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に お け る Adonais と Urania

高 橋 規 矩

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・440ηα∫sは,そ の 副 題 に あ る よ うに,Eη4y7疵013や1/yρ6rガo〃 の 作 者JohnKeatsの 天

折 を 悼 ん だ エ レ ジ ー で あ る。Shelieyは,1821年1月 と2月 にEク ψsyo痂4∫07zを 書 き,そ こ で,「 誠 の 『愛』」(trueLove)と 『想像 力 』(lmagination)を 謳 歌 し,2月 下 旬 か ら 3月 に か け て ・4Dθ ∫θ776召o∫-Poθ〃ツ(第 一 部)を 完 成 し た 後,間 も な く,4月19日 頃 Keatsの 死(1821年2月23日,二 十 五 歳)の 悲 報 に 接 し,6月 初 旬 にAdollis神 話 を 材 料

と し た ・44α諭sを 整 作 し た 。 そ れ は,Vellus(Aphrodite)に よ っ て 愛 さ れ た 美 青 年 AdOllisが 野 獣 に 突 殺 さ れ,皆 に 悼 ま れ た と い うギ リ シ ア 伝 説 が,詩 神 ミ ュ ー ズ に ょ っ て 愛

さ れ た 詩 人Keatsが,時 な らず し て,悪 意 を も っ た 批 評 家 に よ って 殺 され た と い う伝 説 め い た 話 と完 全 に 一 致 した か ら で あ っ た 。 こ の 孟 ゴ01z6廊 を,Shelleyカ ミ事あ る 度 毎 に,彼 の

作 品 の 中 で 「最 も 完 壁 な 作 品 」(theleastimPerfectofmycolnpositions)と 呼 ん だ の み な らず,こ の 詩 に 続 い て 同 じ年 の 秋 に 完 成 され た,肋 〃αsが 完 結 さ れ た 長 詩 と して は 最 後 の も の で あ っ た こ と を 合 わ せ 考 え る時,こ の 詩 は,彼 が 究 極 的 に 達 した 思 想 や 技 巧 を 知 る 上

に も,甚 だ 重 要 な 詩 で あ る こ と が 分 か る。 こ の 論 文 で は,Shelleyが 常 に 関 心 を 抱 い て い た,人 間 の 精 神 と神 聖 な 存 在 者 と の 関 係 に

関 す る 問 題 が,・4`/01~αお に お い て,如 何 に 展 開 さ れ,究 極 的 に 如 何 に 解 決 さ れ て い る か を, AdollaisとUraniaと の 関 係 を 中 心 と して 研 究 し,同 時 に,こ の 詩 が 浪 漫 主 義 時 代 の 最 大 の エ レ ジ ー の 一 つ で あ る 所 以 を 明 らか に した い 。

・440ノ¢酪 は,内 容 の 展 開 と い う見 地 か ら,三 つ の 段 階 に 分 け る こ と が 出 来 る と 思 う。 つ

ま り,第 一 段 階 は,第 一 連 か ら第 十 七 連 ま で,第 二 段 階 は,第 十 八 遮 か ら第 三 十 七 連 ま で,

第 三 段 階 は,第 三 十 八 連 か ら最 後 の 第 五 十 五 連 ま で 団あ る 。 第 一 段 階(第 一 連 か ら第 十 七 連 ま で)で は,物 質 が 究 極 的 真 理 で あ る と い う唯 物 論 的 一 元 論 が 麦 配 的 で あ り,全 般 的 に,死 ・破壊 ・冷 た さ ・暗 さ ・不 活 発 を 表 わ す 語 句 が 多 く使 用 さ れ て い るQ第 一 連 で,Adonaisと い う名 前 と 彼 の 死 が 報 ら さ れ る。Adollaisと い う言 葉 は, ① こ の 詩 が,Keatsに 捧 げ ら れ た エ レ ジ ー で あ る こ とか ら,Keatsを 意 昧 し,ま た,② Adollis神 話 のAdollisで あ る こ と は 明 ら か で あ る 。 ③EdwardRHtmgerfordlま, (5) Shelleyの 当 時 の 神 話 学 者RichardPayneKllight(1750-1824)に ょ っ て,Adollis,な (6) い し,Adollaiは,フ ェ ニ キ ア,ヘ ブ ラ イ で の 「太 陽 神 」 を 表 わ し て い る と 述 べ て い る 。

Ear正RWasserma11は,Hungerfordに 従 っ て,Adollaisは,ギ リ シ ア 神 話 のAdollisと

ヘ ブ ラ イ の 太 陽 神Adollaiと が 結 合 し て 出 来 た 象 徴 性 の 豊 か な 言 葉 と し ,1-太 陽 と 生 命 の 原 ・2

くの 理」を表わしていると言っている。詩の後の連で,Adonaisは, Keatsの想像力,ないし, 魂を象臥するようになり,しかも,Shelieyにとって,想像力の心血は太陽であるから, Adonaisが太陽であっても矛盾はない。そ’して,実際に,1820年5月14日付, Charles Ollier 宛の書簡で,ShelleyはKeatsを太陽に讐えている。 r私は, Keatsが偉大な詩人として 世に現われることを望んでいる。大気の最も美しい色彩に染まりながらも,太陽の登るのを くの 暗く隠している雲を押し分けて出てくる太陽一のように。1④Carlos Bakerは,詩のモット ーに便われたPlatoのエピグラムー一一汝は,生前は「明けの明星」(Lucifer)であったが, 死後は「宵の曜.」(Hespen}量~Vespe「)とな・たと言厨・ている『から・Ad・nai・は・

1一 熕ッ」(Venus)であると言う。詩の第四十六連でも, Adonaisは,「宵の明星」(Vesper) と呼ばれている。要するに,Adonaisという名前は, Keatsを表わす他に,「太陽」,「金 星」といった,最も明るい「白光」を発する天体を表わしている。そして,この言葉が, Uraniaの場合と異なって, Adonisでもなく・Adonaiでもなかったことは, Shelley独 自の神話的解釈のためには好都合だったと考えられる。 第二連では,詩人は,r楽園』に眠っている「偉大なる母」(lnighty Mother)なる Uraniaへ呼びかける。このUraniaは,①ギリシアのAdonis神話では, Adonisを愛 した愛と美の女神Vemus(AP1ユrodite)であり,②九人のミューズの中で天文を司るミュ ーズの名であり,③伝記的には・AdonaisであるKeatsに,彼の存命中に,詩的霊感を 与えたミューズである。④Hungerfordは・Shelleyの時代の神話学に基づいて, Adonais をr太陽」と見なし,Uralliaを,冬に太陽の暖かさを奪われた「捨てられた大地」と考え (10) (互1) た。Shelleyにとって, Bakerの言うように, Uraniaの②と③の意味は同じものであっ た。彼女は,詩の巻頭に掲げられたPlatoのエピグラムに見られる「金星」の心象から, 天文を司るミューズUralliaに関係があること,そして,彼女自身も「金星」(Venus)で あ.ることが臆測される訳けであるが・1821年2月15日付・T・L・Peacock宛の書簡から・ Shelleyが,このミューズを, ShelleyやKeatsに説…的霊感を与えたミュ 一一ズと同一視し ていることが知られるからである。「詩そのものに対する君の呪’誰によって,私は,神聖な 1噴怒へ,或は,侮辱されたミューズの女神たちを擁護する義侠の筆へと駆り立てられた。私 の り り り は,私たちが愛するUraniaのために雑誌という演技場内で,君と槍を交えたいと大いに思 くユの った1と,彼は書いている。要するに,AclonaisのUraniaは,愛と美の:女神Venus (Aphrodite),天文を司るUralliaと同時に詩的源勇乏としてのミューズ,更に,大地,ない し,自然であるところがら,彼女は,!Pro/net/zetts Unbotti・zdのAsia一彼女は, Shelley くエヨ 夫人によって,「Venusにして『自然』(Nature)と同じもの」と言われている一と同じ ものを表わしているのであろう。 く 籾1て,テキストに譲ると,Adonaisが「闇を/飛ぶ箭に射ぬかれて」(st. II)死んだとの 報らせに,彼の死体の周りに多くの哀悼者一『時』(Hour), 『夢』(Dreams), 『欲望』 (Desires),『愛慕』(Adorattons),『.説得』(Persuasiolls)等々の抽象的存在一がやっ て来る。彼らは,Keatsが,存命中に,詩において創造したものであるが,同時に,神話の くユら 一しでは,Venus(Aphroditc)の従者である。 死んだAdonaisは,今や必然・『腐敗』(Col”1’uptioll)e「変化の法則」(the law/Of change)にさらされようとしている。 ・3 且60πα6sにおけるAdonaisとUrania

「彼はもう目覚めぬ,お㍉ もう二度と/一 薄明の部屋に白い『死』の蔭が, すみやかに広がり,戸口には 目に見えぬr腐敗』が自分の暗い住居へと 彼の行く最後の道をつけようと待ち伏せている。 永遠のr飢餓』は坐っているが,憐れみと畏怖は r腐敗』の青白い欲望を和らげ, r腐敗』は かくも美しい餌食を敢て害ねようとはしない, 暗闇と変化の法則が,死のとばりを彼の眠りの上に引くまでは。」 (St. VIII)

