論 文 オ リ エ ン ト41-1(1998):78-94

バ リー デ ィ ー 家 の 軍 隊構 成 につ い て

The Military Organization of Al-Baridis

柴 山 滋 SHIBAYAMA Shigeru

ABSTRACT The `Abbasid rule had been declining since the tenth cen- tury. This decline intensified when Ibn Ra'iq was appointed Amir al-

Umara' in 324/936. The appearance of Amir al-Umara' meant the beginn- ing of the period of the rule by army corps in the Islamic world. It is neces- sary to explain the military organization of the army corps in order to understand the state of the Islamic world at that time. One of the army corps was Al-Baridis.

The preceding studies which specially dealt with Al-Baridis followed their whole activity. But it is not enough to only study the special feature

and historical position of Al-Baridis in Islamic history.

In this paper, the author tries to investigate the military organization of

Al-Bar-id-is and the base of their power.

As a result of studying Al-Baridis, the author made clear the following

points:

(1) The military of Al-Bar-id-is consisted of the army and the river forces.

(2) The army of Al-Baridis consisted of three kinds of military groups,

that is, ‡@part of ex-Yagu-t's soldiers, ‡Aoriginal military groups pos-

sessed by Al-Baridis ‡Bmilitary groups organized by Al-Baridis after

conquering .

(3) In case of the first group, the soldiers were part of non-Arab cavalry-

men of the ex-`Abbasid soldiers (Turks), , Barbars and

Arabs. In case of the second group, the soldiers were three brothers of

Al-Bar-id-is and ghulams of them. In case of the third group, the soldiers

were a part of non-Arab cavalrymen of the ex-'Abbasid soldiers

(Turks), Daylamites, inhabitants of Basra and others.

(4) The river forces consisted of many ships and their soldiers. But a type

of ships and the soldiers were not clear.

*神 田 外 語 大 学 非 常 勤 講 師

Lecturer, Kanda University of International Studies (5) We can see that the first group of the army was the most important group of all, and the existence of the river forces on a large scale was a characteristic of Al-Baridis's military. (6) The number of military were around 10,000 people. We can see that Al-Baridis was a power which was mainly composed of private military groups from the ex-'Abbasid soldiers.

1.は じ め に

10世 紀 以 降,ア ッバ ー ス 朝 の 支 配 権 は 衰 退 し た 。 そ れ を最 も決 定 的 に した こ

とは324/936年 の イ ブ ン ・ラ ー イ ク(Ibn Ra'iq)の 大 ア ミー ル(大 総 督,Amir

al-Umara')就 任 で あ る 。大 ア ミ ー ル の 登 場 は,サ ワ ー ドお よ び ジ ャ ジ ー ラ(現

在 の イ ラ ク,シ リア 北 部,ト ル コ南 東 部,イ ラ ン 南 西 部)と い っ た 当 時 の イ ス

ラ ー ム 世 界 の 中 央 地 域 が,本 格 的 に 各 軍 団 に よ る 支 配 の 時 代 に 入 っ た こ と を意

味 す る 。 こ の 軍 団 と は,特 定 の 指 導 者 ・将 軍 に 率 い ら れ た 傭 兵 集 団 の こ と で あ

る。 当 時 の 中 央 地 域 に は 大 ア ミー ル 以 外 に も,強 力 な 勢 力 が 存 在 し,そ の 中 に

は 大 ア ミー ル の ラ イバ ル と な っ た も の も あ っ た 。 そ の1つ が バ リー デ ィ ー 家 で

あ り,同 家 は 主 に324/935-36年 か ら336/947-48年 間,サ ワ ー ド地 域 の バ ス ラ を

拠 点 に して,と りわ け,ブ ワ イ フ朝 以 前 の 大 ア ミ ー ル と 勢 力 を 競 っ た 。

イ ス ラ ー ム 史 上 に お い て,な ぜ 軍 団 支 配 が 出 現 し た の か,及 び そ の 軍 団 支 配

の し くみ の 解 明 は,そ の 後 の 軍 事 支 配 体 制 を確 立 し て い くイ ス ラ ー ム 世 界 を 理

解 す る た め の 重 要 な 課 題 で あ る 。 そ れ に は,ま ず 軍 団 支 配 を形 成 し た 各 勢 力 の

軍 隊 構 成 の 分 析 が 必 要 で あ る。 こ の よ う な観 点 か ら,筆 者 は 先 に 「ブ ワ イ フ 朝

以 前 の 大 ア ミー ル の 軍 隊 構 成 に つ い て 」 と い う論 稿 を ま と め た 。 本 稿 で は,そ

の 継 続 と して バ リー デ ィ ー 家 の 軍 隊 を取 り上 げ る。

こ れ まで に バ リー デ ィ ー 家 に つ い て 専 門 的 に取 り扱 っ た も の は,デ ー レ ンブ

ル グ の も の,ス ル デ ル の イ ス ラ ー ム 百 科 事 典 の 記 述,及 び 窪 田 治 美 氏 の 論 稿 の

三 編 が 存 在 す る 。 こ れ らの 研 究 は 同 家 の 活 動 の 概 要 を 跡 づ け た もの だ が,同 家

勢 力 の 特 徴,及 び イ ス ラ ー ム 史 上 の 同 家 の 歴 史 的 位 置 づ け が 十 分 に な さ れ,てい

る と は い え な い 。 そ の た め 本 稿 で は,バ リー デ ィ ー 家 の 軍 隊 構 成 を 考 察 し,同

家 の権 力 基 盤 に つ い て 論 じた い 。

本 稿 に お い て,使 用 し た 史 料 と略 号 は 末 尾 に 記 し た が,そ の 中 で 主 と し て依

拠 し た もの は,MiskawayhのTajarib al-Umam, al-HamadaniのTakrnila

79 Ta'rikh al-Tabari,及 びIbn al-AthirのAl-Karnil fi al-Ta'rikhで あ る 。

II.バ リ ー デ ィ ー 家 の 動 向

本 稿 で 考 察 の 対 象 と す る バ リ ー デ ィ ー 家 と は ① 長 男 の ア ブ ー ・ ア ブ ド ・ア ッ

ラ ー フ(Abu 'Abd Allah Ahmad b. Muhammad b. Ya 'qub b. Ishaq al-Baridi, d.332/944年),② 次 男 の ア ブ ー ・ユ ー ス フ(Abu Yusuf Ya'qub b. Muhammad al-Baridi, d.332/944年),③ 三 男 の ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン(Abu al-Husayn 'Ali b . Muhammad al-Baridi, d.333/944年)の3兄 弟 と ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ

ラ ー フ の 息 子 の ④ ア ブ ー ・ ア ル ・カ ー シ ム(Abu al-Qasim 'Abd Allah al-

Baridi, d.349/960-61年)の4名(図 表1)を 中 心 と し た 勢 力 で あ る 。 同 家 の 指

導 者 は ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ で あ り,ま た ア ブ ー ・ユ ー ス フ は 主 に 財 政

