論 文 オ リ エ ン ト 50-1(2007):80-105

キ ニ ク 氏 族 と ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ ―ペル シア語普遍史叙述 の展開 とセル ジューク朝 の起源―

The Qiniq and Afrasiyab: The Development of the Persian General Histories and the Origin of the Saljuqids

大 塚 修 OTSUKA Osamu

ABSTRACT It is generally accepted that the origin of the Saljugids (Seljuks) is the Qiniq clan, one of the clans in the Turkish Oghuz tribe. While it is considered as "a historical fact," the origin also has been linked with Afrasiyab, the legendary Turkish hero in Iranian myth by many tradi- tional historians. Although both the origins were stated in many previous studies, it has not been explained why the Saljugids have been linked with two totally different origins and how traditional historians described it. This article reexamines the descriptions of the origin of the Saljugids by analyz- ing all available Arabic and Persian sources written before the end of the 16th century. Especially, the following two points are focused on: 1. How were the two origins described by traditional historians? 2. How was the image of the Saljugids formed in after ages? Conclusions: 1. Even in the Saljugid period, the Afrasiyab origin, the fictional origin, came to be stated in some sources. After fall of the Saljugids, the Persian historians preferred the Afrasiyab origin. The main reason for this is that when writing Persian general histories, it was considered important to link the origins of Iranian dynasties, including the Saljugids, with Iranian mythi- cal heroes. Furthermore, as in the 14th century , aimi ` al -Tawarikh of Rashid al-Din, the prototype of the history of the Turkish tribes, the image of the Qiniq is rather negative, the Qiniq origin was avoided. 2. In this background, also there was a positive image of the Saljugids.

* 東 京 大 学 大 学 院 人 文 社 会 系 研 究 科 博 士 課 程/日 本 学 術 振 興 会 特 別 研 究 員 Ph.D. Student, Graduate School of Humanities and Sociology, The University of Tokyo/Research Fellow of the Japan Society for the Promotion of Science In particular, Hamd-Allah Mustawfi, the author of the 14th century TarZkh -i Guzida, bestowed his utmost praise on the Saljugids, and he was often quoted by later historians. Thus, the positive image of the Saljugids became established, and the dynasty was often praised by later historians.

Ⅰ. は じ め に

セ ル ジ ュ ー ク 朝(1038-1194)の 起 源 に 関 して,中 世 イ ラ ン史 研 究 の 碩 学 ボ ズ

ワ ー スC.E.Bosworthは 『イ ス ラ ム 百 科 』 新 版 で 次 の よ う に 説 明 して い る 。

再 び カ ー シ ュ ガ リー に よれ ば,オ グ ズ 部 族 の 中 で 第 一の 氏 族 は キ ニ ク 氏 族

で あ り,彼 らか ら そ の 君 主 は 現 れ た 。 セ ル ジ ュ ー ク の 一 族 や 近 親(元 来 そ

れ ほ ど 巨 大 な 社 会 集 団 で あ っ た よ う に は 見 え な い)は,キ ニ ク 氏 族 出 身 で

あ っ た 。 そ の 後,セ ル ジ ュ ー ク朝 が ペ ル シ ア で 権 力 を 確 立 す る と,そ の 一

族 に 栄 誉 あ る 過 去 を 与 え よ う と い う 試 み が な さ れ,ト ゥグ リル ・ベ ク の 官

吏 ア ブ ー ・ア ル ア ラ ー ・ブ ン ・ハ ッ ス ー ル(450/1058没)は 彼 ら を伝 説 上

の トル コ の 王 ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ に 結 び 付 け た 。

トル コ に お け る セ ル ジ ュ ー ク 朝 史 研 究 の 大 家 カ フ ェ ス オ ー ルI.Kafesogluも

トルコ語版 『イスラム百科』 で同様の説明を してお り,こ れ は今 日の定説 とな っている。この ようにセル ジュー ク朝 の起源 を説明する際 には,「 トル コ系オグ ズ部族 に属す るキニクQiniq氏 族」 と 「古代 イラン史 における伝 説上の トル コ の王アフラース ィヤ ーブAfrasiyab」 とい う出自が注 目されて きた。 王朝 がその起源 を如何 に表象 していたのかを考察す るこ とは,そ の王朝の権 威の源 を探 る上 で必要不可欠 な作業で ある。 しか し,こ の二つの起源 に関 して は先行研究の成果 が再生産 されるに留 ま り,基 本的な書誌情報 の誤 りす ら再検 討 されない状況 にあ る。また トガ ンZ.V.Toganの ように,十 分 な 「史料批判」 を行わずに同時代 史料 と後世 の英雄叙事詩 の記述 を照合 して系譜 を再構成する 研究 も見 られ る。 この トガ ンの研究 を批判的 に再検証 し,セ ル ジューク朝 の起 源 に関する諸史料 の言説 を三つの系統 に分類 したカフェスオール の研究 もある が,そ れ も王朝 の起源が如何 なる背景の下で叙述 されていたのかについて分析 したものではない。 本稿 で明 らか にす るのは,歴 史家が如何 にその起源 を叙述 し,そ の評価 が如 何 に変化 してい くのか という点につ いてである。 この起源の評価 という問題 に

81 つ い て は,ア フ マ ドN.Ahmadな ど が,セ ル ジ ュ ー ク 朝 は そ の 出 自 に よ り 自 ら

の 支 配 を 正 当 化 し て い た わ け で は な い と指 摘 して い る が,こ れ も具 体 的 に 事 例

を積 み 上 げ た 上 で の 結 論 で は な い 。 そ こ で 本 稿 で は,キ ニ ク 氏 族 と ア フ ラ ー ス

ィ ヤ ー ブ とい う セ ル ジ ュ ー ク朝 の 起 源 と さ れ る 二 つ の 出 自 に 関 す る 諸 言 説 が,

通 時 的 に 如 何 に 変 容 し て い くの か を分 析 し,セ ル ジ ュ ー ク朝 の 権 威 が 同 時 代 に

如 何 に 認 識 さ れ て い た の か,そ して そ れ が 王 朝 崩 壊 後 如 何 に 変 容 し て い っ た の

か を 明 ら か に した い 。 ま た 同 時 に,言 説 の 変 容 に大 き な 影 響 を 与 え た と考 え ら

れ る ペ ル シ ア 語 普 遍 史(人 類 創 世 か ら 同 時 代 に 至 る人 類 史)史 料 群 の 性 質 と歴

史 家 が 抱 い て い た 歴 史 認 識 の 変 容 に つ い て も言 及 した い 。 史 料 に 関 して は,16

世 紀 ま で に 著 さ れ た ア ラ ビ ア 語 ・ペ ル シ ア 語 史 料 を 出 来 得 る 限 り網 羅 的 に分 析

し た 。16世 紀 ま で に 時 代 を 区 切 っ た の は,こ の 頃 ま で に 言 説 の 凡 そ 全 て の バ リ

ア ン トが 出 揃 う た め で あ る 。

Ⅱ. 同 時 代 史 料(11~12世 紀)が 描 くセ ル ジ ュ ー ク朝 の 起 源

1. キ ニ ク氏 族

管 見 の 限 り,同 時 代 史 料 の 中 で キ ニ ク 氏 族 に 言 及 し て い る の は,バ グ ダ ー ド

で 著 さ れ ア ッバ ー ス 朝 カ リフ ・ム ク タ デ ィ ー(r.1075-94)に 献 呈 さ れ た マ フ ム ー ド ・カ ー シ ュ ガ リ ーMahmud al-Kashghari著 『トル コ 語 集 成Diwan Lughdt al-Turk』 の み で あ る。 こ の 有 名 な トル コ 語 ア ラ ビ ア 語 辞 典 に お い て,オ グ ズ 部

族 は22氏 族 構 成 と さ れ,「 彼 ら の 中 心surraは キ ニ ク 氏 族 で あ り,時 の ス ル タ ー

ン た ち[セ ル ジ ュ ー ク 朝 君 主]は そ れ[キ ニ ク 氏 族]に 属 す る 」 と 説 明 さ れ る 。

こ こ で は,セ ル ジ ュ ー ク朝 の 起 源 は キ ニ ク 氏 族 に求 め られ,そ の キ ニ ク 氏 族 は

オ グ ズ 部 族 の 中 で 最 有 力 氏 族 で あ っ た と 明 記 さ れ て い る 。

こ れ は 数 多 の 先 行 研 究 が 言 及 し て き た 記 述 で あ る が,同 時 に カ ー シ ュ ガ リー

以 外 の 同 時 代 の 歴 史 家 た ち が キ ニ ク 氏 族 に 言 及 して い な い 点 に つ い て 留 意 せ ね

ば な ら な い 。 カ ー シ ュ ガ リ ー よ り数 十 年 前 に 活 躍 した,ト ゥ グ リル ・ベ ク(r.

