プラトリーノ荘 di Pratolino 楽しみと驚異―競い合う人工と自然

岩 切 正 介

1 現状 2 フランチェスコ大公とブオンタレンティ 3 当時の庭を巡る(1)-森の庭(南) 4 当時の庭を巡る(2)-館の中のグロット 5 当時の庭を巡る(3)-整型庭園(北) 6 寓意表現 7 健康と狩猟 8 愛と楽園 9 創意の発信 ● 略年表 ● 参考文献 ● 図版

これは、以前、同人誌『飛行』(2004年37号)に載せた論文だが、今回は、 一部、内容を訂正し、また、字句の改め、新たに図版を加えた。『飛行』に は技術上、図版を載せることができなかったが、本来、庭園の紹介には図 版は必要で、とりわけプラトリーノ荘という驚異の名園は、改めて図版を 加えて紹介するに価すると考えた。

1 現状

かつてヨーロッパ各地から数多くの旅行者を引きつけ、そして驚かせ たこの庭園も、現在は、イギリス風景式庭園に変わり、その特異な魅力は、

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資料を基に思い描かざるをえない不便さがある。 プラトリーノ荘は、フィレンツェの北およそ10キロのところにあり、バ スで行く。バスは田舎の丘陵の風景の中をはしる。終点から五分ほど歩く と、入り口(現在)がある。現在の庭園の姿は、南向きの斜面に広がる濃 い森と日当たりのよい芝生、そして、所々に庭園建造物が残る、である。 いまの姿には、どこか寂寥、そして味気なさが感じられる。巨大なアペニ ン像が残されており、それを見上げることができるのが、せめてもの慰め である。かつては、館の裏手(したがって客間)から芝生越しにこれが見え、 そこへ行けば、半円の大きな池で船遊びをすることができた。また、巨大 な像の中に入って、グロットと噴水を見ることもできた。アペニン像が設 けられたのは、プラトリーノ荘がアペニン山脈の南麓に作られ、そこに水 源を求めたからである。このあたりの気候は、夏涼しく、冬には時に雪が 降る。 現在、フィレンツ市が、修復計画を実施中だが、これはイギリス風景式 庭園の姿の整備を目的にしたもので、16世紀の末に完成し、それからお よそ二世紀に渡って維持された本来の、水と寓意の庭の姿は蘇ってこな い。その復元はおそらく、夢のまた夢かと思われる。当時、造園に注がれ た膨大な費用と使われた精巧な技術を、今再び集積するのは、不可能であ ろう。

2 フランチェスコ大公とブオンタレンティ

プラトリーノ荘は、メディチ家によるいわば第二期のフィレンツェ支 配を確立したコジモ一世(トスカーナ大公位1537-1574)の長男フランチェ スコ(大公位1574-1587)が1568年に土地を購入し、翌年から、およそ15 年をかけて完成させた。土地は「農地と森」とされているが、実際はバル コ‘ barco’と呼ばれ、狩猟に使われていた土地だったとされる。造営にか かった費用は巨額で、たとえば、「6年間に782,000スクージ」という記録 が残されており、それだけでウフィッツィ宮殿にかけられた費用の2倍で

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あったという。ウフィッツィ宮殿は、大ロレンツォの直系でないコジモ一 世が、栄光と権力を誇示するために、ピッティ宮やカステッロ荘の整備と ともに、力を注いだ建築である。その長男フランチェスコは政治に関心が なかった。錬金術や「自然の魔法」、また科学実験に強い興味を示し、孤独 を愛し、絶世の美女と謳われたビアンカを愛し、妃の死後やがて公式に結 婚、そして10年の後、二人は急死する。弟フェルディナンドによる毒殺が 囁かれた。しかし、自然因であったろうとされる。 フランチェスコの性格が、プラトリーノの庭に反映していることは、い ちいち実証できないにしても、十分に推察される。フランチェスコが館と 庭の設計を依頼したのは、きわめて親密な関係にあった建築家ブオンタ レンティ ( 1536-1606)であった。目指したのは、休息 と娯楽の場とされるが、その内容は桁外れである。まず、求めたのは水の 楽しみだった。それは華麗と驚異といえばよいだろうか。それにいささか 遊び心が加わった。プラトリーノの地は水に乏しかったから、水の調達も 事業であった。館の建築をはじめ、水道橋の工事、そして庭における水の 楽しみ、これらすべてに当時の技術が動員された。

3 当時の庭を巡る(1)―森の庭(南)

ウテンスの絵(1599)とスグリーリの『プラトリーノ記』(1742)などを 参考にしながら、当時の庭を想像の中で巡ってみよう。とくにスグリーリ の『プラトリーノ記』には、庭の見所が、訪問者の姿とともに正確に描か れており、当時の訪問者が目にした庭のさわりがよく分かる。ウテンスの 彩色絵には、館の前方の庭(南庭)しか描かれていないが、スグリーリの 『プラトリーノ記』には、館の後方に広がる庭(北庭)も含めた全体図も掲 載されている。白黒の平面図で、見所が、数字で、36ヶ所示されている。

水のアーケード ― アプローチの涼しさ おそらく水の華麗の極みは、館の正面から延びる並木道に作られた水

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のアーケードであったであろう。この道の左右には、石の低い塀が走って おり、石塀の上面に設けられた噴水口から水がまっすぐ上に噴き出し、水 柱が連なった。これだけでも美しく、涼しい壮観である。ここではさらに、 石塀の裾あたりから、細い噴水が、中央に向かって斜めに噴きだし、左右 の水条が合わさって、水のアーケードが形成された。並木道は十分に広く、 数人が並んで、濡れずに歩くことができた。並木道の左右は、樅の木が茂 る濃い森になっていた。切り通された並木道は館に向かえば、上り坂で、 逆に、館から出発すれば、下り坂で、その終端には、楕円の小池と「洗濯 女の噴水」があった。この並木の坂道は端から端まで歩くように作られて おり、途中で左右の森の中に入って行くことはできなかった。森には散策 路が切ってあったから、そこを辿って涼むというのであれば、「洗濯女の 噴水」のところまで並木道を下ってからであった。ここに達すると、散策 する者は、館の方を振り返ったであろう。長い並木道の向こうに、バロッ クの館が眺められた。この長い並木道は、フランチェスコや賓客などが、 プラトリーノ荘を訪れるときに、上る道であった。当時、来訪は、儀式化 された行事として、演出されたから、坂道の上にバロックの建物を仰ぎ見 るのは、恰好の設定であった。ちなみに、この長い並木道は、とくに上か ら見下ろすとき、見事な見通し景になっていたであろう。これを「線遠近 法的な空間」という研究者もいる。ルネサンスの発見した遠近法の空間を、 遠く、できるだけ消尽点近くまで、現実の空間として眺めるものであった。 このような長い直線的な見通し景は、とりわけバロックで好まれた。これ もひとつの偉観であったから。