面 で,ア ブ ー ・ア ル ・ フ サ イ ン は 軍 事 面 で 活 躍 し た 。 彼 等 の 先 祖 は,ア ッ バ ー

ス 朝 の 初 期 か ら バ ス ラ に お い て 当 地 の 駅 逓 長 官 と し て 重 要 な 役 割 を 担 っ て い た

と い う こ と 以 外,詳 細 は 不 明 で あ る 。

(図表1)

同 家 の 動 向 に 関 して は,①936年 の ア フ ワ ー ズ で の 自 立 ま で,②936-937年 の

バ ス ラ の 支 配 権 の 獲 得 ,③937-942年 の バ グ ダ ー ドへ の 進 出,④942年 以 降 の 同

家 の 没 落 期 の4つ の 時 期 に 区 分 で き る 。 以 下,同 家 の 主 要 な 動 き に 関 し,簡 潔

に ま とめ て お き た い 。

(1)ア フ ワ ー ズ で の 自立(324/936年 ま で) バ リ ー デ ィ ー 家 の 活 動 の 記 録 は311/923-4年 か ら現 れ る が,323/935年 ま で に

同 家 の3兄 弟 は,主 に サ ワ ー ド地 域 に お い て 徴 税 業 務 や カ リ フ ・宰 相 の 私 領 地

80 の 管 理 等 を行 っ て い た 。 同 時 に そ の 間,か な り の 資 金 を 蓄 え た 。323/935年,フ

アー ル ス 総 督 の ヤ ー ク ー ト(Yaqut)の 書 記 と して ア フ ワ ー ズ に 行 っ た ア ブ ー ・

ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ は,こ の 地 で ヤ ー ク ー トか ら預 か っ た 軍 の 一 部 を 自 ら の 経

済 力 に よ っ て 吸 収 し,翌 年,ヤ ー ク ー トを ア ス カ ル ・ム ク ラ ム で 敗 死 させ た 。

こ の 時,初 め て 史 料 上 に バ リー デ ィ ー 軍('askar al-Baridi)と い う 語 が 現 れ る 。

324/936年,ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ は,大 ア ミー ル ・イ ブ ン ・ラ ー イ ク か

ら ア フ ワ ー ズ の 支 配 を委 任 さ れ た 。

(2)バ ス ラ の 支 配 権 の 獲 得(324/936-325/937年)

ア フ ワ ー ズ を 支 配 した 同 家 は,バ ス ラ の 住 民 の 要 求 に 応 じて バ ス ラ 支 配 を も

試 み る 。 当 時,バ ス ラ は 大 ア ミー ル ・イ ブ ン ・ラ ー イ ク の 配 下 に あ っ た が,二

度 に 及 ぶ 戦 い の 末,同 家 は 同 地 の 支 配 権 を 獲 得 した 。こ の 時 か ら336/948年 に ア

ブ ー ・ア ル ・カ ー シ ム が ブ ワ イ フ 家 か らバ ス ラ を奪 わ れ る ま で,同 地 は 同 家 の

拠 点 で あ っ た 。

(3)バ グ ダ ー ドへ の 進 出(326/938-330/942年)

同 家 は325/937年 に ブ ワ イ フ 家 に ア フ ワ ー ズ を 奪 わ れ る が,大 ア ミ ー ル ・バ ジ ユ カ ム()か ら の ワ ー シ トの 徴 税 請 け 負 い 委 任,326/938年 の カ リ フ ・

ラ ー デ ィー か ら の 宰 相 任 命 等,勢 力 の 伸 張 が 確 認 さ れ る。329/941年,バ ジ ュ カ

ム の 殺 害 に よ り,ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ は,首 都 の バ グ ダ ー ドに 入 城 し

宰 相 を名 乗 っ た が,首 都 滞 在24日 で ワ ー シ ト に撤 退 した 。 翌 年 も弟 の ア ブ ー ・

ア ル ・フ サ イ ン を 派 遣 し,バ グ ダ ー ドを 一 時 的 に 支 配 した が,こ の 時 も3ヵ 月

20日 で 首 都 か ら撤 退 した 。

(4)同 家 の 没 落(330/942年 以 降)

こ の 後,大 ア ミ ー ル 位 に あ る ハ ム ダ ー ン 家 と の 抗 争 敗 北 に よ る バ ス ラ へ の 撤

退,331/943年 の オ マ ー ン 総 督,ユ ー ス フ ・ブ ン ・ワ ジ ー フ(Yusuf b. Wajih)

の 襲 撃 等,同 家 の 勢 力 は後 退 した 。332/944年 に は ア ブ ー ・ユ ー ス フ の 殺 害,ア

ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の 病 死 に よ り同 家 の 結 束 は 混 乱 し た 。 そ の 後,ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン とア ブ ー ・ア ル ・カ ー シ ム の 間 で 同 家 の権 力 抗 争 が 展 開 さ

れ,ア ブ ー ・ア ル ・カ ー シ ム が 勝 利 した 。 し か し,ブ ワ イ フ 家 か ら圧 迫 を 受 け,

336/947-48年 にバ ス ラ の 支 配 権 を奪 わ れ,同 家 の 活 動 は 事 実 上 停 止 した 。337/

948-49年 に ア ブ ー ・ア ル ・カ ー シ ム は ブ ワ イ フ 家 の 庇 護 を 受 け,イ ク タ ー を 授

与 されたが,そ れ以降 は政治的 に顕著な活動 を していない。

81 III.軍 の 構 成 に つ い て の 記 述

以 下,バ リー デ ィ ー 家 の 軍 隊 に 関 す る 史 料 記 述 を 年 代 順 に 掲 げ る 。

[324/935-36年]

1.(ア ス カ ル ・ム ク ラ ム の ヤ ー ク ー ト を ア ブ ー ・ユ ー ス フ が 訪 ね た 時)彼(ア

ブ ー ・ユ ー ス フ)は 彼(ヤ ー ク ー ト)に 知 らせ た 。 ア フ ワ ー ズ に 滞 在 し て い る

者 達(al-rijal)は 多 く,そ の 上,金 の 支 払 い を 要 求 して い る 。 彼 等 は ベ ル ベ ル

人(al-Barbar),ア ル ・シ ャ フ ィー イ ー ヤ(al-Shafi'iya),ア ル ・ナ ー ズ ー キ ー ヤ(al-Nazukiya) ,ア ル ・ヤ ル バ キ ー ヤ(al-Yalbaqiya),ア ル ・ハ ー ル ー ニ ー ヤ(al-Haruniya)か ら成 る。 そ れ ら は か つ て イ ブ ン ・ム ク ラ()

が こ れ ら の 者 達 を選 別 し,首 都 の 負 担 を 軽 くす る た め,ア フ ワ ー ズ に 送 っ た も

の で あ っ た 。

2.(ヤ ー ク ー トの グ ラ ー ム(ghulam)の ム ウ ニ ス(Mu'nis)が ヤ ー ク ー ト に

言 っ た 言 葉)彼(ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ)は1万 人 を 率 い て い る 。 私 が

