Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー・ド ・ ヒ エ ラ ル ヒ ー

私 市 正 年

The Almohad Hierarchy in the Reign of

Masatoshi KISAICHI

The purpose of this paper is to try to examine what is called `the Almohad hierarchy' in the reign of Ibn Tumart from a point of view ,of the governmental structure . In his reign, almost all of the Almohads were organized in the Almohad hierarchy which had the characters and the functions as follows : (1) Ibn Tumart was on the top of the Almohads as an absolute chief. ② al- 'Ashara (The Ten), that is, Ibn Tumart's ten confidants, being the first to recognize him as Mahdi. They formed the council which discussed all matters of great moment were under the Mahdi. (3) al-Khamsun (The Fifty), that is, fifty representatives of the Almo- had tribes, forming the grand assembly of the Almohad community which discussed matters of less importance. They were intermediaries between Ibn Tumart and the tribes. ④ The Talaba and the Muff az, being missionaries. The Huff a; were the boys studying the Qur' an and the Almohad doctrine and becoming the Talaba. ⑤ The AN al-Dar, being the chamberlains who served Ibn TUmart days and nights. ⑥ The Almohad tribes equal to the list of al-Qattan : Hargha, Ahl Tinmallal, Jadmiwa, Janf isa, Hintata, Ahl al-Qaba' il. Most of the Almohad soldiers were composed of them. ⑦ The Jund, that is, regular soldiers, being constituted of the forei- gners who came from the towns with Ibn Tumart, but their scale

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was small. ⑧ The Ghuzat, apparently being the special military groups of boys.

は じ め に

12-13世 紀 に か け て,マ グ レ ブ,イ フ リキ ヤ,ア ン ダ ル シ ア の 一 帯 を 支 配 下 にご治 め た ム ワ ッ ヒ ド朝(1130-1269)はIbn Tumart(1091頃-1130)の 宗 教

的 ・政 治 的 運 動 を 土 台 と し て い る 。 そ れ は タ ウ ヒ ー ド(神 が 唯 一 で あ る こ と)

の 教 義 を 説 く こ と か ら,ム ワ ッ ヒ ド(タ ウ ヒ ー ドの 教 義 の 信 者)運 動 と 呼 ば れ

る 。 彼 は1121年 か ら1130年 ま で の9年 間(彼 の 生 地Ijillizで3年, Tinmallal

で6年),宣 教 と ム ラ ー ビ ト朝 打 倒 を め ざ して 運 動 を 展 開 す る が,そ の 間 に 彼

の 下 に 結 集 した 人 々 や 諸 部 族(ム ワ ッ ヒ ド集 団)の 組 織 化 を 行 な っ た 。 そ れ が

ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー と呼 ば れ る組 織 で あ る 。 こ う し て ム ワ ッ ヒ ド集 団

に 属 す る 者 は,何 ら か の 形 で 組 織 化 され た 。

と こ ろ で,こ の 組 織 に つ い て は そ の 重 要 性 が 強 調 さ れ る 反 面,曖 昧 な 点 が 多

い 。Roger Le Tourneauは そ の 理 由 と し て,史 料 の 不 明 瞭 さ と 史 料 相 互 の 矛

盾 した証言の二つをあげてい るが,従 来 の研究方法の中に もこの問題を曖昧に してい る原因があ る。 この組織 は,Ibn Tumartに よって創始 され,そ の後あ る組織は解体 ・消滅 し,ま た改 良され,さ らにい くつかの組 織が付け加え られ, 全体 と して大 き く変 ってい ったが,王 朝末期 まで存続 した。それ故,こ の組織 全体 の正 しい性格や役割 の分析,位 置づけはIbn Tumartの 時代 か ら王朝の 崩壊 までの時代 を通 して分析す る ことに よって初めて可 能 とな るものであ る。 それに もかかわ らず,従 来 の研究 では,個 々の組 織を時期,時 代 に分 け ること

に 十 分 な 注 意 を 払 わ な か っ た り(J.F. P. Hopkins, R. Le Tourneau),(ch.

A. Julien),ま た そ の こ と を 考 慮 し た と し て も'Abd al-Mu'min(Ibn Tumart

の 初 代 の 後 継 者)以 後 の 変 化 の 過 程 の 分 析 を 怠 っ た りし て き た(Huici Miranda,

Rachid Bourouiba, Henri Terrasse)。 さ ら に 従 来 の 何 れ の 研 究 か ら も,こ

の 組 織 と 国 家 構 造 と の 関 係 の 分 析 が 欠 落 して い る 。

従 っ て 筆 者 は,こ う した 研 究 方 法 の 欠 陥 を 補 い1従 来 の ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ

ラ ル ヒ ー の 全 体 像 を 多 少 な り と も 明 瞭 に す る た め 次 の よ うな 方 法 と 目 的 を 持 っ

て 考 察 す る が,紙 数 の 関 係 か ら 本 稿 で は 次 に 述 べ る 二 つ の 問 題 の うち ① の み に

限 定 し ② に つ い て は 稿 を 改 め て 論 ず る こ と に す る 。

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① Ibn Tumartの 時 代 を ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー の 「原 型 」 と して,そ

の 中 の 個 々 の 組 織 の 役 割 や 性 格 を 分 析 し,併 せ て 国 家 構 造 と の 関 係 を 考 察 す

る 。

② 'Abdal-Mu'minの 時 代 以 後 を,そ の 「展 開 過 程 」 と し て,そ の 過 程 に お

け る 個 々 の 組 織 の 存 在 の 有 無,役 割 や 性 格 の 変 化,新 た な 組 織 の 創 設 な ど を

分 析 し,併 せ て 国 家 構 造 と の 関 係 を 考 察 す る 。

な お 本 稿 で 用 い る主 な 史 料 と そ の 略 称 は 次 の 通 り で あ る 。 Documents inedits ; Documents inedits d'histoire almohade, fragments inedits du "Legajo" 1919 du fonds- arabe de l'Escurial, Levi-Provencal

(ed.) Paris, 1928こ れ は,1924年 ス ペ イ ン の エ ス コ リ ア ル 図 書 館 で 発 見 さ

れ た マ ニ ュ ス ク リ プ トを 整 理 し た も の で 三 つ の部 分 か ら な る 。 第 一 がIbn

Tumartと'Abd al-Mu'minの 書 簡 集(Kitab al-Majmu'),第 二 がKitab

al-Ansabと 呼 ば れ る著 者 不 詳 の 書 の 抜 萃(以 後K. al-Ansabと 略 す),第

三 がIbn Tumartと'Abd al-Mu'minに 仕 え たal-Baydhaqの 年 代 記

(Ta'rikh al-Muwahhidin, al-Baydhaq と 略 称)で あ る 。 al-Qattan; Ibn al-Qattan, Juz' min Kitab Nazm al Juman, Tetouan, 刊 行年不詳。 Ibn Sahib ; Ibn Sahib al-Sala, al Mann bi 'l-Imama, Beirut, 1964 al-Mu'jib ; 'Abd al-Wahid al-Marrakushi, al-Mu'jib fi Talkhzs Akhbar al-Maghrib. Cairo, 1949. al-Hulal;著 者 不 詳, al-Hulal al-Mawshiyya fi Dhikr al-Akhaar al-

Marrakushiyya. Rabat, 1936 al-Qirtas ; Ibn Abi Zar', al-Anis al-Mutrib Rawd al-Qirtas, Upsaliae; 1843-46. al-Bayan ; Ibn `Idkari al-Marrakushi, al-Bayan al-Mughrib fi Akhbar al-Andalus wa'l-Mughrib. Vol. 3 Tetouan, 1963. al-Zarkashi ; Ta'rikh al-Dawlatayn al-Muwahhidiyya wa'l-Hafsiyya. Tunis, 1966. al-'Umari ; Masalik al-Absar fi Mamalik al-Amsar. Cairo, 1924. 本稿で は抄訳 L' A f rique moins l' Egypte, (tr.) M. Gaudef roy-Demombynes,

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Paris, 1927を 使 用 。 Ibn Khaldun ; Ibn Khaldun, Kitab al-'lbar. I-VII. Beirut, 1966-61. al-Athir ; Ibn al-Athir, Kamil fi al-Ta'rikh. Vols., X, XI. Beirut, 1966.