養魚池、樹上亭、パルナッソス山、水オルガン さて、訪問者の足は、洗濯女の立つ池に達すると、おのずと左へ誘われ たであろう。左手には、「カエルの池」と呼ばれた正方形の養魚池が3つ、 斜面に並んでいるのがすぐ目に入った。そこへいけば、魚の泳ぐ姿を見る ことができた。ルネサンス期の養魚池は、集めて鑑賞する目的と食用の目 的をもっていたが、いずれにしろ、水中の魚の姿はすがしく、見て楽しかっ

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たであろう。近くには、大きな樫の木の上に作られた園亭があり、そこへ 螺旋の階段を上っていけば、風に吹かれて一息つけた。階段は木材で幅 広く安全に作られており、樹上の園亭も木材で田舎風に作ってあった。こ の樫の木の周りは広場になっており、周囲に休憩用のベンチが置かれ、木 陰で休むことができた。さらに左にいけば、パルナッソス山が築かれてお り、頂上には天馬ペガサスが蹄を宙に挙げる姿が仰がれ、斜面にはアポロ がおり、それぞれ楽器を手にしたミューズ達がいた。そこからは、実際に、 音楽が聞こえたのである。ミューズ達が手にしている楽器は、石製であっ たから、音楽は、パルナッソス山の内部に仕組まれた水オルガンから発し ていた。築山の前は小さな広場のように作ってあり、おそらく演劇や音楽 会を催すことができたであろう。やはりここでも、周囲にベンチがあり、 休息に供されていた。パルナッソス山の山肌は、完全なむきだしではなく、 ところどころに月桂樹が植えられていた。 水オルガンの仕組みは次のようになっていたものと推定される。まず、 水車の回転を歯車で承け、長い軸を回す。軸は一本のまっすぐな棒のまま ではなく、数カ所でコの字に折れ曲がっていた。それらのコの字は、順に 九〇度方向をずらしてあった。コの字の山(あるいは背にあたる水平部分) には、固い棒が上向きに取り付けてあり、軸の回転に伴って棒が上下した。 コの字の方向は順に90度違うので、数本の棒は、順に、少しずれて、上下 する。棒の上端は、梃子の棹の一端に繋がっていた。梃子は天秤型で、梃 子の棹の中心部は支柱に乗っている。棒の上下に連動して、梃子の棹が上 下する。この梃子の棹のもう一方の端に、やや短い棒が、今度は下向きに 取り付けてあり、その先端(下端)は鞴(ふいご)に固定されていた。その 棒によって、鞴は押し下げられ、また引き上げられる。それにつれて、鞴 の中の空気は圧縮されてパイプに送り出され、次ぎに吸い込まれる。これ が連続的に繰り返される。こうして、音楽が奏でられる。このような水オ ルガンの仕組みそのものは、そこへやってくる者の目から隠されていた であろうが、この水オルガンは不思議と驚異を覚えさせたであろう。フラ ンチェスコと同じように、科学や技術が好きな人物であったら、好奇心に

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駆られ、ぜひその内部を覗いてみたいと思ったであろう。

宴のグロット パルナッソス山の近くには、旅行者を刮目させた「宴のグロット」があっ た。入り口は一見したところ、農家に見られるような土饅頭の形をした地 下のむろに入る扉のように見えた。しかし、中の作りは予想外のものだっ た。室の中央に八角形の宴卓があり、ワインを冷やす穴が八つ開けてあり、 中央にも大きな穴があって、それら九つの穴は地下から湧き出る水に洗 われていた。入り口の近くには、給仕が立っており、客達に手を洗え、と 勧めるように、ポットからボウルに水を注ぎ、手を拭うタオルを腕にかけ ていた。タオルはしかし、石でできていたから、手を拭くのに使えなかっ た。給仕もむろん、石像であった。室の一方には舞台があった。一人の牧 夫がバグパイプを吹くと、連れの「妖精」がドアから現れ、舞台を横切り、 また戻って退場する。「妖精」は水の入った手籠を手にさげていた。おそ らく、牧夫に水を届けにきたのであろう。グロットは実際に、食事に使わ れる他に、別の目的もあった。ここでは、びっくり噴水が不意に噴きだし て、客人を襲い、衣服を濡らしてしまうにとどまらず、たちまち床を水浸 しにする。この目的は、訪問者を驚かせることにあり、遊び心の充足だっ た。庭のびっくり噴水が、随時に噴き出すのは、噴水師(fontanieri)が離れ た所にいて、コックを開くからであった。この「宴のグロット」のことは、 フランス人の旅行者(1588)も、英国人のモリソン(1594)も、記録に残し ている。ただ、ウテンスの絵(1599)に描かれておらず、スグリーリの全 体図(1742)にも示されていないので、正確な位置は分からない。

連続池(1) そこを出て、森の中の道に入って少し上れば、いくつか段々に連なる池 があった。池の形は揃っておらず、大きさもまちまちで、左へ右へうねり ながら連なっていた。谷川を段々池に変えたようなこの眺めは、風変わり で楽しかったであろう。水は堰(土手)の中腹に通された水路を通って下っ

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ていた。この池の連なりの始まるところには、上に彫像を乗せたグロット があり、壁面に刻まれた大きな怪人面が、脅すように、しかしよく見れば どこか愛嬌のある顔つきで、訪問者を迎えた。

森の鹿や野ウサギ 森には、また、鹿が放してあったから、あるいは、警戒心を漂わせた鹿 が視界をよぎったかもしれない。森は狩猟園も兼ねていた。だから、野ウ サギやキジ、またヤマウズラをみかけたかもしれない。森の木は、樅、松、 ブナが中心であったが、樫や西洋トチノキ、西洋ネズ(トショウ)、トキワ ガシ、糸杉、月桂樹、テンニンカもあり、柳やコルクガシも見られた。樫 類やブナから落ちるドングリが動物の餌になった。森には、イノシシもい た。プラトリーノ荘では、ガゼルや駝鳥などの珍しい動物も、狩猟用に飼 われていたという。