彼の死体には, 「目に見えぬ『腐敗』」の作用は未だ始まらず,彼は,死と破壊の中間の状 態にある。 Shelleyは,ライフ・サイクルとデー・サイクルとシーズン・サイクルとを等視していた ので,Adonaisのこの状態が,日(day)と季節(seasoll)においても並行的に生じている のが見られる。『朝』(Morniii9L)は,現2つれようとするが, Adonaisの喪失の悲しみのた .めに十分には現われない。 「『朝』の乱れ髪は,/地を飾る涙の露にぬれて,/日に火をつけ る『空の眼』を暗くした」(st・XIV;ll・121-123)。 『空の眼』(a6real eyes)と1ま,太陽の (16) ことで,「乱れ髪」(hair unbound)1よ・Wassermanによると,服喪の伝統的な慣習であ る。『朝』に合わせて,「悲しそうな雷」(melancholy thunder)は紳き,『蒼ざめた大 洋』(Pale Ocean)は定かならず,『烈風』(wild Winds)は暖泣く。 日が闇夜から昼間へと移れず中間にあるように・季節も冬から春への進行を全う出来な:

い。

「悲しみ故に,若い『春』は狂い,『秋』であるかのように 萌え出る蕾を枯葉の如く 投げ捨てた。 『春』の喜びが消えた今 『春』は誰のために陰惨な年を目覚めさすべきか。」 (St. XVI; ll. 136-139)

ヒヤシンスも水仙(ナーシサス)も枯れてしまうQこのように『死』(Death)は, Adonais を殺すことによって,自然の一一i切の運行を中断してしまった。だから,第三連において,

「彼は逝ってしまった,賢い,美しいすべてのものが, 降り行く所へ,一お&,彼を恋慕う『冥府』が, 彼を生命あるこの世へ返すと思うな。 『死』は彼の黙した声を糧とし,我々の絶望を嘲笑う。一」 (St. III] 11. 24-27)

と言われるのである。「彼を恋慕う『冥府』」(the amorous DeeP)とは, Hadesの女王, 4

Proserpii)c(Pcrsephonc)のことで, Venusの恋仇きである。自然のすべては, Adonais の死とともに滅びた。これは,Adon,ctisより一年前に書かれたThe Sensitive-Plantの 『第三部』の思想に類似している。 「花園」を管理している「美女」(lady fair)の死んだ 後,r眠り草』を初め,「花園」の一切の美しい草木は枯れてしまった。

「冬が去って,春が戻って来た時, 『眠り草』は葉のない一つの残骸となっていたQ マソドレーク,毒キノコ,ギシギシ,毒麦が 出た,死人が崩れた納骨堂から立上るように。」 (Ll. 110-113)

Ross Woodmanは,最初の十七の連は,すべて,運動状態に置かれた物質の停止として 見たKeatsの死のヴィジョンだと言い,この思想は, D’Hoibachの唯物論に基づいてい ロの ると考えている。そこには,物質の死,不毛,冷寒,絶望があるのみで,それに代わる何物 も存在しない。Adonis神話に比較的、忠実な第一段階(と第二段階)が,実は,極めて唯物 論的であり,且つ,世俗的であるという・思いがけない結果になっていることは,誠にアイ ロニカルなことである。

詩の展開の第二段階は,第十八連から第三十七連までゴある。こxでは,第一段階での唯 物論的一一元論の後をうけて・同じく「遵い・滅ぶべき性質、」(cold mortality:st・LIV;1. 486)のものを扱う,物・心二元論が述べられる・しかし,それにも拘らず,そこには,既 に,萌え出ずる生命の認識,その予感が見られる。

「あX,悲しいかな/ 冬は訪れまた去ったが, 悲しみはめぐり来る年とともに戻り来る。 微風や流れは喜びの調べを新たにし, 蟻,蜂,燕は再び現われる。 若葉や花は,逝く季節の枢を飾り, 愛し合う鳥はどの草むらにも番い合い, 野やいぼらに苔の家を作り, 青い蜥蝪や金色の蛇は 放たれた炎のように,夢から覚める。」 (St. XVIII)

このように,第二段階では,ZR’一一・段階での死と第三段階での復活との中間における停滞の状 態が扱われているが,その中にも自然の息吹きが述べられる。そこには,死の彼方にある生. 命力の存在に対する認識への予感がある。それは,墓の彼方を観ない理性の克服のプロセス でもある。 ・5 .4ゴ。η厩sにおけるAdonaisとUrania

「森や流れや野や山や大洋の中に 蘇らす生命は『大地』の心臓から送しった。 ・ 神が最初に『混沌』に現われた時, この世の大いなる夜明けから生命が変化と運動をもって 遊しった如くに。その生命の流れにひたって, 天の星たちは...一層柔らかな光できらめき, 卑しいものはすべて生命の聖なる渇きをもって, 喘ぎ,広がり,愛の喜びの中に, 彼らの新たにな:つた力と喜びを費い果す。」 (St. XIX)

「蘇らす生命」(aquickening life)は,再び活動を始め,中止の状態にあった自然を蘇生 させる。「. 癡tや花は,逝く季節の極を飾り,/愛し合う鳥は…番い合い」という風に,自 然は相変らずのサイクルを繰返す。しかし・この第二段階で注意すべきことは,箭一段階で 悪とか破壊と考えられていた「変化」が,第十九連にあるように,善,ないし,蘇生の条件 (18) となっていることである。 「自然」の,この状態に対して,Adonaisはどうであろうか。「彼はもう目覚めぬだろ う,お二,もう二度と」(st. XXII;1・ 190)と言われる。 Woodmanが言うように,第二段 階の初めの幾つかの連では,一見・「自然」の復活とAdonais(Keats)の死とが対立され くユ ているかのようである。しかし,こxで言及されている,Adonaisの死とは,彼の肉体の 死と解すべきであろうから,「自然」の復活は,Adonaisの精神の永遠なる復活と無関係 ではなく,寧ろ,これを前兆するのではあるまいか。このことは,次の連の讐喩関係によっ て示唆されよう。

「この優しい生命に触れた,廃欄する死骸は, 優しい香の花々となって蒸発する。 光線が芳香に化する時, 花々は,星々の化身の如く,死を照らし, 地下に目覚める楽しい蛆虫を嘲る。」 (St. XX; ll. 172-176)

この五行は,単に「自然」の復活を述べただけでなく,Bionによって歌われたように, Adonaisも,死んでアネモネ(allemolle)になるであろうことの予言的・象徴的表現と見 られる。「優しい香の花々」(flowers of gentle breath:1.173)とは,アネモネの語源 的意味(windflower)に由来し,更に,アネモネは,その花が星形であるところがら,「星 星の化身」(incarnations of stars:L174)に讐えられる。 Wassermanは,「星の光と花 く の の香との密接な関係」について述べているが,その象微的関係を図式化すれば次のよう になろうQ 、βり

Adollais←一→花(flower, anemone)←一一→星(star,金星=Venus) £〉×く二il”! ド オ

香(fragrance)←一 一→光(light, splendour)

(互に矢印の方向に象徴,及び,讐喩の関係がある。棒線は通常の場合,特に,感情が高ま った場合には,破線の関係,及び,両者の混同も起り得る。)

Adonaisは,死んで,アネモネという花になったのであるから,花の取り扱い方の相違 は特に重要である。先ず,第一段階の第二連に,「その歌の調べでもって地下の死骸を嘲る 花々の如く/彼〔Adonais〕は近づきつ}・・ある死の偉大な力を飾り,隠した」(il.17-18) とある。この意味は,生きている花は,その生えている下の死を嘲るのだが,その花もやが ては死なねぽならぬので,その嘲りも無益である・というものである。第二段階では,第二 十連からの上の引用に見られるように,同じ心象が現われるが,それは全く違った扱いを受 けている。そこでは,醜い死骸でさえも全く朽ち果てることなく,却って墓を飾る美しい花 となって咲き匂う。生きている花の下に横わっている死骸は,花の生命を養っている。この 意味で,死骸も花の生命となっている。「自然」においては,死は生命を養い,生命は死を く 「高貴なものとする」(‘illumine’=elmoble)・生きている花は,やがては滅びるだろうが, 再び生まれるだろうから・最早や・「地下の死骸を嘲る」ことはない。そして,今や,死骸 によって養われた花は・ 「死骸を嘲る」ことなく・AdOnaisの肉体を蝕まんと待機してい る「永遠の『飢餓』!(etemal Hunger:1・69)のように物質の腐るのを空しく待っている 蛆虫を嘲笑う。Adonaisは,死んだ肉体を糧として,蘇生するのである。 第三段階の第四十九連においては・RomeのProtestant Cemeteryでは,外では「多者 が変化し過ぎ去る」が,内では「嬰児の微笑みの如く/芝生に沿うて微笑む花々の輝やく光 が死者の⊥に広がっている」と言われる。第一e第二段階での「嘲る」(mock)は,こXで は,「微笑む一](Smile)に変る。このように,花の描写の仕方にも,物質の死のペシミズム く から理想的なオプティミズムへの変化が見られる。 第二段階では,Shelleyは,このように「自然」の復活を通して, Adonaisの復活を予言 く してはいるもの㍉彼は専ら,物・心二元論を述べていると考えられる。もし,第一段階の AdonaisがKeatsの受動的な肉体を意味するならば,第二段階でのAdonaisは彼の肉体 と受動的な精神(理性)であり,第三段階のAdonaisは彼の能動的な精神(想像力,ない し,魂)を表わしていると言い得る。この見地から,第二十連の極めて難解だが重要な詩行 を解釈してみたい。

