愛知教育大学研究報告, 42 (人文科学編), pp. 41~61. February, 1993

Saptapadarthiの和訳解説(7)

菱 田 邦 男

Kunio HISHIDA

(哲学教室)

言語(sabda)を特相とする為他比量(pararthanumana)は,自己の推理の意味内容を 他者に説示するための比量であり,5つの支分(anga, avayava)から成る推論式を有する。 5支分とは,宗(pratijna:主張)・因(hetu:理由)・喩(udaharana:例証)・合(upanaya :確認)・結(nigamana : 結論)である。 Mita.では,次のような推論式(5支作法,5 分作法)が例示される。 (宗)かの山に火あり(parvato 'yam vahniman)。 (因)有煙性の故に(dhumavattvad)。 (喩)かまどの如し(mahanasavat)。 (合)同様にかの山は煙を有する(tatha cayam dhumavan)。 (結)故にかの山はまさしく火を有する(tasmad vahniman eva)(1)。 これらの5支分のそれぞれについて, Sivadityaは定義を示していく。 そのうち,宗(pratijna)は宗主辞(paksa:宗)を述べたものである。因(hetu) は証相(linga : 因)の宗法性(paksa-dharmatva)を述べたものである。喩(udahara一

na)は実例(drstanta)を述べたものである,合(upanaya)は反省性(paramarsatva」 を述べたものである。結(nigamana)は,因との結合関係によって結論づけられた有 所立〔法〕性(sadhyavattva)が〔宗において〕決定していることを述べたものであ る(133)。

tatra paksa-vacanam pratijna | lingasya paksa-dharmatva-vacanam hetuh drstanta-vacanam udaharanam l paramarsatva-vacanam upanayah linga- sambandha-prayukta-niscita-sadhyavattva-vacanam nigamanam 133 第1支分の宗(pratijna)の定義が「宗を述べたもの」となっているのに対して, Jetly 版では,「能遍(vyapaka)を述べたもの」となっている。能遍は所立法(sadhya-) を意味する。 Jin.はこの定義を「所立〔法〕によって限定された(sadhya-visista)宗を 述べたもの,それが宗である。例えば<声は無常なり〉」と注釈する。第2支分の因(hetu) の定義における「証相(lihga : 因)の宗法性(paksa-dharmatva)」をJin.は,「能立 (sadhana)の宗への依存性(paksSsritatva)」と説明する。上記推論式の[有煙性の故に] という因は,宗たる「かの山」に煙(因=能立)は依存していることを意味する。第3支 分の喩(udaharana)の定義「実例(drstanta)を述べたもの」について, Ghateは「喩

41- 菱 田 邦 男

の目的は証相と所立との結合関係を述べることであり,それ(結合関係)によって所立は 証相から推理され得る」と説明し,更に,「定義にある『実例(drstanta)』は必然的に遍充 (vyapti)の意味を含む。何故なら,遍充なしには実例はあり得ないからである」と主張す る。彼によれば,「遍充を有する(savyaptika)実例を述べたもの」と定義づける写本があ るという(2)。 第4支分の合(upanaya)の定義にある「反省(paramarsa)」について, Mita.は,「反 省は第3の証相知(trtlya-linga-jnana)である」と注釈し,「かの山は火によって遍充され る煙を有する(vahni-vyapya-dhumavan)」を例示する。では,第3の証相知とは何を指 すのか。上記推論式について言えば,かまどにおける煙(証相)の認知が第1の証相知で ある。次に,宗たる「かの山」における煙の認知が第2の証相知である。そして,煙と火 との遍充関係を思い起こして,「かの山は火によって遍充される煙を有する」と改めてかの 山の煙を認知する。これが第3の証相知である(3)。第5支分の結(nigamana)の定義につ いて, Ghateは「因との結合関係に基づいて,宗が所立法と結合していることを述べた ものである」と説明する。定義の「因との結合関係(sambandha)によって」をJin.は 「因(hetu = lihga)が宗において所遍(vyapya)として存在することによって」と注釈す ることから,「因との結合関係」は宗と因との結合関係を指すと解せる(4)。 似因性(abhasatva)とは支分(ahga)の不完全性(vaikalya)である。不成性 (asiddhatva)とは〔因が〕宗法性(paksa-dharmatva)として決定していないこと である。相違性(viruddhatva)とは〔因が〕宗及び異品(vipaksa)とのみ接触を 有することである。不定性(anaikantikatva)とは〔因が〕宗〔と同品と異品〕の3 者に存在することである。疑惑性(sandigdhatva)とは所立(sadhya)とそれ(所立) の無()が〔共に〕証明されることである(134)。 anga-vaikalyam abhasatvam l paksa-dharmatvenaniscitatvam asiddhatvam l paksa-vipaksa-matra-sparsitvam viruddhatvam l paksa-traya-vrttitvam anai- kantikatvam | sadhya-tad-abhava-sadhyatvam sandigdhatvam 134 ここでは,因の類似(abhasa),つまり似因(lingabhasa, hetv-abhasa)の定義が示 される。似因とは正しい因としての条件(5相)を適えていない因を指すから,誤った因 である。まず,似因の定義「支分(anga)の不完全性(vaikalya)」の「支分(anga)」と は宗法性(paksa-dharmatva)・同品有性(sapaksa-)等の5相を意味し,「それら の不完全性(vaikalya)」とはそれら5相を「欠いていること(rahitatva)」を意味する。 Jin.は「5相の中の1相でも不足している(nyuna)ならば,因は似因である」と説明する。 このように似因一般の定義が示されてから,次に似因の各種について定義が示される(5)。 先にSP 27 において示された似因の種別は不成(asiddha)・相違(viruddha)・不定 (anaikantika)・非決定(anadhyavasita)・過時提示(kaiatyayapadista)・問題相似 (prakaraリa-sama)の6種であった。本項(SP 134)では不成因と相違因と不定因と疑惑 因が定義づけられているが,疑惑因は上記6種の中に挙げられていない。不成(asiddha) 因の定義「〔因が〕宗法性(paksa-dharmatva)として決定していないこと」とは,因が 第1相たる宗法性(因は宗に存在していること)を適えていないことを意味する。 Jin.に 例示される推論式「声は無常なり。眼所見性(caksusatva)の故に」においては,因たる 眼所見性(眼で知覚される性格)は宗たる声には存在しないので,不成因である。相違

- 42- Saptapadarthiの和訳解説(7)

