論 文 オ リエ ン ト 47-2 (2004): 20-45

後 期 マ ム ル ー ク朝 ス ル タ ー ン の私 財 と ワ ク フ -バルクークの事例-

The Private Property and Waqfs of the Circassian Mamluk Sultans: The Case of Barquq

五 十 嵐 大 介 IGARASHI Daisuke

ABSTRACT Qaytbay (r. 1468-96) and Qansuh al-Ghawri (r. 1501-16), the two most prominent Sultans of the late Circassian Mamluk period, donated substantial properties such as agricultural lands, houses, caravan- saries, public baths, etc. as Waqfs (religious endowments). C.F. Petry regards their activities as a "financial policy" intended to secure a private source of revenue independent of the traditional state financial system against the political and economic crises of the times. However, it must be noted that the preceding Sultans had also striven to hold private and Waqf properties. It is necessary to comprehend the meaning of their "financial policy" from the point of view of the historical development of the Sultan's private financial affairs. It seems that the Sultans developed their own resources because of practical necessity due to fundamental problems of the state and the political structure in this period. From this aspect, this paper examines the process by which Barquq, the first Sultan of the Circassian Mamluks (r. 1382-89, 90-99), accumulated property and its background, using narrative and archival sources. Con- sequently, the following facts have become clear: firstly, Barquq held vari- ous kinds of private and Waqf properties, and thus the Diwdn al-Amlak wal- Awgdf wal-Dhakhara, the special office having charge of them, headed by an Ustadar, was established; secondly, holding those properties was helpful for him in operating a government in the midst of political instability and the malfunction of the traditional state machinery; thirdly, he accumulated the properties by both fair means and foul, such as the diversion of state

*日 本学 術 振興 会 特 別研 究 員 ・東 洋 文庫 Research Fellow, Japan Society for the Promotion of Science/The Toyo Bunko propery, confiscation, the Istibdal (exchange of Waqf properties) etc. Subse- quently, the role of the Sultan's property in the political and financial spheres grew in importance throughout the Circassian Mamluk period.

は じ め に

近 年 の マ ム ル ー ク朝 史 研 究 の 動 向 と し て,ワ ク フ(waqf:寄 進 。 複 数 形 は ア

ウ カ ー フawqaf)文 書 を 用 い た 研 究 の 進 展 が あ る が,そ の 中 で 注 目 を浴 び て い

る も の に,マ ム ル ー ク 朝 末 期 の 二 大 ス ル タ ー ン,カ ー イ トバ ー イal-Ashraf

Qaytbay(在 位872-901/1468-96:ヒ ジ ュ ラ 暦/西 暦 。 以 下 同)と ガ ウ リーal-

Ashraf Qansuh al-Ghawri(在 位906-22/1501-16)の ワ ク フ 文 書 を 網 羅 的 に 分 析

し た ペ ト リーC.F.Petryの 一 連 の 研 究 が あ る 。 彼 は こ の 両 者 に よ る大 量 の 農

地 ・都 市 不 動 産 の ワ ク フ 設 定 を,王 朝 末 期 の 危 機 的 な 政 治 ・経 済 情 勢 と関 連 づ

け,そ れ を伝 統 的 な 財 政 シ ス テ ム に頼 ら な い,ス ル タ ー ン個 人 の 収 入 源 を確 保

するための 「財政政策」であった と見 る。 モス クや マ ドラサ といった宗教 施設 の建設 とセ ッ トとなることが多 いワクフが,単 な る 「慈善事業」 ではな く,軍 人支配層 にとって 「イスラームの保護者」 という支配の正当性 を示す意味合 い があったことや,財 産没収 か らの防衛や相続 による細分化 の回避 といった,財 産保全のための手段 として も用 いられていたことは以前か ら指摘 されてはいた

が,こ の よ う に ス ル タ ー ン に よ る ワ ク フ を,よ り直 接 的 な 財 政 政 策 の 一 環 と し

て 捉 え る 視 点 は 示 唆 に 富 む もの とい え よ う。

しか しス ル タ ー ンが 様 々 な 手 法 に よ る 私 財 の 獲 得 や そ の ワ ク フ 化 を 通 じて,

国 家 財 政 と は別 の 形 で 財 産 形 成 に 努 め て い た こ と は,規 模 は 及 ば ず と も 両 者 に

限 ら れ た もの で は な か っ た 。 ス ル タ ー ンの 私 有 地 や ワ ク フ を 管 理 運 営 す る た め

の 特 別 な 官 庁 と 官 職(Diwan/Ustadar al-Amlak wal-Awgaf al-Sultaniya (wal-

Dhakhira):後 述)が 後 期 マ ム ル ー ク 朝(チ ェ ル ケ ス ・マ ム ル ー ク朝: 784-922/

1382-1517)初 期 よ り既 に 存 在 し て い た よ う に,そ れ は歴 代 の ス ル タ ー ン た ち に

と っ て も一 般 的 な 手 法 で あ っ た 。 す な わ ち,一 見 特 別 に見 え る末 期 の 「財 政 政

策 」 も,こ う した 後 期 マ ム ル ー ク朝 を通 じ た ス ル タ ー ン財 政 の 歴 史 的 展 開 の 中

に位 置 付 け,そ の 意 味 を 問 う必 要 が あ ろ う。 さ ら に,理 念 的 に は 「君 主 」 と し

て 国 家 財 政 を 掌 握 し て い る は ず の ス ル タ ー ン が,そ こ か ら独 立 した 収 入 源 を別

個 に 必 要 と して い た 背 景 に は,こ の 時 代 の ス ル タ ー ン権 力 の あ り方 や 国 家 ・政

21 治 構 造 の 問 題 が 深 く関 わ っ て い る と思 わ れ る 。

こ の よ う な 問 題 関 心 の も と,本 稿 で は,後 期 マ ム ル ー ク 朝 初 代 ス ル タ ー ン ・

バ ル ク ー クal-Zahir Barquq(在 位784-91 ,792-801/1382-89,1390-99)を 対 象

に,叙 述 史 料 と文 書 史 料 を用 い て,こ う し た 財 産 形 成 の あ り方 とそ の 背 景 に つ

い て 考 察 す る。 そ れ は,彼 の 時 代 に初 め て 前 述 した 専 任 の 官 庁 が 置 か れ,ス ル

タ ー ン の 私 財 と ワ ク フ の 管 理 運 営 が 組 織 的 に 行 わ れ る よ う に な っ た こ と か ら,

そ の 実 態 を 明 らか に して い く こ とが 議 論 の 出 発 点 と な り,ま た 後 の ス ル タ ー ン

の 事 例 と 比 較 す る上 で モ デ ル ケ ー ス と な る と考 え る た め で あ る 。

Ⅰ.ス ル タ ー ン の 私 財 と運 営

1. バ ル ク ー ク 以 前 の ス ル タ ー ン

ス ル タ ー ン に よ る私 財 獲 得 の た め の 努 力 は,ワ ク フ 化 と い う 手 段 を 用 い た か

ど うか は と も か く と して,か ね て か ら存 在 して い た 。 有 名 な 例 と し て は,マ ム

ル ー ク朝 最 盛 期 の ス ル タ ー ン ・ナ ー ス イルal-Nasir Muhammad b.Qalawun

(治 世 第 三 期709-41/1310-41)に よ る 「ハ ー ッス 庁(Diwan al-Khass;私 財 庁)」

の 設 立 が 挙 げ られ よ う 。 し か し こ れ は リ トルD.P.Littleが 明 らか に した よ う

に,彼 以 前 か ら も見 られ る蓄 財 の 方 法 で あ る,ス ル タ ー ン の た め 売 買 や 投 機 な

ど を行 っ た 「代 理 人(wakil)」 の 延 長 で あ り,そ れ が 様 々 な 国 家 の 権 益 を吸 収

した 結 果 生 ま れ た もの で あ っ た 。 理 念 的 に は,財 政 機 構 を通 じ て 徴 収 さ れ た 税

収 は 金 庫(khizana)に 運 ば れ,そ こ か ら国 家 の 必 要 支 出 が 賄 わ れ る こ と に な っ

て い た 。 しか し,収 入 と支 出 が あ る程 度 固 ま っ て い る 国 家 財 政 に お い て,ス ル

タ ー ン が 弾 力 的 な 運 営 を す る た め,特 に 宮 廷 の 運 営 費 や マ ム ル ー ク 軍 人 養 成 の

た め の 奴 隷 購 入 費 等,個 人 的 用 途 の 費 用 を 捻 出 す る に は,そ れ と は 別 個 の 資 産

を持 つ こ とが 有 効 で あ る の は 言 う ま で もな い 。 そ の た め 歴 代 の ス ル タ ー ン は上

記 の よ う な 資 産 の 連 用 ・形 成 に 努 め た の だ が,独 裁 的 な 権 力 を 確 立 した ナ ー ス

イ ル は そ れ を さ ら に 拡 大 した 結 果,こ の 官 庁 へ と発 展 させ た と 見 な せ よ う 。

さ て,ナ ー ス ィル の 没 後,8/14世 紀 後 半 の 前 期 マ ム ル ー ク朝(バ フ リー ・マ

ム ル ー ク 朝: 648-784/1250-1382)末 期 は,ス ル タ ー ン権 力 の 弱 体 化 が 顕 著 な 政

治 的 経 済 的 混 乱 の 時 代 で あ っ た が,こ の 時 代 の 「ス ル タ ー ン私 財 」 の あ り方 は,

ナ ー ス ィ ル 以 前 と は様 相 が 異 な る 。 実 権 を あ る程 度 握 る こ と に 成 功 し た,ハ サ

ンa-asir Hasan(治 世 第 二 期755-62/1354-61)と シ ャ ー バ ー ンal-Ashraf

22 Sha'ban(在 位764-78/1363-77)の 二 人 の ス ル タ ー ン は,特 に 不 動 産/農 地 を大

規 模 に 保 有 して い た 。ハ サ ン は 自身 で 多 くの 私 有 地(amlak)を 購 入 し,ま た 彼

が 建 設 し た 巨大 な マ ドラ サ は,広 大 な 農 地 を 国 有 地(amlak bayt al-mal)か

ら の 転 用 に よ っ て ワ ク フ 財 と し て い た 。 ま た シ ャ ー バ ー ン は 治 世 最 盛 期 の777/

1376年 に お い て,エ ジ プ ト全 土 で23地 区(nahiya),105,250デ ィ ー ナ ー ル ・ジ ャ

イ シ ー(dnj)以 上 に 及 ぶ 私 有 地 を 持 ち,他 に 彼 の ワ ク フ 地 が2地 区 あ っ た 。

彼 らが こ の よ う な 大 規 模 な 農 地 の 保 有 を 志 向 し た こ と に は,当 時 の 政 治 状 況

が 大 き く関 係 して い る と思 わ れ る 。 す な わ ち,こ の 時 代 ス ル タ ー ン の 実 権 が 失

わ れ,有 力 な マ ム ル ー ク ・ア ミ ー ル た ち に よ っ て 構 成 さ れ る 「内 閣(majlis al-

mashura)」 が 国 家 の 行 財 政 運 営 を 掌 握 し,ア ミ ー ル の 最 高 位 で あ る ア タ ー ベ ク

(atabak al-'asakir:総 司 令)が 事 実 上 の 統 治 者 と し て 「ス ル タ ー ン の 厩 舎(al-

Istabul al-Sultani)」 と呼 ば れ る建 物 に 政 庁 を 置 く と い う,言 わ ば 「ア タ ー ベ ク

体制」 とも呼ぶべ き政治体制が成立 した。そ こでは,血 縁 に基づ いて即位 し, 傀儡 とされつつ も実権 を握 ろうとす るカ ラーウーン家のスル ター ンと,ア ター ベ クを中心 とした有 力ア ミール との間での国政 の主導権 をめ ぐる絶 えざる緊張