「我々の知っている万有は,何も死なぬ。たx“,知る所のもののみが 目に見えぬ稲妻によって,鞘よりさきに, 燃え尽きる剣のようなものであろうか。赤熱する原子は 一瞬光を放ち,消える,一際冷い休息の中に。」 (St. XX; 11. 177-180) AdonaisにおけるAdonaisとUrania 7

こxで,恐らく,Sheilcyは,知識の対象は滅びぬのに, 「知る所のもの」(that…which knows),「赤熱する原子」(the illtellse atom),すなわち,精神のみが消滅してしまうと 言っているのであろう。第二十五連で,Uraniaの肉体的な愛撫によって一瞬閃いた「『生 命』の青い光」(Life’s pale light:1.220)である,「原子」(atom)は,0・ED.によ ると,今では用いられないが,十七世紀から十八世紀にかけて,「光によって見える塵の微 (24) 粒子」の意味で用いられていた。Shelleyも,また,この意味を知っていた。更に, Wassermanによると, Epicurus哲学では,「精神」は燃える原子,すなわち,知る力を (25) もっことが出来る物質の微粒子であった。そして,フランスの徹底した唯物論では,「精 神」も運動状態にある物質と推論された。このようなことから,「原子」と同じ「知る所の もの」なる精神は,7’lze Revolt of Js’lai’n(IX, xxxii)で, 「蛆虫のいる墓の彼方を観る 心」ではなくて,この「心」に絶望を命じる「『感覚』と『理性』」(Sense and Reason)で あると推測される。この狭い能力は,「冷い,滅ぶべき性質」のもので,同じ性質の肉体と ともに滅びるものであるQこの「原子」が,想像力ではないことは,それが「目に見えぬ稲 妻によって,鞘よりさきに,/燃え尽きる剣」(asword consumed before the sheath/ By sightiess lightning)のようなものである限り,疑うことは出来まい。 Adonaisより約 三ヵ月前に書かれたA1)efence of Poetryに,「あらゆる知識の基礎である創造力」なる 想像力は,「稲妻の剣である。常に鞘から抜き放たれ・それを納めんとする鞘を焼き尽くさ (26) ずにはおかぬだろう」とあり,同様な調子で,約四ヵ月前に書かれたEpiPsychidionにも,

「想像力よ, 誠の『愛』は,汝の光の如く, 地や空から,人の空想の奥底から 無数のプリズムや鏡からの如く, 輝やかしい光線を宇宙に充たし, 毛虫の如き誤謬を,反射の稲妻の 太陽の如き箭で殺す。」 (Ll. 163-169)

とあり,

「誠の『愛』は,決して このように束縛されたことなく,あらゆる障壁を飛び越える, 稲妻のように,目に見えぬ力で, その拘束物を突き通す。」 (Ll. 397-400)

とある。上の引用は,いずれも,Shelleyが,想像力を,鞘をも熔す剣とか,稲妻と見なし ていたことを示している。墓の彼方を観ない「『感覚』や『理性』」の滅びるのが,AdOnais の肉体が滅びるのと同時であっても何らの不合理もない。 遂に,Adonaisの肉体も感覚も理性も死んでしまった。これと並行して,腐った肉体か ら星に似たアネモネが芽生えたとは,肉体に閉じこめられていたAdonaisの想像力(魂) が,解放され,本来の姿に立ち戻ることの予言的・象徴的表現と解釈し得る。 これまでの考察から,Adonaisについて次のようなことが明らかになった。すなわち, 前に扱った第一段階では,Adonaisは,物質(肉体)を,この第二段階では,物質(肉体) と感覚と理性とを,次に扱う第三段階では,想像力,ないし,魂を表わしている。そして初 めの二つの段階におけるAdOnaisは,不滅性を得るべく試練に耐えられなかった。換言す れば,これまでのAdonaisとは,不滅性を成就するためには,捨て去らねばならない (27) Keatsの世俗的な不純な属性だったのである。 では,Uraniaは,どうであろうか。第一段階で,たX“名前だけ言及されたに過ぎなかっ たUralliaは,この第二段階で,いよいよ登場する。彼女の登場によって,第一段階から続 いていた,彼女の従者たち一『時』,『木霊』(EchOes), 『夢』,『欲望』,『愛慕』,『説 得』,『朝』,『春』などの抽象的なものたち一の弔は,一応終ったと見てよい。そして, Uraniaの弔は, Byron, Thomas Moore, Shelley, Huntなどの弔に先駆けている。これ は,恐らく,Uraniaがこれら詩人たちに詩的霊感を与えたミューズだからであろう。 Uraniaは,『不幸』(Misery)と『夢』と『木霊』によって目覚まされた。 Uraniaが見 た世界は,死んだ物質の世界(つまり,Proserpineの世界となっていたの意)であった。 彼女は,悲しみと恐怖の念にうたれながらも・Adonaisを今一度蘇らすために彼の許へと 降り下る。彼女の降臨の様子は,次のように詠まれるQ

「彼女は秘かな『楽園』から飛び出して, 石や鉄や人の心で固められた, 部落や都市の中を走ったが,それらは彼女の軽やかな歩みに 従わず,彼女の足の進む所,いずこでも, 彼女の柔らかい,目に見えぬ足裏を傷つけた。 刺ある舌,それよりも一層鋭い思想が 拒否出来ぬその優しい『姿』を引裂いた。 彼女の聖らかな血が,『五月』の新しい雨の如く, 彼女に適わしからぬ道に,永遠の花を敷きつめた。」 (St. XXIV)

Uraniaの旅は, Bionの作とされていたAdonisのエレジーに描かれているVenus く の (Aphrodite)の旅に依っている。 Bakerは, Uraniaがいた「秘かな『楽園』」(secret (29) Paradise)は,ミューズたちの棲むHeliconの高峰の一つだと言っている。或は, Epipsychi.dionで, Uraniaと同じと考えられる「誠の『愛』」(true Love)は,「導いて いた第三天を離れる『輝き』」(aSplendour/Leaving the third sphere pilotless:ll. 116-117)と呼ばれていることから,彼女は,「第三天一1,つまり,金星(Venus)天にいた とも考えられる。もし,そうだとすれば,彼女のいた所は,Adonαisの終りの方(st. XLVI) で,Adonaisが灰る星(Vesper)と一致することになる。上の引用では, Uraniaは,彼 女の性質に「適わしからぬ道」(that undeserving way) 俗世の冷い石,鉄,頑なな人 の心など一によって,その足の裏を傷つけられる。“Urania”という呼称にも拘らず,こ (コ 、440η漉sにおけるAdonaisとUrania

の段階での彼女は,真実の意味のUraniaではなく,寧ろ, Venus(Aphrodite)Pandemos く に近いと言わねばなるまい。 とは言え,「活力ある『力』」(that living Migllt)としてのUral/iaが「死者の部屋」 (納骨堂)に到着し,AdOnaisにしばし生命の息吹きを送ると,さすがの『死』(Pro- serpine=)も一瞬恥じいって, Adonaisの支配の手を緩めた。 Adonaisは息 を吹き返した。しかし,それも東の問のことで,Uraniaが,「音のない稲妻の後に星のない 夜が来る如く,/私を捨て&,狂わしい,わびしい,慰めなきものにしないでくれ//私を 捨てないでくれ/」(st. XXV)と呼ぶのを聞くと,『死』は再びAdollaisを奪った。 Urania の愛撫も接吻も,所詮は,世俗的なものだったからであろう。この段階では,Uraniaと Adonaisは,ともに,精神的合体が出来る存在ではない。 Uraniaは言う,「私はr時』に 縛られて動けぬのだ/」(Iam chained to Time, and calmot thence depart/:st. XXVI)とQこのUraniaが, Proinethezcs Unboundで,“Fate, Time, Occasion, Chance, and Change”に従わぬ唯一つの「永遠:なる『愛』」(eternal Love:II, iv,119-120)より も低次の存在(Lower Venus)であることは言うまでもない。 Shetleyが,こxで,この PandemosなるUraniaと肉体的なるAdonais とを合体させなかったことは,彼女が くヨの Adonaisの母であることから,インセストの諦りを免れることになったのであろう。 Uraniaは,遂に,傷ついたAdonaisを蘇らすことに失敗した。当面, Pandemosであ (32) る彼女に出来ることは,Woodmanの言うように,愛するものを奪った連中を呪うことし かなかったQ第二十六連から第二十九連までのUraniaの話は, Adonaisの死の後悔と, AdOIlaisを殺した酷評家に対する呪『讃,自己の無力さの告白などに終始している。これは, 彼女の性格一を一層弱め,一層Pandemos的なものにしている。何故なら,呪誼とか憎悪と かは,Shelleyのモラルにおいて,悪の最も主要な根源であるからである。例えば, EpiPsychidt‘onに,「〔この肉体という〕永遠なる呪誼に閉ざされてはいるが甘美なる『祝 福』」(Sweet Benediction in the eternal Curse/:1・25), Adonaisに,「呪うべき蔭深 き誕生によって消されぬ/あの『祝福』」(That Benediction which the eclipsing Curse /Of birth can quench Ilot:st・LIV)とあり, f)ro7nethezc5(]nboundのPrometheus は,自己省察によって愛を知り,「かつて汝〔Jupiter〕に吐いた下組を/私は取り消そう」 (1,J「 8-59)と公言した時,彼は自己の解放と・. Asiaとの合体をなしとげた。だから, Uraniaの発言の中で, Byronに言及した第二十八連は,その最も悪い例と言える。