(viruddha)因とは,所立(sadhya)と相反することを証明する因である。この因は「 宗 及び異品(vipaksa)とのみ接触を有する」と定義されるように,宗と異品にのみ存在し, 同品(sapaksa)には存在しない。 Ghateが例示する推論式「声は常住なり。所作性(kr- takatva)の故に。瓶の如し」においては,因たる所作性は宗たる声と異品たる瓶にのみ存 して,所立(証明さるべきこと=声の常住性)と相反することを証明する。故に相違因は 因の第2相(同品有性)と第3相(異品からの排除)を共に満足させない(6)。 不定(anaikantika)因とは,宗と同品と異品の3者すべてに存在する因である。 Jin.に 例示される推論式「声は無常なり。所量性(prameyatva)の故に」においては,因たる所 量性(認識され得る性格)は宗たる声と同品たる瓶に存在するのみならず,異品たる虚空 (akasa)にも存在するので,因の第3相(異品からの排除)を満足させない。 Ghateは 「相違因と不定因は共に異品に存在するが,相違因が同品には決して存在しないのに対し て,不定因は同品にも存在する」と両因を比較して説明する。疑惑(sandigdha)因は, Sivadityaが先に挙げた6種の似因の中には見られない。疑惑因の定義「所立(sadhya) とそれ(所立)の無(abhava)が〔共に〕証明される」とは,所立が証明されると同時に 所立と相反すること(viparita)も証明される,という意味である。 Mita.及びJin.によれ ば,この疑惑因の定義は不定因・非決定因・問題相似の3似因に対して一括して示された 定義,つまりこれら3似因共通の定義であるという。この理由からか,底本では,残りの 似因については次項(135)において過時提示の定義が示されるのみである(7)。 宗と同品と異品の3者すべてに存在する不定因は,同品に存在することによって所立を 証明すると同時に,異品に存在することによって所立と相反することも証明する。故に, 不定因は疑惑因の定義に当てはまると言える。非決定(anadhyavasita)因はどうか。これ は宗にのみ存在する因である。 Jin.によれば,非決定因を有する推論式「声は無常なり。 虚空特有の性質性の故に」においては,「虚空特有の性質性(akasa-visesa-gunatva)」と いう因は「声は常住なり。虚空特有の性質性の故に」という相対立する推論式にも用いら れ得るので,所立及び所立と相反することを証明する因であり,やはり疑惑因の定義に当 てはまる。では,問題相似(prakarana-sama)はどうか。Jin.は「声は無常なり。宗と 同品のいずれかであるから(paksa-sapaksayor anyataratvat)。同品の如し。声は常住な り。宗と同品のいずれかであるから。同品の如し」と例示する。この推論式における「 宗 と同品のいずれかであること」という因は,一方では声の無常性を証明しながら,他方で は声の常住性をも同等に証明する。故に,問題相似も疑惑因の定義に当てはまる。なお, Jetly版では,疑惑因の定義が示された後に,3似因個々の(prthak)定義が示されている(8)。 過時提示性(kalatyayapadistatva)とは,拠り所とされる(upajivya)認識手段に よって決定されている所立の転倒性(viparitatva)である(135)。 upajivya--niscita-sadhya-viparitatvam kalatyayapadistatvam 135 この項では,因の第4相(反駁される所立を有しないこと)を満足させない似因,過時 提示(kalatyayapadista)の定義が示される。 Mita.によれば,「拠り所とされる「upajivya) 認識手段」とは「一層有力な(adhika-bala)認識手段」を意味する。比量にとって,拠り 所とされる認識手段は現量である。「所立の転倒性(sadhya-viparitatva)」とは所立(法) が全く矛盾していることである。したがって,過時捏示は,所立法と相対立する法が宗に 存することがより有力な認識手段によってすでに決定されていることである。例えば,過

- 43- 菱 田 邦 男

時提示の推論式「火は熱くない(anusna)。所作性の故に。水の如し」においては,所立法 たる非熱性(anusnatva)と相対立する熱性(usnatva)が宗たる火に存することは現量に よってすでに決定されている(9)。 底本では,非決定(anadhyavasita)因及び問題相似(prakarana-Sama)の定義は扱わ れていないが,他の版では説かれているので,ここで両似因の定義を紹介しておく。まず, 非決定因は「所立を証明することなく(sadhyasadhaka),宗にのみ存在している(paksa eva varttamana)因である」と定義づけられている(Jetly版)。定義に「所立を証明するこ となく」という文句が置かれているのは,否定的遍充のみを有する因(kevala-vyatirekin) への適用過度を避けるためである,とJin.は説明する。同品を欠く(sapaksa-sunya)否定 的遍充のみを有する因も宗にのみ存在しているが,一方では所立を証明しているからであ る(10)o 次に,問題相似については,「ある因にとって,所立と相対立することを証明する (sadhya-viparlta-sadhaka)別な因(hetv-antara)が存在するとき,それ(ある因)は問 題相似である」という定義が示される(Ghate版・Gurumurti版)。この似因は,所立が証 明される一方で,それと相対立する所立も証明される因であり,したがって,正当なる反 対証明の成立を許す因であるから,因の第5相(対等の反証を有しないこと)を満足させ ない(11)。 憶測(tarka)とは望まれざる(anista)能遍への帰結(prasafijana)である(136)。

上記定義について, Mita.には,「煙の無(dhumabhava)等を特相とする望まれざる能 遍があるとき,それ(能遍)への帰結が憶測(tarka)である」という総体的な注釈がある。 「煙の無」が「望まれざる能遍」であるとは次のような意味である。例えば,当方の「山に 火あり。煙の故に」という主張に対して,反対論者が「煙があっても,火は無いはずだ」 と大の無(所遍)を仮想(aropa)した場合に,当方は「もし火が無であるならば,煙も無 であるはずだ。湖上の如し」と煙の無を仮想する。煙は現量によって知覚されている (upalabhyamana)ので,煙の無は反対論者にとって「望まれざる能遍」である。この不本 意なる能遍の仮想に至ることが憶測である(12)。 帰結(prasanjana)とは,2つの無の共存性(tulyatva)によって,反論不成立(praty- abhava)を述べたものある(137)。 tulyatvenabhavayoh pratyabhava-vacanam prasanjanam 137 Mita.によれば,「共存性(tulyatva)」とは同一の空間・時間(samana-desa-kala)に 存在を有することである。つまり,2つの無(abhava)の間には遍充関係(vyapti)があ ることを意味する。何時如何なる場合の火の無においても,必ず煙の無があることは明白 であるからである。「このように,2つの無の間の共存性という理由(hetu)によって,反 論の不成立(pratyabhava)を述べたものが帰結(prasafljana)である」とMita.は説明 する。 Ghateによれば,「反論の不成立を述べたもの」の原語, pratyabhava-vacanamは pratikulasya abhavasya vacanam (反対の無について述べたもの)と分解されるという。 煙の存在を認めていながら,火の無を主張(仮想)する相手に対して,大の無(所遍)と 煙の無(能遍)との遍充関係を理由にして,相手に不利な煙の無について述べたものが帰 結である(13)。

― 44 ― Saptapadarthiの和訳解説(7)

夢(svapna)とは,睡眠(nidra)によって悪影響を受けた内宮(antah-karana) より生ずる知である。睡眠(nidra)とは,ヨーガより生ずる法(dharma)を伴わない マナスが感官から離脱した領域(pradesa)に住することである(138)。 nidra-dustantah-karana-jam jnanam svapnah l -ja-dharmananugrhitasya manaso nirindriya-pradesavasthanam nidra 138 夢(svapna)と睡眠(nidra)の定義が示される。まず,夢の定義について, Mita.は, 「睡眠の不調(dosa)によって悪影響を受けた(dusta)内宮(antah-karana),即ちマナ スがあり,それ(マナス)から生ずる知が夢である」と注釈する。夢の中で生起する様々 な認識表象は内宮マナスから生ずる。睡眠中は,外宮の働きは停止するとされているから である。そして夢は睡眠の不調時に,その不調によって影響されたマナスから生ずる。次 に,睡眠の定義について検討する。定義の中の「ヨーガより生ずる「yoga-ja)法」とは, Mita.によれば,「ヨーガの熟練(yogabhyasa)によって生じた法」である。この法(dharma) は不可見力(adrsta)の1種である善き潜勢力を指すのであろう。しかし,この法を伴わな い(ananugrhita = asaha-krta)で,内宮マナスは外宮(bahyendriya)との結合関係を有 しない離れた(rahita)場所に滞在することがある。それが睡眠である。定義中の「ヨーガ より生ずる法(dharma)を伴わない」という言集は,三昧()への適用過度を避 けるために必要である,とMita.は説明する。ヨーガの熟練によって法を得た人は三昧の 境地に到達できる。心の働きが停止した三昧の境地では,マナスは外宮から離れた場所に 住するが,三昧は睡眠とは明らかに異なる(14)。 無分別なる知(nirvikalpaka)とは事物の自相(vastu-svarupa)のみを把捉するこ と(grahana)である。有分別なる知(savikalpaka)とは〔言語によって〕限定され たもの(visista)を把捉することである。確認(pratyabhijnana)とは過去(atita) によって制限された(avacchinna)事物を把捉することである。捨離(hana)〔知〕と は〔対象を〕苦の手段(duhkha-sadhana)として知ることである。取得(upadana) 〔知〕とは〔対象を〕楽の手段(sukha-sadhana)として知ることである。無関与(upeks a)〔知〕とは〔対象が苦・楽〕両者の手段にならないこと(ubhayasadhanatva)を知 ることである(139)。 vastu-svarupa一matra-grahanam nirvikalpakam l visistasya grahanam savi- kalpakam l atitavacchinna-vastu-grahanam pratyabhijnanam l duhkha- sadhana- jnanam hanam l sukha-sadhana-jnanam upadanam l ubhayasadhanatva(15)-jnanam upeksa 139 無分別なる知(nirvikalpaka)は対象と感官との最初の接触より生じ,言葉によって限定 される直前の知, Jin.によれば,「ここに何かがある(kincid atrasti)」というような知 である。有分別なる知(savikalpaka)の定義について, Jin.は,「限定するもの(visesa-