1038-63)の 官 吏 イ ブ ン ・ハ ッス ー ルIbn Hassulは 自著 『トル コ 人 の 優 越Tafdil al-Atrak』 の 中 で,「 こ の ス ル タ ー ン―― 神 ガ 彼 ノ勝 利 ヲ 強 メ マ ス ヨ ウ ニ の

血 統nasabは,そ の 栄 誉 に 関 し十 分 で あ り,他 の 者 た ち の 血 統 の よ う に,隷 属

する脆弱な者や身分 の低 い無名の者 に帰する ものではない」 と叙述 してお り,

王 朝 初 期 か らセ ル ジ ュ ー ク朝 の 王 統 が 称 揚 さ れ て い た こ と が 分 か る 。 しか し な

82 が ら,こ のように王朝 の血統が正 当性 を主張す る要素の一 つであったに もかか わ らず,王 朝やそれに帰属す る知識人がその正 当性 をキニク氏 族起源 に求 める

記 述 は確 認 で きな い の で あ る 。

ま た,セ ル ジ ュ ー ク 朝 初 期 史 を 再 構 成 す る 史 料 と し て 価 値 を 認 め られ て い る,

ア ル プ ・ア ル ス ラ ー ン(r.1063-72)に 献 呈 さ れ た 著 者 不 明 『王 の 書Malik-Nayna』

に は 次 の よ う に あ る 。 こ の 史 料 は 今 日散 逸 し て い る が,後 世 の 史 料 に 残 る 引 用

箇 所 か ら,そ の 内 容 の 一 部 を 知 る こ とが で き る 。 ハ ザ ル 平 原dasht-i Khazarの トル コ諸 部 族 は,ド ゥ カ ー クDuqaqを タ ミ

ル ・ヤ ー リー グTamir-Yalighす な わ ち 「巧 み な 射 手sakht-kaman」 と 呼

ん で い た 。 彼 は,王 権 の 諸 事 を 整 え る こ と に つ い て 輝 か し き頭 脳 と 正 し き

手 腕 を有 し て い た 。 彼 の 完 全 な 勇 猛 果 敢 さ は[人 々 の]舌 の 中 を め ぐ り 口

の 中 に残 っ た 。 ヤ ブ グ ーYabghuと い う ハ ザ ル の 王 は,彼[ド ゥ カ ー ク]

と協議 せ ず に 人 民 の 諸 重 要 事 に 介 入 す る こ とは な か っ た 。

こ こ で は セ ル ジ ュ ー ク の 父 ド ゥ カ ー ク が,ハ ザ ル の 王 に 近 い 扱 い を 受 け て い る。

ま た,同 じ内 容 を 伝 え て い る イ ブ ン ・ア ル ア ス ィー ルIbn al-Athir著 『完 史al-

Kamil fi al-Ta'rikh』 で は 「オ グ ズ ・ トル コ の 指 導 者muqaddam」 と形 容 さ れ

て お り,そ の 出 自 の 良 さ が う か が え る 。 そ して そ の 後,息 子 セ ル ジ ュ ー ク の 代

に ヤ ブ グ ー と決 別 し,一 族 郎 党 を 引 き連 れ 中 央 ア ジ ア の ジ ャ ン ドに 移 動 し,イ

ス ラ ー ム に 改 宗 す る と い う形 で 話 は 展 開 し て い く。 こ の よ う に,王 朝 初 期 に 編

纂 さ れ た 史 料 で は,王 朝 の 出 自 の 良 さ が 強 調 さ れ る も の の,キ ニ ク 氏 族 へ の 言

及 は確 認 で き な い の で あ る 。

2. ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ

こ の よ う に,同 時 代 史 料 で は キ ニ ク 氏 族 に 関 す る 記 述 が カ ー シ ュ ガ リー 以 外

か ら確 認 で きな い の に 対 して,ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ に 起 源 を求 め る記 述 は散 見

さ れ る 。

ま ず,ア ル プ ・ア ル ス ラ ー ン と マ リ ク ・シ ャ ー(r.1072-92)の2代 に亘 りワ

ズ ィ ー ル を務 め た ニ ザ ー ム ・ア ル ム ル クNizamal-Mulkが 著 し た 政 治 指 南 書

『諸 王 の 行 状Siyaral-Muluk』 の 中 に は,次 の よ う な 記 述 が あ る 。

[神 は]世 界 の 主 に し て 至 高 な る 王 中 の 王shahanshah-i a'zam[マ リク ・シ

ャ ー]を,王 位padshahiと 指 導 者 位pish-rawiが つ ね に 彼 らの 家 系 に あ

83 る よ う な― と こ ろ で[そ れ は]偉 大 な る ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブAfrasiyab-i

buzurgに 至 る ま で 代 々 父 系 の 血 統 を 辿 れ る 一 二 つ の 高 貴 な 起 源aslか ら

生 ぜ しめ た 。

こ こ で は マ リク ・シ ャ ー の 出 自 の 高 貴 さ を 示 す 一 要 素 と し て,ア フ ラ ー ス ィ ヤ

ー ブ に つ な が る 血 統 が 主 張 さ れ て い る。 ま た,サ ン ジ ャ ル(r.1118-57)の 文 書

庁diwan-i insha長 官 を 務 め た ム ン タ ジ ャ ブ ・ア ッ デ ィ ー ン ・ジ ュ ワ イ ニ ー

Muntajab al-Din al-Juwaynlが 編 纂 した 公 文 書 集 『書 記 の 敷 居'Atabat al-

Kataba』 に 収 め ら れ た 任 命 文 書taqlid中 に も,政 庁diwanを 修 飾 す る 言 葉 と

して ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ が 用 い ら れ て い る 。

こ の 二 つ の 事 例 は い ず れ も,セ ル ジ ュ ー ク朝 内 部 の 人 物 の 証 言 で あ り,少 な

く と もマ リ ク ・シ ャ ー 以 降 に,王 家 と ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ の 結 び 付 き が 主 張 さ

れ て い た こ と は 明 ら か で あ る 。メ イ サ ミJ.S.Meisamiは,こ の ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ を 「ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ 家Al -i Afrasiyab」 と 呼 ば れ て い た カ ラ ・ハ ー ン 朝

(840-1212)王 家 と の 関 係(マ リク ・シ ャ ー の 妻 は カ ラ ・ハ ー ン朝 の 王 女)を 意

識 した記述 と解釈す るが,次 の事例 により彼女 の説 は否定 され る。その事例 と

は,サ ン ジ ャ ル 期 の 歴 史 家 ア ブ ー ・ア ル ア ラ ー ・ア フ ワ ルAbu al-'Ala Ahwalが

著 し た 『歴 史Tarikh』 で あ る。 彼 の 著 作 は 現 在 は散 逸 し て い る が,1330年 に 完

成 し た ハ ム ド ・ア ッ ラ ー ・ム ス タ ウ フ ィ ーHamd-Aliah Mustawfi著 『選 史

Tarikh-i Guzida』 に よ り,そ の 内 容 の 一 部 が 伝 え ら れ,てい る 。そ こ に は,「彼[セ

ル ジ ュ ー ク]は34代 を 経 て ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ に 至 る 」 とあ り,ア フ ラ ー ス ィ

ヤ ー ブ は セ ル ジ ュ ー ク の34代 前 に 置 か れ て い る。 そ の た め,こ の ア フ ラ ー ス ィ

ヤ ー ブ が カ ラ ・ハ ー ン朝 を意 味 す る も の と解 釈 す る の は 難 し い 。 以 上 よ り,王

朝 や そ れ に 帰 属 す る 知 識 人 た ち が 実 際 に 主 張 して い た の は,王 朝 の 出 身 氏 族 で

あ る キ ニ ク と い う起 源 で は な く,後 に主 張 さ れ る よ う に な っ た ア フ ラ ー ス ィヤ

ー ブ に 至 る 起 源 で あ っ た と 言 え る 。

Ⅲ. 後 世 の 史 料(13~16世 紀)が 描 くセ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源

1. ア ラ ビア 語 史 料 とペ ル シ ア 語 史 料 の 傾 向 差

本 章 で は,前 章 で 扱 っ た キ ニ ク 氏 族 とア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ とい う起 源 が,1194

年 の 王 朝 滅 亡 後 に,如 何 に 認 識 さ れ る よ う に な っ た の か に つ い て 論 じ る。 そ の

起 源 に 関 す る 諸 史 料 の 記 述 を整 理 した の が,(表1)(表2)で あ る 。 表 か ら分 か

84 るように,後 世 に成立 した史料 におけ るセル ジュー ク朝 の起源 に関す る叙述 の 傾向は,ア ラビア語史料 とペル シア語史料 で完全 に異な る。 ア ラビア語史料 で

は,『 王 の 書 』 の 記 述 と同 様 に セ ル ジ ュ ー ク の 父 「ド ゥカ ー ク 」 の 事 跡 か ら記 述

が 始 ま り,ド ゥ カ ー ク よ り遡 る 事 跡 に 関 す る言 及 は な い 。 僅 か に 『セ ル ジ ュ ー

ク 朝 史Akhbar al-Dawlat al-Saljugiya』 と ア イ ニ ーal-'Ayni著 『真 珠 の 首 飾 り 'Iqd al -Juman』 の 中 に ,キ ニ ク 氏 族 に つ い て の 言 及 が あ る が,そ の 内 容 は 「キ ニ ク 氏 族 と し て 知 られ る こ の 部 族 」 と い う程 度 の 言 及 に 留 ま り,王 家 の 起 源 を

称 揚 す る 形 の も の で は な い。 さ ら に,ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ に 言 及 し て い る 史 料

は 管 見 の 限 り一 つ も確 認 で き な い 。 こ の よ う に ア ラ ビ ア 語 史 料 で は,セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 に 対 す る 関 心 は 極 め て 低 い 。 モ ン ゴ ル 侵 入 以 降,ア ラ ビ ア 語 史 料

の 叙 述 対 象 は,概 ね エ ジ プ トや シ リア に 限 定 さ れ て い く。 そ の 状 況 下 で,イ ラ

ンや イ ラ ク を 中 心 に 繁 栄 した セ ル ジ ュ ー ク 朝 に 対 す る 関 心 が 高 ま る こ と は な く,

ア イ ニ ー な ど の 僅 か な 例 外 を 除 い て は,そ の 記 述 に 多 くの 頁 が 費 や さ れ る こ と

は な か っ た 。

そ の 一 方 ペ ル シ ア 語 史 料 に は,セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 に 関 し独 自 の 展 開 が 見

られ る。 そ の 特 徴 と は,セ ル ジ ュ ー ク の 父 の 名 が 『王 の 書 』 が 伝 え る 「ド ゥ カ ー ク 」 と い う 形 で は な く ,「 ル ク マ ー ン 」 と い う形 で 伝 え ら れ て い る 点 で あ る 。