と綱引 きがあった。その中でスル ター ンが実権 を握ろ うとした場 合,公 的な財 政組織 に頼 るこ とはで きず,そ れ とは別の私 的な財源 を確保す る必要 があ り, 恒常的な収入源 とな る農地の獲得 を志向 した と見 なせ るであろ う。 しか しこ うした手法 はスルターンに限 られた ものではな く,一 方でアターベ ク ら有力ア ミール たち も同様 に,彼 らの言わば 「正規の収入源」 であ るイクタ 一以外 にも様 々な手法 で農地 を獲得 し,自 身の経済基盤の拡大 に努 めていた。 す なわち この時代,こ の ような政治情勢や,ペ ス トの蔓延 によるイクター制へ の影響な どを背景 に,ア ミールに よる政府直轄地の賃借や イクターの売買 と私

有地化 ・ワクフ化が広 まった。それによ り国庫 からの農地の流 出 と有力者への 集積が次第に進行 し,国 家 による農地の一元 的掌握 が綻び を増 していったので

あ る 。

さ て,こ の 時 代 の こ う し た 「私 財 」 を 見 て い く に あ た っ て 重 要 な タ ー ム に,

「ザ ヒー ラ(dhakhira; pl.dhakha'ir)」 と い う語 が あ る。 こ れ は 元 来 「財 宝,

蓄 え 」 とい う意 味 を 持 つ が,こ の 時 代 の 用 法 で は,ス ル タ ー ンや ア ミー ル ら が

蓄 え て い た 財 産,特 に金 銀 財 宝 と い っ た 動 産 の 類 を 意 味 し,そ れ が 死 亡 ・財 産

没 収 時 な ど に 発 見 さ れ る よ う に,し ば しば 秘 匿 さ れ て い た 。 そ の 中 で も特 に ス

23 ル タ ー ン の そ れ を管 轄 す る 「ザ ヒ ー ラ 監 督 官(nazir al-dhakhlra)」 が シ ャ ー バ ー ン の 治 世 頃 か ら史 料 中 で 見 ら れ る よ う に な り ,そ の 管 理 を 担 う役 職 が 重 要 視

さ れ る程 ス ル タ ー ンの 蓄 財 の 規 模 が 膨 ら ん で い た こ と を 示 して い よ う 。

こ の よ う なバ フ リー 末 期 の 状 況 を念 頭 に お い た 上 で,以 下 で は こ の よ う な 背

景 の も と権 力 を握 っ た,バ ル ク ー ク の ケ ー ス を検 討 す る 。

2. バ ル ク ー ク

バ ル ク ー ク は ,シ ャ ー バ ー ン暗 殺 後 の 政 争 を経 て779/1378年 か ら約 五 年 間 ア

タ ー ベ ク と して 実 権 を 握 っ た 後,784/1382年 に ス ル タ ー ン と し て 即 位 し た 。 そ

の 後,反 乱 に よ っ て 一 時 そ の 地 位 を逐 わ れ る も の の,801/1399年 に 死 去 す る ま

で,二 十 年 以 上 に わ た っ て 支 配 者 と し て 君 臨 した 。 彼 は そ の 治 世 を 通 じて 莫 大

な 財 産 を保 有 す る こ と に も成 功 し た の だ が,そ こ で は 彼 に よ っ て 設 立 さ れ た 「ア

ム ラ ー ク 庁(Diwan al-Amlak:私 有 不 動 産 庁)」 が 大 き な 役 割 を 果 た した と思

わ れ る 。 こ の 官 庁 につ い て はSubhで 以 下 の よ う に 説 明 さ れ る。

「こ れ(Diwan al-Amlak)は,前 述 の バ ル ク ー ク が 創 設 した 官 庁 で あ る 。彼

は こ の(官 庁 の)た め に,私 有 地(amlak)と 名 付 け た 土 地(bilad)を 割 当

て,そ こ に 長 官(ustadar)と 官 僚 た ち(mubashirun)を(政 府 の 財 政 機 構 と)

別 個 に 設 置 し た 。 こ の 官 庁 は ス ル タ ー ン の た め の 専 用(khass)で あ り,手 当

(nafaqa)の(支 給 の た め の)割 当 や(公 的 な)支 出 は 課 せ られ て い な い 。」

(※ 下 線 部 に つ い て は 後 述)

ま た こ の 官 庁 の 次 官 に あ た る監 督 官(nazir al-amlak al-sultaniya)職 は,以

下 の よ う に述 べ られ る。

「こ の 職 の 任 務 は,農 地(diva')や 住 宅(riba')や そ の 他 と い っ た ス ル タ ー ン 専 用 の 私 有 不 動 産(amlak)の 管 轄 で あ る。」

こ の よ う に 同 庁 は ナ ー ス ィ ル 期 に お け るハ ー ッス 庁 な ど と は 異 な り,ス ル タ ー ン が 所 有 す る 農 地 ・住 宅 と い っ た よ り安 定 的 な 収 益 が 見 込 め る不 動 産 を専 門

の 管 理 対 象 と し て い た こ と,ま た そ れ が 私 有 財 で あ る故 に そ の 収 入 は ス ル タ ー

ン 自身 の 裁 量 で 自 由 に 扱 え た こ と に特 色 が あ る 。 そ れ で は,バ ル ク ー ク が こ の

官 庁 を 設 立 す る に 至 る背 景,さ ら に ワ ク フ が 彼 の 「私 財 政 策 」 と ど の よ う に 関

連 し て い る の か,以 下 年 代 記 か ら見 て い く こ と と し よ う 。 バ ル ク ー ク が ア ミー ル 時 代 か ら あ る程 度 の 私 財 を有 して い た こ と は,彼 の 私

24 有地や賃借地,ザ ヒーラを管轄 す る官吏の存在や,彼 がカイ ロ市内の不動産物

件 を 賃 借 し て い る 事 例 か ら も 明 ら か で あ る。784/1382年 の 即 位 後(第 一 期)

も,宙 官 サ ン ダ ルSandal al-Manjakiが 彼 の 治 世 中 一 貫 して ザ ヒ ー ラ の 金 庫 係

(khazindar al-dhakhlra)と し て そ の 保 管 と 出 納 を 任 さ れ て い る こ と や,791/

1389年 の 失 脚 時 に は 秘 匿 さ れ て い た 大 量 の ザ ヒ ー ラ が 発 見 さ れ る よ う に,多 く

の 財 産 を 保 有 して い た 。 彼 が 即 位 後 も,自 身 の ア ミー ル 時 代 の イ ク タ ー を 他 者

に授 与 す る こ と な く保 持 し続 け て い た こ とか ら も(後 に ム フ ラ ド庁(al-Diwan al-Mufrad:独 立 官 庁)に 転 用:後 述),個 人 的 な 資 産 と収 入 源 を 保 持 し て い た

こ と は 確 か と思 わ れ る 。 しか し総 じ て ア タ ー ベ ク 期,第 一 期 は,後 代 に 比 べ て

情 報 は少 な い 。 一 方 ワ ク フ に つ い て は ,彼 が カ イ ロ市 内 の バ イ ナ ・ア ル カ ス ラ イ ン 地 区 に ザ ー ヒ リー ヤ 学 院(al -Madrasa al-Zahiriya)を 建 設 し,ワ ク フ を 設 定 し た の が 治

世 第 一 期 の788/1386年 で あ っ た 。791/1389年 の 失 脚 時 に こ の 学 院 か ら7,500デ ィ ー ナ ー ル(dn)も の 現 金 が 発 見 さ れ ,没 収 さ れ て い る こ と は,こ の ワ ク フ も ま

た バ ル ク ー ク の 私 財 政 策 の 一 翼 を担 っ て い た こ と を 示 して い よ う。

さ て,そ れ が792/1390年 か ら の 第 二 期,特 に 治 世 末 期 に な る に 従 い,バ ル ク

ー ク が 私 財 運 営 に よ り力 を 入 れ る様 子 が 顕 著 に な っ て い く。 そ の 具 体 的 な 過 程

を示 す と,ま ず797年 第7月/1395年4月 に,前 述 の ア ム ラ ー ク 庁 が 年 代 記 中 に

初 め て あ ら わ れ,同 官 庁 の 長 官 と監 督 官 が 任 命 さ れ た 。 翌798年 第1月/1395年

10月 に は,ザ ー ヒ リー ヤ 学 院 の 管 財 人 職 に 関 す る 条 件 が 変 更 さ れ,従 来 カ ー デ

イ ー に 任 せ て い た 同 職 をバ ル ク ー ク が 自身 で 掌 握 す る よ う に な っ た 。 こ の 変 更

に つ い て は後 程 文 書 を 用 い て 検 討 す るが,彼 が 自身 の ワ ク フ 財 の 運 営 に よ り直

接 的 に 関 与 す る よ う に な っ た こ と を意 味 して お り,翌 年 の 彼 の 私 有 不 動 産 との

運 営 統 合 に つ な が る もの で あ っ た と 言 え よ う 。 そ して,当 時 バ ル ク ー ク の 側 近

と し て 権 勢 を誇 り,財 政 上 の 権 益 を 多 数 握 る よ う に な っ て い た カ イ ロ 総 督(wall al-Qahira)イ ブ ン ・ア ッ タ ブ ラ ー ウ ィ ー'Ala' al-Din'Ali b.al-Tablawiが,翌

