論 文 オ リ エ ン ト41-1(1998):125-140 ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム と1791年 政 変 Haiii Ebrahim and the coup d'etat of 1791 近 藤 信 彰 KONDO Nobuaki ABSTRACT The coup d'etat of 1791 is one of the well-known episodes in Iranian History. Ha-iii Ebrahim, the mayor (kalantar) of Shiraz, revolt- ed against the Zand ruler, Lotf 'Ali Khan, and took Shiraz, the capital, away from him. After ten months, Hajji Ebrahim handed over Shiraz to Aqa Mohammad Khan Qaj ar , and contributed to his triumph over the Zands. However, why Haul Ebrahim could carry out the coup d'etat? He was only the mayor, which was not a military office. And why could he repulse the attacks of the Zand army during ten months? Little is known about these questions. The purposes of this paper are to investigate his origin, his career, and the process of the coup, and to reconsider its character on the basis of contemporary sources. Main arguments are following: 1. The ancestors of Haul Ebrahim were merchants and probably con- verts from Judaism. Though he was not a man of noble origins, nor a Sayyed, he was appointed to the kalantar because of his skills in adminis- tration. 2. His brothers were commander of musketeers corps of Shiraz after the death of Karim Khan and took part in some military expeditions. Haul Ebrahim and his brother intervened in conflicts for the successions of the Zands with musketeers corps, and assumed great prominence in the Zand government. 3. While the coup d'etat of 1791 was also carried out with musketeers corps, Ha-iii Ebrahim was allied with other notables of other districts in Fars, and they planned to form a 'federative government' and refused to submit to any sovereign at first, though they were forced to accept the rule of the Qaj ars at last. *東 京都立大学人文学部助手 Research Associate, Faculty of Social Sciences and Humanities, Tokyo Metropol- itan University 4. It is concluded that Haul Ebrahim had same characteristics as the other local powers in Iran, though his rule over Shiraz was over after the nine months. And the success of the coup shows the fact that local powers grew strong enough to upset the dynasty. は じ め に 1791年8月25日 未 明,ザ ン ド朝 支 配 下 の 首 都 シ ー ラ ー ズ で 政 変 が 勃 発 した 。 kalantar(市 政 長 官)で あ っ た ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ムHajji Mohammad Ebrahim Shiraziの 一 党 が 蜂 起 し,城 塞 の 守 備 長 官 を と ら え,市 内 を 制 圧 した の で あ る 。 度 重 な る ザ ン ド軍 の 攻 撃 に 耐 え,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム は シ ー ラ ー ズ を ア ー ガ ー ・モ ハ ンマ ド ・ハ ー ン ・ガ ー ジ ャ ー ル に 引 き渡 し,こ の 結 果, ザ ン ド,ガ ー ジ ャ ー ル 両 勢 力 の 覇 権 争 い の 帰 趨 は 一 気 に ガ ー ジ ャ ー ル 側 に 傾 い た 。