「彼らはうまく逃れた, 現代の大蛇殺しとも言うべき.彼が Apolloの如く,黄金の弓から, 箭を放ち微笑した時! 彼ら破壊者どもは再び打撃をやらぬ, 彼らを踏みつぶす高慢な足に媚びりつく。」 (St. XXVIII)

ByrOnは,処女詩集を酷評したTlze E伽z伽’g13 k’eviezvに対し, En.o/ish Bards and Scotch Reviewersと題した課刺網という軽蔑の槍で応酬し,酷評寡たちを退散せしめた。 Adonaisの肉体的な生存のためには, Shelleyのモラルに全く反する応酬,復讐,呪調とい 10

う手段を採用せねばならないという不都合を,Uraniaが看破出来なかったところに,彼女 の性格の弱さがある。Woodmanが言うように,もし, Keatsが, Byron流に酷評家に対 抗し,打ち勝ったとすれば,彼は,1Promethetts Unbot〃ndの第一幕のPrometheusとは反 ラ 対に,かえって,自己の呪組の犠牲となってしまったであろう。Wassermanは,第二十七 連から第二十九連に亘る「Uraniaの話は,孤立させて読むべきではなく, dramatic irony くヨの として読まねばならぬ」と言っている。実際,このような狭い能力しかもたXtR Uraniaの嘆 きは,彼女が精神的存在というものを知らず,Adonaisが超時間的精神性を得るであろう ことを知らぬことから来ていると理解すべきだと思う。この段階でのUraniaを,真に精神 的なVenus Uraniaであると解釈すると,この連の意味は決して理解出来ない。こxで の彼女は,!’ro7・netheitsσnboundのAsiaと違って,予言の能力をもたない。 Uraniaに続いて,詩人たち, Byron, Thomas Moore, Shelley, Huntらが弔にやって 来る。UraniaがHeliconに住んでいたとすれば,彼らの住居も同じHeliconであろう。 彼女が天にいたとすれば,彼らも,また,天にいたのであろう。彼らはみな,羊飼の装いを している。仲間のAdonais自身も,自らの「思想」(thoughts)なる羊の羊飼である。彼 らも,Uraniaと同様に, 「地獄」のような,この俗世にあっては, Adonaisの死に直面し ても如何ともしようのない自分らの無力を語る。悲しみのために,彼らの「魔法のマントー」 (magic malltles)は裂ける(st・XXX)。この「マント」は,カメレオン(Shelleyにとっ て,カメレオンは,置かれた周囲の自然と同色になる鋭敏な動物であるところがら,詩人の

讐喩である)の皮で出来ているために,魔法の如くである。詩人たちの弔は,第三十五連の Huntで終る。そして, Adonaisを殺した酷評家への攻撃は,第三十六連と第三十七連と で,極限に達する。そして,その間にも,“Urania”の名は,既に第三十四連を限りとして 語られなくなることに注目する必要がある。“Ura丑}ia”の名は, Uraniaが,第一段階と第 二段階で,Venus Pandemosである限り使用され,第三段階で,真に精神的なVenus Uraniaとなった時,その名が使用されなくなったことは,実にアイPニカルである。

詩の展開の第三段階は,第三十八連から最後の第五十五連までx’ある。Adonaisで, Shelleyが,先ず,唯物論的一元論を,次いで,物・心二元論を否定した後,最後に,第三 段階の汎神論的・観念論的思想において,想像力,ないし,魂だけが,究極的な真理である とし,その永遠性,不滅性を謳歌することを意図しているとするならば,それは,On Life というエッセイで,彼が述べている主旨と完全に一致すると見なされよう。07¢Lifeに, 次のようにある。

「精神と物質についての通俗哲学〔物・心二元論〕の驚ろくべき誤謬,それが道徳に あらわれる痛ましい結果,万象の起源に関する激しい独断,こうしたものが,早くに私 を唯物論に引きこんだのだった。この唯物論というものは,若者の皮相的な心には魅惑 に充ちた体系である。この助けを借りれば,その支持者たちは,議論を自由に振り回せ るし思索の必要もなくなるからだ。しかし,私は,それが教える見解に満足出来なかっ た。入間は高い撞憬の心をもつものであり, r前を望み後を顧み』,その思想は『永遠 、4ゴ。π癖sにおけるAdonaisとUrania 11

を彷復い』,はかなさと崩壊とに妥協することを拒み,我が身の必滅なるを想像出来な いものである。未来と過去にのみ存在するもの,現在の我でなくて,過去の我に,未来 の我に生きるものである。人間の究極の真実の到着点が何であるにせよ,彼の内には, 虚無と壊滅と闘う魂が存在しているのである。これが,あらゆる生命と存在との本性で ある。各々は同時に中心と周囲とを兼ねるもの,あらゆるものが集結する一点,あらゆ るものを包含する一線である。このような思想を,唯物論や,精神と物質についての通 く 俗哲学は,等しく禁止するのである。これらは,たゴ,理知の体系のみを容認する。」

Adonaisの第三段階は,この最後に残された課題, r虚無と壊滅と闘う魂」,すなわち, 「想像力」の詩的な確認と言えよう。そして,こXにおいては,永遠の清らかな魂と真実界 の信仰は,滅びゆく肉体と俗世と対比されながら深められてゆく。 第三段階は,第三十八連で始まる。この連の前半で,Shelleyは,前の連で酷評家を非難 した余勢をかって,彼らを「腐肉を食う鳶」と叱った後で,

「塵は塵に帰す!しかし清らかな魂は 『永遠なるもの』の一部として,それが生まれ出た燃える泉に流れ戻るだろう, それは,時と変化の中に変ることなく 消えることなく,輝やかねばならぬ。」 (St. XXXVIIIi ll. 338-341)

と世界の真理を一般的に述べる。それは,同時に,Adonaisの復活の確信である。死後, Adonaisの肉なる部分,、感覚と理性はことごとく塵に帰し,残った「清らかな魂」(pure spirit),すなわち,想像力のみが永遠の泉に流れ戻り,時と変化の中でも消し難く輝やく火 の泉の一部となる。Carl Grabo,及び, Joseph Warren Beachは,魂を「燃える泉」 (the burning foulltaill)から流出し,再び,それに戻るものとする見方は, Neo-platonism くヨの 的であると言っている。そして,この見方は,それ自体においては,没我的不滅の信仰であ

る。 上の引用に見られるように,Shelleyは,世界の根源的なものを「泉」に讐えるのが好き である。0アzthe Literatvcre,4rts, cu・td tlze A4annei’s o!the A〃zeniα’]・lsで, Pericles時代 以後のf乍家は,「不滅の泉から流れ出る河」(the rivers flowing from those immortal (38) fOUIItaillS)だと言われ,・4 Defence of Poetryセこは, i.偉大な詩は,知恵と歓喜の水が常 に温iれ出る泉である。一個人,一時代が,その特殊な関係により享:縦し得るだけ,その泉の 神聖な湧水を汲み尽した後でも,人と時代は次々と続ぎ,新しい関係が絶えず展開され,予 (39) 見されぬ,予想もされぬ歓喜の源となるのである」とある。こXに述べられているr偉大な 詩」を, 「想像力」, 「霊感」, 「ミューズ」,ないし, 「永遠:なる『愛』」などの言葉で置換 えても差支えない。「清らかな魂」が元の「泉」に戻るだろうとは,後の連に見られるよう に,Adonaisが,肉体を離脱して宇宙の根源的な『大岡』(Spirit)となったUraniaと合 一し,不滅性を得ることの予言的・象徴的な表現である。このAdonaisは,前の連にあ る,物質(肉体),感覚,理性を表わすAdonaisと違って,今や「清らかな魂」,想像力と 同一視出来るoWassermanは,第三十八連では,1Sheileyは, i一最初の発展段階での唯物 12

論を思い返して,この唯物論を,永遠なるものは魂である一魂が循環的だからではなく く て,復活するという理由から一という新事実と対立させている」と言っているが,この対 立は,前述の如く,詩の最後の連(第五十五連)まで固執される。 Shelleyの, Adonais(魂)の目覚めに対する確信は,続く連で一層深められ,強められ

る。

「静かなれ,静かなれ!彼は死なぬ,眠りはせぬ。 彼は人生の夢から目覚めたのだ。」 (St. XXXIX; 11. 343-344)