果樹園と鳥屋 さらに斜面を上がっていくと、果樹園や大きな鳥舎があり、鳥舎では、 珍しい鳥が自然な環境の中で飼われていた。鳥舎は、四角い森を利用し、 周りと中に鉄の柱を立てて、枠を作り、その全体を網ですっぽりと覆う、 という造りで、その鳥舎からは、さまざまな鳥の声がきこえた。 鳥舎から、左に道をとり、ようやく館の正面に戻ると、改めて、斜面に 広がる森が、自然の領域であったことが思われたであろう。もうすこし、 この自然を味わおうとすれば、館に入らず、右半分の森へ足をむければ、 よいのだった。そこへ入っていけば、今度は斜面に二〇ほども連なる池を 見ることができた。

連続池(2) この池の連なりを下まで眺めれば、壮観だったに違いない。先ほど見た 池の連なりもそうだが、これはひとつに、鹿の水飲み場であったし、年に 一度の鹿狩りの際に、鹿をそこへ誘うためのものであった。狩り手(猟師)

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や猟犬に追われた鹿は、水場に逃れてきて、水に入ろうとする。そこで、 動きを失った鹿は槍で突かれる。鹿狩りの日には、池が鹿の血で染まった という。

キューピッドのグロット 連続池は、庭を取り囲む石塀に沿うように作られていたが、池の連なり と石塀の間には、さらに森の帯があり、その中に、プラトリーノ荘の水の 楽しみのうち、驚異と分類してよいものを見ることができた。「キューピッ ドのグロット」といい、鍾乳石で飾られた入り口を入ると、奥の小部屋に ブロンズのキューピッドが、円卓のような台座に乗っている姿が目に入っ た。台座は水の力で回転しており、キューピッドの手にした松明から、見 物人に向かって不意打ちの噴水が飛んできた。びっくり噴水は、グロット の床と壁際に置かれた椅子にも仕掛けてあったから、このグロットに入る ことは、確実にびっくり噴水の洗礼を受けることと、同義であったであろ う。このグロットに近づく道の左右にも、すでにびっくり噴水が仕掛けて あったから、見物人の用心はできていたはずではあったが、ひとはもう好 奇心に駆られた足を停めることはできない。道の左右には彫刻が飾られ、 背後では高い樅の木が茂っていた。この「キューピッドのグロット」を訪 れた人は、ひょっとして、フランチェスコとビアンカの愛を連想したかも しれない。男女の間の愛については、すでに当時、後にドイツの文豪ゲー テがいうことになる「親和力」、つまり自然の力が働き、不可抗力のように、 起こってしまうのだ、という理解も生まれていた。「キューピッドのグロッ ト」が自然の森の中に置かれたのは、このような認識に関係があったのか もしれない。

4 当時の庭を巡る(2)―館の中のグロット

仰ぎ見る偉観の別荘(館) さて、道を引き返し、館の正面に戻るとしよう。館は、四階建てで、か

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つて15世紀の末に豪華王ロレンツォが建てたポッジオ・ア・カイアノ荘 をモデルにしたといわれ、ルネサンスの端正とバロックの豪華がごく自 然に融合した、美しい姿をしていた。館は、東西南北のいずれからしても、 庭の敷地のほぼ中央に位置しており、二階が客間と主人一家の使う部屋 に充てられ、一階にはそれぞれ趣向の異なるグロット室が六つあった。グ ロットには、外からも入れたが、館内から、階段をおりて行くこともでき た。いずれのグロットでも、精妙な水工を用いた自動仕掛けが特徴であっ た。グロットは、一階の南の部分を占めていた。なお、細かなことだが、一 階のこのグロットのある部分だけが、上階部分(二、三、四階)より前に せり出し、せり出した所はそのまま二階のテラスとして利用できた。館の 中のこれらのグロットこそ、プラトリーノ荘で味わうことができる水の 楽しみのうち、とくに驚異の側面を代表するものであった。 館の建物の外観は、無装飾、ルネサンス風であり、壁に並ぶ窓も平明な 形で、ルネサンスのものであったが、建物の中央部が前にせり出し、左右 が後に引くという形は、中心を強調しているという点で、バロック風で あった。並木道を上ってくる者をまず迎えるのは、高くて、館よりも幅広 い富士山型の擁壁(支持壁)であった。この偉観もバロック性を際だたせ た。この擁壁は、館の建つ広いテラスを支えていた。擁壁面には、館の立 つテラスへ登る階段があり、その階段は、バロックらしく、左右振り分け の形で作られ、手摺りを備え、堂々とし装飾的であった。階段の登り口の 左右には、これもバロックの装飾物として、高いオベリスクが空に聳えて いた。館の立つテラスの前方の二隅にも、高いオベリスクが配されており、 合わせて四本のオベリスクがバロック性を際だたせていた。垂直性の強 調もバロックの建物の特徴とされるものである。

地下階のグロット 擁壁面の中央には、壁龕があって、蔭を宿し、その中に、ムニョーネ川 を表す河神の像が置かれていた。そこが地下一階(つまり館を乗せるテラ ス。基台にあたる)にあるグロットの入り口であった。庭を巡ってきた訪

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問者は、振り分けの階段を登って屋敷に入る前に、まず、ムニョーネの像 に誘われて、擁壁の内部に潜むグロットを訪れることになったであろう。 訪問客を待ち受けるのは、横長のグロットで、左手には牧神パーンの自動 水工があり、右手には名声の女神ファーマの自動水工があって、互いに向 かい合っていた。牧神パーンの方は、笛を口にあて、笛を吹き、頭を動かす。 それにつれて妖精シュリンクスが芦に姿を変える。パーンが笛を吹くのを やめて、座る。このように、よく知られた神話の場面が自動的に演じられた。 もう一方のグロットでは、名声の女神が、翼を羽ばたかせ(というのは、空 高く舞い上がって、ということであろう)、金のトランペットを吹く(こう して、たとえば施主の名声を遠くまで知らせる)。お供の農夫が椀を差し出 すと、龍が顔を浸して水を飲む(この意味はよくわからない)。このような 一連の動作が、水力により、自動的に行われた。横長のグロットの丸天井 と壁は鍾乳石や石灰華で被われ、自然の洞窟のように見せてあったが、人 工的な蛇腹が水平に走り、また装飾帯が丸天井をアーチ型に走って、空間 を引き締めていた。床には滑らかな板石が敷いてあった。地下一階のグロッ トは、プラトリーノの館に拵えられた水の驚異の手始めであった。