ま た,キ ニ ク 氏 族 や ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ と い う起 源 へ の 言 及 も多 く確 認 で き る。

2. ペ ル シ ア 語 普 遍 史 に お け る セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源

i) キ ニ ク 氏 族 起 源 単 独 ペ ル シ ア 語 普 遍 史 の 中 で キ ニ ク 氏 族 に 関 す る 叙 述 が 確 認 で き る よ う に な るの

は,14世 紀 以 降 の こ と で あ る 。 イ ル ・ハ ー ン朝(1256-1336頃)下 で 活 躍 し た 歴

史 家 ラ シ ー ド・ア ッデ ィ ー ンRashid al-Din著 『集 史Jamz' al-Tawarikh』 第2

章 「世 界 史 」 に 収 め ら れ た 「セ ル ジ ュ ー ク 朝 史 」 の 冒 頭 に は 次 の よ う に あ る 。

ル ク マ ー ンの 子 セ ル ジ ュ ー ク は,キ ニ ク 氏 族usutkhwan-i Qiniqの 出 の セ

ル ジ ュ ー ク 一 族 に属 し,ト ル コ 諸 王 の 天 幕 の 骨 組 み 職 人khargah-tarash

で あ っ た ク ル ク チ ュ ー ・ハ ー ジ ャKurukuchu Khujaの 子 ト ゥ ー ク シ ュ ー

ル ミー シ ュTugshurmishの 末裔 に あ た る 。

こ の よ う に ラ シ ー ドは,カ ー シ ュ ガ リー の よ う に 出 身 氏 族 名 と し て キ ニ ク 氏 族

に 言 及 す る に 留 ま ら ず,セ ル ジ ュ ー ク の 遠 祖 の 名 や そ の 地 位 ま で 伝 え て い る。

85 た だ 注 意 し て お き た い の は,ラ シ ー ドが 叙 述 す る セ ル ジ ュ ー ク の 遠 祖 の 地 位 は,

トル コ 諸 王 の 「天 幕 の 骨 組 み 職 人 」 で あ り,そ の 出 自が 王 族 や 支 配 者 と さ れ て

い な い 点 で あ る 。 セ ル ジ ュ ー ク の 遠 祖 を 「天 幕 の 骨 組 み 職 人 」 とす る 同 様 の 言

説 は後 世 の 史 料 に も継 承 さ れ る が,そ の 数 は 少 な い(図2:250-1,251-3,251-

4,274)。 カ ー シ ュ ガ リー と は 異 な り,こ こ で の キ ニ ク 氏 族 に対 す る 評 価 は 高 い

もの で は な い 。

ii) キ ニ ク 氏 族/ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ 両 起 源 併 記

『集 史 』 は,ペ ル シ ア 語 普 遍 史 と し て は 初 め て キ ニ ク 氏 族 に 言 及 した わ け で

あ る が,こ れ 以 降,ペ ル シ ア 語 普 遍 史 で は キ ニ ク 氏 族 に 言 及 す る 記 述 が 増 え る 。

し か し,『 集 史 』 の 記 述 が そ の ま ま受 容 さ れ た わ け で は な か っ た 。 ラ シ ー ドの 息

子 ギ ヤ ー ス ・ア ッデ ィ ー ンGhiyath al-Dinに 献 呈 さ れ た ム ス タ ウ フ ィ ー 著 『選

史 』 に は 次 の よ う に あ る。

セ ル ジ ュ ー ク は,ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ の 種tukhm-i Afrasiyabた る キ ニ ク

と い う トル コ 諸 族 の 一 集 団qawm-i turkan-i QYQに 属 す る 。 ま た ア ブ ー ・

ア ル ア ラ ー ・ア フ ワ ル の 『歴 史 』 に は,「 彼[セ ル ジ ュ ー ク]は34代 を 経 て

ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ に 至 る」 と あ る 。 ム ス タ ウ フ ィ ー は,『 集 史 』 を 『選 史 』 の 典 拠 の 一 つ と し て 挙 げ て お り,セ ル ジ

ュ ー ク の 出 自 を キ ニ ク 氏 族 と す る 点 は,『 集 史 』 を参 照 した と考 え られ る 。 しか

し,ム ス タ ウ フ ィ ー は キ ニ ク氏 族 を ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ の 末 裔 に位 置 付 け,さ

ら に こ の 説 を 補 強 す る た め に,サ ン ジ ャ ル の 治 世 に 活 躍 し た ア ブ ー ・ア ル ア ラ

ー ・ア フ ワ ル の 歴 史 書 を 引 用 す る。 こ こ で は,全 く異 な る背 景 で 用 い られ て い

た 二 つ の 起 源 が 統 合 さ れ,キ ニ ク と い う トル コ 系 の 一 氏 族 が,ア フ ラ ー ス ィ ヤ

ー ブ とい う伝 説 上 の トル コ の 王 の 血 統 の 中 に 位 置 付 け ら れ,る。 そ の 一 方 で,ム

ス タ ウ フ ィ ー は,『 集 史 』 に あ る セ ル ジ ュ ー ク の 遠 祖 が 「天 幕 の 骨 組 み 職 人 」 で

あ る 点 に つ い て は,口 を閉 ざ して い る 。 同 様 の 記 述 は,後 世 の 史 料 に も散 見 さ

れ る(表2:250-1,253,254,261,264,266,273-1)。

iii) ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ 起 源 単 独

イ ル ・ハ ー ン朝 後 に は,ム ス タ ウ フ ィ ー か ら の 引 用 と 明 記 しな が ら も,キ ニ

ク 氏 族 起 源 と い う記 述 だ け を 削 除 し,ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ 起 源 に し か 言 及 しな

い 歴 史 家 も現 れ る。そ の 代 表 的 歴 史 家 が 『伝 記 の 伴 侶Habib al-Siyar』 を著 した

ハ ー ン ダ ・ ミ ー ルKhwand-Amirで あ る 。 そ の 後 も 同 様 に ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ

86 起 源 に し か 言 及 しな い 史 料 が 数 事 例 確 認 で き る(表2:267,268)。 こ の よ う に

後 世 に は,キ ニ ク 氏 族 起 源 を 削 除 す る歴 史 家 ま で 出 現 す る。

3. ペ ル シ ア 語 王 朝 史 に お け る セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源

さ て,こ こ ま で セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 に 関 す る 叙 述 の 分 析 対 象 と し て き た の

は,普 遍 史 で あ っ た 。 セ ル ジ ュ ー ク朝 の 諸 王 の 事 跡 を叙 述 し た 王 朝 史 は,ル ー

ム に そ の 地 方 政 権 が 存 続 した た め(1075-1308),引 き 続 き執 筆 さ れ て い た 。 し

か し興 味 深 い こ と に,こ れ ら王 朝 史 の 中 に は,キ ニ ク 氏 族 や ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー

ブ に 言 及 した 史 料 は な い 。 こ こ で は,王 朝 を称 揚 す る た め に 書 か れ た 史 料 で 如

何 な る起 源 が 主 張 さ れ て い た の か を 確 認 した い 。

ル ー ム ・セ ル ジ ュ ー ク朝 君 主 カ イ フ ス ラ ウ(r.1192-96,1205-11)に 献 呈 さ れ

た 『胸 臆 の 安 息 』 に お い て,王 朝 の 起 源 は 次 の よ う に 記 さ れ て い る 。

セ ル ジ ュ ー ク 家 の 王 権mulk-i al-i Saljuq。 そ の 始 ま り は,勝 利 の ス ル タ ー

ン ・ギ ヤ ー ス ・ア ッ ドウ ン ヤ ー ・ワ ッ デ ィ ー ンSultan-i Qahir Ghiyath al-

Dunya wa al-Din[カ イ フ ス ラ ウ]の7代 祖 イ ス ラ ー イ ー ル ・プ ン ・セ ル ジ

ユ ー ク か らで あ っ た 。

こ の よ う に ラ ー ワ ン デ ィ ー は,ル ー ム ・セ ル ジ ュ ー ク朝 君 主 の 直 系 の 父 祖 に あ

た る セ ル ジ ュ ー ク の 息 子 イ ス ラ ー イ ー ル ま で し か 系 図 を 遡 らせ て い な い 。 ま た

こ れ以 外 の 箇 所 で は,カ イ フ ス ラ ウ を 「マ リク ・シ ャ ー の 王 権 ・王 冠 ・王 座 の

相 続 者 」 と叙 述 す る な ど,既 に 滅 亡 し た セ ル ジ ュ ー ク朝 の 後 継 者 に ル ー ム ・セ

ル ジ ュ ー ク朝 の 君 主 は位 置 付 け ら れ る。 しか しそ の 一 方 で,セ ル ジ ュ ー ク 朝 の

そ も そ もの 出 自 に は 少 し も関 心 が 払 わ れ て い な い 。

同 様 の 傾 向 は,ア ナ ト リア で 著 さ れ た 史 料 や そ の 影 響 を 受 け た 史 料 群 に 見 ら

れ る。 ニ イ デ 出 身 の カ ー デ ィー ・ア フ マ ドQadi Ahmadに よ り著 さ れ,イ ル ・

ハ ー ン朝 君 主 ア ブ ー ・サ イ ー ド(r .1316-35)に 献 呈 さ れ た 『慈 悲 深 き息 子Walad-

i Shafiq』 で は,セ ル ジ ュ ー ク朝 君 主 ム ハ ン マ ド(r.1105-18)の 息 子 が ル ー ム ・

セ ル ジ ュ ー ク朝 の 始 祖 ス ラ イ マ ー ン(r.1077-86)と さ れ る な ど,13世 紀 以 降 に

は 明 ら か に 史 実 を 改竄 した 形 で,セ ル ジ ュ ー ク朝 と 「直 接 の 」 血 縁 関 係 を 主 張

す る 史 料 が 散 見 さ れ る よ う に な る 。

こ の よ う に,ル ー ム ・セ ル ジ ュ ー ク 朝 期 以 降 に 書 か れ た 王 朝 史 で 主 張 さ れ る

の は,セ ル ジ ュ ー ク 朝 と の 関 係 や そ の 血 縁 で あ り,「 セ ル ジ ュ ー ク 家 」 の 一 員 た

87 るこ とで あった。 その ため,セ ル ジュー ク朝の起源 が問題 とされ るこ とはなか ったのである。

Ⅳ. ペルシア語普遍史 と王朝 の起源

前章 では,セ ル ジューク朝 の起源が問題 とされ るのは,ペ ル シア語普遍史 と いう史料群 に共通す る傾 向で あ り,ア ラビア語史料全般やペル シア語王朝 史で