数 え た と こ ろ,我 々 の 下 に い る の は 約5千 人 で あ る 。

3.ア ル ・バ リー デ ィー の 全 軍 が 到 着 し,ハ ー ン ・タ ウ ク(Khan Tawq)平

原 に 駐 屯 した 。 軍 と共 に ア ル ・バ リ ー デ ィ ー の グ ラ ー ム が お り,軍 を指 揮 して

い た 。 グ ラ ー ム と共 に 高 級 司 令 官 達(al-quwwad al-kibar)が お り,彼 等 の 最

高 者 は ア ブ ー ・ア ル ・フ ァ トフ ・イ ブ ン ・ア ビ ー ・タ ー ヒル(Abu al-Fath Ibn

Abi Tahir)で あ っ た 。 そ して,ヤ ー ク ー ト と ア ブ ー ・ジ ャ ー フ ァ ル ・ア ル ・ジ

ヤ ン マ ー ル(Abu Ja'far al-Jammal)は 互 い に 向 か い 合 っ た 。

4.ム ウ ニ ス,ム シ ュ リ ク(Mushriq),ア ー ザ リ ユ ー ン(Adhariyun)は トス

タ ル に 敗 走 した 。彼 等 は ア ラ ブ 人(al-A'rab)と ベ ル ベ ル 人 に 追 跡 さ れ た 。彼 等

は捕 わ れ,連 れ 戻 さ れ た 。

[325/936-37年]

5.〔 ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ に(大 ア ミ ー ル の イ ブ ン ・ラ ー イ ク が)ア

フ ワ ー ズ の 支 配 者 と して の 名 誉 の 衣 を送 っ た 時 〕 彼 は,そ れ を ア フ ワ ー ズ の 集

会 モ ス ク で 着 た 。 そ の 後,彼 は 自分 の 家 に 行 っ た 。 そ して,彼 の 軍 隊 の 将 校

(quwwad),騎 兵(fursan),自 由 人(samim),奴 隷 達('abid),旗 と武 器 を携

え た 歩 兵 達(rijal)が,彼 に 続 い た 。

6.バ ス ラ の 指 導 者 で あ る ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン ・ブ ン ・ア ブ ド ・ア ッ サ ラ

ー ム ・ア ル ・ハ ー シ ミ ー(Abu al-Husayn b .'Abd al-Salam al-Hashimi)は

82 す で に イ ブ ン ・ラ ー イ ク か ら離 れ て い た 。 な ぜ な ら,彼 が バ ス ラ を 侮 辱 した か

ら で あ る 。 そ こ で 彼 自 身 で ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ ・ア ル ・バ リー デ ィ ー

と そ の 兄 弟 で あ る ア ブ ー ・ユ ー ス フ の と こ ろ に 出 向 き,バ ス ラ の 主 人 に な る こ

と と 同 地 へ の 軍 の 派 遣 を要 請 し,か つ ハ ワ ル の 集 団(to'a al-khawal)と 河 川 の

民(ahl al-anhar)が 彼(ア ブ ー ・ア ブ ド・ア ッ ラ ー フ)に 味 方 す る 手 筈 に な っ

て い る,と 言 っ た 。 そ して,ア ブ ー ・ア ブ ド・ア ッ ラ ー フ は シ ャ ザ ー ア ー ト(al-

Shadha'at),ザ バ ー ザ ブ(al-Zabazab),タ イ ヤ ー ラ ー ト(al-Tayyarat)の 建

造 を は じめ,最 終 的 に そ の 数 は 良 い 状 態 の 船 舶,100艘 を集 め る ま で に な っ た 。

7.〔 イ ブ ン ・ラ ー イ ク が フ ジ ャ リー ヤ(Hujariya)軍 団 か ら2000名 を 自軍 に

取 り込 み,そ の 残 り を 放 出 し た 時 〕 彼 等(放 出 さ れ た 者 達)は ホ ラ ー サ ー ン 道

に 行 き,ア フ ワ ー ズ に 向 か う こ と で 一 致 した 。 そ して,彼 等 は ア ブ ー ・ア ブ ド・

ア ッ ラ ー フ ・ア ル ・バ リー デ ィ ー の と こ ろ に 行 っ た 。 彼 は 彼 等 を 受 け 入 れ,彼

等 の 手 当 を 倍 に した 。

8.彼(バ ジ ュ カ ム)が ス ー ス に 到 着 す る と,ア ル ・バ リ ー デ ィ ー は 率 先 して

ジ ャ ン マ ー ル(al-Jammal)と し て 知 られ た 彼 の グ ラ ー ム を,用 意 万 端 に し た

完 全 武 装 の1万 人 と共 に 派 遣 し た 。 彼 等 は ス ー ス の 外 側 で 戦 い,バ ジ ュ カ ム 側

に は290名 の 非 ア ラ ブ 騎 兵(al-Atrak)出 身 の グ ラ ー ム が い た 。 ア ル ・バ リー デ

イ ー 軍 は 敗 北 した 。

9.ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ ・ア ル ・バ リー デ ィ ー は,彼 の グ ラ ー ム の イ

ク バ ー ル(Iqbal)を マ タ ー ラ ー に 進 軍 させ た 。 ま た,彼 と共 にバ ス ラ の フ ィ ト

ヤ ー ン(fityan)の 集 団 も進 軍 させ た 。 彼 等 は マ タ ー ラ ー で イ ブ ン ・ラ ー イ ク の

仲 間(ashab)と 遭 遇 し,イ ブ ン ・ラ ー イ ク の 軍(al-Ra'iqiya)を 打 ち 破 っ た 。

10.パ ドル ・ア ル ・ハ ル シ ャ ニ ー(Badr al-Kharshanl)が カ ッ ラ ー を 占 領 し

た 時,ア ブ ー ・ ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ ・ ア ル ・バ リ ー デ ィ ー は ウ ワ ー ル 島 に 逃 げ

た 。 バ ス ラ に い た 軍 隊(al-jund)は パ ドル に 対 抗 す る た め に 出 て き た 。 そ し て

彼 等 に 民 衆(al-'amma)か ら 多 く の 者 が 付 け 加 わ っ た 。 そ の た め パ ドル は カ ッ

ラ ー 岸 か ら 退 き,対 岸 の 島 に 行 っ た 。 ア ブ ー ・ユ ー ス フ ・ ア ル ・バ リ ー デ ィ ー

は 隠 れ,彼 の 兄 弟 の ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン は 軍 隊 と民 衆 を 鼓 舞 した 。