3年 後 にザ ン ド朝 は滅 亡 し,イ ラ ン は ガ ー ジ ャ ー ル 朝 に よ っ て 統 一 され, ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム は ガ ー ジ ャ ー ル 朝 最 初 の 宰 相 に任 じ ら れ た 。 イ ラ ン 政 治 史 上 で 有 名 か つ 重 要 な こ の 事 件 で あ る が,そ の 社 会 的 背 景 を 考 え る と,次 の よ う な 疑 問 が わ い て く る 。 ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム が 保 持 して い た キ ャ ラ ー ン タ ル 職 は,サ フ ァ ヴ ィ ー 朝 期 以 降 の イ ラ ン の 都 市 に お か れ た 都 市 行 政 官 で あ り,都 市 の 行 政 の あ ら ゆ る分 野 に 関 与 し,主 に 在 地 の 都 市 有 力 者 が 任 命 さ れ た と さ れ る 。 しか し,あ く ま で 行 政 官 に す ぎず,未 だ 研 究 蓄 積 は 十 分 で は な い もの の,ハ ー ツ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒー ム の よ う な 軍 事 的 行 動 に よ っ て 政 治 に 介 入 す る例 は あ ま り知 られ て い な い 。18世 紀 の シ ー ラ ー ズ の 場 合,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 前 任 の2人 の キ ャ ラ ー ン タ ル の 活 動 に つ い て は 史 料 Kalantarに よ り詳 細 な 情 報 を 得 る こ とが で き るが,彼 ら に し て も多 くの 戦 乱 に 巻 き 込 ま れ た に もか か わ らず 軍 事 面 で の 活 躍 は 見 ら れ な い 。 そ も そ も,イ ラ ン 史 全 般 に 視 野 を 拡 げ れ ば テ ィ ム ー ル 朝 の ヘ ラ ー ト陥 落 や サ フ ァ ヴ ィー 朝 の エ ス フ ァ ハ ー ン の 陥 落 の 例 で は,王 朝 の 交 代 に 際 して 在 地 の 有 力 者 が 軍 事 面 で 関 与 す る 余 地 が な か っ た こ とが わ か る。 そ れ で は,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム に は な ぜ こ の よ う な 行 動 が 可 能 で あ っ た の だ ろ うか 。 そ の 知 名 度 に もか か わ らず,意 外 な こ と に,彼 に 関 す る 同 時 代 史 料 に基 づ い た 本 格 的 な 研 究 は 少 な い 。 そ こ で,本 稿 で は,こ の 疑 問 を解 決 す べ く,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒー ム の 出 自 や 経 歴,政 変 の 過 程 や そ の 動 機 を分 析 し,そ の 歴 126 史 的 性 格 を 明 らか に す る こ と を 目 的 と す る。 主 な 史 料 と そ の 略 号 は 論 末 に 一 括 し て 掲 載 した 。 彼 と そ の 家 系 に つ い て も っ と も詳 細 な 情 報 を 提 供 して い る の は, フ ァ ー ル ス 地 方 の 有 名 な 地 方 史FNで あ る が,内 容 が 箇 所 に よ っ て 矛 盾 し て お り,ま た 彼 の 子 孫 が 隆 盛 を 極 め た19世 紀 末 の 成 立 で あ る こ とか ら,同 時 代 の ザ ン ド朝 の 年 代 記 史 料GM,GG,TZや ガ ー ジ ャ ー ル 朝 の 年 代 記 史 料TM,ZQ, 成 立 年 代 の 早 い 同 地 方 の 地 方 史 、AJ等 の 史 料 と十 分 に 比 較 検 討 す る 必 要 が あ る。 I.ハ ー ツ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 出 自 ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 先 祖 に 関 す る こ れ ま で の 説 を ま と め れ ば,お よ そ 以 下 の 三 要 素 に な る で あ ろ う 。(1)ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 先 祖 が ユ ダ ヤ 教 か らの 改 宗 者 で あ っ た こ と,(2)彼 の 先 祖 が イ ン ジ ュ ー 政 権 の ヴ ァ ズ ィ ー ル で あ っ たHajji Qavam al-Din Hasan Shirazi(d.754/1353)で あ っ た と さ れ て い た が,ほ と ん ど信 憑 性 が な い こ と,(3)彼 の 先 祖 が 商 人 で あ っ た こ と,で あ る 。 実 際 に 史 料 に あ た っ て こ れ を 確 認 して み よ う 。 管 見 の 限 り,彼 とユ ダ ヤ 教 との 関 連 を示 す 最 も古 い 史 料 は,ザ ン ド朝 の 年 代 記GGの 補 遺 で あ る。 こ こ で ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム は 「母 方 は ジ プ シ ー 女,父 方 は ユ ダ ヤ 教 徒(luli hasab yahudi nasabi)」 で,「 も と も とユ ダ ヤ 教 徒 で,新 改 宗 者(yahudi al-asl jadid al-eslam)」,さ ら に は 「ユ ダ ヤ 教 徒 の ハ ー ッ ジ ー(Hajji-eyahudi)」(GG339)な ど と呼 ば れ,てい る。 