はその傾 向が見 られないこ とを確 認 した。本章では,ペ ル シア語普 遍史の構成 にお けるセル ジューク朝史の位置付 けを明 らか に したい。 この問題 を考 える際 に参照 しなけれ ばな らないのが,ペ ル シア語普遍史における 「オグズ史」の位 置付 けを明快 に解 き明か した宇野伸 浩に よる研究であ る。宇野 は普遍 史叙述 に おける トル コ諸民族の系譜 の変遷 を分析 し,『集史』において,ト ル コとモ ンゴ ル の系譜 に関連 を持たせ るこ と(「オグズ史」の導入)に より初めて,ア ダムに

始 まる諸民族の系譜 にモ ンゴルが矛盾な く組 み込 まれたこ とを明 らか にした。 本稿 では,宇 野が明 らか にした 「トル コ諸民族の系譜」 の問題 に加え,ア フラ ース ィヤーブが登場す る 「古代 イラン史」叙述がペルシア語普遍史において如

何 な る役割 を果た したのか を検討 したい。 ここで は,モ ンゴル時代以 降のセル ジューク朝史叙述の 「祖形」 となる 『集史』 と 『選史』 を比較 す ることに より,

普遍史 中にお ける起源や評価 の変容 を明 らかにす る。近年,ペ ル シア語普遍史 の性質 を再考す る研究が増 えて きているが,本 章での議論 もそれ らの研究 に寄

与す るもの と位置付け られ る。

1. 『集史』 にお けるセルジューク朝の位置付 け ラシー ドは 『集史』総序文で,自 著 の構成 を第1巻 「モ ンゴル史」,第2巻 「世

界史」,そ して第3巻 「地理誌」と叙述 しているが,現 在 この形状 を保持 した写 本 は確認 されていない。第3巻 は散逸 してお り,各 国の図書館 に残 る第1巻 と 第2巻 の合冊本 も,そ のほ とん どは,第2巻 が冒頭に来 るとい う形式 を有す る

か ら で あ る(図1)。 こ れ,は,13世 紀 後 半 以 降 の ペ ル シ ア 語 普 遍 史 に特 有 の 「イ

ラ ン の 諸 王 朝 」 の 項 目 の 最 後 に 「モ ン ゴ ル 史 」 が 設 け ら れ る構 成 と共 通 して い

る(表3)。 つ ま り,ペ ル シ ア 語 普 遍 史 と して は 「特 殊 な 構 成 」 で 叙 述 さ れ た 『集

史 』 は,後 世 書 写 さ れ る 際 に,そ の 構 成 を 変 え,後 世 に 伝 え ら れ た の で あ る。

ま た 『集 史 』 の 特 異 な 点 は,そ の 巻 構 成 だ け に 留 ま らな い 。 「イ ラ ン の 諸 王 朝 」

88 と分 類 さ れ る 王 朝 が,ガ

ズ ナ 朝,セ ル ジ ュ ー ク 朝,

ホ ラ ズ ム シ ャ ー 朝,サ ル

グ ル 朝,そ して イ ス マ ー

イ ー ル 派 に 限 定 さ れ る。

こ こ に は,他 の 普 遍 史 に

必 ず 採 用 さ れ る サ ッ フ ァ

ー ル 朝 ,サ ー マ ー ン朝,

そ し て ブ ワ イ フ 朝 の 項 目

は 存 在 しな い 。『集 史 』に

大 き な 影 響 を 受 け た 史 書

と さ れ るバ ナ ー カ テ ィ ー

図1:『 集 史 』 の 構 成(ロ ン ドン ・英 国 図 書 館Add.7628) Banakati著 『バ ナ ー カ

テ ィ ー 史Tarikh-i Ba- nakati』 で さ え も,「 中 国 史 」 や 「フ ラ ン ク 史 」 を 採 用 し た 点 で は 「集 史 』 に 共