別荘一階のグロットと水オルガン 館の一階には、六つのグロットが待っており、ひとは、いったん地下の グロットを出て、立派な振り分け階段を上り、館の立つテラスに出る。そ こから、鍾乳石で飾りつけられた一階のグロット入口へ向かう。入ると、 ここでもまず横長のグロットが訪問者を迎える。「水栓をひねると、雷の ような音が聞こえ始めるが、それは、まだ見えない水によって引き起こさ れる音で、やがて水は雷雨のように降りかかってくる」(モリソン)。「たち まちグロットは水の洪水に見舞われる。すべての椅子から水が噴き出し、 お尻を濡らす。逃れようとして、グロットから外へ飛び出し、館の二階へ 向かって階段を上っても、二段毎に仕掛けてあるびっくり噴水に襲われ、 どのみち、びしょ濡れになる」(モンテーニュ)。このグロットは、その名 も「洪水のグロット」と名付けられていた。さてその次ぎ、奥の楕円形の

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室にあったのが「ガラテイアのグロット」で、これが人々をもっとも驚か せた。ガラテイアは、シチリア島を故郷とする海の妖精で、醜怪なひとつ 目の巨人ポリュフェモスに愛され連れ去られるが、恋人の美青年アキス と逃げる。しかし、巨人ポリュフェモスの投げつけた大岩によって、アキ スは殺される(オウィディウス『変身物語』)。この神話の物語は、西洋の 絵画では、アキスが殺される場面、あるいは、ガラテイアがアキスと海の 岩の上で人魚トリトン(男)や海の精ネレイスたちなどに取り囲まれて睦 み合う姿、さらにまた、ガラテイアが巨人ポリュフェモスから逃れ、鳥貝 で作られた凱旋車に乗り、トリトンやネレイス、海馬ヒッポカンポスに囲 まれている姿として描かれた。プラトリーノ荘のグロットでは、「(内部は すべて真珠母で作られており、)海水のなかに、珊瑚や貝で被われた様々 な岩礁があって、この岩礁の間から、巻き貝の笛を鳴らしながらトリトン が現れる。と同時に、ひとつの岩礁が割れて、金の貝に乗ったガラテイア が姿を現す。金の貝は二匹のイルカによって引かれ、イルカは口から水を 噴きだしている。次に、別の場所から二人の妖精が現れ、ガラテイアを海 岸へ導く。二人の妖精の手にした珊瑚の枝から水が噴きだしている」ので あった。これは、ガラテイアが巨人ポリュフェモスの手を逃れて無事にシ チリア島へ戻ってきた、という場面であろう。訪問者は、さらに四つのグ ロットを楽しむことができた。四つのグロットには、「トリトン」「サマリ ア人」「炉」「トゥファ(多孔質の石灰石。石灰華)」という名前が付けられ ていた。館の一階の別の室には、水オルガンが置かれていたから、ここで も最新の技術を駆使した水の楽しみを味わうことができた。そこでは、水 が音楽に変わるのだから。 これら水の驚異が展開する、ある室の天井には、当時、「フランチェスコ・ デ・メディチ大公は、館と庭に、噴水、池、木陰の道を作って、自分と友人 達の楽しみと休息に役立てた。1575年」という銘文が刻まれていたという。

自動水工 グロットで見られるさまざまな自動水工は、もともと1世紀にエジプト

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のアレキサンドリアでヘロという人物が書きしるした書物に基づき、ル ネサンスの技術者たちが、工夫して作り上げたものであった。ヘロの書に 書かれているのは、室内のテーブルに置いて楽しむ玩具であったから、小 さいものばかりであった。ルネサンスの技術者は、この書を翻訳し、復元 紹介するとともに、庭に設置できる大きな、自分たちの考案した自動水工 も付け加えて、世に示した。こうした復古再生の庭の自動水工は、16世紀 イタリアに始まり、17世紀ヨーロッパの王侯貴族の庭で大がかりな最盛 期を迎える。

秘園は薬草園 館の左手(東)には、囲われた小庭があって、薬草類の他に、矢車菊、水 仙、スズラン、雛菊が植えられていた。ここは秘園、つまりフランチェス コの私的な空間であった。その東に、広い果樹園があり、とれた果物は食 卓に上がった。フランチェスコ大公が、プラトリーノの庭に求めた楽しみ は、五感を満足させるもの、であったという。

5 当時の庭を巡る(3)―整形庭園(北)

整形庭園の構成 1578年には、すでに館の裏、つまり北半分の庭の工事も始まっていた。 館のすぐ裏に、東西に走る太い道が通され、表の庭と裏の庭を区切ってい た。非公式な来訪者がやって来るのがこの道であった。裏の庭は、全体が 周囲を森で囲まれている点では、表の庭と同じであったが、表側の庭に比 べて、整形性が強かった。それは、ここが本来の意味で、本庭だったから である。客を迎える広間 saloneもこちらに面して置かれていた。客は、長 方形の芝生地の向こうに立つアペニン像を見て、眼を瞠ったであろう。芝 生とアペニン像、それが本庭の要になっていた。こぎれいに苅り整えられ た生垣が芝生地を囲み、生垣のなかに等間隔で(緑の)壁龕が設けられ、 そこに彫像が並んでいた。彫刻はイタリアの庭の伝統にしたがって、庭の

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装飾に使われているのであった。巨人アペニン像は、こちら(館)を向き、 半円の池を前にして、膝をついてしゃがみ、左手で怪物の頭を押さえつけ て、怪物の口から水を吐き出させていた。アペニン像の内部にはいくつか のグロットが作ってあった。アペニン像の後には小山が築かれ、その内部 にもグロットがあった。小山は、アペニン山を意味するものであった。こ の小山の背後から、背後の森に向かって三本の直線路が放射し、中心の一 本は、さらに後方(北)にある円(つまり、森の中に作られた円形の散策路) を貫いて、「ジュピターの噴水」に達していた。残りの二本は、円周に接し たところで終わっていた。庭の北端に位置していたのがジュピターの噴 水で、当初は、月桂樹で作られた同心円の迷路の中心に置かれていた。