[328/939-40年] 11.(ル ク ン ・ア ッ ダ ウ ラ の ワ ー シ ト進 軍 の 時)ア ミー ル ・ア ブ ー ・ア リー ・

ア ル ・ハ サ ン ・プ ン ・ブ ワ イ フ は そ こ を 占領 す る こ と を 目 論 ん で ワ ー シ トに 進

83 軍 した 。 しか し,彼 の 軍 隊 が 騒 い だ 。 な ぜ な ら,す で に1年 も彼 等 に 支 払 い が

な か っ た か らで あ る 。 そ こ で 彼 の 仲 間 の100名 の 者 が ア ル ・バ リー デ ィ ー に保 護

を 求 め た 。

[329/940-41年]

12.バ ス ラ で バ リー デ ィ ー 家 の 力 が 強 く な り,(バ グ ダ ー ドに)上 る船 舶 が 妨

げ られ,彼 等 の 軍 隊 が 大 き く な り,そ の 人 数 も増 え た 。 そ の 軍 は2種 類 の 軍 隊

か らな っ て い た 。水 軍(jaysh fi al-ma')は,シ ャ ザ ー ア ー ト,タ イ ヤ ー ラ ー ト,

ス マ イ リヤ ー ト(al-Sumayriyat),ザ バ ー ザ ブ で あ り,こ れ ら の 船 舶 は 大 小 の

戦 闘 船 で あ る。 そ し て 陸 軍(jaysh il al-barr)は 多 く,欲 望 に 満 ち た 歩 兵(al- rijal)に 政 府(al-sultan)の フ ジ ャ リー ヤ と ギ ル マ ー ン を 加 え た も の で あ っ た 。

13.(バ ジ ュ カ ム が ラ ジ ャ ブ 月26日 に殺 害 され,彼 の 軍 隊 の トル コ人 と ダ イ ラ

ム 人 が 分 裂 した 時)全 ダ イ ラ ム 人(al-Daylam)は,保 護 を 求 め て ア ブ ー ・ア ブ

ド ・ア ッ ラ ー フ ・ア ル ・バ リ ー デ ィ ー の 方 に 下 っ た 。 そ の 数 は1500名 で あ っ た 。

彼 等 は 選 ば れ た 者 で あ り,そ の 中 に不 適 格 者 は い な か っ た 。 こ れ は バ リー デ ィ ー 家 の 力 を増 強 し ,権 力 へ の 展 望 が は っ き り した 。 そ の 軍 隊 は 彼 等(バ リー デ

イ ー 家)に 帰 属 し,合 計7000人 に 達 し た 。

14.(カ リ フ ・ム ッ タ キ ー が ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ を 宰 相 に 任 命 し,自

分 の 息 子 の ア ブ ー ・マ ン ス ー ル(Abu Mansur)を 彼 の 娘 と結 婚 さ せ た 時)ム ッ

タ キ ー は 彼(ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ)(の 実 力)を 目の 当 た り に した 。 な

ぜ な ら,彼 と共 に ワ ー シ トか ら2万 の ダ イ ラ ム 人 が 来 た か らで あ る 。

[330/941-42年] 15.政 府(al-sultan)に 対 し,バ リ ー デ ィ ー 家 の 歩 兵 の 全 て を 率 い て 首 都 に

上 る こ とが 現 実 に な っ た 。 そ こ に は イ ブ ン ・ラ ー イ ク に 対 す る侮 蔑 と1000名 の バ ジ ュ カ ム の ア トラ ー ク(Atrak al-Bajkamiya)の 給 与 に対 す る要 求 が あ っ た 。

彼(イ ブ ン ・ラ ー イ ク)は 彼 等 の 待 遇 を 悪 く し た 。 彼 等 は彼 か ら離 れ,ワ ー シ

トの バ リ ー デ ィ ー 家 の と こ ろ に い っ た 。

16.ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン は 軍 隊(al-jaysh)を 率 い て ワ ー シ トか らバ グ ダ ー ドに 上 っ た 。 彼 と共 に彼 の 兄 弟 の ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の ギ ル マ ー ン

(gilman,ghulamの 複 数 形),非 ア ラ ブ 人 騎 兵,ダ イ ラ ム 人 が い た 。 彼 が バ グ

ダ ー ドに 近 付 く と,彼 と共 に い た カ ル マ ト派(al-Qaramita)全 て が イ ブ ン ・ラ

ー イ ク に 保 護 を 求 め た 。

84 [331/942-43年]

17.〔 ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン ・ア フ マ ド ・ブ ン ・ブ ワ イ フ(Abu al-Husayn

Ahmad b. Buwayh)が バ ス ラ に 進 軍 し た 時 〕ル ー ス タ ー バ ー シ ュ(Rustabash)

や そ の 他 の 者 達 の よ う な 彼 の 司 令 官 達(al-quwwad)の 一 団(jama'a)が バ リ

ー デ ィー 家 に保 護 を 求 め た 。

[332/943-44年]

18.〔 ア ブ ー ・ユ ー ス フ の 殺 害 の 直 前 に 〕(ア ブ ー ・ユ ー ス フ と の 会 見 後)約

10日 程 し て 彼(ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ)は,ウ ブ ッ ラ の 彼 の 家 と土 手 の

問 の 通 路 に ヤ ー ニ ス(Yanis),イ ク バ ー ル(lqbal),ヤ ー ニ ス の 奴 隷(rablb)

と水 夫(mallah)を 含 む 彼 の ギ ル マ ー ン を 配 置 し た 。

19.(ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の 死 後 の ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン と ア ブ ー ・

ア ル ・カ ー シ ム の 権 力 争 い の 中 で)彼(ア ブ ー ・ア ル ・カ ー シ ム)の 父 が バ ス

ラ で 死 ん だ 時,彼(ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ)の 兄 弟 の ア ブ ー ・ア ル ・フ

サ イ ン は 父 の 地 位 に 就 い た 。 ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の 軍 隊 は ア ブ ー ・ア

ル ・フ サ イ ン ・ア フ マ ド ・プ ン ・ブ ワ イ フ と対 峙 して,ア ミー ル 運 河 に お り,

他 の 軍 隊 は マ タ ー ラ ー に い た 。 ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の ダ イ ラ ム 人 は彼

の グ ラ ー ム の ヤ ー ニ ス の 配 下 に あ っ た 。

20.シ ャ ッ ワ ー ル 月 に ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ が 死 去 し,彼 の 兄 弟 の ア

ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン が 彼 の 地 位 を 引 き継 い だ 。 そ して,ト ル コ 人(al-Turk)

と ダ イ ラ ム 人 を 侮 辱 した 。 彼 等 は 彼(ア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン)に 対 し不 安 に

な り,ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の 息 子 の ア ブ ー ・ア ル ・カ ー シ ム を 戴 い た 。