通 す る もの の,「 イ ラ ンの 諸 王 朝 」史 の 章 構 成 は 『集 史 』の そ れ と は 大 き く異 な

っ て い る 。

以 上 の よ う な 章 構 成 を 持 つ 『集 史 』 に お け る 諸 王 朝 の 出 自 に着 目 す る と,興

味 深 い 傾 向 が 見 ら れ る 。 イ ス マ ー イ ー ル 派 以 外 の 諸 王 朝 の 出 自 に つ い て,ガ ズ

ナ 朝 は カ イ 氏 族,セ ル ジ ュ ー ク 朝 は キ ニ ク 氏 族,ホ ラ ズ ム シ ャ ー 朝 は バ ヤ ン ド

図2:ペ ル シア 語普 遍 史 に お け るイ ラ ンの 諸王朝 の起源

89 ル氏族,そ してサルグル朝 はサル グル氏族 と,い ずれ もオグズの一氏族 とされ

て い る(図2)。 こ の よ う に,ラ シ ー ドが 項 目 を 立 て た 王 朝 は,い ず れ も 「オ グ

ズ 史 」 の 項 目 で オ グ ズ の 系 譜 に 位 置 付 け ら れ る 王 朝 な の で あ る 。 さ ら に ラ シ ー

ドは,サ ー マ ー ン 朝 の 始 祖 サ ー マ ー ン ・フ ダ ー に 関 して も,次 の よ う に 説 明 し

て い る 。

彼 の 死 後,ア ス ィ ー ル ・ザ ー ダAsil-Zadaが マ ー ・ワ ラ ー ・ア ン ナ フ ル で

[オ グ ズ の]王 と して 推 戴 さ れ た 。 彼 は,サ ー マ ー ン朝 の 歴 史 に お い て は,

サ ー マ ー ン ・フ ダ ー と 呼 ば れ る,全 サ ー マ ー ン 家 の 祖pidarで あ る 。

こ の よ う に ラ シ ー ドは,イ ラ ン に 興 っ た 諸 王 朝 の 出 自 を 全 て オ グ ズ と み な し て

い た 。 『集 史 』に お け る オ グ ズ の 諸 王 に 対 す る認 識 は 次 の 記 述 に 最 も よ く表 れ て

い る。

オ グ ズ と彼 の 息 子 た ち の 後 の 長 い期 間 ・多 くの 年 月,そ の 諸 部 族aqwam

か ら 出 た 多 くの 諸 王 が い た 。 各 時 代 に,既 述 の こ れ ら24氏 族 か ら有 力 で 権

力 を有 す る 王 が 現 れ,長 き に 亘 り王 位 は そ の 一 門 に あ っ た 。[中 略]彼 ら

[オ グ ズ 部 族]の 命 令 や 統 治 は,こ の イ ラ ンの 地 に 達 し,こ の 地 域 に は,

オ グ ズ 部 族 に属 す る,大 変 に 名 高 く,著 名 で,権 威 あ る,諸 王 や 大 将 軍 た

ち が い る。 しか し な が ら,誰 も が,彼 ら が オ グ ズ の 末 裔 で あ る こ と を 知 っ

て い る わ け で は な い 。 そ の_.方,ト ル コ マ ー ン の 集 団 は,各 王 や 各 将 軍 が

こ の 部 族 の ど の 氏 族 の 出 身 な の か を は っ き り と知 っ て い る 。 高 貴 に して 偉

大 な 王 で あ り,ト ゥ ラ ン とイ ラ ン の 領 域 で 約400年 間 王 位 を執 り,エ ジ プ ト

地 方 と の 境 か ら 中 国 と の 境 に 至 る まで を彼 らの 支 配 下 に お い た,セ ル ジ ュ

ー ク 家 の ス ル タ ー ン た ち や そ の 祖 先 た ち は キ ニ ク 氏 族 に 属 す る 。

こ の よ う に,ラ シ ー ドは 「イ ラ ン の 諸 王 朝 」 の 出 自 を オ グ ズ に 求 め,そ の 出 自

に つ い て は 万 人 に 周 知 の も の で は な い と考 え て い た 。 そ の 内 容 を 詳 細 に 記 録 す

る た め,『 集 史 』 で は,「 モ ン ゴ ル 」 だ け で は な く,「 イ ラ ン の 諸 王 朝 」 ま で もが

オ グ ズ ・ハ ー ン に 連 な る 系 譜 に 関 連 付 け られ た の で あ る 。 こ の こ と は,他 の 普

遍 史 と は 異 な り,『集 史 』に お い て は オ グ ズ の 系 譜 を 持 た な い ブ ワ イ フ朝 や サ ッ

フ ァ ー ル 朝 が 「イ ラ ン の 諸 王 朝 」 と し て 扱 わ れ て い な い こ と か ら も裏 付 け られ

る(表3)。

セ ル ジ ュ ー ク朝 に 対 す る評 価 に 関 して こ こ で は,400年 と い う 長 い統 治 期 間 と

エ ジ プ ト との 境 か ら 中 国 と の 境 ま で と い う広 大 な 領 域 を 支 配 し た 点 が 称 揚 さ れ

90 る の み で,そ の 出 自 を 高 く評 価 す る 言 及 は な い 。 さ ら に,キ ニ ク 氏 族 に対 す る

評 価 を 考 え る上 で 重 要 な の は,「 オ グ ズ の 末 裔 の 諸 王 は 次 の5人 の 息 子 か ら 出

た 。 第 一 に カ イ,ヤ ゼ ル,イ ム ル,ア フ シ ャ ー ル,バ ヤ ン ドル 。 こ の 種 の 後 に

は 王 は い な い 」 と い う 記 述 で あ る 。 こ こ で は オ グ ズ の 諸 王 に キ ニ ク 氏 族 は 数 え

ら れ て お ら ず,オ グ ズ24氏 族 中 に お い て そ の 地 位 は 指 導 者 と み な さ れ て い な い

こ とが 分 か る 。 こ こ か ら は,カ ー シ ュ ガ リー が キ ニ ク 氏 族 に 与 え た よ う な 高 い

評 価 は 見 ら れ な い 。 つ ま り,『 集 史 』 に お い て キ ニ ク 氏 族 が 言 及 さ れ た の は,そ

の 出 自 が 高 貴 だ と い う点 を 強 調 す る た め で は な く,オ グ ズ の 系 譜 に 基 づ く普 遍

史 を叙 述 す る た め で あ っ た 。前 章 で 確 認 した よ う に,セ ル ジ ュ ー ク 家 の 祖 は 「天

幕 の 骨 組 み 職 人 」 に す ぎ な か っ た 。

2. 『選 史 』 に お け る セ ル ジ ュ ー ク朝 の 位 置 付 け

ラ シ ー ドの 『集 史 』 が オ グ ズ の 系 譜 に基 づ く普 遍 史 で あ っ た の に 対 し て,『 選

史 』 の 章 構 成 に は,ペ ル シ ア 語 普 遍 史 叙 述 に 共 通 す る 「サ ッ フ ァ ー ル 朝 史 」 や

「ブ ワ イ フ 朝 史 」 の 項 目が 設 け ら れ て い る(表3)。 さ ら に 『集 史 』 と は大 き く

異 な り,そ の 出 自 が オ グ ズ 部 族 と さ れ る の は,セ ル ジ ュ ー ク 朝 とサ ル グ ル 朝 だ

け に 限 ら れ る(図2)。 こ の よ う な 諸 王 朝 の 出 自 に 対 す る 評 価 に 関 し て,『 選 史 』

に は 次 の よ う な 記 述 が あ る 。

イ ス ラ ー ム 期'ahd-i Islamに 存 在 した 君 主 た ち は,各 々 何 らか の 不 名 誉 に

よ り汚 れ て い た 。 例 え ば,ウ マ イ ヤ 朝 は ザ ン ダ カ 主 義 と ム ゥ タ ズ ィ ラ 派

i'tizalと ハ ー リ ジ ー 思 想 に よ り,ア ッバ ー ス 朝 の 一 部 は ム ゥ タ ズ ィ ラ 派 に

よ り,サ ッ フ ァ ー ル 朝 と ブ ワ イ フ朝 は 異 端rafdに よ り,ガ ズ ナ 朝 と ホ ラ ズ

ム シ ャ ー 朝 とサ ル グ ル 朝 は 血 筋 の 卑 し さ に よ り。 しか し,セ ル ジ ュ ー ク 朝

は こ れ ら の 不 名 誉 か ら清 浄 で,ス ン ナ 派 で,正 し き 宗 教 の 持 ち 主 で,良 き

信 仰 の 持 ち 主 で,善 行 の 所 有 者 で,民 衆 に 対 して 慈 悲 深 か っ た 。 こ の 祝 福

の た め,彼 らの 治 世 に は,彼 ら を 脅 か す よ う な い か な る反 乱 者 も 出 現 しな

か っ た 。

こ こ で ム ス タ ウ フ ィー は,セ ル ジ ュ ー ク 朝 に対 し て極 め て 高 い 評 価 を 与 え,そ

の 根 拠 と して 思 想,宗 教,血 統 の 良 さ,善 政 の 施 行 者 で あ る こ と を挙 げ て い る 。

彼 は オ グ ズ の 血 統 を 評 価 の 対 象 と は せ ず,オ グ ズ の 末 裔 と さ れ る サ ル グ ル 朝 も

出 自 の 卑 しい 王 朝 の 一 つ とす る 。 そ の 一 方 で セ ル ジ ュ ー ク朝 に 関 し て は,キ ニ

91 ク 氏 族 を ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ の 末 裔 と す る こ と に よ り,古 代 イ ラ ン よ り続 く血

統 を保 証 し て い る 。 こ の よ う に,『 選 史 』 の 叙 述 の 特 徴 は,「 イ ラ ン の 諸 王 朝 」

の 出 自 が 古 代 イ ラ ン の 諸 王 と関 係 付 け ら れ る 点 に あ る 。 セ ル ジ ュ ー ク 朝 以 外 で

は,サ ー マ ー ン朝 が パ フ ラ ー ム ・チ ュ ー ビ ー ン の 末 裔,そ して,ブ ワ イ フ 朝 は パ フ ラ ー ム ・グ ー ル の 末 裔 と さ れ(図2),こ の3王 朝 の 血 統 を 卑 し め る 記 述 は

ない。もちろんこれ らの言説 は 『選史』以前 にも存在 していたが,体 系的 に 「イ ランの諸王朝」 と 「古代 イラン史」 を関係付 けて叙述 した史料 は 『選史』が最 初 と考 えられ る。

Ⅴ. ペルシア語普遍史叙述の展開 と二つの人類史叙述

前章で確 認 した ように,普 遍史の構 成に関 して,『集史』では 「オ グズ史」が, 『選史』で は 「古代 イラン史」が重要 な役割 を果た していた。『集史』と 『選史』

の 写 本 は,後 世 に 多 数 作 成 さ れ,ペ ル シ ア 語 以 外 に も翻 訳 さ れ る な ど,イ ル ・ ハ ー ン朝 後 の 普 遍 史 叙 述 に大 き な 影 響 力 を持 っ た 。 しか し な が ら,セ ル ジ ュ ー

ク朝 の 起 源 に つ い て 『集 史 』 の 内 容 を そ の ま ま 採 用 し た の は,『 集 史 』 編 纂 に か

か わ っ た カ ー シ ャ ー ニ ー を 除 い て は,ラ シ ー ドに 依 拠 し て 大 部 な 普 遍 史 を残 し

た,テ ィ ー ム ー ル 朝 期 の 歴 史 家 ハ ー フ ィ ズ ィ ・ア ブ ル ーHafiz-iAbruの み で あ

る 。 そ の 一 方 で,『 選 史 』 に 倣 い 二 つ の 出 自 を併 記 す る 史 料 の 数 は 多 い(表2:

250-1,253,254,261,264,266,273-1)。 ま た も う一 つ の 傾 向 と して,キ ニ

ク 氏 族 に 触 れ ず,ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ 起 源 だ け を 叙 述 す る 史 料 も後 世 に現 れ る

(表2:262-3,267,268)。 こ の よ う に,セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 に 関 して は,

圧 倒 的 に 『選 史 』 の 記 述 が 後 世 の 歴 史 家 に 好 ま れ る傾 向 に あ る 。 最 後 に,ア フ

ラ ー ス ィヤ ー ブ 起 源 が 好 ま れ た 原 因 とセ ル ジ ュ ー ク朝 に 対 す る 評 価 の 関 係 に つ い て 論 じた い 。

ラ シ ー ドが キ ニ ク氏 族 起 源 を採 用 した 理 由 は,オ グ ズ の 系 譜 に基 づ い た 人 類

史 を 叙 述 す る た め で,セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 に 強 い 関 心 を持 っ て い た わ け で は

な か っ た 。 更 に 言 え ば,ラ シ ー ドの 普 遍 史 は,伝 統 的 な ペ ル シ ア 語 普 遍 史 叙 述

の 系 譜 の 中 で は 異 色 の 作 品 で あ っ た 。 『集 史 』 で は,「 オ グ ズ 史 」 に 登 場 す る オ

グ ズ の 諸 王 を 説 明 す る 際,普 遍 史 に 登 場 す る人 物 と の 年 代 比 定 が 行 わ れ る 。 例

え ば,「 ガ ズ ナ 朝 史 」 冒 頭 に組 み 込 ま れ た オ グ ズ の 系 譜 に お い て は,預 言 者 ム ハ

ンマ ドの 時 代 に は トゥ グ リルTughrilが,教 友 の 時 代 に は ト ゥ ー カ ー クTuqaq

92 が,と いった具合 に普遍史

中の人物 との関係 が説 明 さ

れ て い る(図3)。

しか し ラ シ ー ドに よ る年

代 比 定 は,預 言 者 ム ハ ン マ

ド以 降 の 記 述 に 限 ら れ て お

り,ヤ ペ テ か ら オ グ ズ ・ハ ー ン が 出 た と い う記 述 を 除

き,イ ス ラ ー ム 史 以 前 の 普

遍 史 に お け る 「オ グ ズ 史 」 図3:オ グ ズの 王 の普 遍 史 にお け る位 置付 け の 位 置 付 け は 不 明 瞭 な ま ま

で あ る 。 と こ ろ で,ペ ル シ

ア 語 普 遍 史 の 最 大 の 特 色 は,ピ ー シ ュ ダ ー ド,カ ヤ ー ン,ア シ ュ カ ー ン,サ ー

サ ー ン の4王 朝 の 歴 史(「 古 代 イ ラ ン史 」)が イ ス ラ ー ム 史 以 前 に組 み 込 ま れ て

い る点 に あ る(表3)。 例 え ば 『集 史 』 に 先 行 して 書 か れ た 『歴 史 の 秩 序 』で は,

ピ ー シ ュ ダ ー ド朝 の 創 始 者 カ ユ ー マ ル ス は ノ ア の 子 孫(別 説 と して ア ダ ム,或

い は セ ツ の 兄 弟)に 比 定 さ れ,ダ ッ ハ ー ク は ア ブ ラ ハ ム と,マ ヌ ー チ フ ル は モ ー セ と い っ た 預 言 者 と同 時 代 人 に 位 置 付 け られ る 。 こ の よ う に,既 に ペ ル シ ァ