799年 第8月/1397年5月 に 「ス ル タ ー ン の ア ム ラ ー ク ・ア ウ カ ー フ ・ザ ヒー ラ

庁 長 官(ustadar al-amlak wal-awgaf wal-dhakhira)」 に 任 命 さ れ る 。バ ル ク ー

ク の 持 つ 動 産 ・不 動 産 ・ワ ク フ の 三 つ が 並 記 され,一 人 の 人 物 の 下 に 置 か れ る

の は こ の 時 が 初 出 で あ り,こ れ らが 「ス ル タ ー ン 私 財 」 と して 一 元 的 に 管 理 運

営 さ れ る よ う に な っ た こ と を 示 して い よ う 。

25 そ れ で は,バ ル ク ー ク は ス ル タ ー ン と して の 実 権 を 持 ち,パ フ リー 末 期 の ス

ル タ ー ン た ち の よ う な ア タ ー ベ ク 「政 府 」 と の 緊 張 関 係 は な か っ た に も か か わ

らず こ の よ う な 方 策 を採 っ た こ と に は,い か な る背 景 が あ る の だ ろ う か 。 そ こ

に は,彼 の 登 極 時 に お け る 政 治 的 経 済 的 な 問 題 が 大 き く影 響 し て お り,同 じ く

彼 の 手 に よ っ て 成 さ れ た,ム フ ラ ド庁 の 設 立 と併 せ て 考 え る 必 要 が あ る。 す な

わ ち こ の 当 時,権 力 闘 争 の 続 発 と そ れ に伴 う 「ス ル タ ー ン の マ ム ル ー ク 軍 団(al- mamalik al-sultaniya)」 の 政 治 的 台 頭 か ら,バ ル ク ー ク に と っ て そ の 掌 握 が 政

権 安 定 上 の 最 大 の 課 題 で あ っ た う え に,前 述 の 有 力 者 に よ る 国 有 地 の 獲 得 を 主

因 と して,国 家 財 政 は窮 乏 し て い た 。こ の よ う な 状 況 の 中 で,バ ル ク ー ク は788/

1386年,自 身 の ア ミー ル 時 代 の イ ク タ ー を 財 源 と し て,マ ム ル ー ク 軍 団 へ の 支

給 を 専 業 と す る ム フ ラ ド庁 を 設 立 す る の だ が,そ れ に 対 し,第 一 期 に 試 み た 国

家 財 政 の 抜 本 的 な再 建 が 最 終 的 に 失 敗 に 終 わ っ た こ とや,子 飼 い の マ ム ル ー ク

兵 を 増 強 す る た め の 奴 隷 購 入 費 の 必 要 な ど か ら,自 身 が 自 由 に 処 理 で き る 収 入

源 を 確 保 し よ う と した の が,第 二 期 の ア ム ラ ー ク 庁 の 設 立 で あ っ た と位 置 付 け

ら れ る で あ ろ う。 す な わ ち 彼 の こ の 二 官 庁 の 設 立 は,目 前 の 政 治 的 ・経 済 的 な

問 題 に 対 処 す る た め ア ミ ー ル 時 代 か ら の 資 産 を利 用 し,そ れ を 既 存 の 財 政 機 構

の 枠 外 に 置 く もの で あ っ た 。 そ の 意 味 で は,バ ル ク ー ク に よ る ア ム ラ ー ク 庁 の

設 立 と ワ ク フ ・ザ ヒ ー ラ と の 統 合 は,画 期 的 と い う よ りは む し ろ 個 人 的 経 済 基

盤 を別 個 に確 保 す る とい う ア タ ー ベ ク 時 代 か ら の 方 策 を拡 大 ・組 織 化 した もの

で あ り,そ の 背 景 に は従 来 の 財 政 制 度 の 行 き 詰 ま りが あ っ た の で あ る 。

次 章 で は,こ の よ う な バ ル ク ー ク の 私 財 の 実 態 を,文 書 史 料 か ら明 ら か に し

て い く。

Ⅱ.バ ル ク ー ク の 私 財 の 分 析

1. 物 件

マ ム ル ー ク朝 期 の ワ ク フ や 売 買 契 約 等 の 文 書 史 料 は,主 に エ ジ プ トの 国 立 公

文 書 館(Dar al-Watha'iq al-Qawmiya)と ワ ク フ 省(Wizara al-Awqaf)に 収

蔵 さ れ る が,そ の 中 に バ ル ク ー ク が 当 事 者 と し て 関 わ っ て い る もの は,最 も大

部 なザー ヒリーヤ学院の ワクフ文書を含め,計 七点 ある。 これ らの文書 にあ ら われ る物件 を年代順 に一覧表 に した ものが(表1)で ある。彼 の保有資産がこ れで全てだった とは考 え難 く,あ くまで参考 ではあるが,文 書で確認で きるも

26 の が 全 部 で33件,内 ワ ク フ化 さ れ た もの は26件 あ り,農 地 の 他 公 衆 浴 場 ・住 宅 ・

隊 商 宿 ・厩 舎 等 の 都 市 不 動 産,農 村 の 搾 油 機 ・水 車 ・そ の 道 具 等 様 々 な 物 件 を

含 ん で い た 。

(表2)で は こ れ ら の 物 件 を所 在 ご と に分 類 し た 。 こ れ を見 る と全 体 の 約7

割 を エ ジ プ トの 物 件 が 占 め,か つ そ の 多 くが カ イ ロ に 集 中 し て い た こ とが 一 目

瞭 然 で あ る が,ダ マ ス ク ス,ア レ ッ ポ の 両 州 に も少 な か ら ず,主 都 以 外 に も物

件 を保 有 し て い た こ とが 窺 え る。

ま た,物 件 の 種 類 別 に ま と め た の が(表3)で あ る 。 一 見 して わ か る よ う に,

農 地 が 総 計 で10件 な の に 対 し都 市 不 動 産 は20件 と二 倍 を 占 め,特 に エ ジ プ トの

物 件 は そ の 大 部 分 が 都 市 不 動 産 で 農 地 は わ ず か3件 で あ る。 しか し,こ の 結 果

は 多 分 に 文 書 の 残 存 状 況 が 影 響 し て お り,こ れ を も っ て バ ル ク ー ク は 農 地 の 保

有 に は 力 を 入 れ て い な か っ た と は 言 え な い 。Tuhfaを も と に,「バ ル ク ー ク の ワ

ク フ 」 と記 さ れ て い る農 村 に つ い て ま と め た の が(表4)で あ る が,こ れ に よ

れ ば バ ル ク ー ク の ワ ク フ 地 は,エ ジ プ ト全 土 で 計16地 区,収 入 高 は80,800dnj以

上 に 及 ん で い た 。 こ れ らの 農 地 の 内 文 書 と一 致 す る の は2地 区 の み で あ り,ま

た こ の 表 か ら は,彼 の ワ ク フ 地 が 特 に フ ァ イ ユ ー ム 県al-Fayyumiyaに9地 区

と集 中 し て い る が,い ず れ も文 書 に は見 出 せ な い 。 こ の 史 料 か ら は こ れ らが 何

を 対 象 目 的 と した ワ ク フ か は 明 らか で な い が,バ ル ク ー ク が 現 在 文 書 と して 残

っ て い る もの 以 外 に も様 々 な ワ ク フ を 設 定 して い た こ とか ら,文 書 と は 別 の も

の を 対 象 と して い る可 能 性 も あ ろ う 。

2. 集 積 過 程

i) 入 手/ワ ク フ 時 期

(表5)に よ れ ば,バ ル ク ー ク が 物 件 の 入 手 や ワ ク フ 寄 進 を 行 っ て い る 時 期

は,ア タ ー ベ ク 期1回/一 期5回/二 期8回 と後 に な る程 頻 度 が 高 くな り,第 一

章 の 分 析 と一 致 す る。 ま た 彼 が そ れ を い か な る状 況 で 行 っ て い た か 検 討 し て み

る と,当 然 の こ と な が ら,そ の 多 くが 比 較 的 治 世 の 安 定 し た 時 期 で あ っ た 。 そ

の 中 で 特 徴 的 な もの を挙 げ る と,バ ル ク ー ク が 復 位 か ら わ ず か 三 ヵ 月 後 に 農 村

を入 手 し(表5,No.7),そ れ を 失 脚 の 原 因 で あ っ た ミ ン タ ー シ ュTimurbugha

Mintashの 乱 が 収 束 に 向 か う時 期 に ワ ク フ と し て お り(同No.8),彼 が 復 位 直 後

か ら資 産 形 成 に 力 を入 れ る様 子 が 窺 え る 。 そ し て シ リア 遠 征 の 末,乱 を 鎮 圧 し,

27 カ イ ロ に 帰 還 した 翌 月 に も多 くの ワ ク フ を 行 っ て い る(同No.9)。 ま た バ ル ク ー

ク が 対 テ ィム ー ル 遠 征 の 途 上,ガ ザ 近 郊 に 滞 在 し て い る 頃 に ワ ク フ を 設 定 し て

い る例 も あ る(同No.11)。 こ れ は 後 の ス ル タ ー ン,ガ ウ リ ー が,マ ム ル ー ク 朝 の

滅 亡 へ と続 くオ ス マ ン軍 との 会 戦 を控 え た 段 階 に お い て も ワ ク フ 設 定 に 勤 し ん

で いた こととも共通 す る姿勢 とも言え,火 急の時期 に,お そ ら くは 自身が戦死 した場合 に備 えて善行 を積む ことと子孫 に財産 が遺 るこ とを意図 し,ワ クフ設 定 を急いだこ とを示 してい よう。

ii) 入手経路 ワクフに設定可能な物件 は,寄 進者の私有財であるこ とが法 学上の原則で あ ったが,バ ル クークの ワクフ物件26件 中,彼 の私有財 となった 日付や経緯が確

認 で きるものは9件 に過 ぎず,か つ 「某年月 日にBarquqのmilkと なった」と のみ記 され るのが ほ とん どで,大 部分 の入手経路 は明 らかでない。 それ と別 に

売買文書な どか ら入手経路 がわか る物件が8件 あ る。 これ らを踏 まえ,バ ルク ークの保有 物件 を入手経路 ご とに以下のように分類 した。

① 他者か らの購入/譲 渡の体裁 を もつ もの バル クー クに直接物件 を引 き渡 した人物が確認 で きるのが,以 下の三つのケ

ー ス で あ る: (a) Timurbugha al-Manjakiか ら 購 入(表1 ,No.18)。(b) Baktamur

al-Saqi al-Nasiriの 子 孫 か ら購 入(同No.27)。(c) Timurbayの 手 を 経 た 物 件(同

No.28-33)。

こ こ で 特 に 取 り上 げ た い の が,(c)の 事 例 で あ る 。 表1,No.28-33 (WA,j67)