アペニン像と小山 アペニン像は、よく目だったであろう。高さが十一メートルあって、全 身はトゥファ(石灰華。多孔質の石灰石)で被われていた。ジャンボロー ニャの作で、しゃがみ込んだ巨人が左手で怪物の頭を地面に押さえ「地下 深くから山の泉を絞り出すように」水をほとぼらせているので、それは川 と同時にまた、山を表す像であったと解されている。ただ、主要な水源は、 さらに三マイル北方の山中の湧泉にあって、水はそこから水道橋で引か れた。この水が庭の中心軸に沿って流れ、館で使われ、庭の噴水となって 迸り、グロットの自動水工を動かしていた。この水は、高価なものであっ た。英国の旅行者モリソンによれば、「ワインより高い」のであった。この ような事は、大なり小なり、当時のイタリアの庭一般について当てはまる ことだった。 訪問客となって、アペニン像と後ろの小山の内部のグロットを見てみよ う。それぞれ、内部には複数のグロットがあり、そこで見られたのは、牧夫、 羊、牧羊犬などの彫像、また、貝で飾られた噴水などであった。あるグロッ トでは、左右向かい合わせの壁に絵が描かれており、一方には、採鉱の場 面と冶金の場面が、他方の壁には、面白いことに、いろいろな魚が描かれ ていた。山中の図と海中の図の組み合わせなのである。山の内部に作られ

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たもっとも大きなグロットでは、噴水と海の精テティスが見られた。噴水 は、平貝や巻き貝、真珠や水晶で綺麗に作られ、海の精テティスが噴水の 上に立ち、その見事な噴水を眺め下ろしていた。このグロットでは、珊瑚 やそのほか、自然(海山)から得られる貴重な物が数多く使われているの が大きな特徴であった。

庭山のグロットに置かれたもの 当時、庭山(ここではアペニン像や後ろの山がそれにあたる)の内部の グロットに何を置くのがふさわしいか、についてある程度一般的な了解 があったものと思われる。それはたとえば、アンニバーレ・カーロの手紙 (1551)が教える。カーロが挙げているのは、歌う牧夫、踊る妖精、サチュ ロス、ファウヌス、その他野生的な空想物、火と鍛冶の神バルカンと炉、 鉱石を掘る場面や宝石探し、プロセルピナ(ペルセフォネ)、アエネーイ ス(アイネイアス)とディドの恋、オデュッセウスとポリュフェモス、キ ルケの動物園などで、カーロ本人は、キルケの動物園がもっともいいと推 していた。キルケは、ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる、地中海の 島にいる魔女で、魔法の薬を混ぜたご馳走で旅人をもてなし、豚に変えて いた。オデュッセウスの部下も豚に変えられるが、オデュッセウスはメリ クリウスの警告によって毒消しの薬を飲んで救出にいったので、キルケ の魔法にかからず、キルケを脅して、部下達をもとの人間に戻させ、救い 出すことができた。美術では、キルケが宮殿で、豚だけでなく、様々な動 物たちに囲まれている姿として描かれた。また、ディドはカルタゴの女王 で、難船で海岸に漂着したアエネーイスに恋するが、アエネーイスの出立 によって恋は破れ、自殺する。ポリュフェモスは、洞窟に住む一つ目の巨 人で、オデュッセウスと一二人の部下を閉じこめ、部下の二人を食べるが、 オデュッセウスは葡萄酒で酔わせて、杭で目を突き、盲にして、部下と逃 げる。プロセルピナは穀物の女神ケレスの娘で、野原で仲間と花を摘んで いたところ、冥界の王プルートに見初められ、地下の王国に連れ去られる。 ケレスは娘を捜し出し、プルートに娘を地上に返すように求める。プルー

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トは毎年、春に、プロセルピナが地上に戻り、一年の三分の一を地上で過 ごすことをゆるす。古代ギリシャで、穀物の豊作を祈願するところから生 まれた神話であった。 プラトリーノ荘のアペニン像と山の内部のグロットに置かれていたも のは、カーロが推奨するものと似ている。プラトリーノ荘の解説書を書い たデ・ヴィエリは、「山の内部(洞、穴)で、水、金属、石が生み出される」 ことを示しているのだ、という。館の背後の庭に作られたこれらのグロッ トは、館の前の庭に作られた、水の楽しみと驚異のためのグロットとは異 なる目的を持っていたのであろう。それはひとつに、フランチェスコも含 めて、当時の教養人の、自然の ― 地下や山の内部、また海中海底に広 がる自然の ― 不思議や驚異への強い関心、また、貴重・珍奇なものへ の興味と収集の願望を表すものであった。それが、しばしば古代の神話を 介して表現される、という点に、当時の雰囲気が漂う。

山上のユピテル像 庭の最上部(つまり北端)に置かれたユピテル(ゼウス)は、山の上に 座り、山の下に作られた池を眺める姿勢をとっていた。ユピテルはいうま でもなくオリュンポス十二神の主神で、神々と人間たちの最高支配者で あるが、プラトリーノのユピテルは、雨のユピテル Jupiter Pluvius であろ うとされ、これが庭に置かれた意味は、「庭の水は天の雨に由来し、その 水がすべての生き物を生み出す」ことを語ることにあった、とされる。

水は中心軸を流れる プラトリーノ荘の水源は、正確にいうと、アペニン山脈に続いていくセ ナリオ山にあり、それは、二つの地区、十二の湧泉であった。その水は水 道橋によって庭へ引かれ、庭では、地下の水道管で各所へ導かれた。この 水が庭の主役の一つであることは、ユピテルの噴水に始まり、アペニン像、 館内のグロット、並木道、「洗濯女の噴水」に至るまで、中心軸が水の軸で あることを見ても分かる。庭の左右には、斜面を連なって下る池があり、

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水面の連鎖として、特異で美しい水の姿が、庭の表面にも刻まれた。森の 中には、水工を凝らしたグロットがいくつか潜んでいた。 なお、水の中心軸の終端が、洗濯女の彫像であるのは、別荘の庭で楽し みと驚異に使われた水が、下流で実用のために使われることを表現しよ うとしたもの、と解されている。館の中でも、厩でも、家禽小屋でも、水 は実用のために使われたし、水車を三つ回し、動力となった。庭を出た水 は、農地を潤し、そこでも粉ひきなどのため、実用の水車を回した。