Ⅰ Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー

所 謂 ア ル モ ハ ー ド・ヒ エ ラ ル ヒ ー の 諸 組 織 を 列 挙 し て い る 史 料 はal-rattan,

K.al-Ansab, al-Hulalの 三 つ で あ る 〔表(1)〕 。 al-Hulalはal-Qattanを 写

表(1)史 料 に み ら れ る ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー の 一 覧

※( Ahl al-Sab'inに つ い て は,具 体 的 史 料 が 殆 ど な く,ま た 著 者(Ibn al-Qattan)

も そ の 存 在 を 疑 が っ て い る の で,考 察 か ら は ず す 。(ロ) al-Ghuzatの 分 析 で 述 べ る よ うに,校 訂 者A.M.Makkiが こ れ をal-Ghirratと 読 む の は 誤 りで あ る 。(ハ) 独 立 した 組 織 と し て 扱 わ れ て い な い 。(ニ) {の 部 分 は ア ル モ ハ ー ド部 族 で あ る 。

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し た も の で,Ahlal-Qaba'ilが 落 ち て い る こ と,最 後 にal-Ghuzatと 並 べ て al-Rumatを 付 加 し て い る こ と 以 外 はal-Qattanと 同 じで あ る 。 し か しK. al-Ansabに は 他 の 二 つ に な い い くつ か の 組 織 が 含 ま れ て い る 。 後 述 す る よ う

に,こ れ はK.al-Ansabに'Abd al-Mu'min以 後 の 時 代 に 加 え ら た 組 織 が

混 在 し て い る た め で あ る 。 こ れ に 反 して,al-Qattanは そ のal-'Asharaの メ ン バ ー,ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 名 な ど か ら わ か る よ うに,Ibn Tumart時 代 の

組 織 を 伝 え た も の で あ る 。 従 っ て 本 稿 で は 原 型 に 最 も近 い と考 え ら れ るal-

Qattanの 叙 述 に 従 っ て 考 察 を 進 め る。

II個 々 の 組 織 に つ い て

1.al-'Ashara

表(2)か ら わ か る よ う にal-'Asharaの メ ン バ ー は 様 々 で あ る 。特 にal-Mu'jib

の そ れ は 他 の 史 料 と 異 な っ て い る 。 史 料 に よ る こ う した 差 異 に つ い て,従 来 十

分 な 研 究 が な さ れ て こ な か っ た 。 史 料 間 の メ ン バ ー の 差 異 に つ い て 表(2)を 基 に

整 理 す る と 次 の よ うに な る 。 ①al-Qattanの10人 はK.al-Ansabのm,nを

除 く10人 と一 致 す る 。 ② そ の10人 は 史 料 か ら確 認 で き な いfを 除 きIjilliz到

着 ま で にIbn Tumartの 弟 子 と な っ て い る 。 ③ そ の10人 は 全 てIbn Tumart

時 代 の 生 存 が 確 認 で き る(内5人 がal-Buhayraの 戦 で 死 ぬ)。④K.al-Ansaba

が11,12番 め に あ げ るm,nは 後 に 恰 も補 充 さ れ た か の よ うに 全 く説 明 が な く

(他 の10人 に は 何 ら か の 説 明 が あ る),ま たAhlal-Darの メ ン バ ー と 重 複 して い る 。 ⑤a1-Qirtas, al-Hulal, al-Zarkashiは そ れ ぞ れ 不 明 瞭 な 人 物(k,1,

P,q,r,s)を 含 む 。 ⑥al-Mu'jibは 他 の 史 料 と 異 な り,当 然 あ げ る べ き

重 要 人 物(b)や そ の 他 の 有 力 者 た ち(e,f,g,h,j)を 除 い て い る 。

⑦al-Mu'jibの あ げ るo, a, d, i, v, cは 全 て 七 年 戦 役(1139-46)以

後 の 生 存 が 確 認 で き る 。 ⑧uは そ の 行 動 か ら して 当 然'Abd al-Mu'min時 代

に 生 存 し て い た と考 え ら れ る 。 ⑨xの 行 動 内 容 は'Abd al-Mu'min時 代 以 後

の も の で あ ろ う。 ⑩al-Mu'jib以 外 の 史 料 はIbn Tumart時 代 に 死 ん で い る

者 と'Abd al-Mu'min時 代 に 生 き て い る 者 と が 混 在 し て い る 。

以 上 の 整 理 か ら 次 の こ と を 確 認 で き よ う。

①al-Qattanの10人 が 最 初 のal-'Asharaで あ る 。

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②al-Mu'jibの10人 は'Abdal-Mu'minの カ リ フ就 任 以 後 の メ ン バ ー で あ

る 。

③ そ の 他 の メ ン バ ー は,① と ② の 間,あ る い は ② 以 後 の メ ン バ ー の 異 動 か,

も し くは 史 料 の 誤 り と考 え られ る 。

か く し てIbn Tumart時 代 のal-'Asharaの 最 初 の メ ン バ ー はal-Qattan

の10人 で あ る こ とが 明 らか と な っ た 。 表(2)及 びal-Qirtasやal-Athirの 叙

述 か らわ か る よ うに,彼 ら は 最 も 早 く彼 の 弟 子 と な り,最 も信 頼 さ れ た 人 々 で

あ っ た 。

そ れ で はal-'Asharaの 役 割 ・権 限 は い か な る も の で あ っ た の か 。Ibn Tumartは 独 裁 的 権 限 を も っ て い た わ け で あ り,そ の こ と と の 関 係 に 於 て は al-'Asharaの 権 限 は 相 対 的 に 大 き く は な い 。 し か し な が ら,他 の ム ワ ッ ヒ ド

た ち と の 関 係 に 於 て は,彼 ら の 権 限 は 極 め て 大 き か っ た と考 え られ る 。

史 料 か ら析 出 で き る 彼 らの 役 割 ・権 限 は 次 の 通 りで あ る 。al-Qattanは「Ibn

Tumartの ワ ズ ィ ー ル た ち:彼 ら は 特 にご選 び 出 さ れ た10人 の 人 々 で あ る 」 と 述

べ,さ らに ま た 「も し,彼 ら(ム ワ ッ ヒ ドた ち)が 重 要 な 問 題 を 処 理 す る 時 に

は,そ れ は 専 らal-'Asharaに よ っ て 処 理 され る 。 そ こに はal-'Ashara以 外

の 者 は 決 し て 加 わ ら な い 」 と述 べ る 。 ム ワ ッ ヒ ド朝 の 末 期,チ ュ ニ ス を 都 と し

て 独 立 し た ハ フ ス 朝(1228-1574)で,ア ル モ ハ ー ド ・ ヒ エ ラ ル ヒ ー が 継 承 さ

れ た こ と は よ く知 られ て い る 。 そ の ハ フ ス 朝 に 関 してal-'Umariは 「カ ー デ

ィ ーAbu al-Rah 'Isa al-Zawawiの 語 る と こ ろ に よれ ば.ス ル タ ン が 会 議

を 開 く時,助 言 と決 議 の た め に3人 の 者 が 坐 る 。 も し軍 隊 の 長(ワ ズ ィー ル)