na)と限定されるもの(visesya)を伴って,事物の把捉があるとき,それが有分別なる知 である。例えば,『デーヴァダッタは有杖者(dandin)である』〔という知である〕」と注釈 する。この例示では,杖(danda)が限定するものであり,デーヴァダッタが限定されるも のである。確認(pratyabhijnana)とは,過去(atita),つまり以前(purva)に認識され

た事物が現在認識されることであり,例えば「このデーヴァダッタは私が以前に会った同 じ男である」という知である。 Jin. によれば,定義中に,「事物を把捉すること(vastu-graha-

-45- 菱 田 邦 男

na)」という文句が用いられるのは,想起(smrti)への適用過度を避けるためである。捨 離(hana)知の定義にある「苦の手段(duhkha-sadhana)」とは苦の対象物(vastu)たる 手段,つまり原因(karana)である。「この事物は苦を生ぜしめるものである(duhkhotpada- ka)」という知が捨離知である。取得(upadana)知は捨離知と相反するものであり,対象 を「楽の手段(sukha-sadhana)」,つまり望ましい(ista)原因として認識することである。 無関与(upeksa)知とは,対象を苦・楽のいずれの手段にもしない知であり,例えば,石 の破片(losta-khanda)等に対して生ずる知である(16)。 推測(uha)とは,どれか1つの極点(koti)を強く疑うこと(sam§aya)である。 未決定(anadhyavasaya)とは,両方の極点のいずれもはっきりしていない,不明確 な(anavadharana)知である(140)。 utkataika-kotikah samsaya uhah l analihgitSbhaya-koty-anavadharana- jnanam anadhyavasayah 140 定義にある「極点(koti)」とは,認識作用の集中点となる対象を意味するのであろう。 Ghateは,「推測(conjecture : uha)とは,一方の極点(extreme : koti)が他方よりも 顕著に現われる場合の不確定知である」と説明し,「これはヴリンダーの森を逍遥するハリ 神にちがいない(anena vrnda-vana-viharina harina bhavitavyam)」という知を例示す る。未決定(anadhyavasaya)とは,相異なる2つの極点のいずれにも言及するのではな くて,名前や特質などがまだ判明していないものに対する知である。例えば,「この本には 何か名前がある(kim-sanjnako 'yam vrksah)」という知である。定義中に「両方の極点 のいずれもはっきりしていない(analingitobhaya-koti)」という文句があるのは,疑惑 (samsaya)への適用過度を避けるためである。疑惑では,「柱か,或いは人か(sthanur va puruso va)」というように,両極点(対象)に向かって同等に認識が作用するからである(17)。 現世の(samsarika)楽(sukha)は努力(prayatna)によって生ぜしめられる手段 (sadhana)に基づく。天界の(svarga)楽は欲望のみ(iccha-matra)に基づく手段 によって得られる(141)。 prayatnotpadya-sadhanadhinam sukham samsarikam l iccha-matradhma- sadhana-sadhyam sukham svargah 141 Mita.は現世の(samsarika)楽(sukha)の定義を「努力(prayatna)によって生ぜし められる手段,つまり花冠(sraj)・白檀(candana)等があり,それらに基づく(tad-adhina), 即ちそれらから生ずる(taj-janya),という意味である」と注釈する。現世の楽は花冠等を 手段(原因)とするが,その手段は享受者の努力によって獲得される。天界における楽も 花冠等を手段(原因)とする点では現世の楽と変りない。しかし,天界では単に欲望を起 こすのみ(iccha-matra)でその手段は獲得される。享受者は楽の手段獲得に全く努力を必 要としない。 Jin.は,「天界の楽においては,欲望を起こすのみで,あらゆる楽の手段が付 与される」と説明する(19)。 本来的〔流動〕性(samsiddhik atva)とは,火(tejas)との結合によって生起しな い〔流動〕性である。依因的〔流動〕性(naimittikatva)とは,火との結合によって 生起する〔流動〕性である(142)。 samsiddhikatvam tejah-samyoganutpadyatvam l tejah-samyogdtpadyatvam naimittikatvam ll142 11

46- Saptapadarthiの和訳解説(7)

流動性(dravatva)には本来的なもの(samsiddhika)と依因的なもの(naimittika)と があることはすでに説かれた(SP 34)。本来的流動性は火(tejas)との結合によって生ず るのではなくて,水に本来的に依存するものである。依因的流動性について, Jin.は,「火 等との結合によって(vahny-adi-sambandhena),バター(sarpis)・黄金(svarリa)等に 生起する流動性」と注釈する。大の使用によって,バターや黄金に生ずる流動性は火及び 火の運動等を原因とするから,依因的なものとされる(20)。 勢用(vega)は運動より生ずる(-ja)慣性(samskara)である。印象(bhavana) は知より生ずる(jnana-ja)慣性である。弾性(-sthapaka)は〔基体の〕本来 の状態を生ぜしめる(apadaka)慣性であり,性質である(143)。 karma-jah samskaro vegah jnana-jahsamskarobhavana l sthity-apadako gunah samskarah sthiti-sthapakah 143 慣性(samskara)の3種,勢用(veda)・印象(bhavana)・弾性(sthiti-sthapaka)の それぞれについて定義が示される。勢用は形態を有する実体の継続運動の原因であるが, 運動より生ずる。まず,努力と衝撃によって物体の運動が起こり,次に,その運動から勢

用が生じ,その勢用の働きによって,物体は運動を継続する。印象はアートマン固有の性 質であり, Jin.によれば,知(jnana),即ち経験知(anubhava)より生じ,1種の記憶 力(dharana-visesa)として想起(smrti)を生ぜしめる慣性である。弾性は有形態の実体 に存する性質であり,基体(物体)を以前の状態(purvavastha)に戻そうとする力を指す 慣性である。 Mita.は,「ある原典〔の定義〕は『弾性は真直(rjutva)を生ぜしめる慣性 である』と〔説く〕が,それ(定義)は巻き戻り(vestana)の生起への遍充不足(avyapaka)

となるから,却下さるべきである」と主張する。実は, Jetly版では, Mita.が批判する同 じ定義が説かれている。弾性は物体の巻き戻り作用と伸び戻り作用の原因であるから,「真 直を生ぜしめる慣性」という定義は不完全(遍充不足)である(21)。