IV.軍 隊 内 の 各 集 団

バ リー デ ィ ー 家 の 軍 隊 は,史 料12に よ る と 陸 軍 と水 軍 に 分 か れ て い た 。 以 下,

そ れ ぞ れ 個 別 に 考 察 して い く。

(1)陸 軍

陸 軍 の 構 成 要 素 に 関 して は,史 料12に 欲 望 に 満 ち た 歩 兵 に 政 府 の フ ジ ャ リ ー

ヤ と ギ ル マ ー ン を 加 え た も の と あ り,ま た 史 料5に 将 校,騎 兵,自 由 人,奴 隷

達,旗 と武 器 を携 え た 歩 兵 達 と あ る。 こ れ ら の 記 述 か ら は 同 家 の 陸 軍 に は将 校,

自 由 人,奴 隷 等 が い た こ と,騎 兵 と歩 兵 の 兵 種 か ら構 成 され て い た こ と は わ か

る が,ど の よ う な 集 団 ・人 種 か ら構 成 さ れ て い た の か は 不 明 で あ る。 以 下,各

85 集 団 の 人 的 構 成 を3要 素 に 分 け て 考 察 す る 。

① ヤ ー ク ー ト軍 の 一 部

こ の 集 団 の 人 的 構 成 を 示 唆 す る 記 述 は,史 料1の ベ ル ベ ル 人,ア ル ・シ ャ フ

ィ ー イ ー ヤ,ア ル ・ナ ー ズ ー キ ー ヤ,ア ル ・ヤ ル バ キ ー ヤ,ア ル ・ハ ー ル ー ニ ー ヤ と史 料4の ベ ル ベ ル 人 ,ア ラ ブ 人 で あ る 。 史 料1の ベ ル ベ ル 人 以 外 の 集 団

は,元 ア ッバ ー ス 朝 内 の 高 官 や 武 将 が 各 自 で 集 め た 私 的 軍 事 集 団 で あ る 。 各 自

の 死 亡 や 失 脚 時 期 等 か ら,そ れ ぞ れ ア ル ・シ ャ フ ィ ー イ ー ヤ は シ ャ フ ィ ー ウ ・ア

ル ・ル ウ ル ウ(Shafi'al-Lu'lu'),ア ル ・ナ ー ズ ー キ ー ヤ は ナ ー ズ ー ク(Nazuk),

ア ル ・ヤ ル バ キ ー ヤ は ヤ ル バ ク(Yalbaq)・ ア リ ー ・プ ン ・ヤ ル バ ク('Ali b.

Yalbaq)父 子,ア ル ・ハ ー ル ー ニ ー ヤ は ハ ー ル ー ン ・プ ン ・ガ リ ー ブ(Harun b. Gharib)の 軍 団 で あ る 。 こ れ ら の 私 的 軍 事 集 団 は,か っ て イ ブ ン ・ム ク ラ が

こ れ ら の 者 達 を 選 別 し,首 都 の 負 担 を軽 くす る た め,ア フ ワ ー ズ に 送 っ た も の

で あ っ た(史 料1)。 人 的 構 成 に つ い て は,一 般 的 に ギ ル マ ー ン(,若

者 達),ア ス ハ ー ブ(ashab,仲 間 達),リ ジ ャ ー ル(rijal,人 々)の よ う に記 さ

れ る こ と が 多 く,こ こ で 詳 細 解 明 は 不 可 能 で あ る 。 しか し,322/933-34年 の ヤ ー ク ー ト軍 の 以 下 の 記 述 は 参 考 に な る 。

(ア ス カ ル ・ム ク ラ ム に ヤ ー ク ー トが 進 ん だ 時)ヤ ー ク ー ト と共 に ダ イ ラ ム

人,ト ル コ 人,ホ ラ ー サ ー ン人(al-Khurasaniya)の 部 隊(qit'a)が い た 。

こ の こ とか ら,こ の 私 的 軍 事 集 団 も ダ イ ラ ム 人,旧 ア ッバ ー ス 朝 軍 の 非 ア ラ ブ

騎 兵(ト ル コ人),そ の 他 の 者 達 か ら構 成 さ れ て い た と思 わ れ る。 ま た,非 ア ラ

ブ 騎 兵(ト ル コ 人)や ダ イ ラ ム 人 が 同 家 の 軍 隊 の 中 心 を 占 め て い た こ と は,ア

ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ 死 後 の 記 述(史 料20)か ら も裏 付 け られ る。

ベ ル ベ ル 人,ア ラ ブ 人 の 集 団 に つ い て は,史 料1・4以 上 に 詳 細 な 記 述 が 存

在 し な い 。 し か し,各 史 料 が ダ イ ラ ム 人,旧 ア ッバ ー ス朝 軍 の 非 ア ラ ブ 騎 兵(ト

ル コ人)と は 区 別 して 記 述 し て い る こ とか ら,そ れ ぞ れ 独 自 の 集 団 を形 成 して

い た と思 わ れ る。

以 上 の こ と か ら,こ の 集 団 は ア ッバ ー ス 朝 旧 軍 の ダ イ ラ ム 人,非 ア ラ ブ 騎 兵

(ト ル コ 人),ベ ル ベ ル 人,ア ラ ブ 人 等 か ら成 り立 っ て い た と考 え られ る。

(2)本 来 の 権 力 基 盤

こ れ に 関 して は,① バ リー デ ィ ー 家 の 者 達 と② 同 家 の グ ラ ー ム の2つ の 範 疇

が あ る。

86 ① バ リー デ ィ ー 家 の 者 達 バ リー デ ィー 家 の 中 で 軍 事 面 で 活 躍 す る の は,ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ

とア ブ ー ・ア ル ・フ サ イ ン で あ る 。 前 者 は,324/936年 の ヤ ー ク ー ト と の 戦 い,

325/937年 の バ ス ラ の 獲 得,329/941年 の 第 一 回 目 の バ グ ダ ー ド入 城 の 際 に は 陣

頭 指 揮 を 取 っ た 。 後 者 は,325/937年 の バ ス ラ の 獲 得,330/942年 の 第 二 回 目 の バ グ ダ ー ド入 城 と そ の 後 の ハ ム ダ ー ン家 との 戦 い で 同 家 の 軍 隊 を 統 括 し て い る 。

333/945年 以 降 は,ア ブ ー ・ア ル ・カ ー シ ム が 同 家 の 勢 力 を ま とめ,335/946-7

年 ま で バ ス ラ を 支 配 した 。

② 同 家 の グ ラ ー ム

ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の グ ラ ー ム と して は,ア ブ ー ・ジ ャ ー フ ァ ル ・