が(ム ワ ッ ヒ ドの)大 シ ャ イ フ で あ れ ば,彼 は ス ル タ ン と と も に 坐 る 。

そ うで な け れ ば 彼 は 彼 ら の 前 に 立 っ て い る 。 そ の 下に は10人 の 大 シ ャ イ フ た ち

― 上 述 の3人 も そ の10人 に 属 す る― が 坐 る 。 さ らに50人 の 人 々 が そ の 下に

位 置 を 占 め る」 と述 べ て い る 。 こ の10人 の 大 シ ャ イ フ た ち がal-'Asharaを,

50人 の 人 々 が 後 述 のal-Khamsunを 継 承 した も の と考 え ら れ る 。10人 の 大 シ

ャ イ フた ち はIbn Tumart時 代 のal-'Asharaの 役 割,即 ち 重 要 な 政 務 の 決

定 ・執 行 とい う役 割 を 継 承 し て い る の で あ ろ う。

Ibn Tumartが 死 の 少 し前 に,al-Jama'a(al-'Ashara)に 食 糧 の 分 配 や 遠

征 な どにこつ い て 指 示 を 与 え た とか,al-Jama'a(al-'Ashara)やal-Khamsun

-90- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市) く の を 呼 び,後 継 者 と して'Abd al-Mu'minを 指 名 した,と い う記 述 か ら は , al-'AsharaがIbn Tumart-か ら 直 接,相 談 や 指 示 や 命 令 塗 受 け る 人 々 で あ っ

た こ と が わ か る 。

と こ ろ でal-Baydhaqが 報 告 す るIbn Tumartに よ る 第4回 め の 遠 征 に 於

て,'Abdal-Mu'min((2)の ④)がJadmiwa族 を,Abu Ibrahim Isma'il b . Yisallali((c))がHargha族 を,'Abd Allah b . Ya'la al-Zanati((j))が

Janfisa族 を,Abu Hafs 'Umar b. Yahya al-Hintati((i))かHintata族

を 指 揮 し た 。 ま たIbn Tumart時 代 の 最 大 か つ 最 重 要 の 戦 で あ るal-Buhayra

の 戦 で はal-Bashir((b))が 指 揮 を と っ た 。 こ の よ うにal-'Asharaの メ ン

バ ー は, .しば しば 軍 事 的 遠 征 の 指 揮 者 と な っ て い る 。 K.al-Ansabに よ る と'Abd , al-Mu'min((a))がIbn Tumartに よ り"時

の 人"(Sahib al-Waqt)と 呼 ば れ 褐 色 の 馬 に 乗 る 特 権 を 与 え ら れ ,Abu al-Rabi'Sulayman b. Makhluf al-Hadrami (al-Hauri)((e))が イ マー_ム ・

マ フ デ ィ ー(Ibn Tumart)の 名 に 於 て 手 紙 を 書 き ,Abu Ibfahim Isma'il b. Isallali al-Hazraji((c))が イ マ ー ム ・マ フ デ ィ ー の 名 に 於 て 人 々 の 間 の 紛

争 の 裁 決 を し,Abu 'Imran Musa b. Tamara ((f))がal-Jama'aの 長 官

(Amin)で あ り,Abu 'Abd Allah Muammad b. Sulayman((h))が 義 務 と し て の 礼 拝 の 指 導 者 で あ っ た 。 これ らの こ と は,彼 ら がIbn Tumartの

下 で 政 務 を 分 担 し,ム ワ ッ ヒ ドた ち を 指 揮 して い た こ と を 物 語 っ て い る 。

以 上 の よ うに,Ibn Tumart ,時代 のal-'Asharaは 数 少 な い 具 体 的 史 料 か ら 判 断 す る限 り,Ibn Tumartか ら直 接,助 言 を 求 め られ,重 要 な 政 務 職 務

の 指 示 ・命 令 を 受 け,か つ 執 行 す る人 々 で あ り,ま た 軍 事 的 指 導 者 で も あ っ た , と 言 え る 。

2. Ahlal-Khamsin(al-KhamsUn)

Ahlal-Khamsinと は"50人 の 人 々"と い う意 味 で あ る 。 しか し表(3)か ら

わ か る よ う,al-Qattahに ご よ れ ぼ41人, K.al-Ansabに ご よれ ば45有 余 人 で あ

る。 こ の 点 に つ い て,R. Montagne及 びJ.F.P.Hopkinsは,こ の 組 織 が ベ ル ベ ル の 伝 統 的 部 族 長 会 議(Ayt Arba'in; "40人 の 人 々"の 意)を 基 に し

て 作 られ た も の で あ る こ と,そAyt Arba'inは40人 とい う名 称 を 持 っ て い

る が,実 際 の 人 数 は 様 々 で あ る こ と,を 理 由 にAhlal-Khamsinを 正 確 に50

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表(2) al-'Asharaの メ ン バ ー

-92- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市)

・ メ ン バ ー の 名 前 は 次 の 通 り 。

(a) 'Abd al-Mu'min,(b) Abu Muhammad al-Bashir (c) Abu Ibrahim Isma'il

al-Hazraji, (d) Abu Hafs ‘Umar b. `Alial-Sanhaji ('Umar Asnaj),(e) Abu

al-Rabi'Sulayman b. (Makhluf) al-Hadri, (f) Abu 'Imran Musa b. Tamara

(al-Jadmiwi) (g) Abu Yahya Abu Bakr b. Yijit (al-Hintati), (h) Abu 'Abd Allah Muhammad b. Sulayman (al-Tinmalli),(i)Abu Haf s'Umarb. Yahya

(al-Hintati), (j)'Abd Allah b. Malwiya (al-Zanati),(k)al-Hasan b. 'Ali,(I)

イ フ リ キ ア のfakih,f akih, (m) Abu Musa `Isa b. Musa al-Sawdi, (n) Abu Muhammad 'Abd al -'Aziz al-Ghaygha'i, (o) Abu Muhammad 'Abd al-Wahid al-Khadri (al-Sharqi), (p) Abu `Uthman b. Yakhluf, (q) Isma `il b. Musa, (r) Ibrahim b. Isma `il al-Harghi, (s) Abu Yahya b. Makith, (t) Yusuf b. Sulayman (al- Masakkali), (u) 'Abd Allah b. Sulayman(al-Masakkali), (v) Abu `Imran Musa

b.`Ali al-parir (al-Tinmalli), (w)「Tinmallalの 人 々 」 の 出 身 の 者(x)Ayyub

al-Jadmiwi

・史 料 の 名 称 と 参 照 ペ ー ジ は 次 の 通 り

(イ) al-Qattan pp.77-80, (ロ) al-Qattanの 中 のal-Yasa`の 証 言P.76, (ハ)K.

al-Ansab. PP. 32-33, (ニ) al-Qirtas p.113,(ホ) al-Hulal P.88,(ヘ) al-Zarkashi

p.6,(ト) al-Mu'jib pp. 337-338.

・没 年 は 空 欄 は ,没 年 不 明 を 示 す 。 ・注

① 史 料 に はIsma'il b. Makhlufと あ る 。 Makhlufと い ヴ 名 の 人 物 が 非 常 に 少 な い

(Documents Inedits, al-Hulal, al-Qirtasの 三 つ の 書 を み て も, Documents Inedits

P.212にMakhluf Yalluliな る 人 物 が み え る だ け で あ る)こ と か ら 考}て,(e)と 同 一人 物 と み な し て よ さ そ う で あ る 。 ② 史 料 に は,Isma'il b. Makhlufと あ る が 注

① と 同 じ 理 由 で(e)と 同 一 人 物 と 考 え ら れ る 。 ③ た と え ばal-Qirtas p.136参 照 。

④K・al-Ansab, P.28,⑤al-Mu'jib, P.233,⑥al-Baydhaq, P.92, ⑦K. al-Ansab, P.33,⑧K. al-Ansab. P.33,⑨K. al-Ansab, P.33,⑩K。 al-

Ansab, p.33, it Ibn Khaldun, Histoire des Berberes (trad. De Slane),1969,

t.II.P.285,⑫al-Baydhaq, P.85,⑬al-Qttan p.95,⑭al-Qattan, p.212,

⑮Ibn Tumartと の 出 会 い はal-Baydhaq pp.55-56参 照 。 ⑯al-Baydhaq p. 59,(17)al-Baydhaq p.70, (18) al-Baydhaq p.64, (19) al-Baydhaq p.70, (20)

Ijillizで バ イ ア を 行 な っ て い る(K.al-'Ibar, VI.P.469), (21)同 じ くK. al-.Ibar,

VI, P.470, (22)al-Baydhaq, P.71, (Ijilliz期 に 戦 の 指 揮 を と っ て い る(al-

Baydhaq p.75), (24) al-Baydhaq p.73, 25 al-Baydhaq p.78, (26) al-Baydhaq p.73,(27)al-Baydhaq p.73,(28) K. al-Ansab pp.33-35, (29) al-Qattan pp.

