバーには、若きリー・モーガン(tp) とウェイン・ショーター(ts)が参加しており、彼らは日本のジャズメンに「モード」を教示していっ た。 海外では米ソ関係が悪化する中、11月、ジョン・F・ケネディが史上最年少の43歳で、第35 代米大統領に就任した。 1960年のシカゴのジャズ・シーンは大きくはなかったが、しっかりと街に根付いていた。夜毎、 色んなクラブでジャム・セッションが行われていた。 60年6月、グリネル大学を卒業し、シカゴに戻ったハービーは何と郵便局で働いていたが、すぐ辞 め、ジャズ・ピアニストとして働き始めた。1960年9月、「バード・ハウス」というジャズ・クラ ブで、コールマン・ホーキンス(ts、1904年生まれ、1969年死去)のグループで、2週間働い たのが最初の仕事だったと、ハービーは父親に語っている。 翌10月、ニューヨークからトランペッターのドナルド・バード・クインテット(ピアノは、デュー ク・ピアソン)がシカゴを訪れ、「バード・ハウス」に出演した。しかし、この時はまだドナルドとハー ビーは出会っていない。 1960年12月の初め、再びドナルド・バードに、シカゴの「バード・ハウス」の仕事が入った。 ところが、ピアニストのデューク・ピアソンが急にホームシックとなり、故郷のジョージア州アトラ ンタに一人帰ってしまった。困ったドナルドは「バード・ハウス」のオーナー、ジョン・コートに 相談した。ジョンはドナルドに2人のピアニストを推薦した。一人はノースウエスタン大学の学生の ダニー・ズイットリン、そしてもう一人はハービー・ハンコックだった。オーナーのジョンから2人 のピアニストの説明を聞いたドナルド・バードが選んだのはハービー・ハンコックの方だった。 この時、ドナルド・バード・クインテットに参加したハービーのフレッシュな演奏は素晴らしく、ド ナルドはすっかりハービーが気に入ってしまった。翌1961年1月、ドナルド・バードは3度シカ ゴの「バード・ハウス」を訪れた。再びドナルドは、ハービーを指名し、ハービーとなら新しい自分の 音がきっと出来ると確信した。そこでドナルドは、「ハービー、デューク・ピアソンを首にするから、 俺のバンドに入るため、ニューヨークに一緒に来てくれ!」と、頼んだ。正規ピアニストとして迎え 入れると言われたハービーは、ニューヨークへ行く決心をした。この時の演奏は、いきなり「ダウン ビート」誌のライブ・レポートで絶賛されている。 7 1961年1月、ハービーは厳冬の中、故郷のシカゴからニューヨークのブロンクスに引越しした。 ブロンクスにはドナルド・バードが住んでいたからだ。まずはドナルドの世話になり、ドナルドのア パートに住むようになった。 早速録音したのが、『アウト・オブ・ディス・ワールド/ ドナルド・バード~ペッパーアダムス・ク インテット』である。レコードには、録音日の記載がないが、61年の1月~2月頃と推定する。ハー ビーの初吹込みである。ドラムはジミー・コブであった。 ドナルド・バードはニューヨークのジャズ・シーンにハービーを紹介し、早速フィル・ウッズと「ハー フ・ノート」で共演した。また、ドナルドのサジェスチョンにより、マンハッタン・スクール・オブ・ ミュージックに入学した。 さらに1961年には、スタジオに4回入り、ドナルド・バードのリーダー作『チャント』(4月)、 『ヒップ・インタータインタインメントVol.1』(6月)、『ロイヤル・フラッシュ』(9月)、『フリー・フォー ム』(12月)に参加する。 ハービーの BlueNote における最初の録音は、長らくドナルド・バードの『ロイヤル・フラッシュ』 (61年9月)だと思われていたが、80年代にBlueNoteのLT seriesから『チャント』(61年4月) が発表され、その5ヶ月に録音があったことが判明した。 『ロイヤル・フラッシュ』には、ハービーの初オリジナル作「レクイエム」が収められている。『フ リー・フォーム』の録音時にも、ハービーのオリジナル「スリー・ウイシュズ」が録音された。しか しこの曲は、アルバム『フリー・フォーム』には収録されなかったが、1979年に再発されたアルバ ムに追加され、遂に陽の目を見た。また、この『フリー・フォーム』の録音時、ハービーは将来盟友 となるウェイン・ショーターと初めて出会う。「何て新鮮なピアノだろう」と思ったと、ウェインは語っ ている。ウェインはこの頃、アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに入って2年目で、2 8歳だった。ハービーをバックにしたウェインのテナーはとても美しい。 HERBIE 1961 (5枚) 録音日 / タイトル / 演奏者 (レーベル名) 1961.(1月~2月頃) (1)Out Of This World/Pepper Adams~Donald Byrd Quintet (Warwick) 1961. 4.17 (2)Chant / Donald Byrd (Blue Note) 1961. 6.24 (3)HIP-INTERTAINMENT Vol.1 / Donald Byrd/Pepper Adams(VGM) 1961. 9.21 (4) Royal Flush/ Donald Byrd(Blue Note) 1961.12.11 (5)Free Form/ Donald Byrd(Blue Note) 8 『Out Of This World PepperAdams̃Donald Byrd Quintet』 1. Byrd House 2. Mr. Lucky 3. Day Dream 4. I'm An Old Cowhand 5. Curro's 6. It's A Beautiful Evening 7. Out Of This World Donald Byrd(tp),Pepper Adams(bs),Herbie Hancock(p) ,Laymon Jackson(b), Jimmy Cobb(ds),Teddy Charles(vib,6のみに参加) 記念すべきハービー(当時20歳)の初吹き込みである。録音日の記載はなくただ1961年とある が、ライナーノーツをダウンビート誌のライターが3月2日に書いているので、ハービーのニューヨー ク進出直後の61年1月~2月の録音とみて間違いはないだろう。 ドナルド・バード(tp,1932 年生まれ、28歳)は、58年12月、BlueNoteでの初リーダー作『アウ ト・トゥ・ザ・レイシズ』を吹き込んで以来、BlueNote と契約し、年に2~3枚のリーダー作をコン スタントに録音してきた。従って単独の自己名義のリーダー作は、他のレーベルに録音できないため、 盟友のペッパー・アダムス(bs,1930 年生まれ、当時30 歳、1986 年に死去)との合同名義にして本作 の録音を行ったようである。 ハービーの演奏を聞くと、完璧なピアノ・プレイが既に行える実力の持ち主であることがよくわ かる。バラードもアップ・テンポも大変達者な演奏だが、一聴して「あっ、ハービーの音だ」とわか るほどの個性はない。しかし、ビル・エバンス風とか誰々風というようには聞こえてこない。既にピ アノに非凡の才があることが十分に聞き取れる。 聞き所は、3~7での演奏である。ハービーは、3のバラードの解釈は美しい!この曲は、ペッ パー・アダムスのショウケースになっており、ペッパーの個性がよく活きている。音色の美しさ、フ レージングなど見事である。5は、ドナルドのオリジナルで、アップ・テンポのテーマ・メロディが 印象的な曲である。アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが演奏するとピッタリとくるよ