KJFC (九谷ジャズファンクラブ )会報 www.kjfc.info GROOVY VOL. 49 2009.8.22 2009 年ライブのお知らせ CONTENTS 〔〔〔2009〔2009 ライブのお知らせ〕 111 〔連載〕 ハービー・ハンコック研究・第16回 高木 信哉 2 楽曲分析~解説 田中 裕士 555 ハービー・ハンコック研究 第3回補足- 唐沢 寧寧寧 10 KJFC TOPICS ・・・・・・・・・・・・・・・ 111111 Y‘s ROOM No.23 Y.S. 121212 気まぐれジャズマン第 292929 回回回 水戸守敬一郎 141414 SOUL TLAIN Vol.10 M.T.15 RED GARLANDの魅力について 第第第 292929 回回回 紅紅紅 我蘭堂 161616 〔〔〔例会レポート〕 191919 T.Y. Y.S. 石井 宏一 他他他 表紙及び本文中イラスト制作(一部ロゴマーク除く)・・・・・水戸守敬一郎 ※ 無断転載はかたくお断りいたします。 印刷・製本:文京堂 東京都文京区本駒込 1-10 -4 電話 03 -3941 -4508 ※本 PDF 版 GROOVY-49 号はブリント版を元にして作成されていますが、一部の内容及びレイアウトは変更されていますので、 ご了承ください。 KJFC 2009 ライブのおライブのお知 知知知らせらせ!! 日野皓正(tp) &鈴木 勲(b) 今年のKJFCのライブは、『TOKYO TUC』のご厚意で、日 本が世界に誇るトランペッターとベーシストの共演が実現しま した!この二人については何の説明もいらないでしょう。今回 和丸(ds) は新鋭ドラマー和丸を加えて、心地よいテンションがある演奏 を、ぜひ堪能してください。 101010月 444 日日( (((日日日)))) 15:15 開場 16:00 開演 (((18:00 終演予定) ミュージック・チャージ :KJFC会員 4,000 円円円(一般 5,000 円) 『TOKYO TUC』 ℡℡℡.03.03----386638663866----83938393 会員のお問い合わせは 090-4178-1833 (((布田まで ))) 1 ハービー・ハンコック研究・第 161616 回回回 (“ Retrospective of The Music of Herbie Hancock ”) 高木信哉 (((1976:“(1976:“ V.S.O.P. クインテット”の誕生))) HERBIE 1976 録音日 /タイトル /演奏者 (レーベル名) 1976 666 Secrets /// Herbie Hancock (Columbia)( 171717 作目) 1976. 6.29 VVV...SSS...OOO...PPP... /// Herbie Hancock (Columbia)( 181818 作目) 1976 Milton / Milton Nasciment (A&M) 1976 Sit On It!/ Jimmy Smith (Mercury) 1976 Goin’ Places / Michael Henderson (Buddah) 1976 Two Places All The Same Time / Raydio (Arista) 1976 Songs In The Key Of Life / Stevie Wonder (Motown) 1976 Elementary / Wah Wah Watson (Columbia) 1976 Identity / Airto Moreira (Arista) 1976 Big City / Lenny White(Nemperor) 1976 Magical Shepherd / Miroslav Vitous (Wounded Bird Records ) 1976 年は、世界中に明るいムードが漂った良い年だった。 ジャコが残したリーダー作は、わずか 2 枚しかない。 1987 米国は、建国 200 周年記念に湧き、ジミー・カーターが第 年 9 月 21 日、享年 35 歳で亡くなる。その日から「ジャコの 39 代大統領に選出された。30年に及んだベトナム戦争は、 伝説」は、成長し、拡大し、今も止まることがない。「ジャコ」 前年にやっと終止符が打たれていた。日本では、「およげタ そして「ハービー」、ファースト・ネームだけで知られる人間 イヤキくん」が、史上空前の 440 万枚を売り上げ、時の首相 が、世界に一体何人いるだろうか?