121-122, (30) K. al-Ansab p.29, (31) al-Baydhaq p.73 (32) K, al-Ansab. p .

29,(33)al-Baydhaq p.73,(34)al-Bayan, III, P.21,(35)al-Mu`jib pp.193-194,

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(36) al-Mu'jib p.194, (37)al-Mu'jib p.338.こ れ は,当 然1147年 以 後 の こ と で あ る 。 (38)al-Mu'jib p.338,(al-Mu'jib p.338.

人 か ら な る 組 織 と 考 え る 必 要 は な い と し て い る 。 し か し,こ の 説 明 で は な ぜ "50人 の 人 々"と い う 名 称 が 用 い ら れ た の か が 理 解 で き な い 。 こ れ ま で の 研 究

者 は,人 数 の 問 題 と 名 称 の 問 題 と の 関 係 を 無 視 し て き た 。 筆 者 は こ の 問 題 に つ

い て 次 の よ うに 考 え る 。 第 一 に,こ の 組 織 は,元 来 は50人 か ら 成 っ て い た と 考

え られ る 。al-QattanはIbn Sahib(未 発 見 の 部 分)を 引 用 し てAhlal-

Khamsinの メ ン バ ー を 列 挙 した 後,「 彼 ら の 数 は 以 上 の リ ス トに よ れ ば,41

な い し40で あ る 。50人 の う ち の 他 の 人 々 は ど こ に い る の か 」 と 述 べ て い る が,

こ の こ と はal-Qattan がAhl al-Khamsinを50人 か らな る と考 え て い る こ

と を 示 す 。Ibn Khaldunも50人 か ら な る と考 え て い る 。 そ れ で は,具 体 的 に

史 料 に よ っ て50人 の メ ン バ ー を 検 討 して み よ う。 表(3)か ら わ わ る よ うに ⑧ ⑨ ⑩

(25)(28)はIbn Tumartの 弟 子 と な っ て い る 。(も 同 様 と考 え られ る 。 そ れ 故,

彼 らがal-Qattanか ら落 ち て い る と考 え た 方 が よ さ そ う で あ る 。 彼 らを 含 め

る と,41+6=47と な る 。 残 り の3人 に 誰 が 含 ま れ る か は 明 らか で は な い が,

元 来 は50人 で あ っ た と考 え られ る 。

第 二 に,数 字 の もつ 特 別 の 意 味 で あ る 。al-BaydhaqはIbn Tumartの 第

9番 め の 遠 征 の 件 で 「罪 な き 人(Ibn Tumart)は 言 った 「Kik(マ ラ ヶ シ ュ

南 方 の 丘 の 名)の 」三にKikが あ り,た と えKikが 七 重 に な っ て い る と して

も,そ の 何 れ も 我 々 のYawm, al-Khamis(木 曜 日 の 意 。 しか し文 脈 的 に は "勝 利"の 意)を 防 ぐ こ と は で き な い 」」 と述 べ て い る が ,こ のYawm al-

Khamisの 語 の 解 釈 に つ い てLevi-ProyencalはM.W.Marcaisの 書 を 引 ご 用 し て,北 ア フ リ カ の イ ス ラ ム教 徒 の 間 で は 語 源 的 に"5"(al-Khams)に 関

す る 言 葉 が"吉 報"や"幸 運"と い う"よ い こ と"の 意 味 で 使 用 さ れ る 例 が あ

る,と 説 明 し て い る 。 ま たal-Zarkashiは'Abd al-Mu'minがal-Mahdiya

を 占 領 した 時,そ の 年 をSanat al-Akhmas (AkhmasはKhums(1/5の 意)

の 複 数 形)と 名 づ け た と 述 べ る 。H. R. Idrisは そ の 理 由 の 一 つ と して,数 字

の5の もつ縁起 のよさ,を あげてい る。それ故,名 称を50人 と した一つの理 由 に,こ の数 字の もつ特別 の意味があつたのであろ う。

-94- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ ヒエ ラ ル ヒ ー(私 市)

以 上 二 つ の 理 由 か らAhl al-Khamsinと 変 え た も の と考 、えられ る 。

次 に こ の 組 織 の 役 割,権 限 に つ い て 考 え て み よ う。al-Qattanは「Ibn

Tumartに 助 言 を す る 弟 子 た ち,彼 ら はAhl al-Khamsinで あ る 」,「あ ま り

重 要 で な い 問 題 の 時 に は,al-Khamsunが(Ibn Tumartの と こ ろ に)呼 ば

れ る 」 と述 べ て い る 。 ま たal-Qirtasは「Ibn Tumartは 自己 に 対 す る 助 言 と

相 談 の た め,ま た 自己 の 権 威 の 結 束 と ム ス リ ム た ち の 監 視 の た めal-Khamsun

ヨを 任 命 した 」 と 述 べ て い る 。 こ の 三 つ の 説 明 か ら ・ 彼 らがal-'Asharaの 下 こ位 置 し,Ibn Tumartの 助 言 と 相 談 の 相 手 で あ っ た こ と が わ か る 。al- 'Asharaの 考 察 の 際 述 べ たal -'Umariの ハ フ ス 朝 下 のal-Khamsunの 説 明 ,

即 ち ス ル タ ン が 会 議 を 開 く時,10人 の 大 シ ャ イ フ た ち(al-'Asharaの 継 承)

の 下 に50人 の 人 々(al-Khamsunの 継 承)が 出 席 して い る,と い う説 明 は ま さ

に こ のal-'Asharaの 下に 位 置 した 彼 ら の 性 格 を 表 わ す も の で あ る 。

こ の 組 織 が ベ ル ベ ル の上 述 のAyt Arba'inを 基 に し て い る こ と は 明 白 で あ

る 。R. Montagneは 「Ayt Arba'inは マ グ レ ブ の あ ら ゆ る 地 域 の ベ ル ベ ル

集 団 の 中 に み られ る 。 … …(略)… … 。Ayt Arba'inは も と も と は,'そ れ ぞ れ 10人 の メ ン バ ー を も っ4っ の グ ル ー プ 全 部 族 を 代 表 し て い る か ら構 成

され た一 団(従 って合計40人)で あ る」,「(Ayt Arba'inに 於 て)地 方 の諸問 題,即 ち道路や灌概 の状況,木 の実 の収穫の 時期,新 しい牧 草地 への出発時 期,

政 治,近 隣 諸 地 域 と の 関 係,住 民 間 の 争 い の 問 題,罰 則 な ど が 話 し合 わ れ る 」

と述 べ る 。 ま たal-Athirは 「Ayt Khamsun即 ちAhl Khamsunは 諸 部 族

の 指 導 者 た ち の 集 団 で あ る」 と述 べ る 。 こ れ らの 史 料 か ら,彼 らが 基 本 的 に は

部 族 の 指 導 者 層 か ら 選 ば れ,Ayt Arba`inほ ど の 権 限 は な く と も,部 族 の 代

表 者 と して,部 族 民 とIbn Tumartと の 仲 介,即 ちIbn Tumartの 指 示,

命 令 を 部 族 民 に 伝 え,部 族 民 の 意 志,要 求 をIbn Tumartに 伝 え る 役 割 を 果

た して い た と考 え ら れ る 。

3. Talaba (Talibの 複 数 形)

Ibn Tumart時 代 のTalabaの 考 察 に 際 し,ま ず 次 の 事 が 考 え ら れ る 。 ① al-Qattanの ヒ エ ラ ル ヒ ー 全 体 を み た 時,宗 教 的 役 割 を 担 う も の がTalabaと