は,798年 第8月20日/1396年5月29日 に ア ミー ル の テ ィ ム ル バ ー イTimurbay

が 四 人 の 人 物 か ら購 入 し,そ れ を バ ル ク ー ク が 約7ヵ 月 後 の799年 第3月5日/

1396年12月7日 に彼 か ら 「同 じ金 額 で 」購 入 し た 。 ま た 同No.28 (WA,j736)は,

バ ル ク ー ク 治 世 一 期 の 有 力 ア ミー ル ・ハ リー リーJahrkas al-Khaliliが 購 入 し,

791/1389年 の 死 後 遺 産 とな っ た 隊 商 宿 の 一 部(hissa)を,彼 の 子 孫 が テ ィ ム ル

バ ー イ に798年 第8月7日/1396年5月16日 に 「譲 渡(intaqala)」 し,そ れ を彼

が 同 じ く799年 第3月5日/1396年12月7日 にバ ル ク ー クへ 譲 渡 して い る 。

以 上 の 過 程 を 勿 論,バ ル ク ー ク とテ ィ ム ル バ ー イ との 間 で 交 わ さ れ た 通 常 の

取 引 で あ っ た と も見 な し得 る。 しか し,彼 が 入 手 し た 物 件 を 短 期 間 で 譲 り渡 し

て い る こ と か ら,そ も そ も最 初 か らバ ル ク ー ク に 引 き 渡 す こ と を 前 提 に,彼 の

28 財産獲得の手助 けを任務 とした,非 公式の 「代 理」ではなか ったか とい う仮 説 も成 り立つで あろ う。 またペ トリーによれば,ガ ウ リーに物件 を引渡 してい る 人物の内,年 代記な どで比定で きる者 は,ほ ぼ全員 が財産没収 されてい るとい

う 。 こ の こ と を 考 え れ ば,こ の 不 自然 な ケ ー ス も 同 様 に,バ ル ク ー ク の 所 有 権

の 「合 法 性 」 を 示 す こ と を 目 的 と し て,財 産 没 収 を糊 塗 して 正 規 の 取 引 を 装 っ

た もの で あ る 可 能 性 も あ ろ う 。 こ の テ ィ ム ル バ ー イ が い か な る人 物 か 他 の 史 料

か ら 比 定 で き な い た め,残 念 な が ら詳 し い 背 景 は 不 明 で あ る 。

② 国 庫 財 産 の 購 入/流 用

後 期 マ ム ル ー ク朝 時 代 の ス ル タ ー ンの ワ ク フ で は,国 有 地 を代 価 を支 払 う こ

と な く 自身 の ワ ク フ に 転 用 す る 例 が しば し ば 見 ら れ た 。 例 え ば イ ー ナ ー ルal-

Ashraf Inal(在 位857-65/1453-60)や カ ー イ トバ ー イ な ど の ワ ク フ 文 書 に は,

彼 らが ワ ク フ と し た 農 地 が 国 庫(Bayt al-Mal)か ら 「合 法 的 に 」転 用 し た もの

を含 む 旨 が 明 記 さ れ て い る。 ま た,代 価 を 支 払 っ た 「購 入 」 に よ っ て 国 庫 か ら

農地 を獲得 し,ワ クフに設定す るとい う手続 きを経 る場 合 もあった。 この よう に君主が国有地 を特定 目的のワクフ とす るこ とや,自 身の もの として購入す る

こ と の 合 法 性 に つ い て は法 学 上 議 論 が あ っ た が,実 際 に は 広 く見 られ た 。

そ れ で はバ ル ク ー ク の ワ ク フ は ど う で あ っ た か と言 え ば,788/1386年 に マ ド

ラ サ へ の ワ ク フ と さ れ た 物 件 に 国 庫 を 出 所 とす る も の が あ っ た こ と を 示 す 文 言

が 同 文 書(DW,9/51)の 結 び 部 分 に あ り,や は り国 庫 財 産 を 自身 の ワ ク フ に 転

用 して い た こ と が わ か る 。 ま た 表1,No.19の 隊 商 宿 も,バ ル ク ー ク が 国 庫 代 理

人(wakil bayt al-mal)を 通 じて 獲 得 し て い る 。 こ こ で,先 の ア ム ラ ー ク 庁 に

つ い て のSubhの 引 用 で 下 線 を 引 い た 部 分 を 想 起 さ れ た い 。 こ の 官 庁 にバ ル ク ー ク が 「私 有 地 と 名 付 け た 土 地 を 割 当 て 」 た ,と 含 み の あ る表 現 が さ れ て い る

こ と は,や は り彼 が 国 有 地 を 自身 の 私 有 地 に 転 用 し た こ と を意 味 して い る と推

測 さ れ よ う。 ま た,実 際 にバ ル ク ー ク が ア ミー ル の イ ク タ ー を 自身 の 私 有 地 と

して い る事 例 も見 ら れ る 。 以 上 に鑑 み る と,先 述 の よ う に大 部 分 の ワ ク フ 物 件

の 入 手 経 路 が 文 書 中 に 明 記 さ れ て い な い の は,国 庫 財 産 か ら転 用 さ れ た もの が

少 な か ら ず 含 ま れ て い た た め で は な い だ ろ う か 。 そ の 傍 証 と して,(表4)に あ

るバ ル ク ー ク の ワ ク フ と な っ て い る 農 地 は,そ の ほ とん ど(16中13件)が 以 前

は 政 府 の 財 務 官 庁 に属 す る 直 轄 地(6件)か イ ク タ ー(7件)で あ っ た 。 こ れ

が 国 庫 か ら 直 接 転 用 さ れ た の か,そ れ と も一 度 第 三 者 の 手 に 渡 っ た もの か は 断

29 定 で き な い が,結 果 と して は彼 の ワ ク フ 設 定 は,国 有 地 の 侵 食 と 表 裏 一 体 で あ

っ た と い え よ う 。

③ そ の 他 バ ル ク ー ク が,治 世 第 二 期 の ア タ ー ベ ク で あ っ た イ ー ナ ー ルInal al-Yusufi

(d.794/1392)の 遺 産 を 獲 得 して い る ケ ー ス が あ る。 文 書 に は,そ れ が バ ル ク

ー ク の 私 有 財 に な っ た 経 緯 は記 さ れ て な い が ,彼 が 晩 年 バ ル ク ー ク と の 対 立 か

ら 自 宅 に 蟄 居 を 命 ぜ られ,毒 殺 さ れ た と も言 わ れ て い る こ とか ら,遺 産 の 没 収

に よ る の で は な い か と推 測 さ れ よ う。

ま た 彼 が,他 の ワ ク フ とな っ て い た 物 件 を イ ス テ ィ ブ ダ ー ル(istibdal:交 換)

によって入手 してい る事例 も見 られ る。 ワクフ物件のイスティブ ダール は,従

来その合法性 に対 す る疑 いか ら実行 され ることは多 くなかったが,こ の時代 ま での ワクフの格段の増加 を背景 に,バ ル クークの登極前後 からよ り広 く行われ

る よ う に な っ て お り,バ ル ク ー ク も ま た こ の 「新 し い 」 手 法 を私 財 獲 得 の た め

の 一 手 段 と した の で あ っ た 。

iii) 代 理 人

以 上 に 関 して は,必 ず し もバ ル ク ー ク 自 身 が 直 接 携 わ る わ け で は な く,法 的

な代 理 人(wakil)を 通 じて 行 う こ とが 多 々 見 られ た(表6)。 ま ず 取 り上 げ た

い の が,No.4の イ ブ ン ・タ ン キ ズ で あ る 。彼 は 前 述 の797/1395年 に 初 代 の ア ム ラ ー ク 庁 長 官 に 任 じ ら れ た 人 物 で ,799年 第8月/1397年5月 に解 任 さ れ た 時 は ア ム ラ ー ク ・ア ウ カ ー フ ・ザ ヒ ー ラ 庁 長 官 で あ っ た と述 べ ら れ て い る。 す な わ ち

こ の 職 が,バ ル ク ー ク の 私 財 獲 得 の た め の 実 務 に あ た っ て い た こ とが 文 書 か ら

も裏 付 け られ た 。ま た,No.1,2の 人 物 も,バ ル ク ー ク の 言 わ ば 側 近 の 地 位 に あ り,

個 人 的 に近 し い 人 物 が 彼 の 私 財 政 策 に 関 わ っ て い た こ とが 見 て 取 れ よ う 。

以 上 の よ う に,バ ル ク ー ク は 様 々 な 手 段 を 通 じて 国 内 各 地 の 多 種 多 様 な 資 産

を 獲 得 して い た 。 そ し て そ の 過 程 に は,必 ず し も合 法 的 と は 言 い切 れ な い,ス

ル タ ー ン の 地 位 や 権 限 を 利 用 し た 強 引 な 手 法 を も取 り混 ぜ て い た様 子 が 窺 え る 。

そ れ は彼 の 個 人 的 な 金 銭 欲 に よ る とい う よ り は,先 に 述 べ た よ う な 政 治 的 状 況

か ら,こ う し た私 財 の 確 保 が 政 権 運 営 や 地 位 の 安 定 化 を 図 る上 で 有 益 で あ っ た

た め と考 え るべ きで あ ろ う 。

そ れ で は,こ の よ う に ス ル タ ー ン の 地 位 と も深 く結 び つ い て 集 積 さ れ た こ れ

30 らの 資 産 は,当 人 の 死 後 は どの よ う に扱 わ れ た の だ ろ う か 。 特 に,そ れ ら は 通

常 の 私 財 と して 一 族 に 継 承 さ れ,そ の 経 済 的 基 盤 と な る 「家 産 」 と な り得 た の

で あ ろ う か 。 次 章 で は こ の 疑 問 に つ い て 詳 し く検 討 す る 。

Ⅲ.バ ル ク ー ク 没 後 の 処 置

1. 私 有 財 バ ル ク ー ク が801/1399年 に 死 去 す る と,息 子 の フ ア ラ ジ ュal-Nasir Faraj(在

位801-8,808-15/1399-1405,1405-12)が ス ル タ ー ン と して 即 位 し た 。 そ の 際 バ ル ク ー ク が 金 庫 に遺 し た 財 産 の 処 遇 に つ い て,そ れ は 私 有 財 と し て 相 続 人,