これは,第二十二連の「彼はもう目覚めぬだろう,お&,もう二度と」と全く正反対の主張 である。こxで,「彼」,すなわち,Adonaisが,第二十二連では, Keatsの肉体と理性 を,この第三十九連では,彼の魂,ないし,想像力を意味していることを思い出す必要があ

ろう。 今や,Shelleyにとって,人生(この俗世に下ること)は魂の死であり,肉体(物質)の死 は魂の復活である。だから「死んだのは『死』であって,彼ではない」(’tis Death is dead, 110t he l st. XLI)と言える。同様に, PJ’07nethetts Unboz〃ndに,「死は,世人が人生と1乎 べるヴェールだ」(III, iii,113)とあり,“With a Guitar, to Jane”(1822)に, F可哀そ うな霊は,/その讐故に,/墓の如き肉体に閉じこめられている」(11.37-39)とあり,ま た,断片The Triu・mPlz of Lifeにも,人生を「地獄」に讐え,「目覚めては,たX“,涙 を流す,この辛い世界」(IL 333-334)とある。死すべき人生,すなわち,魂の死におい て,人間の受ける苦しみや悲しみは・Thomas Taylorの英訳したPlotinusの作品,及 び,訳者の『序文』に見られる。Plotinusは・人間の魂について,「〔人間の魂は〕肉体と 結合することによって・すべての悪を苦しみ・悲しみと願望,恐怖と他の疾病とに悩まされ て不幸な人生を送ると知『隠れている・肉体は魂を束縛するものであり・墓場であり・世界 は魂を閉じこめる洞窟である]と述べている。 同じ第二・.卜九連の,続く詩行はこの思想との関連において解釈しなくてはならない。 Adonaisは永生を成就したのに,彼の死の意味を誤解して嘆いていた我々の方こそ,一体 どうなのであろうか。

「激しい夢想に己れを見失い, 空しく幻影と戦い続け, 己れを忘れて狂い,魂の刃で 傷つけられぬ虚無を打つのは我ら一 この我らこそ,納骨堂の屍の如く,朽ちる。恐怖と悲哀は 日々,我らに痙攣を起し,消耗させる。 冷い希望は,蛆虫のように我らの生ける体の内に群がる。」 (St. XXXIX) illαstoi’,及び, PriJice Atlzanaseの主人公は, Adonαisの最初の二つの発展段階で終り, AdonaisにおけるAdonaisとVrania 13

「人生の夢」から目覚めることなく,己れを忘れた狂気の状態で,単なる「傷つけられぬ虚 ぱ ラ 無」(invulnerable nothings)と争って,敗北したまxで終っている。 Adonaisの第三段階に見られる,皮相的な人生と真実なる永生との対比は,約一年前に 書かれたThe Sensitive Plantのr結語』全体に見られる。また,これは,翌年のThe Tγiumph of Lifeでの, Shelleyの最大の関心事でもある。例えば, The Sensitive Plant において,「美女」は死に, 『眠り草』は枯れて,「花園」は,外見上,荒廃の作用を受け るがま玉である。

「しかし, 誤謬と無知と闘争のこの人生において, 何ものも実在せず,すべては現象であり 我々は夢の影に過ぎない。この人生において,

死も,他のすべてのものと同様に, 幻覚に違いないと認めることは, つXましい信条であり, 考えてみれば,楽しいことである。

あの美しい花園,あの美女, そこにあったすべての美しい形のものと香は, 真実,決して消滅したりはしなかった, 変化したのは我々であり,我々のものであって,それらではない。

愛と美と喜びには, 死も変化もない。 それらの力は,もともと暗く 光をもたぬところの 我々の器官を越えている。」 (Ll. 122-137)

感覚的世界に対する,同様の不信は,The Sensitive!〕1αntと同じ頃に書かれたLetter io Maria Gisborneにも見られる。

「この日常の生活は,実在のものと見えるが そうでない,一それは,我々が信じようとしているすべてのものの 縁遠い幻覚に過ぎぬ。」 (M. i56-158)

「この日常の生活」(this familiar life)においては,我々は,「空しく幻影と戦い続け」, あたかも,「納骨堂の屍の如く」であり,r蛆虫のように我らの生ける体の内に群がる」揮 い希望によって食い物にされている。 14

しかし,Shelleyが,このように現世の辛さを並べ立てることによって,彼は, Swift流 の,または,7’he Vanity of Ilt〃nzan WisJzesにおけるDr. Johnson流の,人生に対する 絶望的なペシミズムを歌ったと見るべきではなく,寧ろ反対に,彼は,現世の辛さを表わす 対比的表現によって,Keatsの成就した平和e永生の信仰を一層強調していると解すべき であろう。Ernest Bernbaurnは, Adonaisは,「心の悲嘆を歌ったエレジーというより, く の 寧ろ,魂の歓喜を歌ったもの一iと言っているが,至言である。しかも,そこには,Beachが 言うように,墓の中での平和以上のものがある。「それは,魂が肉体をまとって入生に降っ ロの た後,再び,元の『燃える泉』へ戻った時の平和である」ことを忘れてはなるまい。だか ら,続く第四十連で,注意は再びAdonaisに向けられる。今や, Adonaisは,「人間の夜 の蔭」,「嫉妬,中傷,憎悪,苦痛,/間違って喜びと呼ばれるあの不安」を高く飛び越え ていった。彼は,最早や,「ゆっくりと汚してゆく,この世の悪疫」(the contagion of the world’s slow stain)を受けることはない。 所で,第三十八連で述べられた「清らかな魂は/『永遠なるもの』の一部として,/それ が生まれ出た燃える泉に流れ戻るだろう」という予言は,Adonais(こxでは, Keatsの想 像力,魂の意味)によって,二つの方法で直ちに実現される。それらは,(1)先ず,Adonais と美しき『自然』(Nature=〃α‘’61’α]zαtlcral~s)・ないし・自然の『大過』(なるVenus Urania)との合体という形で,(2)次に, Adonaisと「金星」(なるVenus Urania)との 合体という形でなされる。

(1)

第四十一一連から第四十三連までにおいて・Shelleyは・Adonaisが『自然』,ないし,そ の『大罪』と合体して不滅性を成就したという信仰を歌う。

i-Adonaisは『自然』と一つになった。雷のll申き声から, 夜の優しい鳥の歌まで, r自然』のあらゆる音楽の中に,彼の声が聞える。 彼は闇の中,光の中に, 草と石から感じられ知られる存在である。 倦むことのない愛をもって世界を支配し, 下から世界を支え,一ヒからそれを燃やしている, その『力』は,Adonaisの生命を本然の所に引き戻し, その『力』の動めく所,至る所に充ち溢れる。」 (St. XLII)

「彼はかつて更に美しくした 美の一部となった。あの唯一の『大霊』の創造力が 鈍重な世界を支配して,あらゆる生起するものに 彼らの装うべき新しい姿を与え, 『大霊』の飛翔を妨げる頑固な屑に, Adonaisにおけ一るAdonaisとUrania 15

出来る限りの『大霊』の姿を装わしめ, 樹木や獣や人間から,美しく,力強く 『天』の光の中に躍りこんでいる間, 彼はその役割りを果している。」 (St. XLIII)

この二つの連の思想は,極めて汎神論的であるQH. W. Piperは, Shelleyのこの汎神論

の直接のソースを,Wordsworthに求めている。これらの連の1†1で,第四十三連は,第二 段階での第二十四連(既に引用)と内容的によく似ている。しかし,両者の闘には本質的な 相違がある。第二十四連では,Uraniaは, Adonaisの所へ来る途中,物質や頑固な人の心 を押し分け通るが,足裏を傷つけられてしまう。これに対して,第四十三連でのr自然』の 『亡霊』は,鈍重な,頑固な屑のすべてを,無理矢理に自分の美しい姿に似せて作り変え る。Wassermanは・Adonaisと合体した・この『大霊』が,前の段階でのUraniaと違 (46> うことから,Uralliaと『大漁』とは別のものであると考えるQしかし,既に, Adonaisが 肉体から魂へと変身したことを認めたからには,我々は,Ul”allia Vこついても, Hungerford やBakerの言うように,肉体から魂への,同様な,並行的な,同時的な変身を認めること くエ ア が出来るのではあるまいか。既に見たように,詩の初めの二つの段階では,.Uraniaが不完 全な女神Venus Pandemosであったことは明らかである。しかし,第三段階では,彼女は, Pandemosの属性を完全に捨て去り,たとえ,詩の第主段階の十七の連で‘‘Urania”の名 が一度も使用されなくなったといえども,彼女は,“Urania”の名が表わす本来の意味での 精神的な,愛と美の女神Venus Uraniaに変身した。 (前に言ったように,肉体的な Venus Pandemosに“Urallia”の名を用い,真のVenus Uraniaとなった彼:女に,この 名を用いないことは,実にアイロニカルである。)そして,彼女は,『自然』の『大霊』,な いし,Prometheusと合体したAsiaと同様な, 「Venusにして『自然』と同じもの」と なったと考えられるのである。 こxで,Uraniaの変身を主張するに当って, Morse Peckhamが‘‘Toward a Theory of ”という論文で説いた,浪漫主義の基礎概念に関する理論は有力な手掛り となろう。彼は,次のように言っている。