6 寓意表現

「現代の庭」と「古代の庭」か プラトリーノの庭が、寓意表現をもくろんでいたことは、すでにデ・ヴィ アリも洞察しており、個々のもの、また全体について、詳しい解釈を与え ている。たとえば、庭全体について、館の前の庭は「現代の庭」、館の後の 庭は「古代の庭」を表そうとしたもの、とする。たしかに、館の前の庭は、 樹上の園亭や洗濯女、また、なにより、現代的な、当時の先端技術を使っ て作り出された噴水のアーチと水柱の並ぶ並木道が作られているのだか ら、「現代の庭」であろう。ただ、そこにはまた、「古代の庭」に属するであ ろうパルナッソス山が置かれている。したがって、この解釈に完全な整合 性があるのでもない。

人工と自然 art and nature 寓意の主題は、プラトリーノの庭でも、やはり、同時代にローマの近郊 で作られた代表的な庭園エステ荘やランテ荘などと同様に、人工と自然な のであろうか。人の発明した術と自然 art and nature である。人は、発明工 夫した術を用いて、自然に働きかけ、自然の素材を加工する。農業も、建 築も、造園そのものも、また水道橋を造って導水することも、庭の濃い森 を育てることも、金属を取り出すことも、この術の適用であり、噴水や彫 刻、グロットも、人工的な築山も、アペニン像もすべてこのような、術に

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よる自然への働きかけと加工から生まれる。術は、自然から実用のものと 美しいものを作り出す、あるいは、自然に潜在する用と美を引き出す。自 然は内部に、驚異と珍奇を数多く秘めており、他方、人の術が作り出すも のにも、美しく、驚嘆を誘うものがある。 このような感じ方は、当時一般のものだったらしく、プラトリーノ荘に ついて、詩人のガルテロッティは「術と自然が競い合って、その優美を生 み出す」と謳い、デ・ヴィエリは、庭の細部のひとつ、テティスの噴水に ついて、「全身を海の貝で飾られたテティスは、驚いた表情で、下の優雅 な噴水を見下ろし、術がある意味で自然を越えることに、絶句しているの だ」と語っている。詩人のアゴランティは、館の中に設けられたグロット の噴水について、「術が不滅の作品を作る、また、自然もその能力を示す」 と語る。 術は発明や創意に係わる。プラトリーノ荘では、これが、熊の彫像で明 示されていた。それは森の中のグロットにあり、そこでは、母熊が口から 出す水を、生まれたばかりの小熊たちに注いでいた。ここの小熊達の姿は、 まだ半ば石の塊にとどまり、完全な姿になっていない。母熊が水で、小熊 達の姿を作り上げている最中なのである。古代の伝説によれば、母熊は生 まれた小熊を舐めて、小熊の姿にする、という。ルネサンスでは、こうし て小熊を舐める母熊は、発明と創意の象徴と理解された。ヴァネチアの絵 画の巨匠ティツィアーノも熊を紋章にしていた。 古代と中世の間、この「術と自然」は、哲学的な思考主題のひとつであっ た。ただ、それぞれ考え方は違った。まず、造るのは神々や神であって、人 間と自然は造られる側にあった。造られて支配された。人間は自然に手を 加え、作り変えることはできない。真似ることはできても、第二の自然を 創り出すことはできない。この中世までの考え方が、ルネサンスに至って、 変わる。変わるきっかけのひとつは、新プラトン主義だったという。新プ ラトン主義が、結果的に、理論的根拠を提供した。人間主体化の、あるい は能動化の根拠である。新プラトン主義は、三世紀のプロティノスによる が、ルネサンス期に哲学者フィチーノによって再構築され、ひろく受け入

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れられた。新プラトン主義では、すべては「一者」から流出したものである。 流出によって生まれ出るすべての存在には、それぞれ一者の「叡智」が分 け与えられている。人間は、分有された内なる「叡智」を観照することに よって「一者」の世界に戻ることができる。観照によって「一者」の世界 に回帰する、という考え方は、信仰によって天国に受け入れられる、とい うキリスト教の考えと調和する。これが広く受け入れられた理由であっ た。新プラトン主義によれば、「叡智」を分有する度合いは、人間が一番高 い。動植物は低い。自然一般が低い。すると、人間は、「叡智」の分有度の 低いものに対して、手を加えることができるのではないか。こうして、術 art が合理化される。

7 健康と狩猟

薬草園と森の狩猟 別荘と庭は、都市との対比において、健康によい、健康のための場所で あるというのも、ルネサンスの通念で、薬草園が置かれるのは、その象徴 であった。そして、そこには、医術の神アスクレピオスの像がしばしば見 られた。プラトリーノ荘では、アスクレピオス像は、薬草園でなく、ロッ ジア(開廊)に置かれていた。そしてロッジアの天井は、あたかも薬草園 であるかのように、薬草と花が描かれていた。 イタリア・ルネサンスの庭園はしばしば狩猟の場であった。このことは、 庭園が健康増進と楽しみのための場所、ということの実際の内容のひと つであった。狩猟は、古代ローマ、中世と続き、ルネサンス期でも引き続 き行われていたが、ルネサンス期には、狩猟は、ほぼ二つの形に集約され ていた。運動としての狩猟と見物する狩猟である。運動としての狩猟は周 辺の農地に被害を与えないように、囲われた狩猟園で行われるのがふつ うになっていた。見物する狩猟は、ウサギを犬に追わせ、ウサギの逃げる 様、そして犬に捕らえられる様を、見物席から眺めるものだった。それは、 精神に刺激を与え、健康に良い、とされた。プラトリーノ荘では、年に一度、

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大がかりな鹿狩りが行われた。これは種別でいえば、運動の猟であったが、 フランチェスコ大公自らが狩りの健康な運動の部分に参加することはな かった。 プラトリーノ荘の鹿狩りの手順は次のようなものではなかったかと、推 定されている。