す な わ ち フ ア ラ ジ ュ ら に 相 続 さ れ る の か,そ れ と も 国 庫 の もの な の か,以 下 の

よ う に 問 題 と な っ た 。

「(801年)第11月17日(1399年7月21日),ア タ ー ベ ク の も と で シ ャ イ フ ・ア

ル イ ス ラ ー ムShaykh al-Islamと カ ー デ イ ー た ち が 出 席 す る会 議 が 開 か れ,

彼 ら に,バ ル ク ー クal-Malik al-Zahirが 金 庫(khizana)に 遺 し た 財 貨 に つ い て,相 続 さ れ る も の で あ る の か,国 庫(Bayt al-Mal)の もの な の か が 尋 ね

られ た 。(シ ャ イ フ ・ア ル イ ス ラ ー ム)ブ ル キ ー ニ ーal-Bulginiは 「彼(バ ル

ク ー ク)の イ ク タ ー や 商 売(tijara)か らの 収 入 で あ っ た も の は 彼 の 相 続 人 の

もの で あ り,そ れ 以 外 の もの は 国 庫 に 入 る」 と述 べ た 。す る と彼 に 対 して 「そ

れ は 混 ざ っ て い る 」 と言 わ れ た た め,彼 は 「彼 の 相 続 人 に は そ の 内 の 一 部 を

あ て よ 」 と述 べ た 。 彼 ら は(相 続 され る分 と し て)三 分 の 一 か ら 六 分 の 一 ま

で 様 々 な 意 見 を 出 した 。 ブ ル キ ー ニ ー は 「そ れ に は五 分 の 一 を あ て よ」 と 言 ったとも言われ るが,定 かで はない。」 この ように,彼 が遺 した財産 は完全 な私有財 とは見な されず,大 部分 は国庫 に没収 された。 こう した状況 を見 ると,農 地 な どの不動産 も,国 庫 に入 るな り

イクター として分配 され るな りした もの と思 われ る。以上 のような 「財産没収」 は,彼 の財産 が 「私人」 としての ものだ けでな く,先 に見 たような国庫財産の

流用 によって獲得 された,本 来国庫 に属すべ き資産が多数含 まれていた ことを 示 してい よう。 そ して この結果,ス ル ター ン位 を継承 したフアラジュであるが,

父 の権九基盤 の一つであったその私財 をそのまま継承 することは妨 げられたと 言える。それには彼が当時 まだ幼 く,力 がなかった ことが少なか らず影響 を与 えたで あろ う。 しか しこの時代他 のア ミール たちも同様 に,死 後 はその多 くが

31 財産没収 され,生 前中貯 えた財産の多 くは国庫 に戻 されることが ほ とん ど常態

で あ っ た こ と を 想 起 す れ ば,ア ミー ル の 第 一 人 者 と し て 即 位 し,本 質 的 に は 他

の ア ミ ー ル た ち と 同 列 で あ っ た ス ル タ ー ン も ま た 例 外 で な か っ た こ と は あ る 意

味 当 然 で あ り,そ れ は 原 則 と し て権 力 の 世 襲 化 を 排 除 し た マ ム ル ー ク朝 の 政 治

構 造 と も深 く結 び つ い て い た と考 え ら れ よ う 。

2. ワ ク フ 一 方 ,ワ ク フ と さ れ た 資 産 は 簡 単 に没 収 さ れ る こ と は な く,そ れ 故 「子 孫 へ

の 財 産 保 全 」 の 手 段 と さ れ て い た と さ れ,ラ イ ン フ ア ン トL.Reinfandtは 後 の

ス ル タ ー ン ・イ ー ナ ー ル の ワ ク フ が 実 際 に そ の よ う な 役 割 を果 た して い た と す

る。 本 節 で は バ ル ク ー ク が 自身 の ワ ク フ に 対 し死 後 ど の よ う な 役 割 を期 待 し て い た の か,受 益 者 と管 財 人 の 規 定 か ら探 る と と も に,そ れ が 実 際 に は ど う で あ

っ た か,年 代 記 か ら明 ら か に す る 。

i) 文 書 の 規 定

ザ ー ヒ リー ヤ 学 院 の ワ ク フ は,マ ド ラサ 運 営 費 と 諸 官 吏 の 人 件 費 へ 支 出 し た

余 剰 をバ ル ク ー ク の 子 孫 に分 配 す る こ と を 規 定 して い る 。 ま た バ ル ク ー ク は そ

れ と は 別 に,規 模 は 小 さ い が 自 身 の 子 孫 を 対 象 と し た 単 独 の ワ ク フ も行 っ て い

る(WA,j51)。 こ れ ら を見 る 限 り,バ ル ク ー ク も ま た ワ ク フ を 設 定 す る に あ た

っ て,そ れ が 子 孫 へ の 利 益 供 与 とな る こ と を 明 確 に 意 図 して い た と言 え よ う 。

そ して こ の よ う な ワ ク フ 設 定 の あ り方 は,彼 個 人 も し く は ス ル タ ー ン に 限 ら れ

な い,マ ム ル ー ク 朝 時 代 に お い て 一 般 的 な もの で あ っ た 。

さ て,ワ ク フ 運 営 の 責 任 者 で あ っ た 管 財 人 に つ い て は,文 書 で は ザ ー ヒ リー

ヤ 学 院 の ワ ク フ の み 情 報 が 残 っ て い る 。788/1386年 の 最 初 の ワ ク フ 設 定 時,管

財 人 で あ るナ ー ズ ィル(nazlr)と ム タ ワ ッ リー(mutawalli)の 就 任 規 定 は 以 下

の 通 りで あ っ た 。 す な わ ち,生 存 中 はバ ル ク ー ク 自身 が 務 め,選 ん だ 人 を代 理

とす る。 没 後 は 彼 の 男 性 の 子 孫 が 務 め,断 絶 す る か 適 切 な 人 物 が い な い 場 合 は,

近 衛 長(ra's nawba al-umara' al-jamdariya al-kabir)→ 官 房 長(dawadar al- kablr)→ 侍 従 長(hajib al-hujjab)と い う優 先 順 位 で,百 騎 長 の 地 位 に あ る ア

ミ ー ル が 管 財 人 と な り,文 官 の 長 で あ る 秘 書 長(katib al-sirr)と こ の 学 院 の ハ

ナ フ ィ ー 派 の シ ャ イ フ が 協 力 す る。 こ れ らの ア ミ ー ル の 就 任 が 何 ら か の 理 由 で

32 不可能な場合 は,秘 書長 とシャイフ とバルクークの解放奴隷(す なわちマムル ーク)出 身のア ミールで最 も適切 な者が協 力 して実行 し,解 放奴隷 のア ミール がいな くなった場合 は両者のみで実行す る。 また管財人職 を任 されたア ミール は,「エジプ トで最 も偉大 なハナフ ィー派の ウラマー」を代理 とす るこ とを義務

付 け られていた。 この ように管財人 を生存 中ワクフ設定者 自身が務 め,死 後子 孫 の就任 を条件 とす ることも当時の一般 的な形態で あ り,そ れ故 ワクフが一族

の 手 に 留 ま る 「家 産 」 とな り得 た 仕 組 み で も あ っ た 。

し か し こ の 条 件 は,文 書 の 裏 面 で 変 更 さ れ て い る 。 こ れ は 日付 の 部 分 が 欠 け

て い る が,前 述 の798/1395年 に 行 わ れ た も の と思 わ れ る。 こ の 変 更 で は 以 下 の

よ う に 再 規 定 さ れ て い る 。 ま ず ナ ー ズ ィ ル 職 は,百 騎 長 の ア ミー ル で あ る 以 下

の 五 つ の 官 職 保 有 者 の 就 任 が(近 衛 長 → 会 議 長(amir majlis)→ 官 房 長 → 厩 舎

長(amir akhur kabir)→ 侍 従 長),優 先 順 位 と と も に 規 定 さ れ る。 い ず れ も 同

じ く秘 書 長 と 学 院 の シ ャ イ フ が 協 力 す る と す る 一 方,バ ル ク ー ク の 子 孫 の 就 任

規 定 は 取 り消 さ れ る と と も に,ア ミ ー ル た ち は 代 理 を任 じ る こ と を 禁 じ ら れ る 。

そ の 一 方 で,ム タ ワ ッ リー 職 は ス ル タ ー ン に あ る と定 め られ て い る 。

変 更 点 を ま と め る と以 下 の よ う に な る:① 子 孫 の 管 財 人 職 就 任 規 定 の 廃 棄 。

② ナ ー ズ ィル と ム タ ワ ッ リー 職 の 区 別 と,後 者 へ の ス ル タ ー ン就 任 に よ る ス ル

タ ー ン の 同 ワ ク フ へ の 関 与 の 強 化 。 ③ ア ミ ー ル た ち が 管 財 人 職 を 自 身 で 遂 行 す

る こ と に よ る ウ ラ マ ー の 役 割 縮 小 と,同 職 を任 さ れ る ア ミー ル 職 の 増 加 。 ④ 自

身 の マ ム ル ー ク 出 身 の ア ミー ル が 就 任 す る規 定 の 喪 失 。 こ れ ら の 変 更 は,ワ ク

フ に対 す る子 孫 の 影 響 力 を 失 わ せ る よ う に 見 え る と と も に,ス ル タ ー ンや ア ミ ー ル ら マ ム ル ー ク支 配 層 に よ る管 理 の 強 化 を 促 す もの と見 な せ よ う 。 こ の よ う