非能遍性(avyapakatva)とは,自己の非存在と共通の場所を有することである。 それ(非能遍性)の無(abhava)が能遍性(vyapakatva)である。命ぜられているこ と(vihitatva)とは法(dharma)を生ぜしめることである。禁じられていること(ni- がddhatva)とは非法(adharma)を生ぜしめることである。両者と相容れないこと (viparitatva)が中立性(udasinatva)である(144)。 avyapakatvam svabhava-sadesyam l tad-abhavo vyapakatvam l vihitatvam dharmotpadakatvam l nisiddhatvam adharmotpadakatvam l ubhaya- viparitatvam udasinatvam 144 Mita.によれば,非能遍性(avyapakatva)とは基体の1部分に存在すること(eka-ni- sthatva)である。例えば,合(samyoga)は2つの結合物(基体)の接触部分にのみ存在 し,基体の残り(非接触)部分には非存在である。楽・苦等もアートマンの1部分にのみ 依存する。したがって,合・離・楽・苦等は非能遍なるものである。 Jin.は,「ある基体 ()に合が存在する場合,その基体には合の非存在(samyogabhava)がある。つま り,基体の1部分(eka-de§a)に合は存在し,基体の1部分に合の非存在がある。故に, 自己(合)の非存在は〔自己(合)の存在と〕共通の場所(samana-desa)を有すること になる」と注釈する。能遍性(vyapakatva)は基体に遍在・遍満して依存することを指す から,非能遍性の無にほかならない(22)。

- 47 菱 田 邦 男

輪廻の要因,不可見力(adr§ta)には法(dharma)と非法(adharma)とがある。「命 ぜられていること(vihitatva)」について, Jin.は,「ある行為(karman)が実行されて, 法が生ずるとき,それ(行為)は命ぜられているものである」と注釈する。命ぜられてい る行為は聖典の中で「為さるべきこと(karaniyatva)」として教示されている行為であり, 法の原因となる。「禁じられていること(nisiddhatva)」については,「ある行為が為されて, 非法,即ち罪(papa)が生ずるとき,それ(行為)は禁じられているものである」とJin. は注釈する。禁じられている行為は聖典の中で「為さるべきでないこと(akaraniyatva)」 として教示されている行為であり,罪の原因となる。「中立性(udasinatva)」について, Jin.は,「ある行為が為されて,法も非法も生じないとき,〔それ(行為)が中立的なもの である〕」と注釈する。中立的行為は聖典によって命ぜられている行為でもなければ,禁じ られている行為でもない。したがって,このような行為は法の原因にも非法の原因にもな らない(23)。 類(jati)は障害を有しない(nirbadhaka)普遍である。条件(upadhi)は障害を有 する(sabadhaka)普遍である(145)。 nirbadhakam samanyam jatih 1 sabadhakam samanyam upadhih 145 普遍(samanya)には類(jati)を特相とするものと条件(upadhi)を特相とするものが あり(SP 41),これら2種の定義が示される。上記の定義の中で説かれる「障害(badha, badhaka)」とは何か。 Mita.及びJin.には,類(jati)に対する障害を記した詩句が紹 介されている。この詩句はウダヤナ(Udayana)の『キラナーヴァリー』の中で説かれて いるものである(24)。それによれば,6種の障害がある。類にとっての6種の障害について, 主として宇野惇氏の見解を参考にして次に挙げる。 (1)事物が唯一であること(vyakty-abheda):基体となるべきものが唯一無区別であ る場合には,その基体には類(jati)は存在しない。例えば虚空(akasa)・時間(kala) は唯一遍在であるから,虚空性(aka§atva)・時間性(kalatva)という類は成り立 たない。 (2)異名同実性(tulyatva):名称が異なるのみで事物が同一である場合には,別々の類 は存在しない。例えばhastaとkaraは共に手を指すので, hastatvaとkaratva は2つの独立の類として認められない。 (3)交錯関係(samkara):相互に相手の基体に存在しないはずの普遍が同一箇所に共 存すること。 Mita.は,「交錯関係は物質性(bhutatva)・形態性(murttatva)等 に存在する。即ち,物質性は形態性を退けて,虚空(akasa)に存在し,形態性は物 質性を退けてマナスに存在する。それら両者は地等の4種〔の実体〕に存在する」 と注釈する。 bhuta (物質)とは,外宮によって把捉される固有性質を持つ実体を 指す。虚空は声を固有性質とする実体であるから, bhutatva (物質性)を有する。 物質性・形態性の両者は地・水・火・風に共存する。しかし,虚空には物質性が存 在するのに対して,マナスには形態性が存在する。このような交錯関係にある両者 は類(jati)とはなり得ない。 (4)無限遡及(anavasthiti):普遍に対して更に別な普遍を設定すること。普遍性 (samanyatva)を認めるならば,更に普遍性性(samanyatvatva)を認めなければ ならず,果てしなく続く。

-48- Saptapadarthiの和訳解説(7)

(5)特殊の本性做棄(rupa-hani)洵義としての特殊(visesa)に類を認めることによっ て,特殊の本性が做壊されること。常住実体に依存して排除(区別)のみの原因で ある特殊は多数であるが,特殊性(visesatva)という類は成り立たない。何故なら, 特殊は,本性上,普遍と相対立する句義であるからである。 (6)和合ならざる関係(asambandha):あらゆる普遍は和合(samavaya)関係によって 各基体に存在するが,和合に和合が存することは承認されていないから(anafi- gikarat),和合性(samavayatva)が和合に住することは,非和合関係であり,成 り立だない。 Mita.及びJin.によれば,これら6種の障害(badha, badhaka)のいずれも有しない 普遍が類(jati)である。これに対して,6種のどれか1つでも有する場合には,その普遍 は条件(upadhi)を特相とするものとなる(25)。 暗闇(andhakara)とは,仮想された(aropita)暗青色(nila-rupa)を持つ〔火= 光の〕無である(146)。 aropita-nila-rupo'bhavo 'ndhakaraり146 ‖ 暗闇(andhakara)は火(光)が非存在の場合にのみ知覚されるので,火の「無(abhava)」 にほかならない(SP 44)。上記定義について, Jin.は,「ある無において(yasminn abhave) 暗青色が仮想されたとき,それ(無)が仮想された暗青色を有する〔無〕である」と注釈 する。大の無において知覚される暗青色は仮想されたもの(aropita),つまり錯覚であるか ら,真実ではない。真実は火の無である(26)。 知との結合関係(sambandha)は知の対象性(visayatva)である。所量性(pra- meyatva)とは,真実知(tattva-jfiana)によって確実に限定され得る性格である (147)。 jnana-sambandho jnana-visayatvam l tattva-jnanena niyamenavacchedya- tvam prameyatvam 147 この項は,「所知性(jnatata)は知と対象との結合関係(sambandha)にほかならない」 (SP 47)に関連する定義である。 Mita.は,「所知性の定義は<知との結合関係「」flana- sambandha)〉である。それ(知との結合関係)の定義は<知の対象性(jflana-vi§ayatva)〉 である,という意味である」と注釈する。ここで問題点となっているのは,「結合関係 (sambandha)」の意味である。 Jin.は,「この場合,物(vastu)と知との結合関係は合(sam- yoga)或いは和合(samavaya)を指しているのではなくて,対象を有するもの(知)と対 象との状態(visaya-visayi-bhava)である」と説明する。次に,所量性(prameyatva) は知の対象性と関連する。知の対象性は真知(prama)の対象性,即ち所量性にほかなら ないからである。所量性とは正しく認識され得る性格である。 Jin.は,上記所量性の定義 を「事物が真実知によって確実に(決定的に)限定され得る性格を有するとき,その〔性 格〕が所量性である」と注釈する。したがって,所量性は認識対象に存する普遍である(27)。 そして,性質等に関する做表現(-vyavahara)は数の近接(pratyasatti) に基づく。まさにこの故に,数の近接に基づく性格がある(148)。 gunadisu ca samkhya-vyavaharah samkhya-pratyasatti-nibandhanah l ata eva samkhya-pratyasatti-nibandhanatvam II148 11 Mita.によれば,「数(samkhya)は性質(guna)に含まれているのに,どうして性質等