語 普 遍 史 叙 述 で は,「 古 代 イ ラ ン 史 」 に登 場 す る 諸 王 を,如 何 に 『ク ル ア ー ン 』

な ど に見 られ る 旧 約 聖 書 的 言 説 の 中 に位 置 付 け る の か が 問 題 と さ れ て い た 。 そ

して14世 紀 に な る と,「 オ グ ズ 史 」が 新 た な 要 素 と して ペ ル シ ア 語 普 遍 史 の 中 に

組 み 込 ま れ た の で あ る 。 ム ス タ ウ フ ィ ー は 自著 『選 史 』 の 「オ グ ズ 史 」 を,「 殉 教 せ し 幸 運 な 主 人 ハ ー

ジ ャ ・ラ シ ー ド ・ア ル ハ ッ ク ・ワ ッデ ィ ー ンKhwaja Rashid al-Haqq wa al-

Din彼 ノ 墓 土 ガ 芳 シ カ ラ ン コ トヲ の 著 書 『集 史 』 に は 次 の よ う に 記 さ

れ て い る 」 と始 め る が,そ の 内 容 は 完 全 な 引 用 で は な く,ム ス タ ウ フ ィ ー に よ

る書 替 え や 増 補 が 確 認 で き る 。 そ の 中 で は,「 あ る 者 は,オ グ ズ ・ハ ー ン を ア フ

ラ ー ス ィ ヤ ー ブ と見 做 す が,こ れ は 根 拠aslを 持 た な い 」 で あ る とか 「フ ァ リ

ー ド ゥー ン の 時 代 に ,そ の 息、子 ト ゥ ー ル は 彼 ら[オ グ ズ ・ハ ー ン の 末 裔]と 大

合 戦 を 行 っ た 」 と い っ た 具 合 に,「 オ グ ズ 史 」 が 「古 代 イ ラ ン史 」 の 文 脈 の 中 で

説 明 さ れ,てい る。 特 に前 者 の 引 用 部 は,根 拠 が な い と留 保 さ れ て い る が,セ ル

93 ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 で あ る キ ニ ク 氏 族 と ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ の 関 係 を考 え る上 で

は 重 要 な 指 摘 で あ る 。 オ グ ズ ・ハ ー ン と ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ を 同 一 人 物 に比 定

す る こ と で,オ グ ズ ・ハ ー ン の 末 裔 に あ た る キ ニ ク 氏 族 を ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ

の 末 裔 と解 釈 す る こ とが 可 能 に な る 。 但 し,こ こ で は 留 保 され て い る こ と か ら,

こ れ は 一 般 的 な 言 説 で は な か っ た と考 え ら れ る 。こ の よ う に ラ シ ー ドに よ る 「オ

グ ズ 史 」 中 心 の 普 遍 史 は,ム ス タ ウ フ ィ ー に よ り形 を 変 え られ て,後 に 続 く歴

史家に継承 されていったのである。 さらに指摘 で きるのは,後 世 におけるセル ジュー ク朝 に対す る評価の高 さで あ る。『選 史』 の流 れ を汲 む史料 ではアフ ラース ィヤーブ起源 を叙述す る際,

「そ の 崇 高 な 系 譜 は め で た き フ ァ リー ド ゥ ー ン に 至 る 」 と い う 加 筆 ま で な さ れ,

世 界 を 征 服 し三 分 割 し た 「古 代 イ ラ ン 史 」 の 英 雄 フ ァ リー ド ゥ ー ン に ま で 至 る

セ ル ジ ュ ー ク朝 の 起 源 が 叙 述 さ れ る 。 こ の よ う に,セ ル ジ ュ ー ク 朝 を 高 く評 価

す る 『選 史 』 の 叙 述 が 好 ま れ,再 生 産 さ れ た 結 果,そ の 評 価 が 定 着 す る こ と に

な っ た の で あ る 。 実 際,先 に 引 用 し た,セ ル ジ ュ ー ク朝 を イ ラ ン の 諸 王 朝 の 中

で 最 も 良 き王 朝 とす る ム ス タ ウ フ ィー の 記 述 を そ の ま ま 引 用 す る 歴 史 家 も 多 い

(表2:250-1,261,264,266)。 ま た イ ル ・ハ ー ン 朝 後 に は,セ ル ジ ュ ー ク 朝

の 起 源 を叙 述 す る 際 の も う一 つ の 傾 向 と して,『清 浄 園 』に 引 用 さ れ た 『王 の 書 』

か ら派 生 し た 記 述 が 多 く採 用 さ れ る よ う に な る こ とが 指 摘 で き る 。 こ れ は,セ

ル ジ ュ ー ク の 父 の 名 前 が 「ル ク マ ー ン 」 型 か ら 「ドゥ カ ー ク 」 型 へ と 突 然 変 化

す る こ と か ら も 明 白 で あ る(表2:260,262-1,262-2,262-3,263,272,273-

2,274,275,277,278)。 『王 の 書 』 で は,ド ゥ カ ー ク は ハ ザ ル ・トル コ の 王 と

同 列 に 扱 わ れ て い る 。 こ の よ う な 王 朝 史 像 が 定 着 し て い く一 方,そ の 起 源 を

「天 幕 の 骨 組 み 職 人 」 と叙 述 す る 『集 史 』 の 記 述 が 採 用 され る 事 例 は 極 め て 少

な か っ た の で あ る 。

Ⅵ. お わ り に

以 上 の 検 討 よ り,次 の 諸 点 が 明 らか とな っ た 。

1. セ ル ジ ュ ー ク朝 の 出 自が オ グ ズ 部 族 に 属 す る キ ニ ク 氏 族 で あ る こ と が 再

確 認 さ れ た が,そ の 位 置 付 け は 訂 正 さ れ な け れ ば な ら な い 。 カ ー シ ュ ガ リー 以

外 の 同 時 代 の 知 識 人 は キ ニ ク 氏 族 に 関 す る記 述 を残 し て お ら ず,王 朝 自 身 も こ

の 出 自 に よ り王 統 を 正 当 化 して い る 様 子 は な い 。 む し ろ 同 時 代 に 主 張 さ れ て い

94 た の は,後 に 主 張 さ れ る よ う に な っ た ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ との 紐 帯 で あ っ た 。

2. キ ニ ク 氏 族 起 源 に 言 及 す る 史 料 は,ラ シ ー ドの 『集 史 』 以 降 多 数 見 ら れ

る よ う に な る が,そ の 出 自 に 関 す る評 価 は 同 時 代 の カ ー シ ュ ガ リー の そ れ と は

違 い,「 天 幕 の 骨 組 み 職 人 」 と い う決 して 高 くな い もの で あ っ た 。 こ の よ う な 記

述 は 後 世 の 歴 史 家 に は 好 ま れ ず,そ の ほ とん ど が ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ の 末 裔 に

キ ニ ク 氏 族 を 位 置 付 け る形 で 伝 え ら れ た 。 しか も後 世 に は,キ ニ ク 氏 族 起 源 を

削 除 し,ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ 起 源 の み に 言 及 す る歴 史 家 さ え 現 れ る 。

3. 歴 史 家 が ア フ ラ ー ス ィヤ ー ブ 起 源 を 選 択 す る よ う に な っ た 背 景 に は,ペ

ル シ ア 語 普 遍 史 と い う 史 料 体 系 の 存 在 が あ っ た 。 そ の 中 で 必 要 不 可 欠 な 要 素 は

「古 代 イ ラ ン 史 」 の 項 目 で あ っ た た め,「 イ ラ ン の 諸 王 朝 」 と 「古 代 イ ラ ン史 」

との 連 続 性 を 重 ん じた 『選 史 』 の 叙 述 が 好 ま れ た の で あ る 。 そ の た め に 『選 史 』

は,イ ル ・ハ ー ン 朝 後 の 歴 史 叙 述 に お い て 「イ ラ ン の 諸 王 朝 」 を叙 述 す る際 に

数 多 く引 用 さ れ る こ と に な る。

4. こ の よ う に 『選 史 』 の 叙 述 が 好 まれ た こ と は,セ ル ジ ュ ー ク 朝 に 対 す る

評 価 の 形 成 に も大 き な 影 響 を与 え た 。 とい う の も,『 選 史 』 こ そ が セ ル ジ ュ ー ク

朝 に 対 して 最 大 の 賛 辞 を 与 え た 歴 史 書 で あ っ た か ら で あ る 。 そ の 叙 述 が 再 生 産

さ れ,るこ と に よ り,セ ル ジ ュ ー ク朝 を 良 き王 朝 と み な す 評 価 が 定 着 す る こ と に

な っ た 。

本 稿 で は,ペ ル シ ア 語 普 遍 史 叙 述 の 展 開 とセ ル ジ ュ ー ク朝 の 起 源 認 識 との 関

連 に つ い て 論 じた 。 しか しな が ら,ペ ル シ ア 語 普 遍 史 に お け る そ の 他 の 項 目,

特 に 「古 代 イ ラ ン史 」 の 項 目 が 全 体 の 中 で ど の よ う な 位 置 を 占 め て い る の か に

つ い て は 未 だ 本 格 的 な 研 究 が な さ れ て い な い 。 ペ ル シ ア 語 普 遍 史 の 構 成 の そ の

他 の 部 分 に 関 して は 今 後 検 討 し て い き た い 。

付 記:本 研究 は,文 部 科 学省 科 学研 究 費補 助 金(特 別 研 究 員 奨励 費)に よ る史 料 調査 の成 果 の一 部 で あ る。 また史料 調 査 に際 しては,多 くの方 々 の お世 話 に な った。 こ こ に 記 して謝 意 を表 した い。

(1)•@ C. E. Bosworth, "Saldhukids," The Encyclopaedia of Islam, new ed., Vol. 8, Leiden,

1995,938a.