初リーダー作『ジャコ・ 田中角栄が逮捕された。アントニオ猪木がモハメッド・アリと パストリアスの肖像』の制作の際、ハービーのファンだった 戦い、大ブーイングを浴び、猪木は危機に陥った。ハービ ジャコは、ハービーの参加を熱望し、レコーディングで実現 ーは、一度きりの「 V.S.O.P. クインテット」の演奏を行い、世界 したときのジャコの喜びようは凄かった。 中で話題となった。 さて 1976 年 6 月~7 月、ニューヨークでは、“ニューポー 1976 年のジャズ・シーンの最初の大きな話題は、 24 歳の ト・ジャズ・フェスティバル・イン・ニューヨーク”(ニューポー 新人ベース奏者ジャコ・パストリアスだった。彼の初リーダー ト・ジャズ・フェスティバルは、 1971 年から開催がニューポー 作『ジャコ・パストリアスの肖像』がアメリカで発売されたのは、 トからニューヨークへ移転した)で、米国建国 200 年を記念 1976 年春のことだった(日本では、同年 7 月 21 日に発売さ し、豪華プログラムが組まれる。中でもハービー・ハンコック れた)。それ以前には、南フロリダ以外ではまったく知られ のコンサートが目玉となり、大きな話題となった。私は、これ ていない無名の存在だった。まるで降って湧いたようにジャ を生で見ているので、詳しくレポートしたい。 ズ・シーンに躍り出た。『ジャコ・パストリアスの肖像』の衝撃 私は、小学校の終わり頃からジャズが好きになり、ハー の高さは強烈で、エレクトリック・ベース界に革命を起こした。 ビー・ハンコックやマイルス・デイビスのアルバムを少しずつ また 4 月 1 日、ウェザー・リポートに加入したことが天才の名 集めていた。大学 3 年生のとき、ニューヨークで、生のライブ 声をさらに押し上げた。また同時期に発売されたウェザー・ が無性に見たくなりアルバイトを開始した。翌 1976 年 6 月 リポートの新作『ブラック・マーケット』に彼が参加していた曲 27 日、 1 年間のバイトで貯めたお金を持って、生まれて初め が 2 曲あったのも追い風となった。ジャコは、 1982 年の春ま てニューヨークに渡った。日付まで覚えているのは、前日に でウェザー・リポートに在籍し、バンドの人気をさらに拡大さ アントニオ猪木とモハメッド・アリの試合が日本武道館であり、 せた。 同じ飛行機に試合を終えたアリが乗っていたからだ。 2 建国 200 年の年だった。ニューヨークに降り立ち、タワ バーで録音するつもりだった。ところが事前にマイルスに話 ー・レコードへ行くと、ジョージ・ベンソンの歌「マスカレード」 をすると、「それでは俺のバンドと同じだ。ハービー、ウェイ が格好よく流れていた。ジョージ・ベンソンの『ブリージン』と ンは使ってはダメだ。別のサックスに変えろ!」と言われて、 ハービー・ハンコックの『マン・チャイルド』が大ヒットしていて、 ジョージ・コールマンに変更した経緯がある。しかも興味深 大きく飾られていた。 い事実としては、 6 月 29 日、シティ・センター・ホールでハー 早速ジャズを聴きに行こうとして雑誌『ザ・ニューヨーカ ビーが弾いていたのは、生ピアノではなく、ヤマハのエレク ー』を買うと、ハービー・ハンコックのコンサートの紹介記事 トリック・ピアノだった。このエレピは、アコースティックな響き があった。【チケット $8.5,$7.5,$6.5 、メンバー:ハービー・ハン がよい。 コック・セクステット+マイルス・デイビス /トニー・ウイリアムス /ウェイン・ショーター/ロン・カーター他】。僕は目が点となっ 1976 年末には、 V.S.O.P. に続き「アコースティック・ジャズ た。チケット代は最高で $8.5 と破格に安く、しかもマイルス・ の復権」を告げる出来事が、ニューヨークのビレッジ・バンガ デイビスが出演すると書いてある。 6 月 29 日、シティ・センタ ードで起こった。それは、偉大なテナー奏者デクスター・ゴ ー・ホールに見に行くと、超満員だった。 3 部構成の素晴ら ードン(当時53歳)が、長かったヨーロッパ生活からニューヨ しいコンサートだった。ハービーの最新バンド、セクステット、 ークのジャズ界に戻ってきたことだ。デクスターは、ニューヨ スペシャル・クインテット(やがて V.S.O.P. クインテットと呼ば ークのジャズ界に嫌気が差し、 1962 年秋に欧州に移住した。 れるようになる)とゾクゾクする演奏が続いた。 