- 49- 菱 田 邦 男

に関して数表現(samkhya-vyavahara)があるのか」という疑義に対して上記定義が示さ れる。数は性質の1種であるから,実体にのみ存する。故に,本来,数表現は実体につい てのみ可能である。性質等に関しては,「数と性質等との間に,同一基体(ekartha)への 和合(samavaya)を特相とする近接(pratyasatti)がある」場合に,その近接を原因とし て数表現は生ずる(28)。 原因性(karanatva)とは結果(karya)を生ぜしめることである。和合因性 (samavayi-karanatva)とは,自己に和合している(sva-samaveta)結果を生ぜしめ ることである。不和合因性(asamavayi-karanatva)とは,和合因に近接し,その効 能が決定されていること(avadhrta-samarthya)である。動力因性(nimitta-karana- tva)とは,両因とは相異なる性格(ubhaya一viparitatva)である(149)。 karyotpadakatvam karanatvam l sva-samaveta-karyotpadakatvam sama- vayi-karanatvam l samavayi-karana-pratyasannam avadhrta-samarthyam asamavayi-karanatvam l ubhaya-viparitatvam nimitta-karanatvam 149 原因(karana)には和合因(samavayi-karana)・不和合因(asamavayi-karana)・動 力因(nimitta-karana)という3種がある(SP 51)。ここでは,これら3種の因のそれぞ れについて定義が示される。まず,原因自体の定義について, Jin.は,「結果が生起する 場合に(karyotpattau),適用(upayoga)されるもの,それが原因である。それが存在す ると,結果も存在し,それが存在しないと,結果も存在しない」と説明する。和合因の定 義については,「自己(sva = atman)に和合している,つまり部分と有分(avayavin)と いう関係,或いは性質と有性質(gunin)という関係によって混合されている(misri-bhuta) 結果があり,それ(結果)を生ぜしめるものが和合因である。例えば,布に対する糸,そ して布の色に対する布である」と説明する。有性質とは実体を指す。不和合因の定義につ いては,「和合因に近接したもの(samavayi-karana-pratyasanna)とは,和合関係 (samavaya-sambandha)によって合一したもの(milita)である。例えば,楽が生ずる場 合,アートマンとマナスとの合(samyoga)は楽の不和合因である。楽の和合因はアート マンである。そして,楽が生ずる場合には,そこ(アートマン)にアートマンとマナスと の合が和合して,原因となる。故に,それ(合)は不和合因である」と説明する。又,諸々 の糸の相互結合(paraspara-samyoga)は布に対する不和合因である,という例もよく用 いられる。定義にある「その効能が決定されていること(avadhrta-samarthya)」とは不 和合因の効力範囲が確定していることを意味する。この文句がないならば,糸に和合する 色も布に対する不和合因である,という誤謬が生ずる。糸の色は布の色に対する不和合因 である。動力因の定義について, Jin.は,「両因,つまり和合因と不和合因とは相異なる 原因があるとき,それが動力因である」と説明し,それの例として,瓶が製作される場合 の轆轤(cakra)等を挙げる(29)。動力因は結果にとって最も遠い原因である。 形態性(murttatva)とは,「これくらいであること(iyatta)」によって限定された 量(parimana)と結びつくことである。それの無が非形態性(amurttatva)である (150)。 iyattvacchinna-parimana-yogitvam murttatvam l tad-abhavo 'murttatvam 150 9実体の中で,地・水・火・風・マナスの5実体は形態を有するもの(murtta)であり,

- 50- Saptapadarthiの和訳解説(7)

虚空・時間・方角・アートマンの4実体は形態を有しない(amurtta)。それで,形態性 (murttatva)と非形態性(amurttatva)の定義が示される。まず,形態性について, Mita. は,「『これくらいであること(iyatta)』とは非遍在性(avibhutva)を意味し,それによっ て限定された分量(parimana)があり,それ(分量)と結びついているもの,という意味 である」と説明する。定義の「『これくらいであること』によって限定された(avacchinna)」 という文句は,遍在量(vibhu-parimana)を有する虚空等への適用過度を避けるためにあ る。次に,非形態性について説明しよう。Jin.によれば,「それの無」の「それ(tad)」 とは,「これくらいであること」によって限定された量(分量)を意味する。その量の無 (abhava)が非形態性である(3o)。一方,「それ」の意味を「形態性」と解することも可能で ある。 因の総体(samagri)とは,果との非結合(karyayoga)から区別されたものである (151)。 karyayoga-vyavacchinna samagri ||151 因の総体(samagri)とは原因がすべて揃うことであるから,必ず結果と結びつくもの, つまり結果をもたらすものである。「非結合から区別されたもの(ayoga-vyavacchinna)」 という2重否定は「必ず結合するもの」という強調的肯定表現にほかならない。 Jin.によ れば,「非結合(ayoga)」とは非生起(anutpatti)を意味する。更に, Jin.は,「<それ〉 が存在するときに必ず結果が生起し,〈それ〉が存在しないと決して結果は生起しないもの, <それ〉が因の総体である。故に,因の総体とはあらゆる原因の集合(sakala-karana- melana)である」と注釈する。布の場合では,糸(和合因),諸糸の相互結合(不和合因), 及び織匠・織機・不可見力(動力因)等が完全に揃うことが因の総体である(31)。 列挙(uddesa)とは,術語(samjna)のみによって,句義について言及することで ある(152)。 samjna-matrena padarthanam abhidhanam uddesah 152 SP 55の終了直後に,「以上が,列挙の章である(ity uddesa-prakaranam)」と説かれ ている。この「列挙(uddesa)」の定義が本項(SP 152)で示される。 Mita. によれば, 「列挙」は「あらゆる定義の根底(sarva-laksaリa-mula)になるもの」である。句義の列挙 を基礎にして,そこから句義の定義が展開されるからである。「術語(samjna)のみによっ て」とは,「名前(naman)のみによって」という意味である。この文句こそ列挙を定義(laksa- りa)から区別する。Jin.によれば,列挙とは,諸句義の名前を挙げるだけで,諸句義への 言及(abhidhana),つまり説明(kathana)を済ませる,という簡潔な説明方法である(32)。 地(prthivi)に和合せる〔性質(guna)〕は,色・味・香・触・数・量・個別性・合・ 離・遠在性・近在性・重さ・流動性・慣性(勢用と弾性)である。

rupa-rasa-gandha-sparSa-samkhya-parimana-prthaktva-samyoga-vibhaga-para- tvaparatva-gurutva-dravatva-samskarah prthivi-samavetah 1 水(ap)に和合せる〔性質〕は,色・味・触・数・量・個別性・合・離・遠在性・ 近在性・重さ・流動性・粘着性・慣性(勢用)である。 rupa - rasa - sparsa - samkhya - parimana - prthaktva - samyoga - vibhaga - para-

tvaparatva-gurutva-dravatva-sneha-samskara apsu samavetah | 火(tejas)に和合せる〔性質〕は,色・触・数・量・個別性・合・離・遠在性・近