(2)•@I. Kafesoglu, A History of the Seljuks, trans. by G. Leiser, Illinois, 1988 (1964-65),

22.

95 (3) 例 え ば 後 述 す る よ う に(注20),イ ブ ン ・ハ ッ ス ー ル が ア フ ラ ー ス ィ ヤ ー ブ 起 源 説 を

唱 え た と い う 「定 説 」 の 再 検 討 を 試 み た 研 究 は管 見 の 限 り存 在 しな い 。 セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 に つ い て の 専 論 に は,S.A.Hasan,"Some Observations of the Problems Con-

cerning the Origin of the Saljuqids," Islamic Culture 39-3 (1965), 195-204な どが あ る

が,こ れ も同 様 で あ る 。

(4) トガ ン は キ ニ ク 氏 族 の 祖 に つ い て,ト ル コ 系 英 雄 叙 事 詩 に お け る 伝 説 上 の トル コ の

王 オ グ ズ ・ハ ー ン とす る 「オ グ ズ 史Oghuz-Ndma」 と イ ブ ン ・フ ァ ド ラ ー ンIbn Fadlan

の 旅 行 記 に 登 場 す る 人 名 を 照 合 し て,系 譜 を再 構 成 した(Z.V.Togan, Urnurni Turk

Tarihine Giris, Istanbul, 1981 (1946), 183-186)。 「オ グ ズ 史 」の 内 容 に つ い て は,本 田 実

信 ・小 山 皓 一 郎 「オ グ ズ = カ ガ ン説 話1」 『北 方 文 化 研 究 』7(1973),19-63を 参 照 の こ

と。

(5)•@ I. Kafesoglu, Selcuklu Ailesinin Menei Hakkznda, Istanbul, 1955.

(6)•@ N. Ahmad, Religion and Politics in Central Asia under the Saljugs, Srinagar, 2003,

2-3.

(7) 最 近 ま で,ト ゥ グ リル3世(r.1176-94)に 献 呈 さ れ た 王 朝 史,ニ ー シ ャ ー プ ー リー

Nishapuri著 『セ ル ジ ュ ー ク の 書Saljuq-Nama』 の 冒 頭 に も,キ ニ ク 氏 族 に 起 源 を求 め

る 記 述 が あ る と考 え ら れ て い た 。 しか し,こ れ ま で 使 用 さ れ て い た 刊 本 は 後 世 の 史 料 か

ら の 復 元 に す ぎず,モ ー トンA.H.Mortonに よ る 写 本 発 見 ・刊 本 出 版(Nishapuri, The

Saljugndma of Zahir al-Din Nishapuri, ed. by A.H.Morton, Carnbridge, 2004)の 結 果,

当 該 部 分 は後 世(14世 紀 初 頭)の 加 筆 で あ る こ と が 明 ら か と な っ た(拙 評 「ザ ヒ ー ル ・

ア ッ デ ィ ー ン ・ニ ー シ ャ ー プ ー リ ー 著(A.H.モ ー ト ン校 訂)『 セ ル ジ ュ ー ク朝 史 』」 『東

洋 学 報 』87/4(2006),33)。

(8) Kasgarli Mahmud, Divanu Lugati't-Turk, ed. by K. Duzeni & U. Yuksel, Ankara,

1990, 20b.訳 文 中 の 角 型 括 弧 は 筆 者 に よ る補 足 を 意 味 す る(以 下 同 じ)。

(9)•@ Abu al-'Ala b. Hassul, "Kitab Tafdil al-Atrak," ed. by A. Azzavi, Belleten 4 (1940),

49.

(10) 『セ ル ジ ュ ー ク の 書 』 に は,「 系 譜 が な い 」 と い う理 由 に よ り,ガ ズ ナ 朝 君 主 の 王 権 が 否 定 さ れ る場 面 が 叙 述 さ れ て い る(Nishapuri, The Saljugndma, 8)。

(11) セ ル ジ ュ ー ク 朝 君 主 の 貨 幣 に 刻 ま れ た 弓 矢 の 形 を キ ニ ク 氏 族 の タ ム ガ の 崩 れ た 形

とす る 説 も あ る が(Kafesoglu, A History of the Seljuks, 22),貨 幣 に 刻 まれ た形 を 確 認 し

て み る と,む し ろ 『トル コ 語 集 成 』 に 記 さ れ た サ ル グ ル 氏 族 の タ ム ガ の 形 に酷 似 して い

る(C. Alptekin, "Seiguklu Paralari," Selcuklu Arastirmalari Dergisi 3 (1971), 443;

Kasgarli, Divanu, 20b)。 そ の た め,こ の 弓 矢 の 形 は む しろ,清 水 宏 祐 の よ う に,ト ル コ

系 諸 部 族 の 支 配 者 で あ る こ との 象 徴 と考 え る べ き で あ ろ う(清 水 宏 祐 「貨 幣 史 料 に よ る セ ル ジ ュ ー ク朝 史 研 究 序 説:ビ ュ リエ ッ ト説 に た い す る一 見 解 」 『イ ス ラ ム 世 界 』25・26

(1986),103-128)。

(12) こ の 史 料 の 性 格 に つ い て は,Cl. Cahen, "Le Malik-Nameh et I'histoire des

96 origines seljukides," Oriens 2-1 (1949),31-65を 参 照 の こ と 。 次 の3史 料 に は 『王 の 書 』

か ら の 直 接 引 用 が 明 記 さ れ て い る 。Ibn al-'Adim, Bugyat at-Talab fi Tarih Halab, ed. by A. Sevim, Ankara, 1976, 32; Bar Hebraeus, The Chronography of Bar Hebraeus, trans. by E. A. W. Budge, Vol. 1, Amsterdam, 1976, 195; Mir-Khwand, Rawdat al -Safa, ed. by J. Kiyanfar, Vol. 6, Tehran, 1380Kh., 3119.

(13) こ の 訳 語 は,ア ラ ビ ア 語 史 料 か ら 『王 の 書 』 の 記 述 を 復 元 し た 研 究 で は 「鉄 弓 」 と

訳 出 さ れ る 箇 所 で あ る(Hasan, "Some Observations," 198)。

(14) Mir-Khwand, Rawdat, Vol.6,3119.本 稿 で は,『 王 の 書 』を最 も詳 細 に 引 用 し て い る

ミ ー ル ・ハ ー ン ドMir-Khwand著 『清 浄 園Rawdat al-Safa』 を利 用 し た 。

(15)•@ Ibn al-Athir, al-Kamil fi al-Ta'rikh, ed. by C. J. Tornberg, Vol. 9, Beirut, 1966, 473.

(16)•@ Mir-Khwand, Rawdat, Vol. 6, 3119-3121.

(17)•@ Nizam al-Mulk, Siyar al-Muluk, ed. by H. Darke, Tehran, 1372Kh., 13.

(18)•@ Muntajab al-Din al-Juwayni, Kitab 'Atabat al-Kataba, ed. by M. Qazwini &'A.

Iqbal, Tehran, 1329Kh., 33.

(19)•@ J. S. Meisami, Persian Historiography: To the End of the Twelfth Century, Edinburgh, 1999, 269.

(20) 先 行 研 究 で は,ア ブ ー ・ア ル ア ラ ー は ト ゥ グ リル ・ベ ク の 官 吏 イ ブ ン ・ハ ッ ス ー ル に 同 定 さ れ て き た(Bosworth, "Saldhukids," 938a)。 し か し彼 の 経 歴 に 関 す る唯 一 の 情

報 に は,「 サ ン ジ ャ ル と 同 時 代 人 」(Hamd-Allah Mustawfi, Tarikh-i Guzida, ed. by 'A.

Nawa'i, Tehran, 1364Kh., 690)と あ る た め,こ の 人 物 は1058年 没 の イ ブ ン ・ハ ッス ー ル

と は 別 人 で あ る と考 え ざ る を え な い 。

(21) Mustawfi, Guzida, 426.

(22) (表1)(表2)か ら分 か る よ う に,セ ル ジ ュ ー ク の 父 の 名 前 に は,点 の 位 置 や 数 な ど

に 史 料 間 で 様 々 な 異 同 が 見 られ,る 。本 稿 で は,「 ル ク マ ー ンLuqman」 と 読 め な い 方 の 形

を 便 宜 的 に 一 括 し て 「ド ゥカ ー ク 」型 と表 記 す る(表 に は元 の 形 の ま ま 表 記)。 こ の 問 題

に 関 して は,井 谷 鋼 造 「セ ル ジ ュ ク 朝 の 名 祖 セ ル ジ ュ ク の 父 の 名Duqaq/Luqmanに つ い て 」 『創 立 三 十 周 年 記 念 論 集(文 学 部 篇)』 追 手 門 学 院 大 学,1997,1-22を 参 照 の こ と。

(23)•@ al-Husayni, Akhbar al-Dawlat al-Saljugiya, ed. by Z. M. Buniiatov, Moscow, 1980,

2b; al-'Ayni, 'Iqd al-Jumdn,イ ス タ ン ブ ル ・ トプ カ プ サ ラ イ 博 物 館 付 属 図 書 館Ahmet

Ⅲ 2911a, Vol. 10, 224b.