な 規 定 の あ り方 は 管 見 の 限 り彼 以 外 に は 見 られ な い,独 特 な も の で あ る 。

そ れ で は,バ ル ク ー ク が 存 命 中 に あ え て こ の よ う な 変 更 を 行 っ た こ と は,何

を 意 味 す る の で あ ろ う か 。 そ の 理 由 は推 測 す る しか な い が,彼 の ワ ク フ に対 す

る 政 策 と深 く関 係 して い る と思 わ れ る 。 す な わ ちバ ル ク ー ク は 統 治 期 間 を 通 じ

て,従 来 カ ー デ ィ ー が 管 轄 して い た 様 々 な ワ ク フ に対 す る 介 入 を 強 め る と と も

に,運 営 の 滞 っ た ワ ク フ 施 設 に マ ム ル ー ク を 管 財 人 と して 送 り込 む な ど,ワ ク

フ運営への関与 を強化 ・促進 した。 それは,彼 が幾度 とな く会議 を開 いて問題

と して い る よ う に,彼 の 時 代 ま で に ワ ク フ の 増 加 が か な りの 規 模 に 達 して い た

こ とか ら,国 家 に よ る統 制 の 及 ぶ 範 囲 が 限 られ て い た ワ ク フ を な ん とか コ ン ト

33 ロ ー ル し よ う と した 努 力 と見 な せ よ う 。 そ の 中 で バ ル ク ー ク は 自 身 の ワ ク フ も,

生 存 中 は 自 身 の た め に 用 い る一 方 で,死 後 は そ れ が 国 家 の 手 か ら離 れ る こ と な

く,そ の 枠 内 で 維 持 さ れ る よ う な ワ ク フ の あ り方 を企 図 し た と 考 え ら れ る の で

は な い だ ろ う か 。 ま た あ え て ス ル タ ー ン を ム タ ワ ッ リー と して 別 に 指 定 した こ

と は,治 世 の 晩 年 を 迎 え た バ ル ク ー ク が,自 らが 終 止 符 を 打 っ た カ ラ ー ウ ー ン

家 に 代 わ り 「バ ル ク ー ク 家 」 に よ る支 配 の 継 承 を 想 定 し て い た と す る な ら ば,

ワ ク フ の 管 理 運 営 に 介 入 す る権 限 を,ス ル タ ー ン位 を継 承 して い く は ず の 子 孫

た ち に よ り強 い 形 で 保 証 し よ う と した と考 え る こ と も で き よ う 。

ii) 没 後 の 実 情

そ れ で は,以 上 の 規 定 は 実 際 に 遵 守 さ れ,バ ル ク ー ク の 目 的 は 達 せ ら れ た の

で あ ろ う か 。815/1412年 の フ ア ラ ジ ュ の 暗 殺 に よ り,バ ル ク ー ク の 血 縁 者 に よ

る支 配 は 絶 え る こ と に な る の だ が,そ の 後877/1472年 に 彼 の ワ ク フ の 受 益 権 を め ぐって子孫が争っている事例が見 られるこ とか ら,実 際 に子孫 に対 す る手 当 の分配が継続 して行 われていたこ とは疑 いない。 またマ ドラサ も特 に経営不振 に陥るこ とはな く,運 営 は滞 りな く行 われ ていた ようである。 これ らを見 る限

りバル クー クのワクフは解消 された り荒廃す ることな く保たれ,マ ドラサの維 持運営 と子孫への利益供与 とい う二つの 目的 は達せ られていた。 しか しこれ をもって,文 書 の規定がそのまま履行 され,ワ クフ資産が このた めだけに費や されていたと単純 に考え るべ きではない。バル クークの子孫のそ の後 の活動状況な どを見 る限 り,彼 らがワクフの規模 に見合 う程の 巨額の富を 得ていた様子はな く,規 定通 り余剰の全 てが子孫 に分配 されていた とは考 え難 い。 また,同 マ ドラサの管財人就任者 の実例は,規 定 とは明 らか に異な ってい

る。824年 第2月/1421年2月,規 定上 の就任順位 では四番 目にあたる厩舎長の タグ リービルデ ィーTaghrlbirdiが,他 に優先 されるべ きア ミールがい るに も 関わ らず,ザ ー ヒリーヤ学院の管財人 に就任 してお り,彼 の後任の厩舎長 も同

職 に任 じ られ て い る。853年 第2月/1449年4月 に は,新 任 の 厩 舎 長 が 同 時 に 「そ

の 官 職 に 関 係 す る 諸(ワ ク フ の)管 財 人 職 の 賜 衣(khil'a)を 着 た 」 が,同 学 院

の 管 財 人 職 もそ の 一 つ と さ れ て お り,こ の 頃 ま で に 厩 舎 長 が 同 職 を務 め る こ と

が 慣 習 化 して い た の で あ る。 ま た,ム タ ワ ッ リ ー 職 を ス ル タ ー ン が 務 め る と い

う規 定 に つ い て も,歴 代 の ス ル タ ー ンが 特 別 に こ の ワ ク フ の 管 理 運 営 に 積 極 的

34 に 関 与 し て い た 形 跡 は 見 出 せ な い 。

こ う し た 就 任 例 は 何 を 意 味 して い る の だ ろ う か 。 こ こ で,初 め て 厩 舎 長 が 同

管 財 人 に 就 任 した824/1421年 の 事 例 を 詳 し く見 て い き た い 。 同 年 第1月,安 定

し た 治 世 を 築 い て い た ス ル タ ー ン ・シ ャ イ フal-Mu'ayyad Shaykh(在 位

815-24/1412-21)が 死 去 し,幼 少 の 息 子 ア フ マ ドal-Muzaffar Ahmadが ス ル タ

ー ン位 に 推 戴 さ れ ,ア ミー ル ・タ タ ルTatar(後 の ス ル タ ー ンal-Zahir Tatar:

在 位824/1421)が 摂 政 と して 実 権 を握 っ た 。 こ れ は,当 時 シ リア 北 方 へ の 遠 征

中 で あ っ た 他 の 有 力 ア ミ ー ル や,シ リ ア 諸 州 の 総 督 た ち に と っ て 承 服 で き る も

の で は な く,大 規 模 な 軍 事 衝 突 へ と発 展 す る こ と と な っ た 。 この よ う な状 況 下

で,タ タル は 自派 の ア ミ ー ル や マ ム ル ー ク 兵 に対 し多 額 の 金 銭 を 特 別 手 当 と し

て 分 配 し,彼 が 権 力 の 座 に あ っ た 一 年 足 らず の 間 に シ ャ イ フ 時 代 の 国 庫 の 蓄 え

は全て失われた という。 さて,厩 舎 長が同学院の管財人 に任 じられ たのは この ような時期 であったが,こ の時タタル は同時に,官 房長 をムアイヤデ ィーヤ学

院(al-Madrasa al-Mu'ayyadlya),護 衛 長 を シ ャ イ フ ー ニ ー ヤ 修 道 場(al-

Khanqah al-Shaykhuniya),侍 従 長 を ア ム ル ・モ ス ク と ア ズ ハ ル ・モ ス ク の 管

財 人 に 各 々 任 じ て い る。 同 様 に 百 騎 長 の 高 官 を何 らか の ワ ク フ 管 財 人 に任 じ る

こ と は,タ タ ル が ス ル タ ー ン 位 に就 い た 同 年 第10月 や,同 年 第12月 の 彼 の 急 死

後,そ の 息 子 ム ハ ン マ ドal-Salih Muhammad(在 位824-5/1421-2)の も と で 摂

政 と な っ た バ ル ス バ ー イBarsbay(後 の ス ル タ ー ンal-Ashraf Barsbay:在 位

825-42/1422-38)に よ っ て も行 わ れ て い る 。 こ れ ら は い ず れ もエ ジ プ ト有 数 の

大 規 模 な ワ ク フ 施 設 で あ り,同 時 に 莫 大 な 資 産 を 財 源 と して い た 。 す な わ ち,

こ れ ら の 管 財 人 職 は,そ の 収 入 を意 の ま ま に で き る 巨大 な 権 益 で もあ っ た の で

あ る。 以 上 の 点 に 留 意 す れ ば,タ タ ル や バ ル ス バ ー イ の か か る施 策 は,政 争 が

激 化 し て い た 時 期 に お い て,自 派 の ア ミー ル た ち へ の 利 益 供 与 を 目 的 と し た も

の で あ っ た と考 え られ る の で は な い だ ろ う か 。 そ して こ の 時 の 管 財 人 職 の 授 与

は 以 後 踏 襲 さ れ,前 述 の よ う にバ ル ク ー ク の ワ ク フ は 厩 舎 長 職 と 結 び つ い た 利

権 と な っ た の で あ る 。

お わ り に

本 稿 で 明 ら か に し た よ う に,バ ル ク ー ク は,国 有 地 の 流 出 と有 力 ア ミー ル へ

の 集 積 が 広 ま っ て い た 当 時 の 状 況 に あ っ て,政 権 を維 持 す る た め 自 ら も ま た 同

35 様 に私 財の確保 に力 を注いでいた。その意味で彼の私 財政策 は当時 の支配層の 一般的な方策 と軌 を一 にしていたが,ス ル ターン位就任 に よって より直接的 な 国庫財産の流用が可能 になったこ とは重要 な点 と言 えよう。 ただ しその私 財 は 地位 と同様 「一代限 り」の財産 という色合 いが強 く,「家産」としての役割 は限 定 されていた と見 る。 さて,バ ル クークの私財政策は続 くスル ター ンた ちにも 踏襲 され,そ の後 国庫財産 の流用 ・イステ ィブ ダール ・財産没収等,そ の獲得 手法 はさらに直接的 とな り,ま たワクフ も大規模 になってい くものの,基 本 的 な有 り様 は同 じであった。近年明 らか にされてきた,後 期マムルー ク朝 時代 を 通 じた国庫か らの土地の流 出 とワクフ化 の進行 は,こ の ようにスル ター ン自身 も含 めたマムル ーク層が私財 の獲得 を志向 し続 けた ことに起因す るが,そ こに は,そ の結果イクター制 とそれに基づ いた従来の国家体制 の機 能不全が進 み, スル ター ン自身に とって も政権 を維持 す る上でそれが必要不可欠 となっていた

事情が あったのである。 こうした 「悪循環」か らスルターンの私 財への依存度 は一層進み,そ の結果本稿 で しば しば取 り上 げた 「ザ ヒーラ」 とい う語が,そ の後 より幅広 く 「スル ター ン直轄財源」 を総称す る意味 を持 ち,財 務行政の円

滑な遂行か らイクターの分 配 まで,国 家の行財政の運営上 も大 きな役割 を果た す ようになる。ザ ヒーラの歴史的展開 と,こ の ような状況下 にお ける政治や国 家構 造につ いては今後 さらに検討 してい く予定でい るが,最 初 に述べ たカーイ トバ ーイやガウ リーの財政政策 も,そ の延長線上 にあることに留意 する必要が あるだろ う。 さて,こ う して大規模 な私財 の確保 は歴代スルターンにとって欠 かせな くな ったが,ワ クフ化 された資産 が当該スルターンの没後 どの ような形 で管理 され たか は,そ の規模 の大 きさ故 に重要な問題 である。バル クークの事例では,そ れが厩舎長の利権 となった可能性 を指摘 したが,同 様 にワクフ施設の監督権が

特定 の官職 と結 びつ くことは多 々見 られた。高位の官職 に就任 したア ミール は,同 時に 「その官職 に関係 する諸 ワクフの管財人」職 も併せ て獲得 したので あ り,そ の利権が官職 と結びつ いていた という意味 では,こ れ らの ワクフはイ クター と同列で あった とも言え よう。彼 らが実際にこれ らのワクフをどの程度