デンマークのコペンハーゲンで 14 年間暮らし、静かに暮ら 結局、マイルス・デイビスは出なかったが代わりにフレデ していた。そのデクスターが戻ってきたのだ。 14 年ぶりのニ ィ・ハバードが出演し、「マイルスの黄金のクインテット」の進 ューヨークは、彼を拍手喝采で迎えた。 1 週間、ビレッジ・バ 化した形が聴け、最高に素晴らしかった。僕はこの夜のこと ンガードに出演し、 12 月 11 日&12 日の演奏は、幸い『ホー を昨日のことのように今も鮮明に覚えている。後にこのコン ム・カミング』というタイトルでアルバム化された。 サートは、『 V.S.O.P. 』というタイトルでアルバム化された(通 算 18 作目のリーダー作)。一夜限りのクインテットは、やが 1976 年のハービーは大忙しで、日本の来日はなかった。 て<V.S.O.P. クインテット >と呼ばれるようになり、翌 77 年 7 月 特筆すべき出来事は、スティービー・ワンダーの『ソング から始まったジャズ祭“ライブ・アンダー・ザ・スカイ”に、彼ら ス・イン・ザ・キー・オブ・ライフ』とミルトン・ナシメントの『ミル が来日までしたので、物凄く驚いた。この <V.S.O.P. クインテ トン』に参加したことだ。『ミルトン』には、ウェイン・ショーター ット >の素晴らしい演奏のことは、瞬く間に建国 200 年で沸き も参加しており、彼の『ネイティブ・ダンサー』の影響が色濃 立つアメリカ中の話題となり、ジャズに関心のあるあらゆる く感じられる。 2 曲目の「フェアリー・テイルズ」は、ウェインの 人々の噂になった。その噂は、世界を駆け巡り、日本にも 理想の世界“天空の城”が表現されている。 伝わった。私は、生で見られたことを神に感謝した。 またリーダー作としては、『 V.S.O.P. 』のコンサートの直前 この V.S.O.P. の一大反響に最も驚いたのは、ハービー に、通算 17 作目のリーダー作として『シークレッツ』を吹き込 自身であった。ハービーからすれば、メンバーの力量はわ んでいる。ここには、ハービー不滅のヒット曲「カンタロープ・ かっていたし、演奏内容も想定通りだった。 1965 年に録音 アイランド」がファンク・ナンバーとしてアレンジされ、ご機嫌 した傑作『処女航海』は、元々<V.S.O.P. クインテット >のメン なナンバーとして復刻した。 特別寄稿:「フレディ・ハバード追悼文」by ハービー・ハンコック (注:フレディ・ハバードは、2008年12月29日、亨年70歳で惜しくも亡くなった。下記は、ハービー・ハンコ ックが書いてくれた追悼文である) 私は、フレディ・ハバードが私の世代の最も偉大なプロ・ジャズトランペット奏者であると信じています。 彼の影響は、今日でも多くの若いトランペット奏者のサウンドから感じられます。 彼の温かい音色と並外れたテクニックは、未来永劫に驚嘆されると考えられます。 個人的には、私の初めてのリーダー作『テイキン・オフ』(注:1962 年 5 月録音)で、フレディがプレイしてくれたので、 とても幸運でした。 フレディは、ちょうど私が求めていた人でした。 3 そして、彼のアルバムへの貢献は画期的でした。 私の 4 作目のアルバム『エンピリアン・アイルズ』(注:1964 年 6 月録音)の収録曲<ワン・フィンガー・スナップ>で、 最初のフレディの即興演奏ソロの滑らかさは、それだけである種の「メロディ」になっていました。ほとんどのミュー ジシャンが予め作曲されたものと信じていますが、実は完全な即興です。 フレディと私は、幾つかのアルバムで共演しました。 V.S.O.P.クインテットでは、フレディは創立メンバーであり、彼の芸術性がプロジェクトの推進を助けてくれました。 一回限りのツアーとして始まった V.S.O.P.でしたが、私にとって忘れられない音楽の感動的瞬間が 10 年も続きました。 フレディの遺産は間違いなく、ジャズというアメリカが最も貢献した音楽芸術の発展に、大きな役割を果たしました。 