もち ろ ん,史 料 の 著 者 に は 彼 を 貶 め る意 図 が あ っ た こ と は 間 違 い な い が,19世 紀 末 の 複 数 の 史 料 も彼 が ユ ダ ヤ 教 徒 か らの 改 宗 者 の 子 孫 で あ る と して お り(ST18,TJT271),こ の 説 が 当 時 も有 力 で あ っ た こ とが わ か る。 一 方 ,彼 の 先 祖 が イ ン ジ ュ ー 政 権 の ヴ ァ ズ ィ ー ル で あ っ た ハ ー ッ ジ ー ・ガ ヴ ァ ー モ ッ ・デ ィー ン で あ っ た とす る 説 は,19世 紀 末 の 史 料FNに あ らわ れ る。 こ こ で は,ユ ダ ヤ 系 の 系 譜 に つ い て は,全 く触 れ ら れ て い な い(FN679,960)。 し か し,同 時 代 人 に は こ の 説 に つ い て 否 定 的 な もの も少 な くな い 。19世 紀 半 ば の 史 料HAに よ れ ば,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒー ム の 次 男 .aJJIAsadollah Khanが 自著 の な か で こ の 系 譜 を 主 張 し た と い う。HAの 著 者 も こ の 系 譜 を 一 応 認 め て お り,そ の 理 由 と して1829年 に フ ァ ト フ ・ア リー ・シ ャ ー が ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 四 男 耳ajji Mirza 'Ali AkbarにQavam al-Molkと い う 127 称 号(laqab)を 与 え た こ と を 挙 げ て い る(HA309)。 一 族 の 隆 盛 とQavam al- Molkと い う称 号 の 下 賜 に よ り,こ の 系 譜 の 主 張 が よ り広 く認 め られ る こ と に な っ た と考 え られ る 。 こ の 二 つ の 相 反 す る 説 に 関 し て,最 も合 理 的 な 説 明 は,こ の 家 系 が ガ ズ ヴ ィ ー ン の 新 改 宗 者 の 子 孫 で あ り ,彼 らが シ ー ラ ー ズ に移 り住 ん だ の ち,ハ ー ッ ジ ー ・ガ ヴ ァ ー モ ッ ・デ ィ ー ン ・ハ サ ン の 子 孫 と婚 姻 関 係 を結 び ,次 第 に彼 の 子 孫 で あ る と名 乗 る よ う に な っ た と い う もの で あ る 。 ユ ダ ヤ 系 の 出 自 を 隠 蔽 す る た め に,ハ ー ッ ジ ー ・ガ ヴ ァ ー モ ッ ・デ ィ ー ン が 持 ち 出 され た と考 え ら れ る の で あ る が,そ れ で は 彼 は い か な る人 物 で あ っ た だ ろ う か 。 不 思 議 な こ と に,彼 の 事 績 は19世 紀 の 文 献 に は ほ と ん ど記 さ れ て い な い 。 そ の か わ り に,以 下 の よ うな 詩 人 ハ ー フ ェ ズ の ガ ザ ル の 対 句 が 引 用 さ れ る の で あ る。 青 海 原 の よ う な 大 空 と小 舟 た る 新 月 は (darya-ye afzar falak va keshti-e helal わ れ ら の ハ ー ッ ジ ー ・ガ ヴ ァー ム の 恩 恵 に 浸 る hastand gharaq-e ne'mat-e hajji gavam-e ma) も ち ろ ん,ハ ー ッ ジ ー ・ガ ヴ ァ ー モ ッ ・デ ィ ー ン は 文 学 史 に お い て は ハ ー フ ェ ズ の 保 護 者 で あ っ た こ とで 有 名 で あ る が,史 料 の 記 述 は,あ た か も重 要 な の は ハ ー フ ェ ズ の 詩 の な か に 登 場 す る と い う 一 点 で あ る か の よ う で あ る 。 血 統 が 重 視 され る歴 史 的 な イ ラ ン社 会 に お い て,サ イ イ ドや ア ンサ ー ル とい っ た 系 譜 を 主 張 で き な い 彼 の 一 族 は,ハ ー フ ェ ズ の 詩 に 家 系 の 権 威 付 け を 求 め た の で あ ろ う か 。 一 方 ,商 業 との 関 わ り に つ い て は,彼 らの 先 祖 が ペ ル シ ア 湾 交 易 に従 事 して い た と い う伝 承 が,今 世 紀 半 ば に彼 の 末 裔 に 聞 き取 り調 査 を お こ な っ たF.Barth に よ り伝 え ら れ て い る 。 史 料FNで は,彼 の 祖 父 と され るHajji Mahmudが "tajer"(商 人)と 呼 ば れ て お り ,商 売 で 得 た 財 産 で シ ー ラ ー ズ 市 のBala keft 街 区 にHashemiyyeと い う名 の モ ス ク と マ ドラ サ を建 設 し,い くつ か の 耕 地 と 小 バ ー ザ ー ル を ワ ク フ と し て 寄 進 し た とい う(FN679,960,1218,1223)。 建 設 者 に つ い て は 異 説 が あ り,ま た ハ ー ッ ジ ー ・マ フ ム ー ド とハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 関 係 や モ ス ク とマ ドラ サ の 建 設 年 代 に つ い て も諸 説 あ る。 遅 く と も サ フ ァ ヴ ィー 朝 末 期 ま で に は,イ ス ラ ー ム に 改 宗 した 商 人 で あ っ た 彼 の 先 祖 が シ ー ラ ー ズ に 住 ん で い た と考 え ら れ る。 128 ま た,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 父Hajji Hashemも,同 時 代 史 料 で は semsar(仲 買 人)と さ れ て お り,や は り商 業 と の 関 わ りが 認 め られ る(Kalantar 48)。 