「本来の姿における動的有機体説(dyllamic organicism)の帰結は,宇宙の歴史は 自らを創造する神の歴史だという思想である。宇宙の歴史は,神は初めの段階では不 完全であって,その神が超絶神であろうが内在神であろうがいずれにせよ,その発展の く ラ 過程で,悪を解脱する神の歴史であるが故に,悪は究極的段階で1ま除去される。」

Adonatisが,真にすぐれた浪漫主義の作l!{illであるからには,一しの引用に見られるような, 「宇宙」,ないし,「自然」と「神」との進化の信仰があって当然である。Bakerが言うよ く うに,Shelleyにおいては,変身と合体の物語は,決して珍らしいものではない。 Shelley は,Aclonaisにおいて, Adonis神話にある要素の中で,特に,その変身に関するものに興 味を抱いたようである。 このPeckhamからの引用に示されるように,浪漫主義の「動的有機体説」では,「変 16

化」(或は,進化)に,重要な,積極的な価値が与えられる。これは,「変化」そのものを 悪として否定しようとする,十八世紀の「静的機械観説」と真向から対立するものである。 Peckhamは,同じ論文で,浪漫主義時代の「宇宙は,既成の事物,完成された機械のよう なものではなくて,生成してゆく。従って,変化は,肯定的な価値をもち,否定的なもので げ くらの はない。変化は,人間に対する刑罰ではなく,人間に対する好機となる」と力説している。 く このような「変化jの概念に対する価値づけの変化が,/4donαisに極めて明確に示される。 すなわち,先ず,第一段階の唯物論的一元論では,「変化」は,次の引用のように,物質の 破壊・分解の条件,つまり,悪となっている。

「『腐敗』は, かくも美しい餌食を敢て害ねようとはしない, 暗闇と変化の法則が,死のとぽりを彼の眠りの上に引くまでは。」 e e (St VIII;ll.70-72.下点筆者)

所が,第二段階では,「変化」は,自然の復活の条件となる。

「森や流れや野や山や大洋の中に 蘇らす生命は『大地』の心臓から送しった。 神が最初に『混沌』に現われた時, この世の大いなる夜明けから生命が変化と運動をもって 一 e 送しった如くに。」 (St XIX;11.163-167.下,1与筆者)

そして,第三段階では,

「〔『永遠なるもの』は,〕時と変化の中に変ることなく 消えることなく,‘輝やかねぽならぬ。」 (St, XXXVIII;ll.340-341.下点筆者)

とあり,魂は,変化を重ねることによって,究極的段階において,悪を完全に除去して,不 変・普遍なる存在者となる。これと並行して,第一段階で見られた,死,破壊,冷たさ,暗 さ,不活発という特徴も,今や,蘇生,創造,暖かさ,明るさ,活発の特微に変る。 引用した第四十三連において,Adonaisは,『自然』と,その『大霊』と単に合体した のみではなく,これまでは受動的に外からの作用を受けるがまxであった彼は,積極的に能 動的に,『自然』の「唯一の『大霊』の創造力」(the one SpiriVs plastic stress)の作用 に参加する。この「創造力」は,第十九連の「蘇らす生命1(aquickenin91ife)と同じも ので,このような「創造力」をもった『自然』の『大霊』の思想には,Ralph Cudworthや Henry Moreの「創造的『自然』」(plastic Nature)の思想や, Coleridgeの思想の影響が くさの 指摘される。Coleridgeの“Religious Musings”で,神の命に従って宇宙を導く霊は次の ように呼びかけられる。 AdonaisにおけるAdonaisとUrania 17

「観照する霊どもよ/ 創造神に充ち盗れる, 測り得ぬ泉の上を倦むを知らず凝視しつX 舞う汝らよ/ 汝ら,創造力をもてるものよ, 粗い物質の塊の中をまざり合い 組織する大渦巻きのうねりをうねる./」 (Li. 402-407)

(2)

第四十三連で言及された「『天』の光」(Heaven’s light)eま, Adonaisと(『自然』の 『大霊』となった)Uraniaとの合体の思想を,天に向ける役割を果している。

「時の空に輝やくものは, 一時,隠されるかも知れぬが,消されはせぬ。 星たちのように,彼らは定められた天頂に昇り, 低く垂れる霧とも言える死が,光を隠しはするが 消しはせぬ。」 (St, XLIV)

真実なる「光」を隠す「低く垂れる霧」(alow mist)なる「死」(death)とは,「俗世」 く のことで,・4Defence of Poelryにある「日常性の霧」(the mist of familiarity)と同 じものである。Chatterton, Sidney, Lucanなど・惨い最期を遂げた偉大な詩人たちの魂 は,夫々の星に居を構え,Adonaisを待っている。彼らは,第二段階で, Adonaisの救済 の手段を知らぬByron, Moore, Shelley, Huntらと違って, Adonaisを導く。 こxで,Shelleyは,・4donaisのモットーとして掲げたPlatoのエピグラムー汝は, 金星(Venus)で,生ある間は「明けの明星」(Lucifer)だったが,死後は「宵の明星」 (Hesperus, Vesper)となったという内容のもの一に,意識的にせよ,無意識的にせよ, 依っている。実際,第四十六連で,Chattertonなどは, Adonaisに対して,「汝,我々の 『宵の明星』(Vesper)よ,汝の翼ある王座に着け」と呼びかけている。もともと, Adonais が合体することになっているUraniaの住居が,既に述べたように, Heliconの高峰の一 つと,「第三天」(金星天)とのニヵ所が考えられたことから,Adonaisの合体の方法に 二通りあったとしても矛盾はない。 Wassermanによると,「魂は星から来たもので,地上の偉大な精神の者は,天体に変身 くさの することによって不滅性を得る」というのもNeo-platonism的,思、想である。第四十四連か ら第四十六連までに見られるAdonaisの魂の不滅の成就の仕方は,必らずしも完全な没我 的なものではなく,寧ろ,Ellsworth Barnardが言うように,高次の「我」の無限の拡大 く を意味している。Graboは,この「我」をとx’めた状態における不滅性ということと,唯一 者との合体という思想には,一見論理的矛盾があるが,この矛盾は,インド教のNirvanaの く 思想に見られると言い,George Santayanaは,円熟期のShelleyの形而上学を位置づける 18

(57> 呼称として,“pantheism”よりも,“panpsychism”が一層妥当であると考えている。

遂に,第五十二連と第五十四連とにおいて,Shelleyは,上述したような, Adonaisの 合体の二つの方法を,彼の綜合的想像力によって統一・融合し,これを強烈な心象をもって 描く。

「『一』は残り, 「多」は変化し消滅する。 『天』の光は永遠に輝やき,r大地』の影は飛び去る。 『人生』は多彩なガラスのドームの如く, r永遠』の放射する白光を汚す, 『死』が『人生』を微塵に砕くまで。死ね, もし君が求めるものと一つになろうとするならぽ/」 (St. LII)

『一』(the One)は変身した愛と美の女神Uraniaであって,第三十八連の「燃える泉」, 『永遠なるもの』,第四十二連の『大口』,第五十四連の『光』(Light),『美』(Beauty), 『祝福』(Benediction),「万有を支える『愛』」(tliat sustaillillg Love)などとともに, かっこたるr永遠:なるもの』(the Etemal, Eternity)を表わす名の一つである。この Uraniaは, Pro1Jiet/zebcs U77bovvndで,『生命の生命』(Life of Life),『光の子』(Child of Light)と呼ばれたAsia( ・= Venus and Nature)・Tlze TrittmPh of Lifeで, Rousseauが若き・頃眼前に見ていた「全く輝やかしい『姿』」(A Shape all light:1.352), 「永遠なる『愛』」(eternal Love)と同じものである。それは, Eρゆ5yolz∫認。〃で,数々 の束縛物から,r死』の納骨堂にある塵なる肉体から,魂を解放する「誠のr愛』1(true Love:li.397-407)である。 Adonaisは,この『一』なる『愛』と合体して,永生を得た のであるQ 次に,「多」(the many)とは,この世に生を営む人間のことである。 『一』と「多」と の間に「多彩なガラスのドーム」(adome of many-coloured glass)カミあるQこの「ドー ム」は,第四十四連の「低く垂れる霧」と同じく,大気圏のようなもので,真実なるr一』 が発するr白光」を乱反射するために・それ自体は多彩色に輝やく。つまり,「白光」を汚 く すのである。これは,俗世とか・モラルの歪みを意味する。Shelleyは,早くに, QZteen A4abの『注』で言っている,「大気圏外では,太陽は黒い凹面の真中で光線を発せぬ火球 のように見えるであろう。地上では,太陽の光は,大気によって屈折されたり,また,他の くう 物体によって反射されたりして,光線となり,拡散される」と。 こXで,注目すべきことは,『死』が,第一段階では,破壊・腐敗への道を意味したが, 第三段階では,直接の復活を意味していることである。第五十二連に, 「『死』が『人生』 を微塵に砕く」,「死ね,/もし君が求めるものと一つになろうとするならば/」,更に,第 五十三連に,「『死』が結合し得るものを再び『人生』が引き裂かぬようにせよ」とある。 しかし,このことは,死ねば,誰でも『一』なる『愛』と合体して,永生を得ることが出来 るという意味ではない。第五十四連に,「多彩なガラスのドーム」の内側に生きている「多」 なる人間は,「各々が憧がれる火を/映す鏡である程度につれて」,すなわち,/-TellαSの AdonaisにおけるAdonais とUt’ania 19