鹿狩りの一日 鹿狩りの前日の夕方に、狩猟長は、狩り手、助手、馬丁などを館裏の芝 生に集め、それから森へ行き、それぞれに持ち場を割り振る。当日、夜明 けに、狩りの一団は、庭の東北の隅にある門(「水管工の小屋」)で、大公 の一行を迎える。その間、偵察する者は、森へ行き、鹿の足跡を探し、鹿 のねぐらの見当をつけ、狩り手や猟犬を配置する。鹿の足跡を採取する。 他の者は、大公一行の休憩所を設営する。芝生に布を敷き、周りの木の枝 を編んで、日陰をつくる。布の上に、朝食とワインを並べる。これらの準 備が整うと、狩猟長は、大公一行を門から休息所へ案内する。場所は、「洗 濯女の噴水」と池の近くであったと思われる。一行は、座ったり、立った り、肘を突いて寝そべる姿勢で、朝食をとる。食後、食器は池で洗われる。 偵察から戻ってきた者が、大公に報告する。狩猟長が、報告や足跡の見本 から、どれが一番大きい鹿か、どれが一番背が高い鹿か、を判断し、誰が どの鹿を追うか指示する。食事が終わり、大公の笛を合図に狩りが始ま る。狩り手達は、猟犬を伴い、馬に跨りあるいは、歩いて、森に入っていく。 大公の一行は、臨時の園亭に移動し、狩り手たちが、鹿を弓や槍で傷つけ、 一カ所に追いつめて来るのを待つ。鹿は庭の西に連なる二十程の池の下 の方に追いつめられてくる。おそらく下から三つめの池に集められ、そこ で槍で突かれて、落命したものと思われる。この池には、槍で突くのが便 利なように、左右に石段が設けられていた。大公が儀式的に最後の止めを 刺す、といったことが行われたのかもしれない。鹿は追われると、体を冷 やすために水に入ろうとする。また、水に入って足跡と臭いを消そうとす る。このような習性があるため、池に追われてくるのである。獲られた鹿

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は一カ所に並べられる。その場所は、「水管工の小屋」の前の芝生であった。 鹿の頭が切り離される。内蔵が取り出され、犬たちに投げ与えられる。大 公が貯蔵する上等の肉がまず、取り分けられる。残りの肉を狩猟長が配下 の者に分配する。解体された鹿の残骸は運びさられる。大公一行と狩りの 一団は、樫の木の園亭へ移動し、夕宴を始める。大公一行は、樹上の園亭 に陣取り、狩り手たちは下の広場やベンチに座る。一日の狩りを楽しく語 り合う彼らの宴に、パルナッソス山の水オルガンが音楽を送ってよこす。

見物する狩り プラトリーノ荘では、ルネサンス期に人気のあったもう一つの、見物す る狩りも行われていた。これは、一般に、長い直線路で、野ウサギを犬に 追わせ、野ウサギが飛びはね、不意に方向転換をしながら逃げる様、そし て最後に犬の牙にかかる様を見て楽しむ。あるいは、犬にウサギを、網や 罠を仕掛けた場所に追いつめさせ、そこで猟師がウサギを捕らえて殺す までを見物する。プラトリーノ荘では、網や罠で捕らえる狩りが行われた ようだ。そのための場所と見物のベンチと思われるものが、ウテンスの絵 に描かれている。それは、西の森の館に近い場所にあった。そこは、また、 冬になって森の餌が足りなくなるとき、餌を与える場所であったと考え られる。餌に集まってくる動物をテラスから眺めることもできたという。

8 楽園と愛

愛の園か楽園か プラトリーノ荘に、フランチェスコとビアンカの愛の気配がどこか漂 う、と思うのは部外者の思いこみかもしれない。あるいはやはり、計画さ れたことか。計画性を示唆するのは、ひとつが先述した「キューピッドの グロット」で、他に、「農夫と火とかげ(サラマンダー)」がある。「農夫と 火とかげ(サラマンダー)」があるのは、パルナッソス山の近く、なお庭の 端に寄った所で、円形に仕切られた草地に、「イグサを刈る農夫」と「水を

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吐くとかげ」がそれぞれ円周近くから距離を置いて向かい合っている。こ れはジャコポ・サンナツァロの詩『アルカディア』を下敷きにしたもので、 「イグサを刈る農夫」は、元の詩では牧夫、「水を吐くとかげ」は、火を吐 くとかげサラマンダーである。元の詩では、主人公の牧夫モンタロがこの 火を吐くとかげに自分をなぞらえる。火とかげは、非常に冷たいので火の なかでも生きられる、恋の炎に焼かれて生きる自分だ、というのである。 プラトリーノ荘の「イグサを刈る農夫」もまた、胸の内に燃える恋の炎を 歌っている。 ただ、この「農夫と火とかげ」は、より一般的に、庭園が楽園であるこ とを語るために、設置されていたのかもしれない。設置の基になったサン ナツァロの詩の題は『アルカディア』。つまり楽園こそ、表現したかった ことではなかったか。パルナッソス山も、ルネサンスの庭園では、しばし ば、楽園の表示として使われたから、プラトリーノ荘のパルナッソス山も その意味を背負っていたであろう。先述した「キューピッドのグロット」 にも同様の意味があったのかもしれない。キューピッドはヴィーナスを 連想させ、そのヴィーナスは生誕の島キテラを連想させる。キテラ島は常 春の楽園、というが当時一般の理解であったから、「キューピッドのグロッ ト」に庭の楽園表現を託すことも十分可能であった。

9 創意の発信

プラトリーノ荘を想像で巡り歩いてみた。見終わり、つづめていえば、 驚きと楽しみの庭、楽園と愛を連想させる庭、といった要約になるであろ うか。この特異なメディチ家の別荘の庭は、ボマルツォ伯爵の造った「聖 なる森」(別名「怪物庭園」)と比べ、また、イポリット・デステ枢機卿が造っ たエステ荘と対比させて考えるのもいいであろう。この二つの庭園は、そ れぞれ、後のヨーロッパの造園に大きな影響を与えている。「聖なる森」は、 ローマの北方60キロの古都ヴィテルボの近郊にある。エステ荘は、ローマ 近郊の保養地ティヴォリにある。プラトリーノ荘も、この二つに劣らない

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創意を発している。 あるいはまた、カステッロ荘、ボボリ園、そしてプラトリーノ荘と、メ ディチ家の第二期の一連の造園の流れの中で考察してみるのもいいであ ろう。老コジモに始まる第一期と同様、第二期でも、メディチ家の造園の 主導性が確認され、そしてその偉大な成果が分かるであろう。二種の考察 がそれぞれ、別の側面を開いてみせてくれる。