彼 は,一 族 で 初 め て 官 職 を得 た 人 物 で あ り,遅 く と も ナ ー デ ル ・シ ャ ー 期 に は,シ ー ラ ー ズ 市 の 東 側 半 分(=Heydari-khane5街 区)を 統 括 す る任 に あ た っ て い た と考 え ら れ る 。1160/1747年,税 を 横 領 し た フ ァ ー ル ス 総 督Qiya Qoli Aqaの 逃 亡 を 幇 助 した 疑 い で,フ ァ ー ル ス の 名 士 が 処 罰 さ れ る が,そ の 際 に 片 目 を 盲 刑 に 処 さ れ た 。 そ して,1165/1751-2年,ナ ー デ ル ・シ ャ ー 死 後 の 政 治 的 混 乱 の な か で 時 の フ ァ ー ル ス 支 配 者Hashem Khan Bayatに よ っ て 殺 害 さ れ た 。 ハ ー ッ ジ ー ・ハ ー シ ェ ム の 代 に な っ て,単 な る商 人 か ら地 方 政 治 に も 参 画 す る 地 方 名 士 の 列 に 加 わ っ た の で あ る。 以 上 の検 討 に よ り,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒー ム の 出 自 に つ い て 事 実 関 係 を 確 認 す る こ と が で き た 。 ユ ダ ヤ 系 の 出 自 に 見 られ る よ う に 必 ず し も 名 家 の 出 身 と は い え な い が,そ れ で も彼 の 父 の 代 ま で に は 地 方 名 士 に 仲 間 入 り し て い た の で あ る。 と は い え,当 時 の シ ー ラ ー ズ に は,た と え ば 由 緒 正 しい サ イ エ ドの 出 身 で キ ャ ラ ー ン タ ル 職 と シ ー ラ ー ズ 最 大 の 聖 所 シ ャ ー ・チ ェ ラ ー グ 廟 の ワ ク フ 管 財 人 職 を 務 め たSharifi Hasani家 の よ う な,ハ ー ッ ジ ー ・ハ ー シ ェ ム を は る か に上 回 る 有 力 者 が 存 在 した の も ま た 事 実 で あ る 。 そ れ で は,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム は い か に して,1791年 の 政 変 を 成 功 させ る ほ ど の 人 物 に な っ た の だ ろ う か 。 II.ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒrム と ザ ン ド朝 バ ー ー ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム の 初 期 の 経 歴 に つ い て も史 料 に よ る 齟齬 が 多 い が,GGに よれ ば,ザ ン ド朝 キ ャ リー ム ・ハ ー ン期 に シ ー ラ ー ズ の ヘ イ ダ リー ・ ハ ー ネ の 一 街 区 の 官 吏(pakar)か ら身 を お こ し,キ ャ リー ム ・ハ ー ンの 死 後, シ ー ラ ー ズ の ヘ イ ダ リ ー ・ハ ー ネ の 諸 街 区 を 統 括 す る よ う に な っ た と い う。 す で に 知 ら れ て い る よ う に,1196/1782年,'Ali Morad Khanが ザ ン ド朝 の 君 主 と な っ て 首 都 を シ ー ラ ー ズ か ら エ ス フ ァ ハ ー ン に 移 し た 際,ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒー ム も 当 時 キ ャ ラ ー ン タ ル で あ っ たMirza Mohammadと と も に こ れ に 同 行 し,エ ス フ ァハ ー ン でmostowfi(財 務 官)と して 仕 え た(TZ45,GG339)。 1199/1785年,ア リ ー ・モ ラ ー ド ・ハ ー ン が 没 し,Ja'far Khanが 即 位 して 根 拠 地 を再 び シ ー ラ ー ズ に移 す 際 に,ミ ー ル ザ ー ・モ ハ ン マ ドが そ の ま まエ ス フ ァ 129 ハ ー ン に 留 ま っ た め,シ ー ラ ー ズ に 帰 還 した ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒ ー ム が, キ ャ ラ ー ン タ ル に 任 命 さ れ た の で あ る(TZ55)。 興 味 深 い の は,以 下 の よ う な 史 料 の 記 述 で あ る。 前 述 の ハ ー ッ ジ ー は,征 服 王(キ ャ リー ム ・ハ ー ン ・ザ ン ド)の 時 代,前 述 の ミー ル ザ ー ・モ ハ ン マ ド(・ キ ャ ラ ー ン タ ル)の 書 記 の 一 人 で あ り, フ ァー ル ス 地 方 の 行 政 の 諸 事 に 通 じて い た の で,亡 き陛 下(ジ ャ ア フ ァル ・ ハ ー ン)は 彼 に キ ャ ラ ー ン タ ル の 重 職,す な わ ち 天 国 の 礎 で あ る こ の く に の 市 政 長 官 の 誉 れ あ る 官 職,人 々 す べ て の 重 要 事 の 差 配 を,そ の 家(khane) が キ ャ ラ ー ン タ ル 職 に値 しな い,悪 し き信 仰 を 持 つ 怪 物 に ゆ だ ね て し ま わ れ た(GG342)。 ハ ー ッ ジ ー ・エ ブ ラ ー ヒー ム の 行 政 手 腕 を敵 対 す る ザ ン ド朝 側 の 史 料 で す ら 認 め て い る こ と,非 難 の 中 心 は彼 の 家 系 に あ る こ とで あ る。 前 者 に 関 し て は,街 区 吏 か ら税 務 ・財 務.
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