51- 菱 田 邦 男

在性・流動性・慣性(勢用)である。

rupa-sparsa-samkhya-parimana-prthaktva-samyoga-vibhaga-paratvaparatva- dravatva-samskaras tejah-samavetah | 風(vayu)に和合せる〔性質〕は,触・数・量・個別性・合・離・遠在性・近在性・ 慣性(勢用)である。

sparga-samkhya-parimana-prthaktva-samyoga-vibhaga-paratvaparatva-sam- skara vayu-samavetah | 虚空(akasa)に和合せる〔性質〕は,数・量・個別性・合・離・声である。 samkhya-parimana-prthaktva-samyoga-vibhaga-sabda akasa-samavetah |

時間(kala)と方角(dis)に和合せる〔性質〕は,数・量・個別性・合・離である。 samkhya-parimana-prthaktva-samyoga-vibhagah kala-dik-samavetah | アートマン(atman : 我)に和合せる〔性質〕は,数・量・個別性・合・離・覚・楽・ 苦・欲・嫌悪・努力・法・非法・印象である。

samkhya-parimana-prthaktva-samyoga-vibhaga--sukha-duhkheccha- dvesa-prayatna-dharmadharma-bhavana atma-samavetah | マナス( : 意)に和合せる性質〕は,数・量・個別性・合・離・遠在性・ 近在性・慣性(勢用)である。

samkhya - parimana - prthaktva -samyoga -vibhaga - paratvaparatva - Samskara manah-samavetah ||153 11

9種の実体のそれぞれには,どれだけの性質が和合しているかが説かれている。 Jetly版 では,各実体に和合せる性質の数が記されている。それによると,地(prthivi)には14性 質が和合している。水(ap)には14性質が和合している。火(tejas)には11性質が和合し ている。風(vayu)には9性質が和合している。虚空(akasa)には6性質が和合している。 時間(kala)と方角(dis)には同種の5性質が和合している。アートマンには14性質が和 合している。マナスには8性質が和合している(33)。 慣性(samskara)の3種,勢用(vega)・印象(bhavana)・弾性(sthiti-sthapaka)の うち,勢用は地・水・火・風・マナスという5種の有形態実体に和合し,印象はアートマ ンにのみ和合し,弾性は地にのみ和合する。したがって,地に固有の性質は香と弾性であ る。遠在性・近在性及び勢用は5種の有形態実体に共有の性質である。又,味と重さは地 と水にのみ和合し,粘着性は水に固有の性質であり,声は虚空に固有の性質である。数・ 量・個別性・合・離は9実体のすべてに和合している(34)。 運動(karman)は形態を有する実体に和合し,無常のみである。普遍(samanya) は実体と性質と運動に和合している。一方,特殊(visesa)は常住なる実体に和合して いる。和合(samavaya)及び無(abhava)は決して和合しない。そして,果を特相 とする実体は自己の部分(svavayava)に和合している。果にあらざる(akarya)実 体は決して和合しない(154)。 karma murtta--samavetam anityam eva l samanyam dravya-guna- karma-samavetam l visesas tu nitya-dravya-samavetah 1 samavayabhavav asamavetav eva l dravyam tu karya-rupam svavayava-samavetam l akaryam dravyam asamavetam eva 154

-52- Saptapadarthiの和訳解説(7)

ここでは,性質以外の句義の和合状況が説かれる。 Jin.は運動(karman)の和合につ いて,「活動(calana)を本質とする運動は有形態の実体に和合している。無形態の〔実体〕 は活動し得ないからである。又,それ(運動)は無常のみである。運動はあらゆる場合に 刹那に消滅するからである(sarvatra ksanam vinasvaratvat)」と注釈する。無形態の実 体は活動不可能であること,及び運動は刹那滅であることが,運動の有形態実体への和合 と無常性の理由である。 普遍(samanya)は実体と性質と運動の3句義に和合し,普遍・特殊・和合・無の4句 義には和合しない。普遍が普遍に和合することが承認されるならば,普遍は自己を基体 (atmasraya)とすることになる。そして無限遡及()が生ずる。普遍が特殊に 和合することが承認されるならば,排除のみの原因である特殊に本性做棄(svarupa-hani) が生ずる。普遍が和合・無に和合することが承認されるならば,和合ならざる関係(asam- bandha),つまり障害(badhaka)が生ずる。「故に,普遍は実体等の3種にのみ和合して いる」とJin.は説明する。特殊(visesa)は常住なる実体,即ち虚空・時間・方角・アー トマン・マナスという5種の実体及び地・水・火・風の原子(paramanu:極微)に和合し ている。 Jin.は,「特殊は存在する数だけの常住なる実体に依存するから,常住なるもの にのみ和合する」と注釈する。 和合(samavaya)は決して和合しない。和合同士には結合関係(sambandha)が存在し ないからである。和合の和合が承認されるならば,和合は自己を基本とし,そして,更に 別な和合による無限遡及が生ずる。無(abhava)も決して和合しない。無(非存在)は存 在を特相とする(bhava-rupa)和合とは全く相容れないからである。 果(karya)を特相とする実体とは,2原子体(dvy-anuka : 2微果)等の複合体とし ての瓶・布等を指す。そのような実体は自己の部分,つまり自己の和合因に和合している。 「例えば,布は諸々の糸に,瓶は粘土の塊り(mrt-pinda)に,身体は手(kara)・足(carana) 等に和合している」とJin.は説明する。果にあらざる(akarya)実体とは,単独原子(極 微)・虚空・時間・方角・アートマン・マナスを特相とする常住なる実体を指す。それは「決 して和合しない」とは,「どこにも決して依存しない(anasrita)」という意味である(35)。 そして,実体の滅(vinasa)は和合因と不和合因の滅によって起こる。一方,性質の 滅は和合因・不和合因・動力因の滅及び正反対の(virodhin)性質によって起こる。運

動の滅は和合因・不和合因の滅及び後の合(uttara-samyoga)によって起こる。未生 無の〔滅〕は対応者(pratiyogin)を生ずる因の総体(samagri)から起こる。交互無 の〔滅〕は対応者の滅を因として起こる(155)。 vinasas tu dravyasya samavayy-asamavayi-karana-nasabhyam l gunasya tu

samavayy-asamavayi-nimitta-karana-nasa-virodhi-gunebhyo"^' nasah l kar- manah samavayy-asamavayi-karana<37)-nasottara-samyogabhyam vinasah, prag abhavasya pratiyogy - utpadana - samagritah; anyonySbhavasya pratiyogi-na§a- karanat 155 句義の滅(vinasa)は如何にして起こるのか。まず,果を特相とする実体の滅は和合因の 滅によって起こる。例えば,糸(和合因)が火(jvalana)等によって消滅すると,布(果) の滅(pata-dhvamsa)が起こる。又,或る場合には,この実体は不和合因の滅によって滅 する。例えば,諸々の糸の合(samyoga)は布の不和合因である。その合(不和合因)が