ハービー・ハンコック (翻訳:高木信哉、翻訳協力:小林繁徳) Freddie Hubbard was, I believe, the greatest jazz trumpet stylists of my generation. His influence is still being felt in the sound of many young trumpeters today. His warm tone and formidable technique will be considered marvels well into the future. Personally, I was so fortunate in that Freddie played on my very first album as a leader "Takin' Off". He was exactly the person I wanted and his contribution was groundbreaking. On a tune called "One Finger Snap" on a subsequent album of mine, his beginning improvised solo line worked so seamlessly that it became a kind of generic "melody" that most musicians still believe was the composed melody, when in fact it was not. He and I crossed paths musically in several albums. In the group VSOP he was a founding member who's artistry helped propel that project, which began as a one time tour, to a decade of memorable musical inspirational moments for me. His legacy is secure in that he played a seminal role of the shaping of the evolution of America's foremost contribution to the musical arts, jazz. Herbie Hancock 【Eye of the Hurricane / 楽曲解説】 by 田中裕士(Pianist) ■録音データ V.S.O.P. / Herbie Hancock (SONY / SRCS 7121~2) 1976 年 6 月 29 日 Recorded: New York ’s City Center Herbie Hancock(pf), Ron Carter(b), Tony Williams(ds) Freddie Hubbard(tp,flh), Wayne Shorter(ts) Herbie Hancock - 36 歳の時、米国におけるライブ録音ア で2枚組 CD アルバムとして Sony Records より発売されて ルバムからのテイクである。「ニューポートの追想」なる邦題 いる。内容としては 1976 年の New Port Jazz Festival で 4 組まれた「ハービー・ハンコックの追想」というプログラムから、 るかのような快楽を味わうことが出来る生々しいライブトラッ 約 19 分に及ぶすさまじい炎の演奏記録である。リーダーで クである。蛇足を加えると、 Herbie の使用楽器が(珍しくも) ある Herbie のメンバー紹介アナウンスに始まり、 Tony YAMAHA 製“ ElectricGrand Piano CP-80 ”である。現在は Willams のエンジン全開のドラムソロ→ Ron Carter のベー 製造中止となったピアノであるが、新しい物好きの Herbie に スウォーク→ Freddie Hubbard →Wayne Shorter のブロー とっては、この楽器に(当時は)魅せられ、公演に使用した へと順次紹介されてゆくドラマティックなプレゼンテーション のであろう。数多い彼の CD 作品の中でもこの楽器をマスタ に聴衆が歓喜し、そのまま凄まじい演奏へとなだれこんで ーキーボードとして使用したという例は大変珍しく、稀少な ゆくさまは圧巻である。どの瞬間も緊張感が緩むことないス 記録だとも言える。 