ジ ャ ン マ ー ル,イ クバ ー ル,ヤ ー ニ ス の3名 が い る。 ア ブ ー ・ジ ャ ー フ ァ ル は

324/936年 の ヤ ー ク ー ト と の 戦 い(史 料3),325/937年 の バ ジ ュ カ ム と の 戦 い(史

料8),イ ク バ ー ル は325/937年 の バ ス ラ で の 戦 い(史 料9),ヤ ー ニ ス は332/944

年 の 同 家 内 の 権 力 争 い(史 料19)の 例 の よ う に,各 自 同 家 の 軍 隊 を 指 揮 し て 戦

っ て い る 。 そ の 他,幾 つ か の 史 料 に は バ リー デ ィ ー 家 に 仕 え た 指 揮 官 達,ア ブ

ー ・ア ル ・フ サ イ ン の ハ ー ジ ブ 等 の 名 前 が 上 が っ て い る 。

同 家 は ア ッバ ー ス 朝 の 行 政 官 で あ っ た た め,324/936年 以 前 に 独 自 の 軍 隊 を 保

持 した 様 子 は な い 。 従 っ て,こ の 集 団 は 同 家 の 軍 隊 中 で 中 枢 を 占 め た が,軍 の

主 力 と は い え な い 。

(3)バ ス ラ の 支 配 権 獲 得 以 降 に集 め た 集 団

こ の 集 団 は,ブ ワ イ フ 朝 以 前 の 大 ア ミー ル の 軍 隊 の 一 部,ブ ワ イ フ 朝 か らの

軍 隊 の 一 部,そ の 他 の 集 団 の3つ の 範 疇 に分 け る こ とで き る 。 ブ ワ イ フ 朝 以 前

の 大 ア ミー ル の 軍 隊 の 一 部 に つ い て は,329/940年 の バ ジ ュ カ ム の 死 後 に 同 家 に

仕 え た ダ イ ラ ム 人1500名(史 料13)と330/941年 の 非 ア ラ ブ 騎 兵(ト ル コ人)部

隊(史 料15)が あ る 。 ブ ワ イ フ 朝 か ら の 軍 隊 の 一 部 に は328/939年 の ブ ワ イ フ 家

の ハ サ ン の100名 の 郎 党(史 料11),331/942年 の ブ ワ イ フ 家 の 軍 隊 か らル ー ス タ

バ ー シ ュ 等 の 指 揮 官 の 例(史 料17)が あ る。 そ の 他 の 集 団 で は,325/936年 の フ

ジ ャ リ ー ヤ 軍 団 の 一 部(史 料7),325/936年 の バ ス ラ の フ ィ トヤ ー ン(史 料9)

や 民 衆(史 料10),カ ル マ ト派 の もの(史 料16)が あ る 。

こ れ らの 集 団 の 共 通 点 は,非 常 に 出 入 りが 激 し く常 に 同 家 の 軍 隊 に 参 加 し て

い た わ け で は な い こ と,人 数 的 に も少 な く,時 間 的 に も 限 定 され て い る こ と で

87 あ る。 そ の た め これ らの 集 団 も 同 家 の 軍 隊 の 中 心 で あ っ た と は い え な い 。

(4)水 軍 に つ い て

同 家 の 水 軍 に つ い て の 最 初 の 記 述 は,史 料6で あ る 。 そ れ に よ る と 同 家 は, ハ ワ ル の 集 団 と 河 川 の 民 を 味 方 に つ け る よ う に要 求 し,さ ら に シ ャ ザ ー ア ー ト,

ザ バ ー ザ ブ,タ イ ヤ ー ラ ー ト と い っ た 船 舶 の 建 造 を 開 始 し,そ の 数 は100艘 に 達

した 。 船 舶 に つ い て は,史 料12,さ ら に329/940-41年 の バ グ ダ ー ド入 城 の 際 の

記 述 に記 載 が あ り,シ ャ ザ ー ア ー ト,タ イ ヤ ー ラ ー ト,ザ バ ー ザ ブ,フ ダ イ デ

ィヤ ー ト(al-Hudaydiyat),ス マ イ リヤ ー ト と い っ た 船 名 が み ら れ る。 各 辞 典

等 か ら シ ャザ ー ア ー トは 大 型 船,タ イ ヤ ー ラ ー トは 平 底 船,ザ バ ー ザ ブ は 艀 に

該 当 す る と思 わ れ る が,お そ ら く当 時,内 陸 の 河 川 で 使 用 さ れ た 川 船 で あ ろ う

こ と以 外 は,船 の 形 態 や 用 途 等,具 体 的 な 点 は不 明 で あ る。 こ れ ら の 船 舶 は,

同 家 が バ ス ラ を 奪 わ れ る まで,存 在 し て い た こ と が 史 料 上 確 認 さ れ る。 一 方 ,水 軍 の 人 材 に つ い て は 情 報 が 極 め て 少 な く,河 川 の 民(史 料6)と 水

夫 に つ い て は 史 料18と オ マ ー ン 総 督 ・ユ ー ス フ の バ ス ラ 襲 撃 の 際 に バ リー デ ィ

一 家 を 救 っ た ア ル ・ジ ヤ ー デ ィ ー(al-Ziyadi)な る もの の 例 が あ る の み で ,人

的 構 成 に つ い て は 不 明 で あ る 。史 料6の ハ ワ ル の 集 団 に 関 し て は,301/913年 に カルマ ト派がバ スラを襲撃 した際,こ の集団の人間が同派 と戦 っているが,そ

れ以外 にこの集団についての情報はない。ハ ワル には 「召使 い ・奴隷」 といっ た意味があるので,バ ス ラの住民の階層 の一種 である と思われ るが,人 的構成 の詳細は不明であ る。但 し,史 料6に 河川の民 と並べて記述 されている点か ら,

水上 交通等の何 か河川 に関係す る仕事 を生業 としていた者がいた と思われ る。 バ リーデ ィー家の水軍 について注 目すべ きことは,当 時の他 の勢力の軍隊に

も水軍の存在が認め られ るが,史 料 に水軍の ことが繰 り返 し記 されて いるのは 同家の場合 のみであ る点であ る。 この ことは同家の軍隊中における水軍の重要

性 を表す もの と思われる。 (5)軍 隊の規模 同家の軍隊の規模 につ いての記述 も少 ないが,軍 隊の数を暗示 してい ると思 われ る主要な もの は,史 料13の7000名,史 料2・8の1万 名,史 料14の2万 名で