Huffaz(Hafizの 複 数 形)で あ る 。 ②Ibn Tumartは 彼 の 書 を ベ ル ベ ル 語 で 書

き,部 族 民 に 自 己 の 教 え を 理 解 さ せ る こ とに 努 力 した 。 そ の た め,彼 の 弟 子 た

-95- オ リ ・エン ト 第22巻 第1号 (1979)

表(3) Ahl al-Khamsinの メ ン ノミー

-96- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市)

- 97- ナ リエ ン ト 第22巻 第1号 (1979)

・メ ン バ ー は そ れ ぞ れ 以 下 の 部 族 に 属 す 。

① ~ ⑩Hargha部 族 ⑪ ~(36)Tinmal-alの 入 々(Ahl al-Tinmallal) (37)~(40)Hintata部 族 (41)~(45)Jadmiwa部 族

- 98- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市)

(46)~(51)Janfisa部 族(52)~(53)al-Qaba'il(諸 部 族) (54)~(57)Haskura部 族(58)~(61)Sanhaja部 族 (62)~(66)al-Ghuraba'(よ そ 者 た ち),な お(67)~(76)はTamyizの 後 に 加 わ っ た 人 々 で あ る 。 ・史 料 の 名 称 と参 照 ペ ー ジ は 次 の 通 り

イ al-Qattan pp.30~32 ロ K. al-Ansab pp.33~35 ・※ 印 の 人 物 名 は 不 明

・○ 印 は ,そ の 人 物 が 史 料 に 記 載 さ れ て い る こ と を 示 す 。 ・具 体 的 人 物 名 は ,煩 雑 に な る の で,以 下 の 必 要 な 者 の み を 示 す 。 (8) Abu Zakariya Yahya al-Dara `i, (9) Abu Zakariya Yahya al-Hazmiri, (10) Abu `Isa al-Jazuli (25) Abu al-Hasan Yujut b. Wajjaj (28) Abu 'Abd al-Salam Yaslatan (61) Abu al-Hasan 'Alib. Nasir ・注 . (a)Ijillizか らTinmallalへ の 移 動 に 際 し, Ibn Tumartに 同 行 した 。

(b)Ijilliz期 の 初 め,ム ワ ッ ヒ ド軍 の 一 員 と し て 戦 い.ム ラ ー ビ ト軍 の 捕 虜 と な る 。 (c)Ibn Tumartが マ ラ ケ シ ュ か らIjillizに 移 動 した 時 期 に,彼 と 出 会 う。 (d)('Abd al-Mu'minの カ リ フ就 任 直 後 に)Sanhaja族 の 統 治 者 に 任 命 され る 。

(別表)部 族ごとの人数及び合計

ちに彼の書 を暗記 させ,ま た弟子たちの うちのあ る者には彼の教 えの指導 をさ せ た。 また彼 の教 えを広 めるため,彼 の教 えを よく理解 した人々を諸部族に派

遣 した。 この時代 の宣教 の重要 性を考 えると,宣 教を主 たる任務 とす る専門集

-99- オ リ エ ン ト 第22巻 第1号 (1979)

団 が 形 成 さ れ た と 思 わ れ る 。 ③Talala, Huff的 とい う言 葉 の 意 味 も,そ れ ぞ れ '学 生 た ち" ,"コ ー ラ ン を 暗 唱 す る 人 た ち"で あ り,② の 任 務 に ふ さ わ し い 。

そ れ で は 具 体 的 史 料 は ど うか 。al-Baydhaqは 「520(1126-27)年,Talaba al-Muwahhidinが ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 の と こ ろ へ 送 られ た 。そ れ ら のTalaba

の う ちAbu[Mu] sa b. TawimajがTifnawtの 人 々 の と こ ろ へ 送 ら れ,

Abu Muhammad 'Atiya al-ManjasiがGhujdama族 の と こ ろ へ 送 られ,

ま た そ の 他 の 祝 福 さ れ た るTalabaが ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 の と こ ろ へ 送 ら れ

た 」 と 述 べ る 。 こ のTalabaは 恐 ら く最 も 早 い 時 期 の も の で あ ろ う。 そ し て こ

の 時 期 の 宣 教 及 び 道 徳,慣 習 の 改 革 の 重 要 性 か ら考 え る と,彼 ら が そ れ ら の 任

務 を 負 っ て い た に 違 い な い 。 彼 ら は 部 族 の 中 に 留 ま り,部 族 民 の 教 化 と 指 導 に

努 め た の で あ ろ う。al-Baydhaqに,al-Buhayraの 戦 の 後,し ば ら く して Ibn Tumartが 召 集 を か け た 件 で 「そ の 日,Janfisa族 のTalabaが 欠 席 し

て い た 。 そ こ でJanfisa族 の 人 々 はHargha部 族 の 閲 兵 が 終 る ま で,彼 ら を

探 した が 見 つ か ら な か った … … 」 と あ る が,こ のTalabaは 部 族 民 の 宣 教 と道

徳,慣 習 の 改 革 の た め に 派 遣 され,そ こに 留 ま っ て い た の で あ ろ う。al-Buhayra の 戦 に 敗 れ,Tinmallalに 逃 げ る 時,「'Abdal-Mu'minはAghmatのTalaba

と と も にHaylana族 の 地 へ と逃 げ た … 」 と あ るTalabaも 上 述 の 例 と 同 じ

も の で あ ろ う。 こ れ ら の こ とか ら,Ibn Tumartの 時 代 のTalabaは 宣 教 師

的 役 割 を も っ た 人 々 で あ る,と 結 論 づ け て 大 過 な さ そ うで あ る 。 4.Huffaz(Hafizの 複 数 形)

Ibn Tumart時 代 のHuffazに つ い て 具 体 的 事 例 は な い 。 しか しな が ら,

こ の 時 代 の 状 況 を 伝 え た も の で あ る こ と が 確 か め ら れ たal-Qattanに,Huffaz

が 独 立 した 一 組 織 と して と りあ げ られ,Huffazは 年 少 のTalabaで あ る,と

説 明 さ れ て い る こ と か ら,HuffazはTalabaに な る た め に 勉 強 して い る 少 年

た ち で あ る と考 え て よ か ろ う。 彼 ら の 役 割 も,Talabaと 同 様 宗 教 的 性 格 を 持

っ て い た こ と は 明 白 で あ る 。

5. Ahl al-Dar

表(4)を み る と,Hargha部 族 の 者(k,m,P,t)とIbn Tumartの 兄

弟(q,r,s)は 当 然 早 い 時 期 にIbn Tumartの 仲 間 に 加 わ っ て い る は ず

で あ る に も か か ず,al-Qattanで は そ れ ら が 除 外 さ れ て い る こ とに 気 付 く。従

-100- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市)

来 の 研 究 で は,Ahl al-DarはIbn Tumartの 兄 弟 及 びHargha部 族 の 者 を

中 心 と して い る か,も し くは そ れ ら と深 い 関 係 が あ る,と 考 え られ て き た 。 し

か しK. al-Ansabの 史 料 だ け か ら は,そ う考 え る こ と が で き て も,al-Qattan

を 参 照 す る 限 りそ の 考 え を 肯 定 す る こ と は で き な い 。 こ の 組 織 に つ い て も ま た

史 料 の 性 格 の 違 い を 指 摘 で き る 。 即 ち,al-Qattanの メ ン バ ー は,創 設 期 の も

の で あ り,K. al-Ansabは 創 設 期 と'Abdal-Mu'minの 時 代 の 混 合 で あ る 。

Ibn Tumart時 代 の 彼 ら の 役 割(後 述)か ら考 え て,彼 ら が そ の ま ま'Abd al-Mu'minの 宮 廷 で 仕 え る こ と は 困 難 で あ る 。 従 っ て,彼 ら はIbn Tumart