「利権 」 として利用 し得 たかはさ らに検討の余地 があるが,こ の ように管財人 職の掌握 を通 じて ワクフ化 された資産 を握 ることが,都 市や農村の財 のワクフ 化が進行 し,マ ムルークの存立基盤であったイクター制の崩壊が顕著 になった

36 王朝後 半期 において,ア ミール層が経済 力 と社会的影響力 を維持 す る上で大 き な役割 を果 た したのではないだ ろうか。以上の仮説は,マ ムルー ク体制の質的 変容 とも関わる問題 を含 んでお り,今 後他のスルター ンや ア ミールの ワクフの 事例 との比較 を進め るとともに,こ の時代の ワクフの拡大が国家 と社会 の両面 に与 えた影響 をよ り深 く考察 してい く中で明 らか にしたい。

注 (1) C.F. Petry, Protectors or Praetorians?: The Last Mamluk Sultans and Egypt's Waning as a Great Power, Albany, 1994, 196-210; id. "Fractionalized Estates in a Centralized Regime: The Holdings of al-Ashraf Qaytbay and Qansuh al-Ghawri According to Their Waqf Deeds," Journal of the Economic and Social History of the Orient 41-1 (1998), 96-117; id. "Waqf as an Instrument of Investment in the Mamluk Sultanate: Security vs. Profit?" in T. Miura & J.E. Philips (eds.), Slave Elites in the Middle East and Africa: A Comparative Study, London and New York, 2000, 99-115. (2) M.M. Amin, al-Awgaf wal-hayat al-ijtimaiya fi Misr 648-923 A.H./1250-1517

A.D.,al-Qahira,1980,70-98;三 浦 徹 「ダ マ ス ク ス の マ ドラ サ と ワ ク フ 」 『上 智 ア ジ ア

学 』13(1995),30. (3) Amin,Awqaf,119-121;A.Sabra,Poverty and Charity in Medieval Islam: Mamluk Egypt, 1250-1517, Cambridge, 2000, 72; T. Ito,"Aufsicht und Verwaltung der Stiftungenim mamlukischen Agypten,"Der Islam 80 (2003),62. (4) ス ル ター ンが保 有 して い た財産 に対 して,厳 密 な公 私 の 区分 をす る こ とは不 可 能 で あ るが,本 稿 で は 「ス ル タ ー ンの私 財 」 を基 本 的 に,「ス ル タ ー ンが(名 目上)個 人 の もの と して売 買 ・譲 渡 等 を含 む 様 々 な手 段 を通 じて獲 得 し,政 府 の財 務 機 関 とは別 の 組 織 ・ス タ ッ フに よって管 理 ・運営 され た 財産 」 と し,そ の 中 で も特 に,別 に所持 し て い る こ とが わ か りや す く,ま た恒 常的 な収 入 源 とな る不 動産 を主 た る分 析 対 象 とす る。 また本稿 に お け る 「私 財」は,法 的 な所有 権 を持 つ 「私 有 財(milk)」 だ け で な く, ワ ク フ とされ た 物件 につ い て も,存 命 中は 当人 が そ の管 財 人 を務 め た こ とか ら実質 的 に は その 「所 有 」 の もと に留 ま って い た と考 え,そ れ に含 む もの とす る。 (5) D.P. Little, "Notes on the Early nazar al-khass," in T. Philipp & U. Haarmann (eds.), The Mamluks in Egyptian Politics and Society, Cambridge, 1998, 235-253.

(6) 私 有 地: Ibn Habib,Tadhkira al-nabih fi ayyam al-Mansur wa bani-hi,3 vols.,al-

Qahira, 1976-86, Vol. 3, 240./ƒ•ƒNƒt: Ibn Hajar al-'Asgalani, al-Durar al-kamina fi

a 'yan al-mi'a al-thamina, M.S.J. al-Haqq (ed.), 5 vols., al-Qahira, 1966, Vol. 2, 125.

(7) 農 村 か らの 税 収 高(イ ブ ラ)を 表 わ す 単 位 。 な お こ の 時 代,高 位 の 百 騎 長 の 保 有 す

る イ ク タ ー の イ ブ ラ は100,000dnjで あ っ た 。T.Sato,State and Rulal Society in Medi-

37 eval Islam: Sultans, Mugta's and Fallahun, Leiden, 1997, 154-156.

(8) Ibn al-Ji'an, Kitdb al-tuhfa al-saniya bi-asma'al-bilad al-Misriya,al-Qahira, 1898

(以 下Tuhfa)に よ る 集 計 。 ま た 彼 の10人 の 幼 少 の 息 子 と 親 族 の イ ク タ ー と さ れ て い

る 農 地 が 計61地 区 あ っ た 。U.Haarmam,"The Sons of the Mamluks as Fief-holders in Late Medieval Egypt," in T. Khalidi (ed.), Land Tenure and Social Transforma- tion in the Middle East, Beirut, 1984, 153-154. (9) Cf. A. Levanoni, "The Mamluk Conception of the Sultanate," International Journal of Middle East Studies 26 (1994), 383-385. (10) 例 え ば,初 め て 「大 ア ミ ー ル(al-amir al-kabir)」 の 称 号 を持 つ ア タ ー ベ ク と な っ

たShaykhu al-Nasiri (d.758/1357)は,彼 の 私 有 地 と イ ク タ ー と賃 借 地(musta'jarat)

か ら一 日200,000デ ィ ル ハ ム(dh)の 収 入 が あ っ た と言 わ れ る 。Ibn Taghrlbirdi,al- Manhal al-safi wal-mustawfi ba'da al-wafi, M.M. Amin (ed.), 10 vols., al-Qahira,

1985-2003(以 下Manhal),Vol.6,260.

(11) 五 十 嵐 大 介 「後 期 マ ム ル ー ク朝 に お け る ム フ ラ ド庁 の 設 立 と展 開:制 度 的 変 化 か

ら 見 る マ ム ル ー ク 体 制 の 変 容 」 『史 学 雑 誌 』113/11 (2004),第 一 章 を参 照 。

(12) al-Magrizi, Kitab al-suluk li-ma'rifa duwal al-muluk, vols.3-4, S.'A.'Ashur (ed.),

al-Qahira,1970-73(以 下Suluk), Vol.3,354,386;, al-Nujum al-zahira

fi muluk Misr wal-Qahira, F.M. Shaltut et al.(ed.),16 vols., al-Qahira,1963-72(以

下Nujum), Vol. 11, 76, 170; Ibn Qadi Shuhba, Ta'rikh Ibn Qadi Shuhba,'A. Darwish

(ed.), 4 vols., Dimashq, 1977-97(以 下Ibn Qadi Shuhba),Vol.1,26. (13) Suluk, Vol. 3, 229, 262; Nujum, Vol. 11, 128, 141; Ibn Qadi Shuhba, Vol. 3, 493. (14) Ibn Qddi Shuhba, Vol. 4, 41-42; Suluk, Vol. 3, 938.

(15) al-Qalqashandl, Subh al-a'sha fi sina'a al-insha',14 vols., al-Qahira,1913-22(以

下Subh), Vol.3,453.

(16) Subh, Vol. 4, 32.

(17) 私 有 地 と 賃 借 地 と ザ ヒ ー ラ: Suluk,Vol.3,402/不 動 産 賃 借: Ibn Dugmaq,Kitab

al-intisar li-wasita 'iqd al-amsar, E. Vollers (ed.),vols.4-5,al-Qahira,1893(以 下 Intisar), Vol. 4, 45-46. (18) Ibn al-Furat, Ta'rikh al-duwal al-muluk, Q. Zariq (ed.), vols. 7-9, Bayrut, 1936-42

(以 下Ibn al-Furat),Vol.9,128,429;al-Sayrafi,Nuzha al-nufus wal-abdan fi tawarikh

al-zaman,H.Habashi (ed.),4 vols.,al-Qahira,1970-94(以 下Nuzha),Vol.2,28; Ibn Qadi Shuhba, Vol. 4, 48. (19) Ibn al-Furat, Vol. 9, 132; Ibn Qdi Shuhba, Vol. 1, 286; Suluk, Vol. 3, 651.

(20) 同 学 院 の 建 設 が 完 了 し た の が 同 年 第7月3日(al-'Ayni,Ta'rikh al-badr fi awsaf

ahl al-'asr,British Library,Add.22350(以 下Badr),fol.125r; Ibn Dugmaq,al-Jawhar al-thamin fi siyar al-muluk wal-salatin, M.K. 'Izz al-Din 'Ali (ed.), 2 vols., Bayrut,

1985,Vol.2,265),ワ ク フ 文 書 に よ れ ば ワ ク フ を 設 定 した の が 翌 月 の6日 で あ っ た(表

38 1参 照)。 (21) Badr, fol. 138v. (22) Suluk, Vol. 3, 834; Ibn Qadi Shuhba, Vol. 1, 549; Ibn al-Furat, Vol. 9, 406. (23) Ibn al-Furat, Vol. 9, 427. (24) Ibn al-Furat, Vol. 9, 464; Ibn Qadi Shuhba, Vol. 1, 616. cf. Sulak, Vol. 3, 878; Ibn Hajar al-'Asqalani, Inba' al-ghumr bi-abna' al-'umr, H. Habashi (ed.), 4 vols., al-

Qahira,1969-98(以 下Inba'),Vol.1,528.

(25) バ ル ク ー ク に よ る 財 政 再 建 の 努 力 と ム フ ラ ド庁 の 設 立 に 関 して は,五 十 嵐 「後 期 マ ム ル ー ク 朝 に お け る ム フ ラ ド庁 の 設 立 と展 開 」,第 一 章 お よび 第 二 章 第 一 節 を 参 照 。

(26) Dar al-Watha'iq al-Qawmlya (DW),9/51:ザ ー ヒ リ ー ヤ 学 院 と 子 孫 へ の ワ ク

フ/Wizara al-Awqaf (WA),j51:子 孫 へ の ワ ク フ/WA,j67:購 入/WA,j704:対

象 不 明 ワ ク フ/WA,j736:譲 渡 に よ る 入 手/WA,j562:入 手 とistibdal/WA,j728:

購 入 後,妹 に よ る ワ ク フ 。 (27) Suluk, Vol. 3, 944. (28) Amin, Awqaf 1980, 98.

(29) 岩 武 昭 男 「イ ス ラ ー ム 社 会 と ワ ク フ 制 度 」 『岩 波 講 座 世 界 歴 史10:イ ス ラ ー ム 世 界 の 発 展7-16世 紀 』,岩 波 書 店,1999,271.