あ る 。 当 時,同 家 の 一 番 の ラ イ バ ル で あ っ た ブ ワ イ フ朝 以 前 の 大 ア ミ ー ル の 軍

隊が5000か ら1万 程度 であったこ とか ら同家の軍 隊 もほぼ1万 名程 度の規模で あった と思われる。

88 V.結 び に か え て

バ リー デ ィ ー 家 の 軍 隊 構 成 に つ い て ま とめ る と以 下 の よ う に な る(図 表2参

照)。 同 家 の 軍 隊 は 陸 軍 と水 軍 の2つ の 範 疇 に 分 か れ た1万 名 程 度 の 軍 隊 で あ

り,陸 軍 は ① ヤ ー ク ー トの 率 い て い た 軍 隊 の 一 部,② 本 来 の 権 力 基 盤,③ バ ス

ラ の 支 配 権 獲 得 以 降 に 集 め た 集 団,の3集 団 か ら,水 軍 は① 様 々 な 船 舶,② そ

の 人 員 の2要 素 か ら構 成 さ れ て い た 。 各 集 団 の 人 的 構 成 は 陸 軍 の ① が ア ッバ ー

ス 朝 旧 軍 の 非 ア ラ ブ 騎 兵(ト ル コ 人),ダ イ ラ ム 人,ベ ル ベ ル 人,ア ラ ブ 人,②

が 同 家 の 三 兄 弟 と同 家 の グ ラ ー ム,③ が 非 ア ラ ブ 騎 兵(ト ル コ 人),ダ イ ラ ム 人,

バ ス ラ の 民 衆 ,カ ル マ ト派 等 で あ っ た 。 水 軍 の 人 的 構 成 は 不 明 で あ る 。

こ れ ら の 集 団 の 中 で 同 家 の 軍 隊 の 主 力 とな っ た もの は 陸 軍 の ① の 集 団 で あ る。

こ れ は か つ て ア ッ バ ー ス 朝 内 で 活 躍 し て い た 軍 司 令 官 や ハ ー ジ ブ の 率 い て い た

私 的 軍 事 集 団 を 中 心 と し,そ れ にバ グ ダ ー ドか ら追 放 さ れ た もの を 加 え た ア ッ バ ー ス 朝 旧 軍 の 一 部 で あ る。 こ の 集 団 を取 り込 ん だ こ とで バ リ ー デ ィ ー 家 は 自

立 し,独 自 の 活 動 が 可 能 に な っ た 。 ま た 大 規 模 な 水 軍 の 存 在 もバ リー デ ィ ー 家

の 軍 隊 の 特 色 で あ る 。

こ の よ う な 観 点 か ら見 る と,バ リー デ ィー 家 の 勢 力 と は ア ッバ ー ス 朝 旧 軍 の 一 部 を 主 力 と し ,そ の 上 に 様 々 な 集 団 や 水 軍 を糾 合 した もの で あ っ た 。 従 っ て,

10世 紀 半 ば に イ ス ラ ー ム 世 界 の 中 央 地 域 で 繰 り広 げ られ た 一 連 の バ リー デ ィ ー

家 と ブ ワ イ フ朝 以 前 の 大 ア ミ ー ル と の 抗 争 は,ア ッバ ー ス 朝 旧 軍 の 一 部 を主 た

る基 盤 と した 勢 力 の 前 者 と か つ て の ジ ヤ ー ル 朝 の 軍 隊 の 一 部 を 基 盤 と した 勢 力

の 後 者 間 の 当 時 の 有 力 両 勢 力 の 対 立 抗 争 と い う性 格 を 有 して い た とい え よ う。

注 (1)大 ア ミール につ い て は,The Encyclopedia of Islam, New ed.(以 下EI.2と 略 記),I., P. 446."Amir al-Umara'"を 参 照 。 (2)拙 稿,「 ブ ワ イフ朝 以 前 の大 ア ミール の軍 隊 構 成 につ い て」,『イ ス ラム世 界 』49, 1997, pp. 19-37.

(3) H. Derenbourg, "Un Passage tronque du Fakhri sur Abou 'Abd Allah al- Baridi, vizir d'Ar-Radi Billah et d'Al-Mottagi Lillah", Or. Stud. T. Noldeke

gewidmet, vol. 1, 1906. pp. 193-196 . (4) D . Sourdel , "al-Baridi", EI.2, I ., pp .1045-1046,

(5)窪 田 治 美,「10世 紀 イ ラ ク の 地 方 政 権 ― バ リー デ ィ ー 家 の 場 合 ― 」,『イ ス ラ ム

世 界 』20,1982,pp.55-75.

89 (6)バ リ ー デ ィ ー 家 の 詳 細 な 動 向 に 関 し て は,窪 田,上 掲 論 文 を 参 照 。

(7)Miskawayh, I., p.110.

(8)Miskawayh,I., pp.152-153;Takmila, p.50;'Arlb, p.138.等 を 参 照 。

(9)ヤ ー ク ー ト は,318/931-321/933年 は フ ァ ー ル ス お よ び キ ル マ ー ン 総 督(Miska-

wayh, I., p.211),322/934年 に ア フ ワ ー ズ の 支 配 権 を 入 手 し,軍 を 率 い て 赴 任 し た が

(Miskawayh, I., pp.301-303;Kamil, VIII., pp.286-287),324/936年,ア ス カ ル ・

ム ク ラ ム で 殺 害 さ れ た(Miskawayh, I., p.347;Kamil, VIII., pp.315-321)。

(10)Miskawayh, I., pp. 339-347;Kamil, VIII., pp.315-321.

(11)Miskawayh, I., p.344.一 方,Kamil, VIII., p.320.で は'askar al-Baridiま た

は'asakir al-Barldlと 記 さ れ て い る 。 (12) Miskawayh, I ., pp. 363-373; Kamil, VIII., pp .329-337 . (13) Kamil, VIII., pp.343-344.

(14) Miskawayh, I., p. 409;Kamil, VIII., pp. 354-355.さ ら に,328/939-940年 に は

大 ア ミ ー ル ・バ ジ ュ カ ム と ア ブ ー ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー フ の 娘 サ ー ラ(Sara)の 婚 姻 が 行

わ れ て い る(Miskawayh, I., p. 410;Muntazam, vol. 13,p. 382;Nujum, vol. 3, p.266.). (15) Miskawayh, II., pp. 10-17; Kamil, VIII., pp. 371-374; Bidaya, VI., p.199. (16) Miskawayh, II., pp . 24-26; Kamil, VIII., pp.379-384; Suli, p.223; Dhahabi: ' Ibar., pp. 220-221 (17) Miskawayh, II., pp.28-30; Kamil, VIII., pp.384-385. (18) Miskawayh, II., p.46; Kamil, VIII., p.400. (19) Miskawayh, II., pp . 51-54; Kamil, VIII., pp.409-410; 'Imrani, p.172; Suli, p.244; Muntazam, vol.14 , p.35; Dhahabi: 'Ibar., p.229; Nujum, vol. 3 , p.280. (20) Miskawayh, II, p.58; Kamil, VIII., p.410. (21) Miskawayh, II., pp . 59-61; Kamil, VIII., pp.410-411. (22) Miskawayh, II., pp.111-112; Kamil, VIII., pp .468-469 . (23) Miskawayh, II., p.115; Kamil, VIII., p.480. (24) Miskawayh, I., p.339.

(25) ghulam (pl. ghilman)に 関 し て は,"Ghulam", EI. 2, II., pp. 1079-1081.を 参

照 。

(26) Miskawayh, I, p. 343. (27) Ibid, p.344. (28)こ こ でい う 「ア ラブ 」 とは,大 部分 が ア ラブ 遊牧 民 か らの騎 兵 で あ る と推測 され るが,そ の詳 細 につ い て は今後 の 課題 で あ る。 (29) Miskawayh, I, p. 347. (30) Ibid, p.359. (31) Ibid, p.364.