の 死 と と も に,事 実 上,殆 ど そ の 役 割,機 能 を 喪 失 した と考 え られ る 。 メ ソ バ

ー 自体 ,Ibn Tumartの 兄 弟 や そ の 一 族 の 者 を 中 心 と す る よ うに な っ た 。 そ

れ は,彼 ら を 文 字 通 りAhl al-Dar al-Imam al-Mahdi(イ マ ー・ム ・マ フ デ ィ ー の 家 の 人 々)と して 丁 重 に 扱 い,Ibn Tumartに 対 す る 敬 意 を 表 わ した の で

あ る 。(a)(b)がal-'Asharaと 重 複 し,(i)がal-Khamsunと 重 複 し て い る の は,

彼 ら が そ の 組 織 に 移 っ た た め で あ ろ う。

次 に 彼 ら の 役 割,権 限 を 考 察 し よ う。al-Qattanに「Ibn Sahib al-Sala

は 言 っ た「Ibn Tumartは 彼 の 家 で 自己 に 仕 え る 人 々 を 持 っ て い た 。 彼 ら は,

彼 の 弟 子 の う ちAhl al-Darと 呼 ば れ て い る 。 彼 ら は,夜 も 昼 も,彼 に 仕 え る

人 々 で あ り,そ れ 故 彼 ら はAhl al-Darと 呼 ば れ て い る の で あ る 。Ibn Tumart

は ひ た す ら 自己 の た め に,彼 ら を 仕 え さ せ た 」」 と あ る 。 ま た 同 じ くal-Qattan

に よ れ ば,Ibn Tumartが 死 ん だ 時Ahl al-Darと 彼 の 姉 妹 と彼 の 主 要 な 弟

子 た ち 以 外 に は,彼 の 死 を 知 る 者 は い な か っ た 。 こ れ ら の 史 料 か ら,彼 ら を Ibn Tumartの 私 的 な 侍 従 と考 え る こ と が で き る 。al-Mu'jibに「Abu Muha- mmad Wasnar(表(4)の(b))はAghmatの 住 民 で,黒 人 で あ り,皮 革 職 人 で

あ った 。 彼 は,Abu 'Abd Allah b. TumartがAghmatを 通 っ た 時,彼 に

従 っ た 。 そ こ でIbn Tumartは 彼 の 熱 心 な 信 仰 と彼 の 口 の 堅 さ の 故 に,彼 を

自 己 に 仕 え さ せ た 。 彼 はIbn Tumartの 祈 り前 の 浄 め(Wudu')と 彼 の

(歯 の 掃 除 の た め の)楊 枝 の 準 備 を した 。 ま たIbn Tumartに 対 す る 面 会 の

許 可 を 人 々 に 与 え る こ と,彼 の 侍 従 と して 仕 え る こ と,ま た 外 出 の 時,彼 の 先

導 を す る こ と,な ど の 仕 事 を した 。 彼 はIbn Tumartが 死 ぬ ま で そ う した 仕

事 を した 。 そ れ か ら,彼 はIbn Tumartの 墓 守 を し た 」 と あ る が,こ れ は,

-101- オ リエ ン ト 第22巻 第1号(1979)

ま さに 私 的 な 侍 従 の 職 務 内 容 で あ る 。 こ の 組 織 が 他 の 諸 組 織 と 異 な り,Ibn TUmartの 私 的 性 格 を 持 っ て い る こ と は,K.al-Ansabが 諸 組 織 を 列 挙 した

所 と は 全 く別 の 所 で こ の 組 織 を と りあ げ て い る こ と ま たal-Qattanが,al- 'Asharaか らal -Huffazま で の 諸 組 織 と 諸 部 族 の 間 に ,こ の 組 織 を 置 い た こ

と か ら 推 測 で き る 。 以 上 の 史 料 か らAhl al-DarはIbn Tumartの 身 辺 で 仕

え る私 的 な 侍 従 で あ る,と 結 論 で き よ う。 そ れ 故,彼 ら はIbn Tumartの 死

と い う重 大 な 出 来 事 を 知 り う る 立 場 に あ っ た の で あ る 。

表(4) Ahl al-Darの メ ン バ ー

-102- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市)

・史 料 の 名 称 と参 照 ペ ー ジ は 次 の 通 り。 (イ)al-Qattan p.33 (ロ)K.al-Ansabp.29 ・史 料 中 の 番 号 は ,史 料 に お け る 叙 述 の 順 番 を 示 す 。 ・注 (1) al-Mu'jib p. 339 (2) al-Qattan p. 212 (3) al-Baydhaq p. 116 (4) al-Baydhaq p. 118 (5) al-Baydhaq p. 53 al-Mu`jib p. 181 (6) al-Baydhaq p. 80 (7) al- Baydhaq p. 73 (8) al-Qirtas p. 113 al-Mu'jib p. 337 (9) K. al-Ansab p. 29 (10) al-Baydhaq. p. 73 (11) al-Baydhaq p. 76 12 al-Baydhaq p. 81 (13) K. al- Ansab p. 29 (14) K. al-Ansab p. 33 (15) K. al-Ansab p. 29 (16) al-Baydhaq p. 73 (17) K. al-Ansab p. 33 (18) K. al-Ansab p. 28 (19) K. al-Ansab p. 34 (20) K. al- Ansab p. 29 (21) K. al-Ansab p. 29

- 103- オ リ エ ン ト 第22巻 第1号(1979)

6.ア ル モ ハ ー ド諸 部 族

Ibn Tumart時 代 に は,Hargha, Tinmallalの 人 々,Jadmiwa, Janfisa,

Hintataの5つ の 部 族 な い し 集 団 以 外 にご,山 岳Hazmira族,Haylana族,

Maghus族,Hunaya族 な ど が,ム ワ ッ ヒ ド集 団 にご加 わ っ て い た 。al-Qattan

のal-Qaba'il(諸 部 族)と は,上 述 の5つ の 部 族 な い し集 団 以 外 の 諸 族 を 一 括

して 呼 ん だ 名 で あ ろ う。一 方,'Abdal-Mu'minの 時 代 に 服 従 したHazraja

族,Haskura族,Sanhaja族,Kumiya族 な ど を 含 め て い るK.al-Ansab

は'Abdal-Mu'min以 後 の も の と考 え ら れ る 。 ま た,K.al-Ansabはal-

Qaba'ilと し てHarraka族,Warika族,In Maghus族,Hunaya族,

Naffisの 人 々,Sada族,Rajraja族,Hazraja族 の 各 部 族 を,ま たal-

Mu'jibはal-Qaba'ilと し て,Hazmira族,Haylana族,Hazraja族,の

各 部 族 を あ げ て い る が,こ れ ら のal-Qaba'ilは'Abdal-Mu'min以 後 の も

の で あ ろ う 。 と い う の も,Hazmira族,Hazraja族,Warika族,Sada

(Sawda)族,Rajraja族 な どは,い わ ゆ る 平 原Masmuda族 に 属 し,そ れ

ら の 多 くは'Abdal-Mu'minの 時 代 に 服 従 し て い る か ら で あ る 。 従 っ てal- rattanの 各 部 族 がIbn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 で あ る,と 断 定

で き る 。

こ の 時 代 に 於 て は,領 域 は ア トラ ス 山 岳 地 帯 のMasmuda部 族 の 土 地 で あ

り,Ibn Tumartに 服 従 し た 殆 ど全 て の 部 族 が,ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 を 構 成 し

て い た と考 えて よ い 。 ま た ム ワ ッ ヒ ド軍 の 大 部 分 は ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 で あ っ