『注』にあるように,各人の想像力が達成した「完成さの程度に比例して」,このr一』な る『愛』が「明かるく,或は,暗く燃える」とあるところがら,恐らく,人は,存命中に, この恩恵にあずかるために,彼の想像力を最も明かるい鏡にしておかねばならないのであろ う。換言すれば,人は,想像力を陶冶し, r一』なるr愛』を最もよく把握するように心掛 けておかねばならない。これは,取りも直さず,ノ1Z)efence of-1)oetryに説かれている愛 く わ のモラルに外ならない。 所で,そのための最もすぐれた方法は,想像力による自己認識(seif-knowledge)のそれ である。Shelleyは,第四十七連で,自分自身に呼びかけて,「.君自身を知れ,そして彼 〔Keats〕をも正しく」(…know thyself alld him aright・)と言う。 T/ze lt’evo/i of fs/am の「愛の女予言者」であるCythnaは,「君自身の魂を澄めるな,君自,身を知れ」 (Reproach not thiiie own soul, but kllow thyself:VIII, xxii)と叫び,7”/ze TriumPh o/しがθで,Rousseauは,“those deluded crew”カ’:『俗世』(Life)の虜となった根本 原因は,「彼らの知識が/彼らに己れを知ることを教えなかった」(their lore/Taught them not this, to lmow themselves:1L 211-212)からだと説明する。このような自己認 識によって『一一#』なる『愛』を把握したKeatsの如き人の想像力,ないし,魂が,一層明 かるく,r愛』の「白光」を反射することは当然である。このような人のみが, 『愛』によ って,「俗世」という「多彩なガラスのドーム」,「冷い,滅ぶべき性質の最後の雲」 (the last clouds of co玉d mortality:st・LIV;1・486)を粉砕してもらうことによっ・て,す なわち,死ぬことによって,『愛』と合一し,不滅性を成就出来る。これは,.第三十八連の Neo-platonisln的思想の実現である。 Adonaisという象徴的な物語詩において, Shelleyは,当代においてすぐれた『愛』の 詩人Keatsの範に倣い,彼の導きに従うことを(st・LV),そして,読者もその後に続く ことを望んでいるのである。

V

く 円熟期のShelleyが,詩人として,憧れた人生の理想的目標は,人間の想豫力,ないし, 魂が,物質界を超越して,同時に,それが生ま才して来た『自然』の.「唯一の『大賢』」,ない く の し,「永遠なる『愛』」と合体し,それによって,不滅性を得ることであった。Shelleyに とって,これを達i成する方法に,①Prometheus-Asia的方法と②Adonais-Urania的 方法との二つがあった。①は,P1’07・netheus Unboz〃ndにおけるように, Prometheusカミ呪 誼を捨てx,『愛』を導入することによって,直ちに,Asia(=Venus and Nature)と合 体するもので,これに対して,②は,Adonciisにおけるように, Adonaisが死ぬことによ って,Uraniaと合体するものである。 この論文では,Shelley自らが,彼の作品の巾で「最も完純なf/1三品」と揮ることなく評 価したAdonaisを, AdonaisとUraniaとの合体の物語と考える立場に立ち,これを, 詩の内容の展開の上から,三つの段階に区分して研究した。詩の隠題の第一段階(第一~第 十七連)では,生命力はなく,物質が究極的真理であるという唯物論的一元論が述べられ るQAdollaisの肉体の死に関心が集中しており,物質の滅亡の強調,嘆き,怒りなどの描 写はユレジーの伝統に期ってなされている。冷たさ,不活発さを表わす単語が多い。第二段 2b

階(第十八~第三十..ヒ連)では,物・心二元論の枠内において,物質と精神(理性)の滅亡 が述べられる。そして,死と復活との中間という停滞状態の中にも,自然の息吹き,「生命 力」とか,「目覚め」に対する認識がある。これは,Adonaisの復活の前触れである。母 なるUraniaは,第二段階で登場するが,その無知と無能力のために,第三段階における Adonaisの復活を予見せず,たss,悲しみ,後悔するのみである。第三段階(第三十八~ 第五十五遮)での汎神論的・観念論的思想において,生命力の強調,生の原動力の活動が積 極的に開始される。初めて,霊魂の不滅,Adonaisの復活が述べられる。遂に, Adonais は,肉体を去って精神性を得,彼と並行的に変身を行い母なるr自然』のr大工』となった Uraniaと合体して,不滅性を得,宇宙の能動的な創造活動に参加する。 “Adonais”の名は,詩において,一貰して使用されているが,第一段階では, Keatsの 肉体(物質)を,第二段階では,彼の肉体(物質)と理性を,第三段階では,彼の想像力, ないし,魂を意味している。“Urania”の名は,彼女が, Venus(Aphrodite)Pandemos である第一段階と第二段階において使用され・彼女が・真の精神性を得て,天上の愛と美の 女神Venus(Aphrodite)Urania・ないし・r一一』なる「永遠なるr愛』」となった第三段 階において,その名が,かえって・使用されなくなったことは・アイロニカルである。 Shelleyは, AdOi・?aisで,「死ね・/もし君が求めるものと一つになろうとするなら ば/」と言っているが,死ねば,誰でも無条件に『自然』のr大雨』なるr愛』と合体して 不滅になれるとは言っていない・Shelieyは・第四十七連で・自分自身に呼びかけて・「君 自身を知れ,そして彼〔Adonais〕をも正しく」と言う。俗世の「ヴェール」,「多彩なガラ スのドーム」の下に住む間にも,想像力によって,世俗的な愛や呪謁を捨て,己れを内省し, 「永遠なる『愛』」を把握し,そのr愛』が発する「白光」をそのまX反映する明かるい鏡 となった者のみが,死後,この『愛』と合体出来るのである。この『愛』の強烈な「白光」 によって,その人の内にある「冷い,滅ぶべき性質の最後の雲」(これが,その人に俗世へ の執着を抱かせている)が・焼き尽くされること,すなわち,死ぬことが望まれている。 最後に,Adonαisは,初めの段階では不完全な神が,自らの悪を克服してゆき,究極的 段階では完全なものとなるという・進化と創造の物語である。これは,恐らく,Morse Peckhamの説く,浪漫主義の基礎概念としての「動的有機体説」(dynamic organicism) の帰結と同じものと考えられる。Adonaisが, Shelleyの作品の中で,「最も完壁な作品」 であるのみならず,浪漫主義最大の;・一レジーの一つであると呼び得るのは,その内に,この 「有機体説」の,理想的な・十分なる展開がなされているからではなかろうか。 (昭和44年9月9日 受理)

(1) この拙稿に用いたAdonais : An Elegy on tlte Death of∫ohn Keatsのテキストは, ThOmas Hutchinson編, Oxfordの標準版, TliθComψtete Poetical Worles Of Peγcy Bツsshe Shelley (London,1952)である。 (2)Adonaisの執蜘diって, Shelleyは, Theocritusの牧歌の流れを汲む二つのギリシアのエレ ジー,Bionの作と伝えられる Lament for AdonisとMoschusの作と伝えられるElegy on tlte Deatlt of Bionに1龍をとった。また,彼は,このエレジーの英訳も試みている。(実は,こ 且♂oπ認∫におけるAdonais とUrania 21

の二つのエレジーの作者は不詳である。)彼は,この二つの作品の他に,OvidのMetamorPlioses をも利用したと考えられる。 (3) To Charles Ollier, June 11, 1821; Sept. 25, 1821; to John and Maria Gisborne, June 5,

1821; The Letters of Percpt Bysshe Sheltey, ed, Frederick L. Jonef (Ox’forcl, 1964), II,

299, 355, 294.

(4) 例えば,Adonaisの体の冷たさについて,彼の頭には「霜」がとざし(L 3),心臓も頭も「冷た く」(IL 80,82),彼の枢の花輪は「凍った涙1で宝石の如くちりばめられており(1.95),彼の 頬は「凍りj(1.99),唇は「氷の如く」(1・105)と述べられている。第一段階での,冷たさ・不 活発などの特徴は,第三段階では,暖かさ・活発などの特徴に変る。 (5) ShelleyはKnightのEssay on the Pictu・resqz‘eを読んだ。 TQ Thomas Love Peacock,

March 21, 1821; Jones, ed,, oP. cit,, II, 275,

(6) Edward B, Hungerford, Shores of Darfeness (Cleveland, 1963. !st publ, 1941), pp, 220-

221.

(7) Earl R, Wasserman, The Subtler Language: Critical ReadingsげNeoclassic and Romanti‘

Poems (Baltimore, 1959), pp・ 311-312, 314, 317, 329, (()) 89Jones, ed,, oψ. cit., II,197・この書簡の引用が,第五十二連に似ていることは注目に値する。 Carios Baker, Shelle二y,s Major Poetrツ:The Fabric of a Vision(Princeton,1948),PP.247-

249.