90 (32)Miskawayh, I., pp. 365-366; cf. 'Uyun, p.298.一 部 の 記 録 に バ リ ー デ ィ ー 家 の

と こ ろ に 行 っ た 者 は 約500名 と あ る(Suli,p.88.)。

(33) 'Uyun, pp .299-300. ; cf.Miskawayh , I ., pp.370-371. (34) Kamil, VIII., p.335. cf.Miskawayh, I ., p.372. (35) Miskawayh, I., pp.372-373. (36) Ibid, p.411. (37) Muruj, vol. 8 , p.345. (38) Miskawayh, II., p.13; cf.Takmila , p.122; 'Uyun, p.355. (39) 'Imrani, pp. 168-169. (40) Sufi, pp. 222-223. cf. Kamil, VIII., p. 379; Takmila, p .126 . (41) Miskawayh, II., p.24. (42) Miskawayh, 11., p.37; cf. Nujum, vol. 3 , p.278. (43) Miskawayh, II., p.53; cf. Takmila , p.138. (44) Miskawayh, II. , pp . 58-60; cf.Takmila , p.140.

(45)Dhahabi: 'Ibar, p.233.こ の 記 述 は333/944-45年 の 個 所 に 記 載 さ れ て い る が,明 ら

か に332/943-44年 の 誤 り で あ る 。

(46)シ ャ フ ィ ー ウ は,299/911年 に バ グ ダ ー ド の 駅 逓 長 官,同 時 に 宰 相,軍 隊,官 僚 等

の 監 査 役 に 任 命 さ れ た(Miskawayh, I., p.24)後,311/923年 に ア リ ー ・ プ ン ・イ ー

サ ー('AIib. 'Isa)を(Miskawayh, I., p.111),312/924年 に イ ブ ン ・ア ル ・フ ラ ー ト

(Ibn al-Furat)を 監 禁 し た(Miskawayh, I., p.127)が,同 年 死 去 し た(Kamil,

VIII.,p.157)a

(47)ナ ー ズ ー ク は310/922年 に バ グ ダ ー ドの 警 察 長 官(Miskawayh, I., p.83;Kamil,

VIII.,p.137),317/929年 に は カ リ フ ・カ ー ヒ ル の 侍 従()と な っ た が(Miskawayh,

I., p.193),同 年 カ リ フ ・ム ク タ デ ィ ル の 復 位 の 際,殺 害 さ れ た(Miskawayh,I., p.

195)。

(48)ヤ ル バ ク は 軍 司 令 官 ム ウ ニ ス の 侍 従 で あ り(Miskawayh,I.,p.26),子 の ア リ

ー ・ブ ン ・ヤ ル バ ク は319/931-320/932年 に か け て カ リ フ ・カ ー ヒ ル の 侍 従 で あ っ た が

(Miskawayh,I.,p.243),カ ー ヒ ル の 廃 位 に 失 敗 し,321/933年 に 共 に 逮 捕,処 刑 さ れ

た(Miskawayh, I., pp. 267-268;Kamil, VIII., pp.260-261)。Kamilで は 「Yalbaq」

を 「Bulyaq」 と し て い る 。

(49)ハ ー ル ー ン は,カ リ フ ・ム ク タ デ ィ ル の 母 方 の い と こ で あ り,ア ッ バ ー ス 朝 の 軍

司 令 官 だ っ た が,322/934年 に 反 乱 を 起 こ し,殺 害 さ れ た(Miskawayh, I., pp.306-

309;Kamil, VIII., pp.288-289)。

(50)例 え ば ナ ー ズ ー ク と ハ ー ル ー ン の 軍 事 集 団 に つ い てMiskawayh, I., pp.187-

188.を 参 照

(51)Miskawayh, I., p.303.

(52)326/937-38年 に も1万 名 の 兵 力 を 率 い て バ ジ ュ カ ム と 戦 っ て い る(Kamil,VIII.,

91 p.344.)

(53)指 揮 官 の 例 はMiskawayh,II.,PP.29-30,P.61;Takmila,p.129等,ま た ア ブ ー ・ ア ル ・フ サ イ ン の 侍 従 の ア ル ・ シ ャ ク リ ー(al-Shakrl)に つ い て はSuli ,P.140,

p.224を 参 照

(54)他 に カ ル マ ト派 の 存 在 例 と し て,Takmila,P.126;'Uyun,P.364;Bidaya,p.202.

が あ る

(55) Miskawayh, II., p.15.

(56) Ibid, p .112 .

(57) Miskawayh, II., p.46; Kamil, VIII., p.400‚Å‚Íal-Ranadi , Takmila, p.135

で はal-Zibariと あ る 。

(58)Miskawayh,I.,p.33

(59)例 え ば,大 ア ミ ー ル ・イ ブ ン ・ラ ー イ ク の 軍 隊 の 例(Miskawayh,I.,P.372),オ

マ ー ン 総 督 ・ユ ー ス フ の 例(Suli,p.244)が あ る 。

(60)分 遣 隊 の 例 と し て2000名(Takrnila,p.101),3000名(Miskawayh,I.,P.371)

が あ る 。

(61)拙 稿:上 掲 論 文,p.30を 参 照 。

[主 要 な 史 料 と 略 号] 'UyUn: Anonym , Kitab al-'Uyun wal-Hada'iq ft Akhbar al-Hada'iq, IV., O . Saidi (ed) , 2 parts, Damascus, Institut francais de Damas, 1972-1973 . Suli: Al-Suli, Abu Bakr Muhammad b. Yahya (d. 335/946), Akhbar al-Radt billah wal-Muttagt lillah, edited by J. Heyworth-Dunne, Cairo, 1935. Muruj: al-Mas`udi, Abu al-Hasan 'Ali b. al-Husayn (d. 345/956), Muruj al-Dhahab Ma'adin al-Jawhar, translated by C. B. de Meynard and P. de Courteille, 9vols, Tehran, 1970 ' Arib: 'Arib b. Sa'd al-Qurtubi (d. 4/10c) , Sila Ta'rikh al- Tabari, Leiden, 1897. Miskawayh: Miskawayh, Ahmad b. Muhammad (d.421/1030), Kitab Tajarib al- Umam, In The Eclipse of the '; original chronicles of the fourth Islamic century, edited and translated by H. F. Amedrez and D. S. Margoliouth, 7 vols, Oxford, 1920-1921. Takmila: al-Hamadani (d. 521/1127), Takmila Ta'rtkh al- Tabari, A. Kan'an (ed) , Beirut, 1961. ' Imrani: Ibn al-'Imrani (d.580/1184), al-Inba' fi Ta'rikh al-Khulafa', Qasim al- Samarra'i (ed), Leiden, E. J . Brill, 1973. Muntazam: Ibn al-Jawzi (d.597/1200) , al-Muntazam, Nu'aym ZarzUr (ed) , 18vols, Beirut, 1992. Kamil: Ibn al-Athir, 'Izz al-Din 'Ali b. Muhammad (d.630/1233), Al-Kamil ft al-

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