- 53- 菱 田 邦 男

消滅すると布は消滅する。 Mita.は,「極微の合の滅から,2微果の滅が起こる」と例示 する。 性質の滅は,或る場合には,和合因の滅によって起こる。例えば,布(和合因)が消滅 すると,布の色(性質)は消滅する。或る場合には,性質の滅は不和合因の滅によって起 こる。例えば,布の色の不和合因は糸の色である。糸の色の滅によって,布の色の滅は起 こる。又,或る場合には,動力因の滅によって,性質の滅は起こる。「例えば,遠在性・近 在性・2個別性(dvi-prthaktva)等に関しては,相対観念(apeksa-buddhi)は動力因で あり,それ(相対観念)の滅によって,遠在性・近在性・2個別性等の滅は起こる」とJin. は説明する。更に又,性質の滅は正反対の性質(virodhi-guna)によっても起こる。例え ば,離によって,合の滅は起こり,苦によって,楽の滅は起こる。合にとって,離は相対 立する性質であり,そして楽にとって,苦は相対立する性質である。この点について, Mita. は,「相対立する後の(uttara)声によって,以前の(purva)声の滅は起こり,後の知に よって,以前の知の滅は起こり,苦等によって,楽等の滅は起こる」と説明する。したがっ て,同じ性質であっても,時間的な前後の相違によって,それぞれ正反対の性質とされる。 Ghateは,「同一の場所に共存し得ない正反対の性質」と解説する。 運動の滅は,或る場合には,和合因の滅によって起こる。例えば,進行する矢(bana) が飛行途中に他の矢等によって做壊される・と,その矢の進行(運動)は消滅する。又,運 動の滅は不和合因の滅によって起こる。例えば,矢の勢用(不和合因)の滅によって,矢 に存する運動は消滅する。又或る場合には,運動の滅は後の(uttara)合によっても起こる。 例えば,矢が標的に当たると,即ち標的との合を有すると,矢の運動は消滅する。 7句義の中で,普遍と特殊と和合は常住のみであるから,これら3句義には滅はない。 したがって,次に無の滅が説かれている。未生無・已滅無・畢竟無・交互無という4種の 無の中で,已滅無と畢竟無には滅がないので(SP 101),未生無と交互無の滅が説かれる。 未生無は存在物が結果として生起する以前の非存在を指すから,結果たる存在物,即ち対 応者(pratiyogin)が生起すると,未生無は消滅する。対応者の生起は,対応者(果)の原 因が同一時にすべて揃うこと,つまり因の総体(samagri)に基づく。例えば,粘土の塊り・ 轆轤・布切れ(civara)等のあらゆる原因が揃うことによって,瓶の未生無に滅は起こる, とJin.は説明する。交互無の滅は対応者の滅を原因として起こる。例えば,「瓶は布にあら ず(ghatah pato na)」は,瓶と布との同一性(tadatmya)が否定されるので,交互無で ある。瓶は,布を対応者とする交互無を有する(ghatah pata-pratiyogikanyonyabhavan)。 そして,布(対応者)が消滅するや否や,瓶が持つ布の交互無は消滅する(38)。しかし,「交 互無は同一性の否定である」(SP 101),「交互無は同一性の無を特相とする」(Mita.)と説 かれているので,交互無の直接的,実質的対応者は「同一性(tadatmya)」であり,したがっ て,交互無の滅は同一性の肯定をもたらすことになる,と言えよう。 一方,実体・性質・運動の発生(utpatti)は和合因・不和合因・動力因によって起 こる。そのうち,和合因は〔実体・性質・運動の〕3者の中の実体のみである。実体 と運動にとって,不和合因は合(samyoga)のみである。しかし,性質にとって,不 和合因は,或る場合には,同種の(samana-jatiya)他の性質であり,或る場合には, 異種の(asamana-jatiya)他の性質であり,或る場合には,運動である。あらゆるも のの〔原因である〕動力因は自在神の意欲(Isvargccha)・不可見力等である(156)。

- 54- Saptapadarthiの和訳解説(7)

utpattis tu dravya - guna-karmanam samavayy - asamavayi - nimitta - karane- bhyah l tatra samavayi-karanam trayanam dravyam eva l asamavayi-karanam dravya - karmanoh samyoga eva l gunasya tv asamavayi - karanam kvacit samana-jatiyam kvacid asamana-jatiyam gunantaram kvacit karma l nimitta- karanam sarvesam eva isvarecchadrstadin 156 句義の発生(utpatti)はどのような原因に基づくのか,が説かれている。 Jin.は次のよ うに例示する。実体たる布の発生は,和合因たる糸,不和合因たる糸の合,及び動力因た る織匠(kaulika)・織機(vema)・(turi)等によって起こる。性質たる色にとって, 和合因は布であり,不和合因は糸に存する色であり,そして動力因は自在神の意欲等であ る。それらによって性質(色)は発生する。運動にとって,和合因は矢(bana)等であり, 不和合因は弓(dhanus)との合(samyoga)等であり,そして動力因は努力(prayatna) 等である。それらによって運動の発生がある。 実体・性質・運動の3句義の中で実体のみが和合因である。「実体に和合することによっ てのみ,一切のものは生起するからである」と, Jin.は説明する。実体と運動にとって, 不和合因は合のみである。矢の運動が生起する場合,不和合因は矢と弓・弓弦(jya)との 合である。勢用は後の運動の不和合因である。 性質の不和合因には3通りある。まず,同種の(samana-jatiya)他の性質とは,例えば 布の色(果)に対する糸の色(因)である。次に,異種の(asamana-jatlya)他の性質と は,例えば地極微(parthiva-paramanu)の色等に対する火との合(agni-samyoga)であ る。この場合の地極微は熱生の(paka-ja)極微,つまり瓶など焼物を構成する原子を指す。 この原子の性質(色等)は火との合によって新しく生じたものである。そして,性質の不 和合因としての運動とは,例えば運動より生ずる(karma-ja)合に対する運動である。 あらゆるもの(実体・性質・運動)の原因とされる動力因は, Mita.によれば,共通 (sadhara卵)因を意味する。共通因には世界創造者(jagat-kartr)たる自在神の意欲・不 可見力(法・非法)・時間・方角等がある(39)。

l しかし,交互無と已滅無の発生はただ動力因によってのみ起こる(157)。 anyonyabhava-pradhvamsabhavayos tu nimittad eva kevalad utpattih 157 11 無(abhava)は決して和合しない(SP 154)。故に,無には和合因は存在しない。又, 無には不和合因もない。不和合因は和合因に近接したもの(pratyasanna)である(SP 149)。 しかし,無にはその和合因が存在しないからである。したがって,無の発生原因はただ動 力因のみである。 4種の無のうち,未生無と畢竟無には始まりがない(anadi)ので(SP 101),発生はない。交互無と已滅無の発生について, Jin.は,「例えば,瓶が生起すると, 瓶の交互無の発生がある。已滅無は梶棒(lakuta)等の打撃(ghata)によって発生する」 と説明する。交互無発生にとっては,瓶生起が動力因であり,已滅無発生にとっては,棍 棒等の打撃が動力因である(40)。

l さて,残りの理論(§astra)はすべて容易に理解されよう。 aparam tu sakalam sastram subhodham iti l Gurumurtiは,「この項は,主題を終える1種の結びの文句(final statement)である。 しかし,すぐに著者Sivadityaは,はっきりと自分の見落しに気付き,更にいくつかの概 念に言及する」と説明する。Jin.によれば,「残りの理論」とは,これまでに説かれなかっ

- 55- 菱 田 邦 男

た定義等を意味する。「容易に理解されよう」とは「自ら了解されるはずである(svayam jfieyam)」を意味する(41)。 限定性(vaisistya)とは他からの排除である(158)。