(10) Hungerford, oP. cit., pp, 220, 235,

(11) Baker, oP. cit., pp. 241-242,

(12) Jones, ed., oP. cit,, II, 261.

(13) Mrs, Shelley’s Note on Promethez{s Unbound; Hutchinson, ed., op, cit,, p, 272.

(14) 第三十六連に,「我らのAdOnaisは毒を飲んだ」とあり,彼の死因は統一されていない。 See Desmond King-Hele, Slzelley : The Man and the Poet (New York, 1960), p. 30s.

(15) Hungerford, oP. cit,, p. 232.

(16) Wasserman, oP, cit,, pp. 317, 335-336.

(17) Ross Woodman, The Apocalyptic Vision in the I)oetry(ゾS12elieツ(Toronto,1964), P.161.

(18) See Wasserman, oP. cit,, p. 328,

(19) Woodman, oP. cit., p. 162.

(20) Wasserman, oP, cit,, p. 323 & n,

(21) F, s. Ellis, ed., A Lexical Concordance to the IZ’oetical 17Vorles of Percy Bysshe Sheltey

(Tokyo, 1963, lst publ, 1892), p. 347,

(22) Wag. g, erman, oP. cit., p. 347,

(23) Ibid,, pp, 319-320, 321,

(24) Ellis, ed., oP. cit,, p. 29,

(25) Wasserman, oP. cit,, p, 334.

(26) John Shawcross, ed., Shelley’s Literary and PhilosoPliical Criticism (Lonclon, 1932), pp,

152, 136.

(27) 現世では, r惑い,滅ぶべき性質」故に, 「霊感の途切れた合間には (巾略)詩人も常人とな

る」のである。ADefence of Poetry∫Shawcross, ed・, oP. cit., p.157,

(28) King-Hele, oP. cit,, p, 306.

(29) Baker, oP, cit., p. 243.

(30) Shelleyが, Venus(Aphrodite)i・こPandemosとUraniaの二種類があることを知っていたこ 22

とは明らかである。①彼は,PlatoのSymPosiumを愛読したのみならず, PromethetiS Unboundの執筆前,1818年7月に,これを英訳した。 Pausaniasの話の関連ある部分の英訳に ついては,James A. NotopoulosのThe Platonism(ゾShelleツ(North Carolina,1949, PP. 421-422)を参照のこと。②1817年に書かれた断片の詩Prince Athanaseは, Shelley夫人の 『注』によると,最初,Pandemos and Uraniaと題された。 Hutchinson, ed,, op. cit., pp.

158n.一159n.; Helene Richter, ‘‘Zu Shelley’s Philosophischer Weltanschauung,” Englische Stttdien, XXX(1901),256-257.尚, ShelleyはADefence of Poetryで,すべての古代人の 中で,Plato一人が愛の詩人であったと言っているQ Shawcross, ed., op. citi, p.144.

(31) Bakerは,情欲的な要素を減じるためにVenusを元の神話にある.ような恋人から.母としたと書 い(Baker, op. cit・, P・241), Kin9一.・Heleも,Bakerに従って,「Venusの地位を高め, Adonais をその息子とすることによって,彼〔Shelley〕は, Venus-Adonis神話からエレジーに適わし からぬ感能的要素を除去した」(Kin9-Hele, op・cit・, P・305)と宵っている。 VenusをAdonais の恋人から母へと変えるだけでは必らずしも感能的要素が除かれたとは思われない。何故なら, Shelleyは, The Revott of lslamで群よ,兄と妹に, The Cenciでは,父と娘とに肉体関係をも たすなど,インセストに興味をもっていたからである。(インセス1・は,Shelleyセことって,最 も詩的な効果を与えるものだった。」Ones・ed・, op・cit・, IL 154・)だから,情欲的なものを除去 するには,それよりも,寧ろ,第三段階で示されるように,二二二人から物質的肉体的属性を取り去 り,彼らに精神性を与えることの力に意味がある。 (32) Woodman, oP, cit,, p, 170. ・’ (33) lbid,, pp, 164-16ro.

(3tl・) NVass. ernian, oP, cit,, pp, 353-354,

(i?’f’1) Baker, op, c-it., p, 2tl,3n,; To (John and Maria Gisborne], [July 13, 1821]; Jones, ed,, op.

6鉱,II,308.「魔法の」(magic)の用法について, Rossettiは理解出来なかった。 William Michael Rossetti, ed,, The Poetical Works of (London, ls70), II,

sro4.

(36) ShainTcross, ed., oP. cit., pp. 54-55.

(37) carl Grabo, Tlte Magic Plavzt : The GroLvth of Slzelley’s Thought (Chapel Hill, lg36), p. 366.1/3eachは,この思想のソースをPlotinusに求めている。 JosePh Warren Beaclユ, The concept of Nature in ATineteenth-Centtiry English Poetry (New York, 1956. lst publ,

lg36), p, 265; Five Boofes of Plotin”s, translated by Thomas Taylor (London, 1794), pp,

263-264.

(38) Shawcross., ed,, oP, cit,, p. 36,

(39) lbid., p, 148,

(40) Wasserman, oP, cit,, pp, 327-328,

(41) Five Boofes of Plotinus, p, 261; cf, pp. lxiv-lxvi, Beach, oP, cit., pp. 265, 258.

(42) Cf. Vgroodman, oP, cit,, p, 174.

(43) Ernest Bernbaum, Guide Through the Romantic Movement (New York, 1949), p. 255,

(44) Beach, oP. cit., p, 265.

(45) H.W. Piper, The Active Universe : Pantlzeism and tJze ConcePtげlmagination in the

English Romantic Poets (London, 1962), p. 183; Edward E, Bostetter, The Romantic

Ventriloquists:Wordsworth, Coleridge, Keats, Shelleニソ, Bツron (Seattle,1963), P.226.

(46) Wassermanは,もともと, Uraniaの芸術的な役割は,第二十七連から第二十九連に見られる ように,「彼女の無知なる誤解によって,詩のironic〔すなわちdramatic irony〕な構造をつ Adonais に お け る Adonais と Urania 23

く る こ と で あ る 」 と 考 え て い る の で,彼 女 が 用 い た 天 文 学 約 心 象 が 期 せ ず し て 災 現 し た 時,彼 女

は 不 必 要 と な り,詩 か ら 姿 を 消 し た と 主 張 す る 。Wasserlnal1,0ρ.oゴ'.,pp,352-355,

(47)Hullgerford,oかo尭.,pp.218-220,235-236;Baker,oρ.σ 髭.,pp,246-247.

(48)MorsePeckham,"TowardaTheoryofRomallticisll1,"Ro溺 απ彦♂o勧z'Po謝sσ7♂ αo,ed,

RobertF.Gleckllera且1dGeraldE.Enscoe(EnglewoodCliffs,1962),p.217.

(49)Baker,oヵ.o髭.,pp.246-247,

(50)Peckhanl,oρ.σ 髭.,p.216.

(51)SeeWasserman,o♪.`∫ ム,pp,328-329.

(52)Beach,oρ.c∫ ム,pp.259-260.

(53)Shawcross,ed.,oρ.6髭.,P・52・

(54)Wasserma11,0ρ.o髭.,p.325.

(55)EllsworthBarllard,S漉 μθヅs.配 詔gゴo%(NewYork,1964.1stpubL1937),p.217.

(56)Grabo,oノ).o髭.,p.368.

(57)GeorgeSantayalla,T々 θ 理 碗4sげ1)oα γ碗 θ(NewYork,1913),P.180;GeorgeEdward

Woodberry,ed。,T々 θCo吻 観6Poθ"cαZ駒 廊 げS々 θZ勿(Bostol},1901),p.634;げ.

Richter,oρ.6ゴ'.,pp,238-247.

(58)こ の 解 釈 に お い て,主 と し て,King-HeleとWassermal1に 負 う て い る 。Kin9-Hele,oρ.σ 髭,,

pp.30g-310;Wasserman,oρ.o臥p,339.第 五 十 二 連 は,前 に 引 用 し た,1820年5月14日 付,

CharlesOllier宛 の 書 簡 の 一 節 の 詩 的 表 現 と も 言 え る 。 注(8)を 参 照 。

(59)正lutchinson,ed・,oカ ・o髭 ・,P・800・

(60)∫ δゴ4.,p.478.

(61)Shawcr・ss,ed・,・ ρ・ 砿P・131・

(62)彼 は,知 的 に は,霊 魂 不 滅 に つ い て 懐 疑 的 で あ っ た 。

(63)Barllard,oメ).o∫ ム,p.216.

Summary

ADONAIS AND URANIA IN ADONAIS

Norikane TAKAHASHI

The present study attempts to reveal the nature and development of Shelley's thought in Adonais, with special reference to Adonais and Urania. The poem is divided here into three parts :O that of the materialistic monism of the first movement, ® that of the dualism of mind and matter of the second, and ® that of the panpsychism of the third. Adonais, to be immortal after death, passes through the trials of these three stages under the guidance of the moral "love," arrived at only by the constant exercise of imagination to contemplate and know himself "aright," and is permanently reunited with Urania, herself the symbol of the "love," who, in the meantime, has transformed herself from Venus Pandemos and natura nalurata into Venus Urania and natura nalurans.