● 略年表 1568 フランチェスコが土地200ヘクタールの森と農地を購入。 おもに狩猟地として使われていたところであった。周りは、畑と農園。 1569 工事開始。工事はおよそ15年(1584まで)続く。 別荘と庭の設計は、ブオンタレンティ Bernardo Buontalenti。 1579 フランチェスコとビアンカ の公式結婚。 1580 礼拝堂の完成(現存) 1580 モンテーニュが訪れ、旅日記に記述する。 1586 デ・ヴィエリの『プラトリーノ年代記』(Francesco de' Vieri, Della marauigliose opere di Pratolino) が別荘と庭の完成を祝って出 版された。庭と館の詳細が記述され、寓意表現の解釈も提示されて いる。 1586 T.タッソー作のプラトリーノ荘に関する三つのマドリガル(短い 恋歌)が出版される。 1587 ポッジオ・ア・カイアノにおける大公夫妻の急死。 死後、利用が途絶える。 1594 英国人モリソンの旅行記に記述される。cf. The Itinerary of Fynes Moryson,( ed.)Glasgow Universiy Press, 4vols. 1907. 1599 ウテンスが絵に描く。 17世紀中頃 ステファノ・デラ・ベラの版画 17世紀末 コジモ三世の長男フェルディナンドが修復し、利用。

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1710 この年以前に、アペニン像の後にあった山と、北の迷路がなくなる。 1713 フェルディナンドの死。以後、ふたたび、顧みられず、荒廃。 1737 メディチ家の血統が絶え、ロレーヌ家の所有となる。人が住まなく なり、館も庭も荒れる。付属建物を整備し、館の機能を移す。 1742 スグリーリの『プラトリーノ記』(Bernaodo Sgrilli, Descrizionedi Pratolino)が出版される。全体図の他に、見るべき物の図が描かれ ており、貴重な資料となる。 1798 ドイツ人の訪問者が、荒廃の姿を語る。 1819 フェルディナンド三世によって、イギリス風景式庭園に変えら れる。設計はボヘミアの建築家フリックス Josef Frichs(Joseph Frietsch)。付属建築が館として用いられる。農地を繰り入れ、160 ヘクタールとなり、木は樫が中心。 1822 本館の解体。 1826 フランス人の訪問者が、ロマン主義の立場から、旅行記で樹木(森) を賛嘆する。(-1828) 1845 大公の個人財産となる。 1872 ロシア人のデミドフ伯爵に売却される。 1981 フィレンツェ市が購入する。

● 参考文献 1. The Italian Renaissance Garden, Claudia Lazzaro, Yale University Press, 1990.

2. Pratolino, Webster Smith, Journal of the Society of Architectural Historians, vol.20

(1961), pp.155-168.

3. Renaissance Water Works and Hydromechanics, A.G.Keller, Endevour 25(1966), pp.141-145.

4. The Wonders of Pratolino, David. R. Coffin, Journal of Garden History, vol.1, no.3

(1981), pp.279-282. 5. From the Rain to the Wash Water in the Medici Garden at Pratolino, C.Lazzaro,

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Renaissance Studies in Honor of Craig Hugh Smyth, 2 vols.,Ⅱ(1985), pp.317-325. 6. The Gardens of and , Mariachira Pozzana, Giunti,2001.

7. Die schönsten italienischen Gärten. Eine Einladung zum Besuch, Judith Chatfield,

DuMont Buchverlag, 1991.

8. The Medici . Complete Guide, Isabella Lapi Ballerini, Giunti(Firenze), 2003.

9. 『ルネサンスの楽園』岡崎文彬 養賢堂 1993。

10. 『モンテーニュ旅日記』関根秀雄・斎藤広信訳 白水社 1992. 11. Geschichte der Gartenkunst, 2Bde., Marie Luise Gothein, Jena, 1926.

12. The Italien Garden. Art, Design and Culture,( ed)John Dixon Hunt, Cambidge

University Press, 1996. 特 に、 第 二 章 Some Medici gardens of the Florentine Renaissance: an essay in postaesthetic interpretation, D.R.Edward Wright.

13. 『西洋美術解読事典』ジェイムズ・ホール著 監修高階秀爾 河出書房新社

1988。 14. Philosophical Theories of Art and Nature in Classical Antiquity, Anthony J. Close,

Journal of the History of Ideas, vol.32(1971), pp.163-184.

15. 『イタリアのヴィラと庭園』P.ファン・デル・レー、G.スミンク、C.ステーン

ベルヘン共著 野口昌夫訳 鹿島出版会 1992

- 52 - プラトリーノ荘 Villa di Pratolino 図1 ジュスト・ウテンスによる絵 1599年 出典:参考文献1

- 53 - プラトリーノ荘 Villa di Pratolino 図2 アペニン像 出典:参考文献1

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図3 庭園図 出典:参考文献15

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図4 水の並木道(アプローチ) 出典:参考文献2

図5 別荘正面 出典:参考文献2

- 58 - プラトリーノ荘 Villa di Pratolino 図6 樹上亭 出典:参考文献2

- 59 - 外国語外国文化 創刊号 図7 野外劇場とパルナッソス山 出典:参考文献1

- 60 - プラトリーノ荘 Villa di Pratolino 図8 水オルガンの仕組み(例)S.de.Caus ‘Les raisons des forces mouvantes’ 1615 (S.de.コー『動力 1615 ‘Les raisons des forces mouvantes’ 図8 水オルガンの仕組み(例)S.de.Caus の原理』)による。 出典:参考文献3

- 61 - 外国語外国文化 創刊号 図10 キューピッドのグロット(1) 出典:参考文献1 図9 宴のグロット 出典:参考文献1

- 62 - プラトリーノ荘 Villa di Pratolino 図12 キューピッドのグロット(3) 出典:参考文献1 図11 キューピッドのグロット(2) 出典:参考文献1

- 63 - 外国語外国文化 創刊号 図13 キューピッドのグロット(4) 出典:参考文献2

- 64 - プラトリーノ荘 Villa di Pratolino 図15 名声の女神ファーマのグロット 出典:参考文献2 図14 牧神パーンのグロット 出典:参考文献2

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図16 一階平面図 出典:参考文献2

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図17 ガラテイアのグロット 出典:参考文献1

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図18 別荘北面と芝生庭 出典:参考文献2

図19 アペニン像と池 出典:参考文献2

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図20 テティスのグロット 出典:参考文献1

図21 炎のとかげと農夫 出典:参考文献1

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