た 。

7.al-Jund

al-Qattanは 諸 部 族 の 後 にJundを あ げ て い る が,具 体 的 叙 述 は 見 あ た ら な

い 。K. al-Ansabの 「JundはAghmatの 人 々 や 彼 ら 以 外 の 都 市 民 た ち で あ

る」 な る 叙 述 を も とに,Hopkinsは,Jundを ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 に 属 さ な い

都市 出身者(よ そ者)に よって組織 された軍隊 と考 え る。た しかに,こ の時代 に都市民た ちが,ム ワ ッヒ ドとなった時,既 成 の部族組 織に加わ りに くい こと は十分考 え られ る。Ibn Tumartは,彼 らを直属の常備軍 として組織 したの であ ろ う。 しか し,マ グ レブの全域を支配す るよ うにな った時代 のJundが Aghmatや そ の他 の都市民た ちか ら成立 していた とは考 えに くい。

-104- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市)

を都市の代表 と してあげてい るのは,ま さにIbn Tumart時 代 の反映であ ろ

う。 と い うの も,ア トラ ス 山 麓 に 位 置 す る 非 常 に 豊 か な 都 市Aghmatは,Ibn Tumart時 代 の ム ワ ッ ヒ ドた ち に と っ て 最 も 関 係 の 深 い 都 市 で あ り,従 っ て そ

こ の 住 民 で も っ て 都 市 民 を 代 表 さ せ て も不 思 議 で は な い か ら で あ る 。 支 配 地 域

か ら考 え て,こ の 時 代 のJundの 規 模 は 大 き くは な か っ た は ず で あ る 。 史 料 に

現 わ れ て こ な い の は そ の た め で あ ろ う。

8.al-Ghuzat(al-Ghaziの 複 数 形)

al-QattanにGhuzatは 無 教 育 の 若 者 た ち で あ る,と い う説 明 が あ る 。し か

し な が ら,こ の 史 料 の 校 訂 者Mahmud 'Ali Makkiは,こ れ をGhuzatで は

な く,Ghirratと 読 む べ き で あ る,と い う。 そ してGhuzatと 読 ん で は,"無

教 育 の 若 者 た ち"と い う説 明 が 理 解 で き な い が,Ghirratは"未 熟 な 人 々"の

意 で あ り,そ の 説 明 に 一 致 す る と 理 由 を 述 べ る 。 筆 者 は,こ の 解 釈 は 誤 りで あ

る と考 え る 。 そ の 理 由 は,第 一 にal-Qattanを 写 したal-HulalがGhuzat

と 読 ん で い る か ら で あ る 。 第 二 に,Ghirratと 読 ん だ と し て も,そ の 実 態 は 明

ら か に な らず,し か も い か な る 史 料 に もGhirratと 読 む 例 は 見 あ た ら な い の

に 対 して,Ghuzatは,1129年al-Buhayraの 戦 に 敗 れ た ム ワ ッ ヒ ド 軍 が

Tinmallalに 退 却 す る 時 「ム ワ ッ ヒ ドた ち は,ア トラ ス 山 中 でIbn Tumart

が 派 遣 したGhuzatの 部 隊('Askar min al-Ghuzat)と 出 会 っ た 。 そ こ で ム

ワ ッ ヒ ドた ち は,そ の 部 隊 と と もにTinmallalに 戻 っ た 」 と い う事 例 が あ る

か ら で あ る 。 こ の 事 例 か ら,Ghuzatが 軍 事 的 性 格 を 持 っ て い た と考 え られ る 。 "無 教 育 の 若 者"と い う説 明 は ,彼 ら が 若 者 の 故 に 未 だ 十 分 な:知識 ・教 養 を 身

に 付 け て い な い こ と を 示 し て い る の で は な か ろ うか 。

K.al-AnsabはGhuzatが11の 部 族 か ら な る と して,Harghaか ら 日 陰 の

Sanhajaま で を あ げ て い る が,こ れ ら の 部 族 構 成 か ら,こ れ は'Abdal-

Mu'minの 時 代 以 後 の も の で あ る こ と は 明 白 で あ る 。Ibn Tumarti時 代 も,

そ の 時 代 の ア ル モ ハ ー ド諸 部 族 に よ っ て 構 成 さ れ て い た と考え られ る 。 何 れ に

せ よ,Ghuzatに 関 す る具 体 的 史 料 は 乏 し く,そ の 実 態 を 正 確 に 把 握 す る こ と

は 困 難 で あ る 。

-145- オ リ エ ン ト 第22巻 第1号(1979)

お わ り に

Ibn TUmartの 時 代 に は,ム ワ ッ ヒ ド集 団 の 殆 ど全 て が,ア ル モ ハ ー ド ・ヒ

エ ラ ル ヒ ー に 組 入 れ られ た 。 そ の 意 味 で は,こ の 組 織 が 最 も 生 き 生 き と し て い

た 時 代 で あ っ た 。 これ ま で の 個 々 の 組 織 の 分 析 を 基 に 国 家 構 造 を 整 理 す る と次

の よ うに な ろ う。

①lbn Tumartは 絶 対 的 権 力 者 と し て ム ワ ッ ヒ ド集 団 の 頂 点 に 君 臨 し た 。

② 最 も 早 い 時 期 に 彼 の 弟 子 と な っ た 人 々 の う ち,10人 の 者 がal-`Asharaを 構

成 す る 。 彼 ら は,Ibn TUmartか ら直 接,指 示 や 命 令 を 受 け,ま た 必 要 な 助 言

を 求 め られ る 。 彼 ら は,最 も 重 要 な 政 務 の 執 行 者 で あ り,ま た 軍 事 的 指 導 者 で

も あ っ た 。 ③al-Khamsunは 部 族 を 代 表 す る50人 か らな り,ベ ル ベ ル の 伝 統,

的 部 族 長 会 議(Ayt Arba'in)を 基 に し て 作 ら れ た 組 織 で あ る 。 そ れ はal- ‘Asharaよ り権 限 は 小 さ い が ,Ibn Tumartの 指 示 や 命 令 に よ り政 務 を 担 当

す る 。 しか し,彼 ら の 役 割 の 特 徴 は,Ibn Tumartと 部 族 民 と の 仲 介 で あ っ た 。

④ 宗 教 的,道 徳 的 任 務 を 負 う組 織 が,TalabaとHuffz多 で あ る 。 彼 らは,い

わ ば 宣 教 師 と して 諸 部 族 民 に,Ibn Tumartの 教 え や コ ー ラ ン を 説 い た 。

HuffazはTalabaに な る た め に 勉 強 して い る 少 年 た ち で あ る 。⑤Ibn Tamart

の 身 辺 の 世 話 を す る 人 々 がAhl al-Darで あ る 。 彼 ら は,夜 も 昼 も,彼 に 仕

え る 私 的 な 侍 従 で あ っ た 。 ⑥ ア ル モ ハ ー ド部 族 は,Hargha族,Tinmallalの

人 々,Jadmiwa族,Janfisa族,Hintata族,Ahlal-Qaba'ilの6つ か ら構

Ibn Tumart時 代 の国 家構 造

-106- Ibn Tumatr時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ ヒエ ラ ル ヒ ー(私 市)

成 さ れ て い た 。Hargha族 とTinmallalの 人 々,が 他 よ り優 位 に あ っ た 。Ahl al-(aaba'ilと は 上 のHarghaか らHintataま で の5つ の 部 族 に 属 さ な い 人