リリングな演奏の展開はまるでジェットコースターに乗ってい ■楽曲構造、主題とその和声考察 《Basic Chord Changes for F-minor Blues》 【Intro】 F – Blues (Not F-minor Blues) →(※注1) ┃Fm7 ┃Fm7 ┃Fm7 ┃Fm7 ┃ ┃B♭m7 ┃B♭m7 ┃Fm7 ┃Fm7 ┃ ┃D♭7 ┃C7 ┃Fm7 ┃ ┃ Blues 形式 (12 小節×2 Chorus =計 24 小節) 原曲は、アルバム“ Maiden Voyage ”(Blue Note 盤/1965 今回のアルバムでは、(※注1)あえてイントロ部分が key of 年)に収録されている、ハービー作曲による F のマイナーブ F の(マイナーブルースではなく)ノーマルブルースで演奏 ルースであるが、 V.S.O.P.Quintet 結成当時より(オリジナル されており、主題提示部になって初めてマイナーブルース 録音当初とは違い) Fm Blues フォーマットからよりアウトし、 に変貌する意外性の効果は面白い。近年ではトラディショ 自由奔放な表現手法で演奏されるようになった楽曲である。 ナルな(上記コード進行に代表される)古典的マイナーブル この曲のレコーディング音源を私は数多く知っているが、 ースのハーモニー推移はほとんど原形をとどめていないと Intro 部や展開に毎回いささかの変化があることも興味深い。 いえる。具体的考察は次項を参照されたし。 ■ハービー・ハンコックのインプロヴィゼイション(ソロ)考察 マイナーブルースという和声フォーマットの場合、 5 小節 せ、確定的な主要3和音(Ⅰ-Ⅳ-Ⅴ)の事実上の Function 目にⅣm7 (この曲の場合、 B♭m7 )に進み、 9 小節目にⅥ (機能)を極力あいまいにしている。結果、 Fm7 のワンコー ♭7(D ♭7) 、10 小節目にⅤ7(C7) と進むのが通常であるが、 ドでインプロヴィゼイションが展開されているか (?) のように聞 その3ヶ所のモーションが敢えて不確実に演奏されている。 こえてくる。さらにその旋律構築を深く考察してみると、トー Freddie Hubbard(tp) ~Wayne Shorter(ts) のインプロヴィゼ ナルセンター(Fm) を軸にしながら、その調性起点に対比し イションでは上記マイナーブルースの(古典的)和声フォー た和声遠近感を自由自在に操りながら、壮大なるドラマの マットは維持されているが( Ron Carter のベースライン構築 如く音楽を構築完遂させている。代理和音・経過和音・借 をフォーカスすると明白だ)、次なる Wayne Shorter のソプラ 用和音・複合和音・仮想和音・ポリリズム概念・・・などなど、 ノサックス~Herbie のピアノインプロヴィゼイションにおいて その多種多様なるイディオム、思考、構想はあまりにも広大 は、いわゆる和声学的に言う「強進行部(完全四度上行解 深遠であり、後生のジャズイディオム・表現手法の発展に多 決進行)」をほとんど排することにより、より調性感を浮遊さ 大なる影響を与えた。 ■コンピング(バッキング)における、オーケストレーション考察 両手を使用した、典型的なオープンハーモニーでオーケス に表現されている。そして、そのエナジーに駆り出されるよ トレーションを構築している。 また、左手右手のパーカッシ うに、個々のソリストの創造力を Herbie 自身が先導して触発 ヴなポリリズムを駆使しながら、 Tony Williams との二人三脚 している。こういうチームインタープレイがこれほどまでにも により、通常のハーモニックリズム(ハーモニーの重力に導 生々しく行われていたジャズグループを(黄金の Miles かれるリズムが描く音楽的ダイナミクスレンジ)の常識を遙か Davis Quintet 以後)、私は他に知らない。 Herbie はフロント に覆す(それ以上の)、マグマのようなリズムの激情が見事 奏者(ソロイスト)に対する“単なる伴奏”という古典的責務で 5 はなく、リズム的にもハーモニー的にも、いかなる瞬間も美 ~アイデア ・・・こういった各 5 項目の熟成度・完成度が、 しく、いかなる瞬間もソロイストを誘発~刺激し続け、音楽自 今や比類がないレベルにまで達しているピアニスト /ジャズ 体が向かっていこうとする方向やベクトルを示唆するという ミュージシャンであることは明確な事実であるが、既に 1976 使命を充二分に果たしている。 年(Herbie 本人が 36 歳)にして、彼の持つ音楽的スキルが 現代の Herbie Hancock の持つ総合的音楽スキルは、私
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