(24) 唯 一 の 例 外 と し て,セ ル ジ ュ ー ク 朝 の 起 源 を サ ー サ ー ン朝 に 求 め る 史 料 が 存 在 す る

(Ibn al-Dawadari, Kanz al-Durar wa Jami' al-Ghurar, ed. by S. al-Munajjid, Vol. 6,

Cairo, 1961, 336)•B

(25)•@ Raid al-Din Fazlallah, Cami` al-Tavarih, ed. by A. Atel, Vol. 2-5, Ankara, 1999, 5.ラ シ ー ドの 『集 史 』編 纂 作 業 に 加 わ っ て い た カ ー シ ャ ニ ーKashaniに よ る 普 遍 史 『歴

史 精Zubdat al-Tawarikh』 に も ほ ぼ 同 様 の 記 述 が あ る(Nishapuri, Saljuq-Nama, ed.

by I. Afshar, 1332Kh., 10)。

97 (26) 但 し,ラ ー ワ ンデ ィ ーRawandiが 著 し た セ ル ジ ュ ー ク 朝 史 『胸 臆 の 安 息Rahat al-

Sudur』(1206年 頃 完 成)の パ リ写 本(1238年 書 写)の 欄 外 に は,書 写 生 と は 別 の 筆 で"b.

Duqaqal-Qiniqi"と い う 書 込 が あ り(Rawandi, Rdhat al-Sudur,パ リ ・国 立 図 書 館

Suppl. Persan 1314,37b),加 筆 の 年 代 に よ っ て は,パ リ写 本 の 書 込 の 方 が 古 い 事 例 と い

う可 能 性 も あ る 。

(27) Mustawfi, Guzida, 426.

(28) 『選 史 』 に は,『 集 史 』 を含 む23史 書 が 典 拠 と し て 列 挙 さ れ て い る(Mustawfi, Guzida, 6-7)。

(29)•@ Khwand-Amir, Habib al-Siyar, ed. by J. Huma'i & M. Dabir-Siyagi, Vol. 2, Tehran,

1353Kh., 479.

(30)•@ Rawandi, Rahat, 28b.

(31)•@ Rawandi, Rahat, 58b.

(32) 詳 し く は,同 様 の 事 例 を 集 め た 井 谷 鋼 造 の 研 究 を 参 照 の こ と(井 谷 鋼 造 「「大 セ ル ジ

ュ ク 朝 」 と 「ル ー ム ・セ ル ジ ュ ク 朝 」」 『西 南 ア ジ ア 研 究 』41(1994),49)。

(33) Qadi Ahmad, Walad-i Shafaq,イ ス タ ンブ ル ・ス レ イ マ ニ エ 図 書 館Fatih 4518, 151a.

ま た,15世 紀 半 ば に ア ナ ト リア で 著 さ れ た 普 遍 史 で は,カ イ フ ス ラ ウ は ア ル プ ・ア ル ス

ラ ー ン の 息 子 と さ れ る(Shukr-Allah, Bahjat al-Tawarikh,パ リ ・国 立 図 書 館Suppl.

Persan 1120, 146a)。

(34) 宇 野 伸 浩 「『集 史 』 の 構 成 に お け る 「オ グ ズ ・カ ン説 話 」 の 意 味 」 『東 洋 史 研 究 』61/ 1(2002),34-610

(35) 最 近 の 代 表 的 研 究 と し て,バ イ ダ ー ウ ィ ーBaydawi著 『歴 史 の 秩 序Nizam al-

Tawarikh』 を 扱 っ た 次 の もの が 挙 げ ら れ る 。 井 谷 鋼 造 「Aya Sofya 3605ペ ル シ ア 語 写

本Nizam al-Tawdrikh中 の セ ル ジ ュ ク 朝 関 連 の 記 事 に つ い て(上)・(下)」 『追 手 門 学 院

大 学 文 学 部 紀 要 』31・32(1995・1997),1-15・1-28;Ch. Melville, "From Adam to Abaqa:

Qadi Baidawi's Rearrangement of History," Studia Iranica 30 (2001), 67-86.

(36)•@ Rashid al-Din, fttmi' al-Tawarikh, ed. by M. Rawshan & M. Musawi, Vol. 1,

Tehran, 1373Kh., 15-20.

(37) 白 岩 一 彦 「ラ シ ー ド ・ウ ッデ ィ ー ン 『歴 史 集 成 』 現 存 写 本 目録 」 『参 考 書 誌 研 究 』53

(2000),27-31。 こ の 目録 に よ れ ば,最 古 の 第1・2巻 合 冊 写 本 の 書 写 年 は1407年 。

(38)•@ E. G. Browne, A Literary History of Persia, Vol. 3, Cambridge, 1964 (1920), 100-

101.

(39)•@ Rashid al-Din, Jami' al-Tawarikh: Tarikh-i Ughuz, ed. by M. Rawshan, Tehran, 1384Kh.,93-95.こ こ で ガ ズ ナ 朝 の 出 自 と さ れ る カ イ 氏 族 は,通 常 は オ ス マ ン朝 の 出 身 氏

族 と され て い る 。

(40)•@ Rashid, Jami'/Ughuz, 91-92.

(41)•@ Rashid, Jami', Rawshan & Musawi, Vol. 1, 62.

(42)•@ Rashid, Jami'/Ughuz, 94-95.

98 (43) Mustawfi, Guzida, 426.

(44) Mustawfi, Guzada, 376, 409.

(45) C. E. Bosworth, "The Heritage of Rulership in Early Islamic and the

Search of Dynastic Connections with the Past," Iran 4 (1966), 51-62.

(46) 『選 史 』 の 典 拠 と な っ た ペ ル シ ア 語 普 遍 史 は,『 歴 史 の 秩 序 』,『集 史 』,『歴 史 精 髄 』,

『バ ナ ー カ テ ィ ー 史 』 の4作 品 だ が,こ の 中 で は 僅 か に 『歴 史 の 秩 序 』 が ブ ワ イ フ朝 の

起 源 を パ フ ラ ー ム ・グ ー ル と す る 説 を 伝 え て い る だ け で あ る(Baydawi, Nizam al-

Tawarikh, ed. by M. H. Muhaddith, Tehran, 1381Kh., 99)。 ま た,『 選 史 』 と 同 じ くギ ヤ ー ス ・ア ッ デ ィ ー ン に 献 呈 され た シ ャ バ ー ン カ ー ラ イ ーShabankara'i著 『諸 系 譜 集

Majrna' al-Ansab』 で は,ブ ワ イ フ 朝 の 出 自 は ア ラ ブ,セ ル ジ ュ ー ク朝 の 出 自 は ウ イ グ

ル と さ れ る な ど(Shabankara'i, Majrna' al-Ansdb, ed. by M. H. Muhaddith, Vol.2,

Tehran, 1363Kh., 89; Shabankara'i, Majma' al-Ansab, ed. by M. H. Muhaddith, Vol.1,

Tehran, 1381Kh., 51),諸 王 朝 の 起 源 に 関 し て オ グ ズ の 系 譜 や 古 代 イ ラ ン の 諸 王 の 系 譜

が 重 視 さ れ な い 歴 史 書 も存 在 す る(図2)。

(47) 『集 史 』は72の,『 選 史 』は95の 写 本 の 存 在 が 確 認 さ れ て い る(Melville, "From Adarn

to Abaqa," 73;白 岩 「『歴 史 集 成 』 現 存 写 本 目録 」,2)。

(48) Hafiz-i Abru, Majmu'a-yi Hafiz-i Abyu,イ ス タ ン ブ ル ・ス レ イ マ ニ エ 図 書 館 Damad Ibrahim Pasa 919, 573b.

(49) Raid al-Din Fazlallah, Cami' al-Tavarih, ed. by A. Ates, Vol.2-4, Ankara, 1999,

3-5.こ こ で 登 場 す る ト ゥ グ リル は オ グ ズ の 王 で あ り,セ ル ジ ュ ー ク 朝 の ト ゥ グ リル ・ベ

ク と は 別 人 で あ る 。

(50) Baydawi, Nizam, 14-15.ち な み に,『歴 史 の 秩 序 』に お け る カ ユ ー マ ル ス の 位 置 付 け

に 関 し て は,井 谷 鋼 造 に よ る専 論 が あ る(井 谷 鋼 造 「近 世 ペ ル シ ア 語 の 世 界 史Nizam al-

Tawarikhに つ い て の 古 典 文 学 的 研 究1」 『「古 典 学 の 再 構 築 」 第1期 公 募 研 究 論 文 集 』

2001, 30-36)。

(51) Mustawfi, Guzida, 562.

(52) Mustawfi, Guzida, 566.

(53) Mustawfi, Guzida, 562.

(54) 既 に テ ィ ー ム ー ル 朝 期 の 歴 史 叙 述 研 究 の 立 場 か ら,モ ン ゴ ル 的 慣 習 を 重 視 す る か 否

か で 後 世 の 歴 史 叙 述 は 『集 史 』 と 『選 史 』 の 二 系 統 に 分 岐 し て い く と い う 説 が 出 さ れ て い る が(M. Dobrovits, "The Turco-Mongolian Tradition of Common Origin and the

Historiography in Fifteenth Century Central Asia," Acta Orientalia 47-3 (1994), 269-

277),「 イ ラ ン の 諸 王 朝 」 史 の 部 分 に 限 れ ば,『 集 史 』 の 後 世 の 史 家 に対 す る影 響 力 は 極

め て 小 さ い 。 ま た 『選 史 』 を,『 王 書Shah-Nama』 の 続 編 と して 編 ま れ た 韻 文 普 遍 史 『勝

利 の 書Zafar-Nama』 の 「要 約 版 」 と見 な す 研 究 も あ り(Ch. Melville, "Hamd Allah Mustawfi's Zafarnamah and the Historiography of the Late Ilkhanid Period," Iran

and Iranian Studies, ed. by K. Eslami, Princeton, 1998, 1-12),そ の た め に,『 選 史 』 で

99 は 「古 代 イ ラ ン史 」 との 関 係 が 特 に 重 視 さ れ た と考 え られ る 。

(55) Mas'ud Quhistani, Tarikh-i Abu al-Khayr-Khani,ロ ン ドン ・英 国 図 書 館Add.26188,

190a.

100 101 102 103 104 105