々 か ら な っ て い た 。 ム ワ ッ ヒ ド軍 の 大 部 分 は,ア ル モ ハ ー ド部 族 民 で あ る 。 ⑦

Jundは"よ そ 者"(都 市 民)か ら な る 常 備 軍 で あ っ た 。 彼 ら は 属 す べ き 部 族

が な か っ た の で,Ibn Tumartに 直 接 仕 え る 兵 士 た ち で あ っ た 。 しか し,そ の

規 模 は 小 さ か っ た 。 ⑧Ghuzatと は,若 者 た ち か ら な る 特 別 の 軍 事 的 組 織 で あ

る 。

以 上 の 関 係 を 図 示 す る と前 頁 の 図 の よ うに な ろ う。

註 (1)史 料 で は,Asnaf(Sinfの 複 数 形)あ る い はTabagat(Tabaqaの 複 数 形)の 語 が用 い られ てい る。 本 来 は 閲 兵 時 の 序 列 を 示 して い た とい わ れ るが,実 際 に は ム ワ ッ ヒ ド集 団 の機 能 的 な分 類 で あ り,ヒ エ ラル ヒ ー とい う語 が 適 当 か 否 か,疑 問 が 残 る 。 (2) Roger Le Tourneau, The Almohad Mouvement in North Africa in the Twelfth and Thirteenth Centuries, Princeton, 1969, pp. 30-31. (3) J. F. P. Hopkins, "The Almohad Hierarchy," Bulletin of the School of Oriental and African Studies, Vol. XVI, 1954, pp. 93-112. (4) Roger Le Tourneau, op. cit., pp. 30-34. (5) Ch. A. Julien, Histoire de l'Afrique du Nord, t. 2, Paris, 1951 (Peimpr. 1975), pp. 98-100. (6) A. Huici Miranda, Histoyia Politica del Imperio Almohade, t. 1. Tetouan, 1956,PP.100-105.彼 は,Ibn Tumart時 代 に 存 在 し た 組 織 はal-Jams`a(al- `Asharaの 異 称) ,al-Khamsun,Ahl al-Darの み で,他 の 組 織 は`Abd al-Mu'min

の 時 代 に 付 加 さ れ た も の と い う 誤 っ た 考 え を 述 べ て い る 。

(7)Rachid Bourouiba, Ibn Tumart, Alger., 1974, pp. 77-51.

(8)H. Terrasse, Histoire du Maroc des Origines al'Etczblissement du Protectorat .Frarcais, t.1, Casablanca, 1949, PP. 276-277., PP. 306-309, 彼 はIbn Tumart

時 代 と`Abd al-Mu'min時 代 に 分 け て 述 べ て い る が,前 者 か ら 後 者 へ の 変 化 の 過 程

の 考 察 を 怠 っ て い る 。 (9) al-Qattan, p. 28. (10) K. al-Ansab, pp. 29-48, (11) al-Hulal, p. 89, (12)Rachid Bourouiba(op.cit., P.77)及 びJ.F.P.Hopkins(op. cit., P.95)

は 史 料 に よ る 差 異 に 言 及 し て い る が,そ の 説 明 を して い な い 。 ま たHuici Miranda は そ の こ と に 触 れ て い な い 。 (13) al-Qirtas, p. 114. (14) al-Athir, Vol. 10, p. 576.

-107- オ リエ ン ト 第22巻 第1号(1979)

(15)彼 ら の 具 体 的 行 動(表(2)参 照)か ら も,そ の こ と は 窺 え る が,次 の こ と が 最 も 象 徴 的 で あ る 。 「Ibn Tumartは,こ の 世 の 全 て の 人 々 は,al-`Ashara及 び そ の 子 供 た ち の 奴 隷 で あ る と言 っ た 」(al-Baydhaq,P.81) •(16) al-Qattan, p. 74. (17) ibid., p. 81. (18) al-`Umari, p. 113. (19) al-Baydhaq, p. 82. (20) al-Mu,jib, pp. 194-196. 指 名 に つ い て は 事 実 とは 断 定 しが た い 。 •(21) al-Baydhaq, p. 75. (22) ibid., p. 87. (23) K. al-Ansab, p. 33. (24) al-Qattan, pp. 30-32. ( 25) K. al-Ansab pp. 33-35. ( 26) R. Montagne, The , Edingburgh, 1973, p. 47. (27) J. F. P. Hopkins, op. cit., p. 98. (28) H. Terrasse (op. cit., p. 275) は al-Khamsun が, 諸 部 族 の代 表40人 とal- `Ashara 10人 か ら な る ,と し て い る が,両 者 が 別 々 の 組 織 で あ る こ と はJ.F.P. Hopkins(op.cit., P.97)に よ っ て 看 破 さ れ て い る 。 (29) al-Qattan, pp. 32-33. (30) Ibn Khaldun, Vol. VI, p. 470. (31) al-Baydhaq, p. 77. (32) Documents inedits, p. 126. 注(2) (33) al-Zarkashi, p. 9. (34) H. R. Idris, La Berberie Orientale sous Les Zirides, t. 1, Paris, 1962, p. 393.注(449) ( 35) al-Qattan, p. 75. (36) Ibid., p. 81. ( 37) al-Qirtas, p. 114. ( 38) R. Montagne, op. cit., p. 47.

( 39) Ibid., P.47の 脚 注 ( 40) al-Athir, Vol. X, p. 576. (41) al-Qattan, p. 27. (42) al-Mu'jib, p. 186. (43) al-Baydhaq, p. 132. (44) Ibid., p. 80. (45) Ibid., p. 79. (46) al-Qattan, p. 28.

(47)た と え ばH.Terrasse(op. cit., t.1, P・276)やJ.F.P.Hopkins(op・cit.,

PP.94-95)を 参 照

-108- Ibn Tumart時 代 の ア ル モ ハ ー ド ・ヒ エ ラ ル ヒ ー(私 市)

(48) K. al-Ansab, p. 29. (49) al-Qattan, p. 33. (50) Ibid. , p. 130. (51) al-Mu `jib, p. 238. (52)K.al-AnsabはAhl al-Darの みp.29で 叙 述 し,他 の 諸 組 織 をP・32以 下 で

叙 述 して い る 。 (53) al-Qattan, p. 28. (54) Ibid., pp. 84-89, p. 121. al-Baydhaq, pp. 131-132. (55) K. al-Ansab, p. 43. (56) al-Mu'jib, p. 341. (57) al-Qattan, p. 84. (58) K. al-Ansab, p. 47. (59) J. F. P. Hopkins, op. cit., pp. 104-105. (60) al-Idris, Description de l'Afrigve et de l'Espagne, (ed.) R. Dozy, J. de Goeje, Leyden, 1866 (repr. 1968), p. 63. こ れ は, Kitab Nuzhat al-Mushtaq fi Ikhtiraq al-Afaq の抜 萃 で あ る。 al-Bakri, Description de l'Afrique Septentrional, (ed.) de Slane, Paris, 1965, p. 152. これ は Kitab al-Masalik wa'l Marnalik の 抜 萃 で あ る。 (61) al-Qattan, p. 28. (62) Ibid., p. 28 の 注(3)。 Rachid Bourouiba (op. cit., p. 80, p. 118) は Mahmud. `Ali Makkiの 説 に 従 っ て い る が,な ぜ かGhirratをFuratと と り 違 え て い る 。

(63)al-Hulal, P.89.ま たal-Qattanの 断 片 的 史 料,"Six Fragments inedits d'une Chronique Anonyme du debut de Almohades, " Melanges Rene Basset, t. 2,

Paris,1925, P.340, P.362で, Levi-RrovencalはGhuzatと 読 み,こ れ を 私 的 護 衛 兵 と 解 釈 し て い る 。 (64) al-Qattan, P.121. (65)al-HulalがGhuzatとRumat(弓 兵)を 並 記 した の は,両 者 に 何 らか の 関 係 が

あ っ た か ら で あ ろ う。 事 実,1147年 マ ラ ケ シ ュ が ム ワ ッ ヒ ド軍 に 攻 囲 さ れ た 時,Ibn. Humushkな る 男 が,「 あ な た 方(ム ラ ー ビ トた ち)に は 多 く のGhuzat,即 ちRumat が い る 」(al-Hulal, P.94)と 述 べ,両 者 を 同 義 語 と し て 扱 っ て い る 。 Ghuzatの 一 般 的 意 味 は 聖 戦 の 兵 士 で あ る 。 (66) K.al-An.sab, p.48.

(中 央 大 学 大 学 院 博 士 課 程)

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