Jin.によれば,限定性(vaisistya)とは,「限定するもの(visesana)によって,他の諸 句義からの排除が行われること」である。例えば地は香を有するものである(gandhavati prthivi)」という場合,有香性(gandhavattva)が限定性であり,これは限定するもの(香) によって地を水等の他句義から排除している(42)。 Mita.は,「『青い蓮華(nilam utpalam)』 という場合,蓮華においては,『青い(nila)』によって,青くないもの(anila)からの排 除が行われている。故に,限定性とは他からの排除である」と注釈する。限定性は「青く ないものからの排除」であり,限定するもの(visesana)は「青い(青さ)」であり,限定 されるもの(visesya)は蓮華である(43)。 限定するもの(visesana)とは,〔限定されるものと〕共通の基体(samanadhikarana) を有し,〔他を〕排除するものである(159)。 samanadhikaranam vyavartakam visesanam 159 Mita.によれば,「排除するもの(vyavarttaka)」とは「排除観念(vyavrtti-buddhi) を生ずるもの」を意味する。他からの排除によって,共通の(samana),つまり同一の(eka) 基体を有するもの,それが限定するものである。例えば,杖を特相とする限定するものは, 非有杖者(adandin)からの排除によって,共に同一の有杖者に存在するから,共通の基体 を有するのである。 Ghateは,visesanaはそれの基体(visesya)を他の一切から区別 するものであり,そしてその基体を束現する語と同じ格の関係(the same case-relation) にある語によって表現される,と説明する。例えば,“nilam utpalam (青い蓮華)"とい う場合, nila(青い)というvisesanaは基体たるutpala (蓮華)と同じ格の関係にある(44)。 共通の基体を有すること(samanadhikaranatva)とは,同じ格語尾(eka-vibhakty- anta)の語によって表現されることである。付随的限定者(upalaksana)とは,別な 基体(vyadhikarana)を有しながら,〔他を〕排除するものである。別な基体を有する こと(vaiyadhikaranya)とは,異なる格語尾(bhinna-vibhakty-anta)の語によっ て表現されることである(160)。 eka~vibhakty-anta-pada-vacyatvam samanadhikaranatvam | vyadhikaranam sad vyavartakam upalaksanam i bhinna-vibhakty-anta-pada-vacyatvam vaiyadhikaranyam 160 11 共通の基体を有すること(samanadhikaranatva)の例として, Jin.は,「この有杖者は デーヴァダッタである(devadatto 'yam dandi)」を提示する。「この有杖者」と「デーヴァ ダッタ」は,原文では,共に同じ格語尾(主格)を有する語によって表現されているので, 「この有杖者」と「デーヴァダッタ」は共通の基体を有することになる。次に,付随的限定 者(upalaksana)は,他を排除(区別)するという点では,限定するもの(visesana)と 同じであるが,別な基体を有する,つまり限定されるもの(visesya)を基体としないとい う点で,限定するものと異なる。別な基体を有すること(vaiyadhikaranya)とは,限定さ れるものと異なる格語尾を持つ語によって表現されることである。例えば,“jatabhih tapasah (辮髪を具えている苦行者)"という場合,限定されるものであるtapasa (苦行

- 56- Saptapadarthiの和訳解説(7)

者)が主格(nominative case)で表現されているのに対して,付随的限定者であるjata (辨髪)は具格(instrumental case)で表現されている(45)。 基体性(adhikaranatva)とは〔基体に存する〕普遍との近接関係(pratyasatti)で ある(161)。 jati-pratyasattir adhikaranatvam ll161 11 Ghateによれば,基体性(adhikaranatva)は基体と和合関係にある普遍(jati)を把捉 することにある。例えば,瓶に基体性が存するのは,瓶性(ghatatva)という普遍が和合 関係によって瓶に住するからである。 Gurumurtiは,「例えば,瓶は瓶性の基体である, と言われる。何故なら,瓶には普遍との関係が本来具わっているからである」と説明する。 彼によれば,基体性とは,「瓶性」という普遍が瓶において認識されることを意味する(46)。 遍在性(vibhutva)はあらゆる形態(murtta)と結びつくことである。分離成立(yuta- siddhi)は,〔離れても〕存在している2者の結合関係である。分離不成立(ayuta- siddhi)は,〔離れては〕存在しない2者たる能支持(adhara)と所支持(adheya)の 結合関係である(162)。 sakala-murtta-samyogitvam vibhutvam l vidyamanayoh sambandho yuta- siddhih l avidyamanayor adharadheyayoh sambandho'yuta-siddhih 162 11 遍在性(vibhutva)について, Jin.は,「有形態のあらゆる実体との合(samyoga)を 有するもの,それは虚空等の能遍(vyapaka)の実体であり,『遍在するもの(vibhu)』と 言われる」と注釈する。したがって,遍在性は形態を有しない実体(虚空・時間・方角・ アートマン)に具わる性格である。分離成立(yuta-siddhi)は合(samyoga)の関係を指 す。合関係にある2者は,合が消滅して分離した場合でも,それぞれ存在し得るからであ る。Jin.は,「手と本との合(hasta-pustaka-samyoga)」を例示する。分離不成立(ayuta- siddhi)は和合(samavaya)の関係,つまり不可分なる結合関係を指す。能支持(adhara) は基体を,所支持(adheya)は依存者を意味する。和合関係にある能支持と所支持の両者 は決して分離され得ず,言い換えれば,分離しては成り立たない関係にある。 Jin.は,「〔離 れては〕存在しない2者の(avidyamanayor)」における2者は唯一残余(eka-sesa)の関 係にあって,存在するもの(vidyamana)と存在しないもの(avidyamana)とから成って いる,と説明する。故に,両者が離れるならば,能支持(因)のみが残り,所支持(果) は残り得ない。例えば,和合関係にある糸(因)と布(果)において,両者が分離するな らば,糸が残るのみで,布は残り得ない(47)。 理論(gastra)は幸福(greyas)への道を明示するものである(163)。

ここにおいて, Sivadityaは彼の句義論の本来の目的に立ち返る。 7句義についての真 実知(tattva-jnana)は至福(nihsreyasa)への原因である(SP 52)。至福は解脱(moksa) である。したがって,本項で説かれる「理論(gastra)」とは7句義の理論を意味する。 Jin. は,「幸福(§reyas)」を「解脱(moksa)」と注釈しているので,ここでの「幸福」は「至 福」と同義に用いられている。解脱への「道(sadhana)」は「特殊因(asadharana-karana)」 である。その原因を明らかにするのが7句義の理論である(49)。上記引用原文の最後にある “iti"は「完結(samapti)を表わす語である(Mita.)。故に,この項(SP 163)をもって, 『サプタパダールティー』の本論は完了したのである。

- 57- 菱 田 邦 男

7つの大陸(dvipa)を有する大地(dhara)がある限り,7つの山(dhara-dhara) がある限り,この『サプタパダールティー』は万物の光明(prakasini)であれ。 以上をもって, Sri-Sivadityaによる著作,『サプタパダールティー』は完結し た。 sapta-dvipa dhara yavad yavat sapta dhara-dharah l tavat sapta-padarthtyam astu vastu-prakasini ll iti saptapadarthisri-sivaditya-viracitasamapta ll ここの2行詩句は作品の題名『サプタパダールティー』の「サプタ(7つの:sapta)」 に合わせて作られている。 Mita.によれば,7つの大陸(dvipa)とは, jambu, plaksa, kusa, kauftca, saka, salmali及びpuskaraを指す。 7つの山(dhara-dhara)は7つの山 脈(kula-parvata)を意味し,即ち, makendra, malaya, sahya, himavat, rksa, vindhya 及びpariyatraである。 7大陸と7山脈は恒久存在の象徴である。 Sivadityaは,彼のこ の著書が宇宙のあらゆる事象の真実を永遠に解き明かし続けることを祈願するのであ る(50)o 以上をもって, Sivaditya著『サプタパダールティー』の和訳解説を終了する。

- 58- Saptapadarthiの和訳解説(7)

-59- 菱 田 邦 男

- 60- Saptapadarthiの和訳解説(7)

- 61-