(30) 当 時 エ ジプ トの 四 十 騎 長[Badr,fol.109r,162v]。

(31) こ の 物 件 は ア ミー ルBaktamur (d.733/1332: cf.Manhal,Vol.3,390-397)が 建

設 し た 隊 商 宿 で,そ の 死 後 は 子 孫 の も の と な っ て い た 。な お 売 却 額 は250,000dhで あ っ

た[Intisay,Vol.4,40]。 (32) Petry, Protectors or Praetorians? 1994, 204-205.

(33) イ ー ナ ー ル:L.Reinfandt,"Religious Endowments and Succession to Rule: The Career of a Sultan's Son in the Fifteenth Century," Mamluk Studies Review 6 (2002),

55; Daral-Kutubal-Misriya,MS 63 ta'rikh,fol.9,18/カ ー イ ト バ ー イ: WA,q886,8.

(34) al-Nasir Faraj: WA, j68./al-Ashraf Barsbay: Inba; Vol. 3, 477-479. (35) Cf. K.M. Cuno, "Ideology and Juridicial Discourse in Ottomman Egypt: The

Uses of the Concept of Irsad," Islamic Law and Society 6-2 (1999),136-163;五 十 嵐 大

介 「バ ラ ー ト ゥ ヌ ス ィ ー の 『国 庫 論 』」 『中 央 大 学 ア ジ ア 史 研 究 』27 (2003),94-116 (1-

23). (36) An al-Furdt, Vol. 9, 433. (37) WA, j562, v., dated 27 Jumada al-Ula, 795. (38) Manhal, Vol. 3, 189-194. (39) WA, j562, v., dated 6 Jumada al-Akhira, 795. Cf. al-Maqrizi, Kitab al-mawa iz

wal-i'tibar bi-dhikr al-khitat wal-athar,2vols.,Bulaq,1270 A.H.(以 下Khitat),Vol.

2,69; Suluk,Vol.2,362; Amin,Awqaf,344.イ ス テ ィ ブ ダ ー ル に つ い て は 松 田 俊 道 「ワ

ク フ の 解 消 に つ い て 」 『中 央 大 学 ア ジ ア 史 研 究 』15 (1991)を 参 照 。

39 (40) Sulukに よ れ ば,バ ル ク ー ク が 実 権 を 握 る 前,778/1376-7年 ま で は 「ワ ク フ の イ ス

テ ィ ブ ダ ー ル は 当 時 エ ジ プ ト ・シ リア で は 用 い られ て お ら ず,ハ ナ フ ィ ー 派 大 カ ー デ

ィ ー は そ れ に は 意 見 の 相 違 が あ る と して 却 下 して い た 」 と さ れ る が[Suluk,Vol.3, 269],彼 の 治 世 末 期 に 同 職 に 就 任 したJamal al-Din Yusuf al-Malati (d.803/1400)は,

「彼 は 罪 人 に 近 く,ワ ク フ の イ ス テ ィ ブ ダ ー ル を 多 く(裁 決)し た 」 と述 べ ら れ る

[Inba', Vol. 2, 196]。 (41) Inba, Vol. 2, 53. (42) Cf. A.I. al-Shirbini, Musadara al-amlak ft al-dawla al-islarniya ('asr salatin al-

mamalik),2 vols.,al-Qahira,1997,Vol.1,144-149.な お,こ の よ う な 遺 産 没 収 は

hawtaと 呼 ば れ た 。 (43) Reinfandt, "Religious Endowments and Succession to Rule", 61. (44) Amin, Awgaf, 72-81.

(45) こ の 二 つ は,通 常 ワ ク フ 文 書 の 管 財 人 規 定 に お い て 並 記 さ れ る,単 一 の 地 位 で あ

る 。Cf.菊 池 忠 純 「マ ム ル ー ク 朝 時 代 の カ イ ロ の マ ン ス ー ル 病 院 に つ い て:ワ ク フ 設 定

文 書 の 再 検 討 を 通 じ て 」 『藤 本 勝 次 ・加 藤 一 朗 両 先 生 古 稀 記 念 中 近 東 文 化 史 論 叢 』 同 朋

舎,1992,55-56.

(46) 当 時 ア タ ー ベ ク と ほ ぼ 同 格 で あ っ たra's nawba al-umara' (W.Popper,Egypt and Syria under the Circassian Sultans 1382-1468 A.D.: Systematic Notes to Ibn Taghri Birdt's Chronicle of Egypt, 2 vols., Berkely and Los Angels, 1955, Vol. 1, 91)

を 指 す と 思 わ れ る 。Cf.al-Suyuti,Husn al-Muhadara fi ta'rikh Misr wal-Qahira,M.A.

Ibrahim (ed.),2 vols.,al-Qahira,1967-68(以 後Husn),Vol.2,266.な お 後 出 の 護 衛

長(ra's nawba al-nuwab)と は 異 な る 官 で あ る こ と に 注 意 。

(47) Amln,Awqaf,116,304.岩 武 「イ ス ラ ー ム 社 会 と ワ ク フ 制 度 」,281-282. (48) Suluk, Vol. 3, 337, 469, 503, 766; Ibn Qadi Shuhba, Vol. 1, 59, 106, 461; Inba', Vol. 1 273,435; Nuzha, Vol. 1, 66; Badr, fol. 118r; Khitat, Vol. 2, 415-416; Amin, Awgaf, 114, 121-122.

(49) 780/1379年: Suluk,Vol.3,345-347; Nujum,Vol.11,166; Badr,fol.104v;Inba',

Vol.1,178-179; Ibn Qadi Shuhba,Vol.3,580./783/1381年: Suluk,Vol.3,443./789/

1387年: Ibn al-Furat,Vol.9,10-11; Ibn Qadi Shuhba,Vol,1,218-219; Suluk,Vol.3,

563; Nujum,Vol.11,247; Badr,fol.127r-v.Cf.五 十 嵐 「後 期 マ ム ル ー ク 朝 に お け る ム

フ ラ ド庁 の 設 立 と 展 開 」,6-8. (50) 'Abd al-Basit, Nayl al-amal fi dhayl al-duwal, 'U. 'A. Tadmuri (ed.), 9vols., Sidon and Beirut, 2002, Vol. 7, 46-48. (51) Inba, Vol. 3, 240. cf. al-'Ayni, 'Iqd al juman ft ta'rikh ahl al-zaman, 'A. al-

Tantawi al-Qarmut (ed.),al-Qahira,1989(以 下'Iqd),130-131; Nuzha,Vol.2,499. (52) Nuzha, Vol. 2, 510, 519; 'Iqd, 164.

(53) al-Sakhawi,al-Tibr al-masbuk fi dhayl al-suluk,al-Qahira,n.d.(以 下Tibr),256.

40 (54) 'Iqd, 157-158. (55) Cf. Husn, Vol. 2, 272-273. (56) Cf. Khitat, Vol. 2, 421; Husn, Vol. 2, 266-267. (57) al-Zahir Tatar: Nuzha, Vol. 2, 510;+'Iqd, 149-150/Barsbay: Nuzha, Vol. 2, 519- 520; 'Iqd, 164-165. (58) 'I.B. Abu Ghazi,+Tatawwur al-hiyaza al-zira 'iya zaman al-mamalik al-jarakisa: dirdsa fi bay' amlak bayt al-mal, al-Haram (al-Qahira), 2000, 115-116, 125; A. Sabra, "The Rise of New Class? Land Tenure in Fifteenth -Century Egypt: A Review Article," Mamluk Studies Review 8-2 (2004), 207-208.

(59) 前 掲824/1421年 の ケ ー ス は,い ず れ も そ の 後 慣 習 化 さ れ た 。 そ の 他 に も厩 舎 長 は

ク ー ス ー ン修 道 場(Khanqah Qusun: cf.Khitat,Vol.2,425),官 房 長 は ア シ ュ ラ フ ィ ー ・モ ス ク(al-Jami'al-Ashrafi: ibid .,330-1),護 衛 長 は サ ル ギ ト ミ シ ー ヤ 学 院(al-

Madrasa al-Sarghitmishiya: ibid.,403-5)等 の 管 財 人 職 も併 せ て 手 に して い た[anon.

Kitab diwan al-insha, Paris, Bibliotheque Nationale, MS. Arabe 4439, fol. 124v, 126r;

Ibn Kinnan, Hada'iq al-yasmin fi dhikr qawanin al-khulafa' wal-salatin, 'A. Sabbagh

(ed.), Bayrut, 1991, 116,117,118]•B

(60) Ibn Taghribirdi, Hawadith al-duhur fi mada al-ayyam wal-shuhur, F.M. Shaltut

(ed.), vol. 1, al-Qahira, 1990, 346, 363; Tibr, 122, 256, 425; Nujum, Vol. 16, 260.

付 記 本稿 は,平 成16年 度 文部 科 学省 科 学 研 究費 補 助金(特 別研 究 員奨 励 賞)に よ る研 究 成 果 の一 部 で ある。

41 表1:バ ル ク ー ク関 連 文書 物 件 一覧

42 番 号 入 手 日 ・ワ ク フ 日の 内 若 い 日付 の 順 に 配 列 した。 種 類 A:農 地/B:都 市 不 動産/C:そ の 他 地 域 M:エ ジプ ト/Sh:ダ マ ス クス 州/H:ア レ ッポ州 入 手 日/ワ ク フ 設定 日 ゴ チ ック体 は ア タ ー ベ ク期 ・治 世 第 一 期,明 朝 体 は治 世 第 二 期 に あ た る こ と を示 す 。 ※文 書 の 欠損 の た め に 詳細 が 明 らか で な い 物 件 につ い て は省 略 した 。 ※No.20は エ ジプ トで は な くシ リア の 物件 で あ る こ と は確 か だ が,所 在 不 明 。便 宜 的 に ダマ ス ク ス 州 に分 類 した。

43 表2:文 書物件分布 表3:文 書 物 件 種 類

括 弧 は 表1,No.20の 物 件 。 括 弧 は 表1,No.20の 物 件 。

表4:バ ル ク ー ク の ワ ク フ(Tuhfaに よ る集 計)

上/下:上 エ ジプ ト/下 エ ジプ ト ※ イ ブ ラ の 単 位 は デ イー ナ ー ル ・ジ ャイ シ ー *当 時,エ ジプ ト中央 政 府 の 財 務 庁 を意 味 して い た。

44 表5:入 手/ワ ク フ実 施状 況

表6:バ ル ク ー ク の 代 理 人(wakil)

45